Silk Reeling in Toyohashi.豊橋の製糸関連建築

Buildings for Silk Reeling Industry in Toyohashi豊橋の製糸関連建物

commenced in May 10, updated in July 16, 2016.

I. 豊橋の製糸業概略

1)既往研究

2)総括

東海道の宿駅制度が存在して時期は、沿線の宿駅は参勤交代、伊勢参り、その他の東西交通に便宜を提供し、経済が成り立っていた。宿場に地場産業があったとしたら、宿泊客に提供する酒や味噌醤油を造る醸造業であった。それも小規模なもので、江戸後期になってやっと岡崎のカクキュウ、御油の大津屋(イチビキ)が生産を拡大するが、大規模生産は水運に恵まれたところが圧倒的に有利であった。知多半島の半田、渥美半島の田原、利根川と江戸川沿いの野田などがそれである。

明治になり参勤交代や宿駅制度が廃止され、さらに街道に代わり鉄道交通が登場してくると、多くの宿駅は廃れた。

その中で、二川宿は新たな産業を興すことになり、東三河全体がその産業を支えることになった。それはまったくの偶然から始まり、明治初期、群馬の小渕志ちが伊勢参りの途中二川に滞在し、宿屋主人らに身の上話やら特技(生糸の座繰り)を披露する内に、その地で製糸業を起業することにしたという。

明治12(1879)年の小渕志ちの糸徳製糸工場に続き、二川では後藤製糸工場、豊橋駅近くでは大林製糸工場や丸上小松製糸工場などが続々と創業し、岡谷や桐生と肩を並べる製糸生産量を誇った。

II. 工場の建築

・工場建築は豊橋市内にはほとんど残っていないが、工場そのものは綿糸工場と同じようにのこぎり屋根の建物であった。近傍では蒲郡の三谷に多くの綿糸工場建物が残っている。

・事務棟建築は、丸上小松製糸工場のものしか実際に見たことはないが、通常の工場とはことなった機能を持っていたらしい。それは、原材料の繭を売りに来る人たちや、製品の生糸を買いに来る人たちと会合し接待することで、丸上の事務棟2階には大広間や客室が用意されていた。2003年、愛知県近代化遺産総合調査のため、旧事務棟を調査させてもらい、以上の聞き取りをしたが、残念なことに、その数年後、解体されてしまった。

・これ以上調査不可能と思っていたが、2016年7月、とある方から、二川の製糸工場の建物が三ヶ日に移築されているという情報を得た。後日、視察させてもらい移築であることを確認し、さらにそれがどこの製紙工場からのものなのか文献史料をあさった。

IV. 事例

1) 丸上小松製糸場

豊橋駅周辺では大林製糸とともに二大製糸場であったが、戦後、製糸業をやめ、丸上製作所として機械部品生産にシフトした。

  

外観はドイツ下見張りの洋風、1階は洋風事務所、2階は和数の大広間と客室が配されていた。

 大広間は24畳ぐらいあり、東側に座敷飾りがあった。客室の欄間は駒屋の離れ座敷のものと同じデザイン。

2) 後藤製糸工場

二川町にあり、小渕志ちの糸徳製糸場についで明治18年頃創業。戦後廃業し、全く建物は残っていない。三ヶ日の大

福寺が庫裏として使っている建物は、後藤製糸工場の事務棟だったと考えられる。

 玄関部分は後補と思われる。 西側奥に書院がつく。

『後藤製糸工場写真帳』より

・写真帳に見える中廊下部分と書院座敷は、大福寺庫裏とうり二つである。