Architect, Builder and Carpenter in Modern Japan.

近代日本の建築家&建築技術者たち revised in June 15, 2022

目次:日本人


7. Choshichi Hattori服部長七


4. Kisabuso Yamazoe山添喜三郎

1. 生い立ち

2. 修行

3. 明治政府出仕

(1) ウィーン万国博覧会

1873年、オーストリアのウィーンで開催された万国博覧会に派遣され、日本建築(神社、東屋、店舗)を建設してきた。

ウィーンでの日本館の建設風景. 屋根にはしごをかけて登る人物は、粘土を抱えているように思われる。すると葺土下地に瓦葺き?紙は油紙?

(2) アレクサンドラ・パレス&パーク

1873年11月、ウィーン万国博覧会で使われた日本建築をロンドンに解体移築するとともに、新たに土蔵を建設した。建設地はアレクサンドラ・パレスで、1874年に開園すると大火災に遭い、事業縮小のため、日本建築は撤去された(ようだ、未確認)。

(3) 内務省営繕

(4) 宮城県技師

4. 晩年

5. 資料

(1)第二十二章演國博覧曾後建築術ノ経歴『宮城懸仙豪市連防小路甘壺番地』山添喜三郎

明治五年十二月漢國博覧曾事務官随行ヲ命ゼラレ翌六年一月三十一日横濱ヲ解纏シ航海五十三日ニシテ三月甘二日漢都維納府ニ着シ以後匠長松尾伊兵衛ト共ニ我庭園中ニ於テ碑赴

商店ヲ建築セリ

抑、欧洲ノ建築術我邦ト異ナ・レルヲ以テ比機ニ乗ジテ彼ノ建築術ヲ講究セント欲シ右碑赴等ノ建築終ルノ後事ラ彼邦ノ宮城大厚ョリ市街村落ノ家屋ニ至ルマデ之ァ熱覧シ就中

諸工場ノ建築ニ注目セリ

同年十一月閉曾ノ後亦松尾伊兵衛ト共ニ英國ニ行キ「アレキサンドル、パルク」曾赴ノ貸ニ再ビ我碑赴商店ヲ龍動府ニ移建シ旦我邦ノ土蔵ヲモ建築セリ面シテ「サウッ、ケンシントン」博物館長「オーウエン」氏ノ斡旋ニヨリ彼府ノ廣堂壮閣及大建築場ヲ熱覧スルヲ得七年

帰朝ノ際又備都巴里ヲ経歴シテ見聞スル所少カラズ

八年博覧曾事務局内ニ於テ試ニ製糸試験場ヲ建築セシメラレタリ是レ漢國博覧曾ニ於テ熟覧講究シタル彼邦ノ建築術ヲ我邦ニテ質施スルノ初メニシテ今日建築術ノ進歩シタルハ全タ漢園博覧倉ノ際技術質見講究ノ効ニ外チラザルチリ乃チ騎闘後余ガ従事、タル建築ノ履

歴ヲ列撃シテ諸君ノ奪覧ニ供スルハ赤余ノ然案ナリ因テ左ニ之ヲ掲グ

明治八年内務省新築圓面ヲ調製ス

同年群馬懸下上州新町紡績所新築圓書ヲ調製ス

同年十月同懸下新町騨へ出張シ器械場新築地及水路等ヲ測量ス

同九年一月器械場設置地及道路水路敷地買上方引績キ建築ニ着手ス

同十年十月建築及器械据付トモ落成シ引績キ営業ニ従事ス

同十三年三月帰京ヲ命ゼラレ同年四月愛知懸下三河國額田郡大平村ニ設置ノ第一綿締紡績所へ出張ヲ命ゼラレ同所建築ヲ監督ス

同十四年撮津國島下郡桑ヶ原村へ民設綿糸紡績所新築保護トシテ同所へ出張牛途ニシテ同年四月騎京シ再度愛知懸下三河國額田郡大平村第一跳綿糸紡績所工事監督トシテ同所出張ヲ命ゼラレ工事落成後営業ニ従事セリ

同十五年十月職ヲ鮮シ宮城懸宮城紡績曾赴建築工事監督主任ニ雇レ同十七年四月建築及器械据付方トモ落成シ績テ営業ニ従事セリ

同十八年一月宮城懸應ニ雇レ六大工事ノ内本吉郡東演街道ノ内水界遂道工事ヲ監督ス比曖道長五拾七間ニシラ横内法拾尺高拾三尺五寸基礎石及東西入日花岡石ヲ以テ積立テ共他内部棟化石長手武枚ニテ積立テ空間石灰「コンクリート」ヲ以テ充分突堅メ同十九

年九月落成セリ

年十月ョリ登米郡役所新築工事ヲ監督シ同甘年十月落成セリ

同年四月ョリ登米郡佐沼町尋常高等小學校継二階建ニシテ武百坪除同郡登米町尋常高等小學校建築継二階造リ武百六拾坪除ヲ設計及監督シ同甘一年十月落成ス

同年登米町警察署新築ヲ設計シ及工事ヲ監督シ甘二年落成ス

同甘二年仙豪市北武番町へ五拾武名繰製糸場ヲ建築シ及器械設計工事ヲ監督ス

同年四月丸田郡自石在倉本村製粉器械場民設ニ付右ァ保護トシテ同所へ出張シ「トルビン」水車三拾五馬力ナル者ァ護計シ器械外園ョリ取寄せ建築及器械擁付ァ監督シ同#三年六月落成ス

同年五月栗原郡岩ヶ崎町へ五拾武名繰製糸器械及建築等ヲ設計シ工事ヲ監督シテ同年十一月落成ス

同年同月甘一日ョリ仙豪市廣瀬川字川内へ架設セラル、字濃橋長七拾四間高欄内法拾八尺鐵橋「ワルルントラッス」形ニシテ橋豪橋脚合セテ六ヶ所北南ニ橋豪ヲ設ケ北橋豪高サ根入共五拾呪除南橋豪三拾武呪除ニシテ何レモ岩盤ニ六呪及十三呪堀込橋脚高サ根入共四拾八

呪ョリ四拾五呪逸トス花岡石及焼過煉化石ヲ以テ積立テ都テ工事監督ヲ貸シ同甘五年十月ニ至リ落成ス

同年十一月ョリ桃生、牡鹿雨郡公立病院二階建平家建合セテ三百坪除ヲ建築設計セシガ是助雇ヲ以テ監督セシメタリ

同甘六年一月第一匿第五匿工事主任ヲ命ゼラレ土木工事ヲ監督ス同年八月ョリ宮城懸尋常中學校建築二階建平家建合セラ七拾五坪除ヲ設計セリ

同甘七年二月栗原郡若柳町警察署建築圓ヲ設計セリ

5. Kaemon Takashima高島嘉右衛門

大人は名を薬師寺嘉兵衛と呼び、常陸国新治郡牛後村の農にして、薬師寺兵兵衛の次男なり。此の地元徳川幕府の旗下竹本彌兵衛の番地にして、薬師寺家は代々其の庄屋たり。

其の斡旋に依り、江戸三十間堀町の遠州屋徳三郎といへる材木兼普請請負業の手代となれり。嘉兵衛氏時に年二十一、是より氏は熱心に其の業務に従事し、普請向諸般の事に心を用いること親切にして且つ寸壱の偽りなく、其の設計亦壱も違算あることなく、諸事他人の及ぼざる所たりしかば、大いに内外の信用を博し、殊に諸藩屋敷に名を知られ、種々の建築造営の相談を受け、或いは直接の請負をも為すに至れり。

年譜

天保三年十一月三日江戸三十間堀町に生まれる

同五年翁の父嘉兵衛氏の南部藩候の命を奉じ佐賀に使して救助米を借りる。

同六年南部候嘉兵衛の功を賞し士籍に列して俸禄八十石を給ふ

同七年翁五歳殿圓堂に入門、学に就く

弘化二年翁佐賀藩士力武彌右衛門氏に接し西洋の学術を知る。

同四年翁父子相携えて南部領内釜石鐵坑に赴く

嘉永四年観相家千枝に逢ひ三十間堀町に土蔵造の家屋を建築す

安政二年江戸大地震、鍋島、南部両判定を建築す

同三年南部家菩提所の石塔大風の為崩る翁之を修繕す

安政6年横浜出店

蔓延元年貨幣密売の禁を犯し幕府に捕らえられる

文久元年伝馬町の獄に繋がる

同二年囚徒に襲わる。獄中に易経を得

慶応元年翁赦免、高嶋嘉右衛門と改名

同二年横浜に建築請負及材木店を開業、英国公使パークス氏に説き同公使館を建築す。

同三年燈台寮を建築す

呑象高島嘉右衛門翁伝、出版:植村澄三郎、大正3年

p.159

斯くて其翌日より翁は横山を紹介者として多くの外人を訪問し数日間数十名に接したるも、未だ共に事を謀るに足りるものあらず。聊か倦む所ある折りしも一日米国の建築師ビジンと云うものに逢せり。彼は其見る所卓越し、談論顔ぶる面白く、一應の人物なり蹴れば、翁は此人こそ共に事を為すに足りるべしと思ひ、尚交際を続くる中、或る日彼れは翁に向ひ「我には資本なし、君には如何」と云ふ。翁は是に答えて「余も亦資本なしと雖も仰も金は信用ある人の手に吸収せられるものなり。今より貴下と余とは互いに人に向かって互いに賞賛し以て大いに相信ぜることを表明す可し。斯くすれば自らにして社会の信用を増すべく其上は金を雇入るることは猶ほ車を雇うよりも容易なるべし」と云う。互いに手を拍って阿々大笑せる事あり。以来翁は屡々ビジンと相会して胸襟を拓いて語る所あり。而して翁は当時の英国公使パークスに会して一言の為すべきものありとし、其紹介をビジンに諜り、彼れ亦之を諾して彼れの妻の姉なるもの当時の米国公使の妻なるを幸ひ、之に拠って英公使に宛てたる米公使の添書を得、乃ち翁は横山を同道して茲に英公使パークスを横浜二十番ホテルに訪問せり。

p.161.

斯くて後ビジンは英公使館建築の図面を製してパークスに送り、其新築を勧め、パークスも亦意動きて幕府に計る所あり最初一萬七千弗の予算を立て後模様替となりて一層規模を拡張し、書記官、医師等の住宅をも築造することとなり、総計七萬五千弗にて横浜山手に建築するに至れり。而して其の建築受負は一切翁之を擔当し、ビジンに製図設計費として一萬両と外に利益の配当を與、翁も亦之に因て利益を得ること少なからざりき。建築成りたる日パークス公使之を検分して大に喜び、翁を賞賛して『日本一の大工なり』と云えり。幕府役人らは亦高嶋は七年間入牢苦役したる其賠償としてパークスを介し幕府より数萬金を獲得せるものなりと云ひしとか。そして是実に慶応二年の事なり。

是より後ち外人にして家屋を造らんとするものある時は、必ず公使の紹介を以て翁が許に申込み来る事となり、信用次第に加はり、家業日に増し繁盛し、出入の職人等も亦大いに熟練を積みて、其受負ふ所の工事常に意の如くに運び、一も約定期間を誤ることなく、資金も潤沢となり、石材木材共に良好の品を廉価に仕入れることを得るに至り、適ま流通資金に差支を生ずる時は夫の橘屋の口入を以て融通の途を開き、百事皆好都合となり、翁の家運は滋に方に隆盛の域に向へり。

p.170

第二十六章 幸運の大利

翁は既に英国公使館の建築に因って横浜居留地に於ける評判の建築受負師となれるのみならず、前章に説けるが如く、外人の資本をも融通するとを得るに至れり。茲に又更に英国公使と技師ブラントンなる者の斡旋に因り、日本全国の燈台建設の下受負をなす事となれり。

6. 河野通信Kawano Michinobu, 1839-1899

1. 生い立ち

・長州藩士の家に1839年に生まれる。幼名を亀太郎といい

出典1:下関市史

・河野亀太郎は成宜園の「入塾簿続編」にその名前が見られ(一八四○年・天保十一年十一月二十日入塾)、成宜園の塾生でもあった。天保期の河野藤右衛門は文化人でもあった。一八三四年(天保五)、筑前の国学者・伊藤盤定が下関に来た際に書き残し

2. 修行

・木戸孝允を師と仰いだ。

3. 明治政府出仕

公文録

・諸官進退状第一巻・明治四年七月、河野亀太郎任侍従ノ件

・諸官進退状第四巻・明治五年一月、山口県士族河野亀太郎工部省七等出仕被命ノ件

4. 『旧工部大学校史料・同附録』

・官吏及び見習生ノ海外差遣並任命 明治六年三月八日工学権助河野通信命ヲ奉ジテ英国ニ渡航ス,工学権助村田文夫測量正ヲ代理ス。是月測量司一等見習い小林八郎ヲ英国ニ派シ留学セシム,而シテ帰朝後明治七年九月飯塚義光ト共ニ工学寮ニ入ル。同年六月九日外務省二等書記官林董工学助ニ転任ス。