British Consulate Buildings at Nagasaki
長崎英国領事館の建築
British Consulate Buildings at Nagasaki
長崎英国領事館の建築
長崎英国領事館建築の変遷
1. 臨時領事館:1859年から1867年まで
1858年の「安政の五カ国条約」締結の翌年,代理公使ウィンチェスター((Charles A
Winchester)が外国人居留地造成と領事館開設のために長崎に派遣された.艮崎奉行か ら大浦の妙行寺があてがわれ,他に選択肢がなかったため,そこを領事館事務所と領事宿舎とすることにした。F0795/175 Nagasaki Foreign Settlement (1859)の図中の(C)に見える。大浦居留地と山手居留地の造成が終わると、東山手ロット13番の広い地所を取得し、領事館建設予定地(Reserved Site for Consular Buildings)とした.
1862年になり,領事ウィンチュスターは長崎奉行所に簡単な平面図(F0262/46) を渡して東山手ロット13番に領事館建物を建設してくれるよう交渉を始めた.おそらく江戸公使館と同じように,建設費の十分のーを年賃貸料とすることになっていたと考えられる.外交文書にあるように,工事費見積書の提出を何度も長崎奉行所に迫ったが,結局,ウィンチェスターはよい返答をもらえず,別の方策をとることにした.
2. 既存洋式建物の借用:1865年頃から1902年頃まで
ウィンチェスターは,1863年6月の公使宛書簡の中でグリーン・ホテルの一部を領事館施設として長期借りることを検討しているが,これが実現したのかは不明である.1868年のクロスマン報告によれば,当時,領事館事務所はバンド・ロット6番の旧デント商会所有の建物を借りて使っていた.おそらくグリーン・ホテル借用の話がうまくいかなかったため,ちょうどその頃,デント商会が経営難に陥り長崎撤収に合わせて,その不動産 を借りることにしたのであろう.デント商会はフレザー商会を代理にして大浦居留地造成とともに複数のロットを所有し,1862年頃にはロツト6番にこの事務所建物を完成させていたと考えられる,それを,英国側は1865年頃から借り始めたことになる.
領事,領事補佐,通訳は,自らの居住のために近傍の既存建物を借りてその用にあてた.領事官邸として東山手ロツト9番の建物を借用していたが,その建設者と所有者については不明である.また,領事補佐と通訳が宿舎としてどの建物を借用したのかも不明である。留置場と警護官宿舎は,本来,治外法権の外国人居留地において必須の施設であったが,英国領事館はその専用施設を持たず,日本側の牢屋を借りていた.クロスマンは,将来的にはロット6番の地所を購入し,そこに新たに専用の領事館施設を建設することを提案したが,長崎の重要性が不確かな状況では,当分は現状のままでよいとした.
1874年,工務局上海事務所は,東山手9番の領事館官邸の敷地の道路側に領事事務所と警護官宿舎を増築する設計案(F0262ノ262添付)を作成しており,おそらくこの地所はすでに英国側の所有となっており,そこに領事館機能の一部を置こうとしていたと考えられる.しかし,1876年の地図(WORKIO/359 (I). P0262/288添付図)を見ると,東山手ロット9番の増築計画は実現されず,代わって北隣の東山手ロット10番のローパー氏不動産を購入しようとした.
1884年,工務局は大浦ロット6番不動産の購入を財務省から認められ,工務局上海事務所のマーシャルは購入手続きを進めるとともに改装工事案を作成した.バンド側の本館は木造2階建ての建物で,1階を領事館事務所に,2階を領事補佐の住宅にそれぞれ改装し,さらに敷地奥の倉庫を殴護官宿舎と留置場に改装するものであった(WORK10/7359 (2), (3)).敷地配置図と倉庫改築案の図面が残されている.
1884年7月,長崎に大台風が襲来し,領事官邸は大きな被害を受けてしまい,翌年,上海事務所からマーシャルが出向き簡単な修理営繕を行った(WORK10/359 (7)).ところが,領事はその建物での居住を拒否したため,マーシャルは領事に住宅手当を支給するように本庁に進言した,最終的に,工務局は官邸のあった東山手ロット9番を,同ロット8番と10番とともに売却することに決めた(WORK10/339 (8)).
3. 新領事館の建設:1902年から1908年まで
1902年,工務局上海事務所の技師長コーワンは下関領事館建設地の下見に合わせて長崎を訪問し,領事館建物の状況を検分した,その報告書(WORK10/359 (16))によれば,度重なる災害によりすべて建物が危険な状態にあると判断し,新築を提案することになった.「より耐久的な材料で同じようなものを再建(the rebuilding of same with more substantial materials)」することとしているので、基本的に既存の施設建築と同程度の仕様(配置と規模)を考えていたのであろう.工事着工を1903年4月とし,工事費概算を48.000円とした.
1904年暮れ,領事館建物の解体に着手し,最初古材を売却しようとしたが,買い手が現れず,新築工事に転用することにした(WORK10/339(18)).翌年には実施設計案が完成し,コーワンは本庁技師長に承認を求めて,図面一式(1階平面,2階平面,正面図,断面図,船舶事務員宿舎と公務使役人宿舎の1階及び2階平面図,同左の立面・断面図,全体配置図)を37,000円の工事費見積もりとともに送付した(WORK10/359/ (19))。本庁技師長から意見(WORK10/339(20))と代替え案(WORK 40/264)が送られてきたが,それに対してコーワンは自案の受当性を返答した(WORK10/359(21))。
1906年半ばには実施図面が確定し,建設工事を入札にかけた,長崎県内のすぐれた施工業者である後藤が落札したが,コーワンは後藤がうまく資金繰りができるか,また腕の良い職人を確保できるかについて危倶した.1906 年8月11日に工事契約を結び,工期は18ヶ月,国内で入手できない建設資材はロンドンから取り寄せ支給することにした.
1906年暮れに工務局上海事務所技師長セシル・シンプソンに代わり,施工業者の後藤の資金的問題や,セメントの品質の問題,ロンドンからの資材搬入の遅れなどがあり,シンプソンは大変な苦労をすることになった(WORK10/359 (21-25)).結局,後藤は資金繰りに困り,1907年松下米吉に施工業者を代えることになった.翌年,この新たな業者も資金繰りに困り,前払いを求めて工事を中断し,また建物に火を付けると脅した.最終的に工事は森高によってなされ,1908年暮れにほぼ完成した.しかしながら,工事は当初の予算内に収まらず,1909年6月頃になってやっと財務省と本庁から1570ポンドの超過が認められ,支払いが完了した.
竣工図面はWORK40/268とWORK40/269であると考えられ,この図面を元にその後の増改築が施された.この2枚の図面では壁が赤色と橙色に塗り分けられているが,その理由は図面からは明らかではない.橙色箇所は本館(事務所棟)の室内間仕切りと奥の公務使役人棟の右部分であることから,木造壁を示していると思われる.
1905 年のコーワンの最初の案から竣工図面までの変化を見ると,建物配置に関しては本館から附属棟が縦に連続し,敷地奥への導線が屋根付き通路によって確保されるようになった,本館の1階及び2階には軽微な変更にとどまり,また奥の職員住宅人棟の一部が簡便な作りなった他に.ほとんど変更点は見られない.瓦棟の右部分を木造にした理由は工旨節約にあると思われるが、書所藻と木造占の外面 を合わせなかった理由は不明である.
4. 修理と増改築:1910年代から1920年代まで
竣工後も領事から増改築や損傷修理の要求が多々あったと思われるが,工務局文書で確認できるのは,1923年の浄化システムの整備(1924年完成),1927年の車庫増築(1928年11月29日完成),1929年の大規模な損壊修理の3点のみである.
もともと本館の船舶事務室裏に糞尿溜(Cesspool)があり,ここから定期的に場外に搬出していたものと考えられる.WORK10/359 (34)によれば,近隣から匂いに対して苦情が寄せられ,領事の働きかけにより1923年8月に浄化槽による下水システム改善工事が裁可された.その直後に関東大震災があり,人件費の高騰などのため翌年の3月になって完了した.車庫は,領事の個人的な自動車の収納のために1927年に裁可され,翌年完成した.1928年暮れに,本館の一部が突然崩落し,長崎市の関連部局が調査に入り,電気関係の原因であると判断した.翌年早々に上海事務所のプラッドリーが訪問し,損傷状況を検分したところ,原因は白蟻による梁の腐朽であり,大規模な修繕工事となった(WORK10/339(41-42))。
以上の工事を管理図面と照らし合わせると、1928 年の車庫と油庫の増築計画図(WORK10/359 (33))に浄化槽が描かれているので,記録の通り,1923年に浄化槽が設置されたことになる.また,図面上の石炭庫の壁線が消された上に,赤色で車庫増築が示されているので,石炭庫がここにすでにあったことになる.
竣工図面の可能性WORK40/268(10) 車庫・油庫・車庫・排水枡の増築WORK10/359 (33)
この石炭庫の増築だけではなく,竣工図面と思われる図面(WORK40/268 (10))では便所が職員住宅木造棟の料理人室脇に設置されていたが,WORK10/359 (33)では右奥の位置に移され,また井戸が閉鎖されている.
1930年代に入るとすぐに長崎英国領事館の縮小・廃止の議論が始まり,営繕に関する文書はなくなった.
竣工図面の可能性WORK40/268(10) 便所の新設と井戸の閉鎖WORK10/359 (33)
5. 第二次世界大戦勃発から戦後:戦争被害賠償と売却
1942年から1946年まで,英国政府は日本における不動産をスイス大使館管財部に管理委託した,その管理の巡回結果報告によれば,建物の状態は良いことになっていたが,終戦後,工務省(Ministry of Works工務局から格上げされた)から技官が派遣され,その検分では戦争被害だけではない多くの損傷が見うけられた.日常的にはスイス大使館管財部から依頼された日本人が管理を行っていたらしい.
1952年,英国との講和条約が結ばれ,それに基づいて戦争賠償の交渉が始まった.英国政府は長崎に領事館を再開する意志はなかったので,その不動産が受けた被害の修理費を三社に見積もらせ(WORK10/359 (54)),賠償請求額を決めた.この際,請求できるのは戦争被害の部分だけであり,経年老朽化による損傷は除外したようである.この修理費は,1953年の書簡(WORK10/359 (51))に大林組が入札したように書かれているが,実際に行われたのかどうかは不明である.
売却に際し,日本興業銀行不動産部に長崎領事館建物の査定を依頼したところ,11,700,000円(117,000ポンド)の金額が寄せられた(WORK10/359 (54)).査定調査を行ったことは長崎市役所の知るところとなり,1953年に市長は英国政府が売却するのであれば,市に譲って欲しいと大使館に申し入れをした.市の固定資産税評価では10,000,000円以下の価値しかないので,百年近くにわたる長崎と英国の友好関係と,戦災で失われた市の歴史を物語る文化遺産なので,市は大事に保存するので英国政府に売却金額を10,000,000円に下げてくれるように願い出た.
ところが,この時点で英国側に14,000,000円でも購入したいという別の希望者が現れてしまった.そのため、東京の英国大使は売却の判断に困り,本国の財務省に指示を仰ぐことにした.財務省の返答は,競売にかけ高い価値をつけた業者に売るべきだというものであった.英国政府は,不要になった不動産は競売によって処分するのが原則であり,外務省と長い議論を経ても財務省はこの原則を曲げることはしなかった.財務省は大使に対して公開競売にかけるように電報で指示し,その手順は追って手紙で説明することにした.
電報を受け取った大使は競売手順の手紙を待たずに,さっそく公開競売を開いた。すると事前に興味を示していたバス会社と教会からの応札はなく,入札に応じたのは10,000,000円を提示した長崎市だけだった.大使はすぐに市長に長崎市が落札した旨を連絡したが,遅れて届いた財務省からの手紙では,入札結果を一度財務省にあげて,財務相の判断を仰ぐことになっていた.財務省は14,000,000円以上の価値があると考えており,一番札がその予想金額から遠く離れていた場合は競売不成立にするつもりであった.
工務省は外務省と財務省の間に挟まれ,現状建物の状態が悪く,多額の修理費用が必要となり,また長崎の不動産価値が下落傾向にあることを理由に財務省を説得した.最終的に,財務省は大使の軽率な行動を非難したものの,大使の面子を立てて,10,000,000円で長崎市へ売却することに合意した.
長崎市は,入札書類の中に「オリジナルの姿を守りながら文化遺産として大事に保存し,公的施設として活用する」という一文を添えており,この条件は売買契約でも有効であったと考えられる.
後書き
長崎領事館に関する工務局文書が思いの外多数残っており,その解読に時間を要した.工務局文書と図面には日付と作成者が不記載なものがあり,そのため,特に図面の作成年判断には手間取った.
工務局文書は基本的には現場事務所と本庁の通信文であるが,その発信前後には大使や領事との打ち合わせをしており,その記録もあったはずである.それらは外務省文書の中に存在すると考えられるが,今回の調査ではFO262全部に目を通すことができなかった.長崎領事館は,横浜と神戸のそれと同じように,膨大な量の外交文書を残しており,その中には工務局作成の図面が挿入されたままになっている可能性がある.
戦後,この領事館建物は大変な紆余曲折を経て長崎市に譲り渡されることになった.英国政府が売却に消極的だったのは,第二次世界大戦時の日本軍と日本政府に対する強い不信感であり,英国政府高官の心に長崎市の「オリジナルの姿を守り,,,,活用する」ので譲って欲しいという言葉は響かなかった.長崎市にとって幸運だったのは,駐日大使の軽率な判断であった.この経緯は修復になった領事館建築の公開とともに,ぜひ日英両国の友好の証として銘記しておくべきであろう.