「騒乱イバラシティ」日記
試遊会
<試遊会 その1>
見晴らしのいい道を、白いミニバンが走っていく。
今は年末のシーズンで、周りの家々の中には電飾を取り付けられたものも少なくなかった。発光ダイオードの連なりでできたサンタクロースだのスノーマンだのは、視界の隅を通り過ぎるだけでもいくらかの注意を引く。
「っへ、みーんな年の暮れで浮かれてやがるぜ、座間さんよぉ」
運転手の男、ロシュ・ブーリアン―――日本人ではない。金髪で、青い目をしている―――は、助手席に座るふくよかな女性に声をかけた。
「いいんじゃないですかぁ、平和で。あたしらのお仕事って、普通の人たちが浮かれてられるようにがんばることでしょ?」
女、座間為知(ざま ししる)は、四十度ほどリクライニングをしている。
「……違えねェや」
ロシュは、行く手にそびえる富士山を見上げた。雪化粧が夕日を浴びて、オレンジに輝いている。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
ミニバンは富士山のふもと近く、人気のない場所にある四角い建物のそばに停まった。
ロシュは先に車を降りると豆腐の入口へ足早に向かい、ドアスコープを見つめた。それだけでひとりでに鍵が開き、暗闇がロシュを迎え入れる。
しばし灯りのスイッチを探り、ふと振り返ると、コウモリの翼を生やした悪魔の影がそこにいた。
「電気、こっちっすよ」
悪魔……もとい為知は、部屋を明るくした。つやつやの革でできた翼が、背中から顔を出している。
「ちゃちゃっと戻りましょ、お土産もあることですし」
為知は入口の反対側にあるテーブルへ歩き、ロシュを手招きする―――彼女はその背中に、青いドラゴンを一匹、背負っていた。
無論本物ではなく、そういうデザインの鞄である。かつて東京都心の店で見かけ、本人曰く『一目ぼれ』したらしい為知がその場で購入し、今日の日まで使い続けていた。ロシュの目から見てもなかなか格好いい代物だったが、あいにく為知がやたらと物を詰めこむせいでぶくぶくに太ってしまっている。ペットは飼い主に似るとはよく言ったものだ、イヤ違うか、とロシュはたまに思う。
さてそのロシュは、テーブルの引き出しの裏にあるボタンをトン、トト、トントと指で突っついた。するとテーブル下の床がスライドし、パネルが現れる。このパネルに今度は指をくっつけ声を当て、とどめに瞳を見せてやると、また横にずれてゆき、後には抜け穴が一つ残った。
そのまま穴に飛び込んで、滑るように梯子を下りる。
「うー、もうちっとこれ、別な仕組み考えらんなかったのかなぁ」
後から来る為知は、豊満なバストをコンクリート打ちっ放しの壁にこすりつけぬよう、ゆっくり降りざるを得ない。
「痩せとけ」
ロシュは相方が降りてくるのを待たずに先へ進んだ。
人に踏まれてはじめて動くリフトに乗りこみ、しばらく待てば、視界が開ける。彼らは巨大な球状の入れ物の中に入っていっているところだ。この球の中にはより小さな球や、四角い部屋がいくつも見える―――実際こんな風になっているわけではなく、いずれも土に埋もれてはいるのだが、その土を除いたらこうなるというのを映像で見せているのだった。
「もう、待ってよぉ、ロシュさんっ」
リフトのシャフトを滑り降りてきた為知に、ロシュは一言、おつかれと告げた。
彼の手には生もののお土産がある。あともういくつかセキュリティを通過しないといけないので、あまりのんびりはしていられない。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
少年がひとり、飾りっけのない部屋にいた。
屋内だというのに灰色のニット帽を被った少年、宮田一穂(みやた かずほ)は、壁際に備え付けられたデスクで海洋生物の図鑑を読んでいた。戻す本棚はこの部屋にはない。明日の朝にでも、元あった場所に返してもらうことになっている。
デスクの横には、作り物の空と太陽がしまわれた窓がある。生活リズムを狂わせないためのものだが、読書の邪魔になるのでカーテンで遮っておいてある。その上には壁掛け時計とエアコンがあり、反対の壁際にはパイプを溶接して造られたベッドが一つと、ウォーターサーバー。あとは電話もある。その傍にあるドアの向こうは、トイレもついたバスルーム。
これらが少年の住まいの全てで、後は本当に何もない。だけどそれでよかった。
チャイムが鳴った。少年は本にしおりを入れて閉じ、部屋の出入り口となるドアへ歩く。
「一穂、開けるぞー。糖分だ」
聞き慣れた声がして、ドアが開く。そこにはロシュがいた。遠くからは皿の触れ合う音もする。
「おーら、出てこい出てこい」
ロシュに肩を引かれて一穂は外に出る。
短い通路を抜けるとそこは円形の部屋で、一穂の部屋の何倍もの面積をもっているようだった。真ん中の十数人くらいで使えそうな丸テーブルに、為知がお皿とコップ、それからフォークを並べている。他にも四人ほど人がいて、もう椅子にかけていた。
「クリスマスケーキだってさ。私ら、もうンな歳でもないんじゃなくって」
水色の髪の少女が一穂に声をかける。
「美香さん、適度に糖分を摂取できることは望ましいと考えられます」
そう一穂が応えれば、尖った髪形をした茶髪の少年が思い切り呆れて、
「あーッたく……お前さァ、お祭りだぞ? レーションとか食おうってわけじゃねェンだぞ?」
「よせ、昭。一穂には一穂の感情があるんだと、ずっと言っているじゃないか。楽しいからって押し付けるのはよくない」
彼の隣にいたメガネの少年が、茶髪の子―――昭をなだめた。
四人の少年少女はみな同じくらいの年齢だが、何もかもが違っていた。一穂はずいぶん痩せているし、無機質だ。水色の子―――川野美香(かわの よしか)はそこそこ自慢できる程度に身体が引き締まっていて、眼光も鋭い。三島昭(みしま あきら)はぐんぐんと背を伸ばし、こんな地下施設にいなければスポーツ選手でも目指していたかもしれない。メガネをかけた村田実(むらた みのる)は白衣を普段着にしており、何かしらの実験の手伝いをさせてもらえる日を楽しみにしている。
彼らの他に、もう一人カール・ケンドという初老の男性がいた。だいぶおでこが広くなってはいるものの、背筋は張って歯並びもよく、くたびれた様子はない。彼は膝の上に猫を一匹乗せていた。白磁の様に滑らかで、毛が生えていない猫だった。それどころか異常に柔軟で、骨すら入っていないように見えるほどだ。
「お元気でしたか、一穂君?」
「はい」
カールの穏やかな挨拶を平坦極まる声で返し、一穂は席に着く。既にブッシュ・ド・ノエルがテーブルの上にその身を晒し、為知にカットされているところだった。美香、昭、実、それから為知がトッピングをほどほどに奪い合い、あとの三人は残ったものを皿へ運ぶ。
「おし、食う前に宣誓ッ! 来年のクリスマスも、ぜってェ、今ここにいる奴ら、みんな揃ってお祝いするぞォ!」
と、昭。
一穂にはわかっていた。確かに、去年も同じお祝いをした。ケーキはもう数ミリほど長く、為知は二キロばかり痩せていた。隣にいたのは自分ではなく美香で、青いスカートを履き、さっき昭が自分に言ったのと同じことを、その時は彼女が言っていた。実のメガネはあの後破壊されてしまったので、今年のとは違う―――
それはお祝いそのものの性質を変えてしまうような差異ではないが、確かな記憶である。何もかも、文字通り何もかもを、一穂は覚えていた。
去年の今頃、この部屋から三キロ離れた研究棟で、何が起ころうとしていたのかも。
神はサイコロを振らないわけではない。けれどそのサイコロが、出来損ないだったとしたら?
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
ブゥーッ! ブゥーッ! アラームが、穏やかな空気を引き裂いた。
「緊急事態発生、緊急事態発生。スフィア06第三研究棟、DE-615の実験にて事故発生。時空間安定プログラムを使用できる職員は、その場ですぐに行動されたし。繰り返す。スフィア06第三研究棟、DE-615の実験にて事故発生。時空間安定プログラムを使用できる職員は、その場ですぐに行動されたし……」
喋るものなど居ようはずもなかった。一同はわずかな時間凍り付き、すぐさま熱を取り戻した。
「は、ハチバン倉庫! 時空間のヤツってあっこじゃないと……ッ!」
為知が上ずった声を上げ、どたどたと部屋のロッカーへ駆けていく。中から分厚いコートを取り出して羽織った。ロシュ、カールもそれに続き、白磁の猫も何故だかついていく。
「悪ィな、留守番頼まァ!」
と、白い歯を見せ、同僚に上司、それから猫と一緒に部屋を去るロシュ。
あとの少年少女四人は、それぞれの部屋に戻るでもなく、その場に立ち尽くす。戻って、布団被って震えてでもいれば、そのうちどうにかなる類の問題ではない―――全員がわかっていた。
時計の音と、心臓の音と、アラームの周期。全部がうまく噛み合わなくて、余計に気持ちが悪かった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
―――それからすこし、時は流れて。
ふと目を開ければ目の前には柵。それから、黒い大地を満たす電気の灯たち。
異能者の世界の都市『イバラシティ』、その一画たる『ツクナミ区』は夜の帳の中で絢爛たる賑わいを見せていた。東の『マシカ区』、その反対の『ウラド区』、北方の『コヌマ区』と比較しても、ツクナミの街並みは異常に発展しているように思える。元々こんな場所だったのか、ここしばらくで急激に発展してしまったというのか、なぜかはっきりしない。
そんな街を見下ろしているのは、宮田一穂である。
現実に立ち返った彼は、展望台に風を遮ってもらえる場所に寝袋を敷いた。枕はビニール袋を詰めたものだ。中に入ってしまえばそれなりに暖かいし、カイロも使えば凍死の可能性は減る。
この世界に戸籍を持たない以上は、とりあえずこうするしかなかった。
そう、なんとか、生きていかなくてはならないのだ。
自分は、失われるべきではないものなのだから。
<試遊会 その2>
警告灯の輝きがそうさせるのよりも、部屋は赤く染まっていた。
銃声や衝撃音が、サイレンに混じって聞こえる。事態の始まりから五分ほど経ったが、ロシュたちは何もできていないらしい。
そんな中で、実は昭がせっせと身体を曲げたり、振るったりしているのを見た。
「昭、何を……」
「準備運動だ。デビアンスの化け物が今に来るんなら、ブッ殺さなきゃ」
軽く跳ね、空気に向かってジャブを放つ昭。
「いくらあんたでも、身体一つで戦える相手じゃないわよ」
美香が、自分の分のケーキの残りをとりあえず食べながら言う。
「諦めてんのか?」
「違う。バカ騒ぎしてないだけ」
「……ンだよそりゃ、オレがバカみたいじゃ」
「事実じゃ―――」
その時四人は、揃って弱い吐き気を覚えた。
時計の針の音に、違和感があった。一秒、また一秒……その周期が、肉体を置き去りにしようとしているように思える。あるいは自分たちの方が時間を取り残しているのかもしれない、とも考える。どちらかはわからない。
脳がどうにか順応しようとするよりも早く、次の異変が訪れた。
「わァッ」
実が小さな悲鳴をあげた先に、それはあった。
炭のような塊が壁に浮かび上がっている。一見して人の頭のようにも見えるそれは、少しの間をおき、カバのように大きく口を開いた。
中に、千切れた人間の腕が一本、引っかかっている。
「うッ、ウソ……!?」
飛びのく美香を追うかのように、口を半開きにしたまま、塊が壁を抜け出てくる―――身体がついている。ムカデのようだが、いくつもついている脚は人間のものだ。しかも一つ一つ細かな特徴が異なる。長さも太さも少しずつ違うそれらが、まったく支障なく連携して動いているのだ。
あの腕がロシュかカールか、為知のものかと確かめられようはずもない。
「逃げろッ!」
実が叫ぶより少し早く、全員が部屋のドアに駆けだす。
こんなことも決して初めてではないのだ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
―――83B6号室、83B7号室、83B8……
やはり赤々と変化している環状の通路を、四人は全速力で走っていく。
向かう先は、為知の言っていた『ハチバン倉庫』であり、そこに何があるのかは一穂たちも知っていた。ロシュたちが志半ばで力尽きてしまったのなら、彼らが代わりに辿りつかなくてはならなかった。
途中いくつか、屍を飛び越える。そのうちの九割くらいは黒いアーマーに身を包んだもので、その上から引き裂かれたり、首をへし折られたり引きちぎられたりして冷たくなっていた。
「誰も頼りにならないか」
と、実。応じるものはいない。わかりきっている。同じような恰好で生きている人間は、まだ見かけない。アーマーを着ていない死体にだけ、軽く注目しながら進む。
―――83B13号室、83B14号室、83B1……
「おし一周した。倉庫ってこの曲がり角の先だよな?」
「ええ。行けりゃいいけど」
美香が角に身を潜め、その先を見やる……が、通路は急に暗くなっていて、見えない。非常灯でもついていそうなものだが、それもない。
「……その、物理的にお先真っ暗にしちゃうようなデビアンスって、なかったっけ?」
「なんだそりゃ」
昭も美香の後ろから顔を出し、それを把握する。
「懐中電灯とか持ってきてねえのか」
「あの剣幕でなんか持ってこれるわけ……」
「ッ! みんな! 後ろ!」
実が、叫ぶ。
湾曲した壁と天井が炭色に染まり、隆起している。黒々とした脚と頭が抜け出て、服の切れ端らしきものがいくらか床に落ちた。
「追いつかれたかよォ……!?」
昭は環状の通路の先を見てみたが、そこにも見る見るうちにあの怪物の一部が現れてきており、逃げ場がない。
脚どころか、頭すらも二つ三つと用意して、怪物は四人を包囲する。
「くッ……!」
美香も、昭も、実も、じりじりと後退していく。一穂を中心にして。
怪物の脚の一本が、鋭くそこに伸びる。
―――ジュウーッ!
この一瞬、ただその音だけが、一穂をのぞく三人にとって、確かなものだった。
気づけば床に倒れ伏していた実は、頭を上げ、怪物が急にその身の全てを露わにしているのを見た。
黒く長い、人間のパーツを盗んでできた大ムカデは、曲がり角の先へと進み―――あの得体の知れない闇を背にした宮田一穂に狙いをつけている。
「一穂ッ……!」
昭の声がしたけれど、それは何一つ状況を変えない。怪物の頭が一穂を目がけ、蛇のように素早く、飛ぶようにのびた。
一穂は、最小限の反応で敵を出迎えた。その場で小さく回転しながら、左の人差し指で怪物に触れる―――黒い煙があがった―――まるでいなされた猛牛のように、怪物は暗闇の中へ飛び込んでいく。
直後、闇そのものが急激にうごめいた。怪物を目がけ、収縮していく……闇は何か、小さな生き物の集まりでできていたらしい。テリトリーを侵された蜂を思わせる動きがそこにはあった。
墨色の怪物と、生きた闇が通路の奥へと去り、見えなくなった。
「行きましょう」
静止したままの皆の方を振り返り、一穂が言う。その左手は焼けただれていた。
<試遊会 その3>
生ける闇が支配していた通路を抜け、四人は脇の階段を駆け下りる。
死体はそこら辺に転がっていたし。風も吹かないのに物が動いていたり、どうすれば鳴るのかわからないような音が聞こえてきたりもした。が、そんなものに一々注意を向けていては命取りとなる。
下のフロアへ降り、通路を走り抜け、四人ははたして"DEPOT-8"と書かれた―――『ハチバン倉庫』の大きな両開きのドアの前にたどりついた。
「あー、中もどうなっているやらな……」
「実、余計なこと言うんじゃねえ」
先程手のひらを傷つけられたはずの一穂が、率先してドアの取っ手を掴んでみせる。
「一穂!? 大丈夫なの!?」
「早く開けましょう。皆さんも手伝ってください」
言われるまま、美香は一穂の持つ取っ手を引く。実と昭は反対側を掴み、引っ張った。
ゴゴ……ギギィー。ドアの向こうは、これまでのように赤く染まってはいないらしい。コンテナ群の背景となった白い壁が、どうにも目に刺さるようだった。
続いて、ひどく冷えた空気が流れてきた。音はない。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「……何、これ……。」
倉庫の中を見ると、立ち並ぶロッカー群の合間に、石膏でできているような人体の像がいくつも転がっていた。
近くで見ると、白衣を着ていたり、自分たちのよく知るアーマーを着た戦闘員だったりする。触ってもみたが、完全に硬化していて動く様子もない。
「た、為知さんは!? ロシュさんも、カール先生も……」
「動き回らないでください。発声も可能な限り控えるように」
「か、一穂……頼もしいよ。こういう時は」
やはり一穂を中心に、実、昭、美香が百二十度ずつをカバーするような格好で倉庫に入る。入口のドアは、閉めておく。
「入口ドアには、目立った傷などはありませんでした。他に外部と繋がっている箇所としては、エアダクトと集配センターに続くコンベアがあります」
ゆっくりと歩きながら、淡々と小さな声で説明する一穂。
「ちびっこいバケモノでもいるってことか?」
「寄生虫か何かに忍び込まれたのかもしれないわね。実体がないデビアンスって線もなくない?」
「そ、それより……カール先生たちは……」
かつては生きた人間だったのであろうそれらを、一つ一つ目視でチェックしてはいるが、今の所それらしいものは見つかっていない。
「なんとか生きてるかもしれねェだろ。助けなきゃ」
「ここでの最大の目的は時空間安定プログラムの起動です。カール博士が死亡していた場合は、僕たちでやらなくてはなりません」
「その薄情は困るんじゃなくて……時空間安定なんて言われたってやり方わかんないわよ、私たち」
「僕は昨年の事件で手順を記憶していますので、可能です」
「二重に頼もしいな、一穂……でもそれはそれとして先生たちは助け―――」
言い切る前に、実は視覚に違和感を感じた。
「お、おい、なんか明るすぎないか? この部屋……」
ここに来るまでずっと、電気が落ちて暗い場所だったというのはある。けれど、目が慣れる位の時間はもう経っているはずだった。
「や……これ、違うわ……モノが明るくなってるんじゃなくて―――」
「目を閉じてください」
一穂が促すと、三人全員その通りにした。けれどその一穂だけは、目を開けたままでいる。
「ま、まぶたが焼けそうだッ! 一穂、どうなってる……!?」
昭が悲鳴をあげた。
「静かに……」
一穂は白一色に染まりつつある景色を、苦しむこともなく見つめていた。
足元に注目する。床に伸びる、昭の、美香の、実の影。それらがまさに、増殖する白みに侵食されている。光が強まっているのではない……何か別なものが浸潤している。この部屋の有様が、その何かによるものなのだとしたら。
―――パッ! ガシャ!
「はっ!?」
破裂音に実は思わず目を開ける。さっきほど、眩しくない……
パス、ガシャッ! 二度目の音に振り向くと、一穂がハンドガンで倉庫の照明を撃ち抜いていた。
「何やってんの!」
「生き物の影を餌にするデビアンスのようです。闇に紛れ、影を隠せば攻撃を回避できます」
「そういうもんか!?」
この位置から目に入る照明を片っ端から撃ち落とすと、一穂は跳躍し、一方のロッカーを蹴って、その勢いでもう片方の上に手をかけた。三角跳びというやつである。ロッカーの上に登った一穂はさらに照明を破壊していく。
「ねえ、この後どうすんの!? 他のデビアンスがいたら……」
美香の叫びを聞いた一穂は一瞬銃撃をやめ、倉庫の、入り口と対角線上にあるコーナーを指さした。
「配置の変更がなければ、あの場所に時空間安定プログラムが収納されています。確認してください」
「おっしゃ、任せろ!」
どんどんと暗くなっていく部屋の中、昭は走り出し、美香と実も続く。
入り口から反対側の壁に突き当り、足首で踏み込んでターンして、その先に白いスライド扉を見た。半開きになっている。その先には八角形のトンネルが続いていた。オレンジの小さな照明が決まった間隔で配置されているが、薄暗い。
が、そんな中ですら、三人は通路の先に佇む白衣の人影に気づくことができた。
「……ロシュ、さん!?」
三人は狭いトンネルに靴音を響かせた。視界の中で白衣が拡大する。一人は金髪で、一人はふくよかで、最後の一人は、老いてこそいるが、背筋が伸びていて……
……彼らは、三人に、振り向いた。
目が、鼻が、口が、ない。
それらがついているはずの頭に、穴が空いている。黒々と闇をたたえた空洞だ。
「―――デビアンスーッ!!」
美香が叫んだときには、既にこの三つの頭の虚ろから濁流のように赤黒いものが流れ出していた。血液ではない。妙な光沢をもち、液体と固体の合いの子のように感じられる何かだった。
三人はすばやく取って返し、元いた倉庫へと飛び出す。一穂の行動により、半分以上が既に闇に包まれていた。
その一穂もすぐに事態を察した―――逆転の一手に繋がっているはずのドアから赤黒い流れが吹き出し、壁と床とに飛沫を撒き散らしながら、仲間たちを呑み込まんとしている。
さらに悪いことに、三人の影が急速に蝕まれているのも見えた。
「あッ……ぁ……!」
実は、まさに危機にあった。
視界が三秒もしないうちに真っ白になり、逃げるべき敵と追うべき仲間の特徴が判別できなくなった。音も聞こえなくなっていき、地面に立っているのかどうかすらももはやはっきりしない。
ただ一つ、生きている感覚は……
ガチャ、ガチャン!
暗闇が実に降り注ぎ、白の侵食を食い止めたが、その闇の中には赤黒いものがいる。床の上数十センチのところから伸び、実の腹を脇から狙う。
「実!」
「アッ!」
実は、一瞬、動かなかった。
脇腹に迫った触手が、寸前で折れ曲がる。実の周囲を回って上方に伸び、そこから彼の口めがけて飛び込んでこようとする。
が、それが予測できていたかのように、実は屈み込んだ。触手は空を切り、実は床を転がって逃げ切る。
「ええいッ!」
昭が、近くに来た実を脇の下からひっつかみ、抱え起こす。
「倉庫を出てください!」
一穂が促すが、いわれるまでもない。
四人は全速力で倉庫の大きなドアを抜け、一穂以外が閉めにかかる。その一穂は、中から抜け出てこようとする赤黒い塊を見据え、銃を構えていた。
……パンッ!
放たれた銃弾は小さく、ただの人を殺すのがやっとのものだったのに、それを受けた塊は進行を止めた……身をよじり、もだえ苦しむようにのたうち回った。
その間に残る三人がドアを閉めてしまう。塊が暴れる音がくぐもって、だんだん小さくなり、割とすぐに聞こえてこなくなった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「ハァ……ど、どうすんだこれから。ロシュさんたち、死んだ……のか?」
今の所、この空間にはデビアンスはいない、はずである。壁にもたれかかった実が問うてきた。
「セキュリティは全滅、動かせって言われたものも動かせないんじゃ、多分見捨てられるでしょうね、私達」
「み、見捨てられるって、自爆させるのか!?」
「馬鹿ね、この地下帝国でそれはないわよ。でも私達ごと皆殺しってのは確かじゃなくて?」
「じょ、冗談じゃ!」
「……行きましょう」
気づくと三人に背を向けていた一穂が静かに言う。
「行くって、どこへ?」
「このスフィアの最下部に、僕らだけでも助けてくれるであろうデビアンスがあります。それを使いましょう」
と、一穂は赤々しく染まった通路の奥を目指して歩き出す。
その頭からは玉のような汗が何粒か流れていた。
<試遊会 その4>
「ねえ一穂。その、僕らを助けてくれそうなデビアンスってなんなのさ」
スフィア08の下部へと続く無骨な階段を駆け下りながら実が聞いてくる。
「DE-109、通称を『夢見る胎児のゆりかご』といいます。DE-109はヒトの子宮の形状をした縦2.83m、横5.71m、重量は5.9トンの生体組織で」
「ごめん、それがなんで助けてくれるかだけ教えて」
「僕がかつてDE-109の中にいたからです」
その言葉に、全員が立ち止まった。ちょうど踊り場であったから、転ばされはしなかったが。
「か、一穂、おまえまさかそっから産まれたとか言わないよな」
「いいえ。着いたら説明します。足を止めてはいけません」
一穂は動き出し、昭に代わって先頭に立った。
あとの三人は顔を見合わせるが、すぐに後を追う。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
スフィア08下部、武器を求めて警備員詰所に入った四人は、机の上に置かれたデジタル時計を見て立ち止まらざるを得なくなった。
「……あぁ、まずいわねコレ」
眉間にシワを寄せながら、画面を注視する美香。一秒のうちに三、四秒分のカウントをしているようにしか見えない。
「こんなの……もういつ最終手段とられてもおかしくないわよ。スフィア06って、この隣の隣じゃない。ここですらこの有様じゃ……」
「は? おい、じゃあ諦めて死ぬのかよ! そんなんゴメンだぞ!?」
「け、ケンカしないでよ。そうだ、なあ、一穂ぉ。そのDE-109って核爆発とか、魔術的な封印とかさ―――あるいは現実そのものをぶっ壊しちゃう、テクニック? そういうのとかがあっても……僕らを救ってくれるのか?」
実は一穂にすがるような目を向ける。昭と美香も、そうするしかない。
「DE-109は、いかなる手段をもってしても破壊できませんでした。その中に退避することは、現在の状況においては最も安全と考えられます」
「入る……の? みんなで? その……中に?」
美香は怪訝な顔をした。デビアンスの中に入るなど、気が進むはずもない。
「はい。DE-109は僕を死なせまいとするでしょう。その僕が、皆さんを守る必要もあると命じれば、そうするはずです……」
一瞬の静止があった。実は軽く青ざめ、一穂に詰め寄った。
「な、なんだよ……それ! はずです、てなんだよ!? そんな得体の知れない子宮モドキの中に入って、どうして守られる保証があるのさ!?」
「お、おい、実!」
「そりゃあ僕だってデータが十分あれば安心はするさ! だけど一穂は、DE-109にどんなにおぞましいことをされてたって……怯えもしないんだ!」
実は一穂の肩に掴みかかる。
「なあ、一穂! DE-109は一体おまえに何をしてくれた! 僕らに何を―――」
安心、あるいは絶望を、一穂の口から引きずり出そうとする。どちらでもいい。実は生きるべきか死すべきかを、自分以外の何かに決めてほしかった。
が、それが叶う前に彼は引きはがされ、パンッ! 頬を張られた。
「甘えンな、馬鹿」
痛みの中で目を凝らすと、美香が軽蔑の目を向けているのがわかる。
「一穂が何されても怯えもしないって? ……私たち、そういうことだけは絶ッ対に一穂に言わないって、約束したじゃん」
実は返事をすることができなかった。
「……これが、現状僕らに残されている唯一の選択肢であるということは、告げておきます」
何事もなかったかのように、同じ調子で一穂はまたしゃべりだした。
「まず、僕たちはデビアンスであり、収容室から脱走することは許されていない身です。このような緊急事態であればなおさらでしょう。アラームが鳴った時、僕たちはロシュ研究員たちの帰りを待つ他ありませんでした。けれど結果的に、そのせいで逃げるには手遅れになってしまいました」
誰も口は挟まない。どんなに尊重されたとしても、自分たちは結局この地下深くで飼われている身である。
「……僕は、DE-615がなんであるかも知っています。時の流れを川に例えるとして、その川底にある栓がDE-615です。栓が抜ければ川の水は吸い込まれていきます。時空間安定プログラムは、DE-615をしめ直すためのものといえます」
「けど、そいつは失敗した……」
「はい。しかし、大きな川の中で栓を抜いたとしても、少しの水が流れ出すだけで、大した変化はありません。今回のように収容下のデビアンスが複数脱走したのは恐らくDE-615の引き起こした時空間異常でセキュリティシステムが誤作動を起こしたことが原因でしょうが、前回のDE-615の事故ではここまでの事態には至りませんでした」
「そうだったわね。去年のクリスマスも確か同じようなコトあったけど、部屋にこもってたらおさまっちゃったよね」
「……原因は不明ですが、未曾有の事態であることは確かでしょう。はじめにデビアンスの襲撃を受けて逃げ出した際に、僕らはセキュリティチームに攻撃されるか保護されるものと考えていましたが、それ以前に彼らは全滅していたようでした。もはや、組織的にこの状況を制御することすらも不可能になっていると考えられます」
気づけば、話す間にも一穂は部屋から物品を抜き取って回っていた。医療品で焼け焦げた手のひらに手当を施し、いくらか銃器を見繕っては皆の方に差し出していく。
「恐らくは今頃、他の地域や海外の支部が動き出しているでしょう。いずれにせよ、僕らは逃げ損ないました。シェルターも、時間の流出にはかなわないでしょう。僕が記憶している限りでは、もはやDE-109しかすがれるものはないのです」
一穂はこれまで使っていた銃だけを持ち、使いもしない弾丸をいくらか背負った。
「一穂、わかったよ……お前に任せる」
昭は銃は使わず、手榴弾の類を持つことにした。
「悔しいけど、確かに私たち、ここに来るまでデビアンスどもに振り回されて、どうにもなんなかったものね」
美香はアサルトライフルを担いでいる。
「さっきはごめんな、一穂。もう弱音は吐かないよ。DE-109のところまでたどり着けたら、残った時間でもっと詳しいことを教えてくれないか」
実は拳銃と、手榴弾とも似つかない、投げて使うらしいボールをいくつか持った。
「はい。行きましょうか」
言いつつ、一穂は既に警備員詰所のドアに手をかけていた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
この一帯も、上のフロアに比べると少ないとはいえ、いくらか研究員やアーマーを着た連中の死骸が転がっている。
「……はぁ、ひどいもんだな、あと少ししたら地上もこうなるのかな」
足を止めないまま、実がつぶやく。
「今、気にすべきことではないのではないですか。僕たちはデビアンスであり、まだこの組織―――WSOの職員ではないのですから」
そう言って、一穂は淡々と周囲に警戒しながら駆けている。
一穂を差別すべきではないとは、美香も昭も実も、みな思っていた。
ただ、それでも時々考えずにはいられない―――いつまで、仲良くしていられるだろうかと。
<試遊会 その5>
昭と美香を先頭に、実を後ろに、中心に一穂を据えて長い通路を駆け抜ける。
ここからは、どれだけ疲れても休息など取らないつもりでいた。もはやいつ皆殺しにされてもおかしくない状態なのだから。
四人は幸いにして異常なものを見ることなく走り続けたが、分厚いシャッターに行く手を阻まれた。
「この先? DE-109って……」
「はい」
即答する一穂。
施設のセキュリティが死んでいるのは、デビアンス扱いの自分たちがここまで来れている時点で明らかだ。なのに中途半端にここだけ閉まっているのが、残りの三人にとっては憎らしかった。
「で、どうすりゃ開くのかしら」
「指紋、網膜、声紋、メモリーの四段チェックを―――」
「はァ、要するに生きてるヤツを探せってことかよ」
一穂の淡々とした説明を昭が遮る。
「ここまで誰一人立ってなかったンだぜ。居るのか……」
「居ます」
くる、と昭の方を向いて言う一穂。彼の目はいつも冷たい。冷酷というよりは、何も含んでいないかのように。
「僕を使って入れます」
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
シャッターの先は巨大な円筒で、そこには長い螺旋階段が設けられていた。
壁についた小さなライトだけが、四人を照らす。手すりに右手をかけ、リズムが微妙にあわない足音を立てながら、ここまで来たのよりはゆっくりと進む。
「DE-109はこの下なんだよな。ここまで降りてきて、まだ行かなきゃならないって……」
「あれはかつて、情報を求め、無差別に周囲の生物を取り込もうとしました。合計二十一名の人員が犠牲になる事態を引き起こした末、凍結させることで一時的に活動を停止させ、この下に封じ込めたのです」
「情報、生物……ね」
ふと、美香の頭に、先ほど一穂から聞いた話がよぎる。
「一穂、DE-109の中にいたって言ってたわよね。あんた、ひょっとして……そいつのエサ係だった、てコト……?」
「適切な表現です。『エサ係』と呼ばれる役職ではありませんでしたが」
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
DE-216……本名、宮田一穂。
その異常性は、自らの記憶を『焼き付ける』能力にある。生物に対して行えばその記憶をあたかも初めから自分が経験したことであるかのように感じ、無生物に力を行使すればそれは他者に記憶を伝染させるようになる。
だが一方で、彼ははじめから、デビアンス―――現代科学の上でありえない存在として扱われていたわけではなかった。
彼には生まれつきこの世界が地獄に見えていたのだろう、と、一穂を担当した医師は言った。
一穂には極度の感覚過敏性があり、しかもそれは神経のバランスの異常だけでなく、記憶能力によるものでもあった。一穂の脳は受け取ったあらゆる情報を記憶し、一切忘れることができないようにできていた。それは例えるなら、口を開いた状態で固定させられて、食べ物と称して調味料を直接突っ込まれているようなものだった。心を動かす刺激の全てが彼にとっては害だったのだ。苦しみや痛みのみならず、喜びすらも。
強いストレスゆえか身体機能にも異常が出てきており、どのみち長くは生きられないものと思われていた。ならばいっそのこと、『その通りにしてしまおう』と、親二人は思ったらしい。
けれど死んだのは彼らの方だった。車でホームセンターに行く途中、未だ野放しにされていた怪異の攻撃に巻き込まれたのだ。
生き延びた一穂は保護され、今彼らのいる地下施設の主……WSO (World Standardizing Organization)の下で養育されることになった。
怪異と向き合う者たちの世界に、彼はやってきたのだ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「かつて、WSOの方針は今とは異なっていました」
一穂の目は、ついにその姿を見せたDE-109に向いていた……まだ、モニターの向こうだ。けれどあと二つ扉をくぐれば、同じ部屋に入ることになる。
「あらゆるデビアンスを組み伏せ、解明することこそが至上命題とされていた時代がありました。そのためであればどんな行いも―――自らを、あるいはWSOの中の誰かをデビアンスとすることさえも許される、とされていました」
話しながら、一穂はモニターの下のコントロールパネルを操作する。なにもかもわかっているらしく、手つきには迷いがない。
「WSOに入ってから、僕は真っ白で刺激のない部屋に、栄養補給用のプラグに繋がれて生かされていました。今にして思えば、恐らく僕に利用価値を感じたからそうしたのでしょう。僕の神経の異常は既存の科学で説明できるものであったため、当時の僕はまだデビアンスですらありませんでした」
美香も昭も実も、何もせず聞き入っていた。一穂の身体のことは聞かされていても、過去まではまだ知らなかったのだ。
「僕は完全に制御された環境の中にありましたが、ある日違和感を感じました。何かが、僕に対して引力を働かせているのがわかったのです。直後にエージェントが入り、僕に麻酔を打ち込みました。後で知ったことですが、この時DE-109が脱走し、僕のいた部屋のそばを通過していたのです」
「ディ、DE-109が、あなたを求めたってこと……?」
「その通りです。今も、これは僕を呼んでいます。ここまで近づいたらわかるのです」
コントロールパネルから手を話し、モニターを指さしながら一穂は言った。
横の扉―――DE-109を収容する部屋に続く入り口が開いていた。
<試遊会 その6(最終回)>
DE-109が、濃いピンク色の巨体を四人の前に晒している。
まさに、人間の子宮だった……もっとも、一穂以外はそんなもの生で見たことはなかったのだが。それが、ありえない大きさで、八角柱状の巨大な部屋の中心にケーブルで吊り下げられ、辛うじて電源が生きていたらしいライトで下から照らされている。
肉肉しいその物体は全体から蒸気を発し、空間を重苦しくしている。匂いも、耐えがたいほどではないがきつい。口の中が酸っぱくなってくるような感覚があった。
周囲にはドーナツ状に空中通路が設置されており、DE-109とそこを結ぶ橋もある。ほかの三人が動けずにいる中、一穂はためらいもなくDE-109に歩み寄っていく。
「……ただいま」
声が届いたDE-109はすぐさま活性化し、貪欲に一穂を求めた。ぶくぶくと細胞が膨れ上がり、不格好な触手のようになって絡みつく。
「一穂!?」
美香が真っ先にアサルトライフルを構えるが、一穂は制止した。
「撃たないで。僕が意思疎通をします。待機していて下さい」
その声は穏やかなものだった。
一穂は徹底的なまでのポーカーフェイスではあるが、真に危機感を抱いた時にはどこかしかに表れるのも三人はよく知っていたのだ。
不安げな三人の前で、一穂はDE-109に抱き寄せられ、内側に呑まれていく。
「皆のことを伝えてきます」
その一言を最後に、一穂はもう見えなくなった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
原始の海があった。
深淵から吹き上がる熱水が、一穂の身体を暖める。
周りに、細長い風船のようなものが浮いていた……産まれたばかりのバクテリアだ。一穂はこれと同じくらいの大きさに縮小されているのだ……いや、それどころかバクテリアと同じ形になっていた。自意識はそのままで。
後にストロマトライトとなって今もこの世に残る菌たちが光合成を行い、星に酸素をもたらしていく。
時間のスケールが縮まっているようだった。単細胞から多細胞への変化が、みるみるうちに巻き起こる。
複雑化したそれらは、もはや喰らいあうしかない。あるものは栄え、あるものは滅びた。自然とは、かくも残酷なものか。
肉食獣の牙が獲物に食い込む時、一穂は痛みと熱と、血の味とをいっぺんに味わった。
大地を駆けながらも彼は泳ぎ、飛んでいた。
大きくあると同時に、小さかった。生きていると同時に、死んでいた。
何京や何垓では足りぬほどの、世界に存在するあらゆる細胞の感覚が、一穂の自意識に注入されていた。
到底言語化することなどできないほどの混沌が彼をかき回していた。
それでも、『宮田一穂』であることをやめられはしない。
「……おそろしいか」
ふと、女の声がした。重々しく、しかし柔らかい、毛布のような感触の声が。
「やはり、世界はおそろしいと、思ったか。わたしとまぐわい、一つになりたいか。のう、愛しき子よ」
姿は見えない。しかし、一穂は裸にされて、全身を甘ったるく舐め回されているように感じた。
が、そこまでされても全く動じないほどに彼の人間性は抑制されていたのである。
「こんなにも心を抑え込んで、かわいそうな子。抑えなど、いつかは効かなくなるというのに」
そんなはずがないと言わんばかりに、一穂は表情ひとつ変えることがない。
「ああ、この帽子がいけないのだよな。こんなものは取ってしまえ―――」
しかし、一穂はニット帽を右手でおさえて、答えた。
「あなたと一つになるのは、もうしばらく待って下さい。今日はお願いをしに来ました」
すぐには、返事が来なかった……一穂は言葉を続けた。
「今、この施設は危機にあります。もはやあなたに保護していただく他、僕が生き残る術はないでしょう。僕らの外側に三人の人間がいますが、彼らのことも守ってほしいのです」
「三人。たしかにいるが、何者だ。なぜ守らねばならぬ」
少しの不機嫌さを一穂は感じ取った。だが、それで引き下がるものではない。
「彼らは僕の知人であり、僕の存在を客観視できる存在です。僕が僕自身を正しく評価することはできませんし、僕が考える限りではあなたにも無理です。ですが彼らなら可能です」
「なんと。浮気をしようというのかね、ああ、なんと悲しい、わたしではそんなにも足りぬか……」
「……独占するだけが愛ではないのです」
一穂は異能の力を行使していた。
あの、最低限の家具しか揃っていない部屋の中に運び込んでもらってきた無数の創作物から、『二人きりの世界』を絶対視しない愛の形を矢継ぎ早に抽出して注ぎ込む。
「こうやってまた、わたしを強引に説き伏せようというのだね」
「僕を愛するとはこういうことだと、あなたにもわかっていたはずです。それに……あなたは、僕のこと全てを知りたいのでしょう?」
「フゥ……」
ため息の後には、それは何も言ってはくれなかった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「もう、十分くらいは経ったかしら」
美香は一穂を呑み込んだまま沈黙を保つDE-109を見上げている。
中心は確かに膨らんでいて、一穂が中にいるのはわかる。だが、どうなっているものか……
「十分……? え、もう二、三時間くらいは経って……」
反論しようとして実は口をつぐんだ。
今や、何もかもがおかしくなってしまいつつある。あの警備員詰所で思い知ったことだ。
「細かいこと気にするのよそうぜ。もう別な手を探しに行くこともできねェんだろ。俺たちは、一穂とコイツを信じるっきゃねえンだ―――」
呟いた昭は、細かな振動に気づいた。
DE-109は一見して何もしていない……と、観察する間にも揺れは強まっていく。
さては、いよいよこの施設も隠滅されようとしているのか。三人は覚悟を決めながらも、すがるような目つきを巨大な子宮に向ける。
……その後ろに、どす黒いものが、ちらりと見えた。
「なッ……!」
ドーォッ!!
漆黒の、人の脚を持つムカデ―――あの皆で過ごした部屋に、こんなことがなければ今頃クリスマスのディナーをやっていたはずの部屋に飛び込んできた、デビアンスの怪物である! 現れたかと思うとすぐさまDE-109を跳び越えて、三人に襲いかかってきた!
「追っかけてきたのッ!?」
美香は一旦下ろしたアサルトライフルを構え直し、引き金に手をかけた! ダダダダダン! 弾は黒いムカデの表皮を穿つが、そのまま呑み込まれているようでとても効いているとは思えない。
「チィーッ!」
ムカデが自分の立つ足場に頭から突っ込んでくるのを見て、美香は横っ飛びをした。ゴォォーッ。ムカデの勢いが風を起こし、彼女を煽った……それなのに、相手は実体などないかのように、足場を突き抜ける!
下へと抜けた敵は、一旦見えなくなった……
「昭ァ! 後ろ!」
「アッ!?」
グォーッ!! 壁面の一つからムカデが飛び出し、昭の脊椎を一口に喰らおうとかかっていた。
「ンのォ!」
足でスピンをかけ、後方を向いた昭の目には、ありえないほどに開かれた黒いアギトがあった―――そこへ、手榴弾のピンを抜き、放り込んだら、滑るように倒れ込む!
ドゥッ!!
「昭!!」
「しーてやったりだァ!」
仰向けの昭は、仲間たちにサムズアップすらしてみせた。
黒いムカデは口の中から煙を発し、少しだけ動きを止めたが、どうということもないらしかった……すぐにまた動き出し、四方八方から予測のできない突撃を仕掛けてくる。
たまりかねて、三人とも、部屋の中心へと叫んだ。
「早くしろォー! 一穂ォーッ!!」
が、それがいけなかったのかもしれない。
ムカデの頭が、ふと、DE-109に向いた……そのまま三人には目もくれぬ様子で、飛び込んでいってしまったのだ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「あ、あ、あぁアあエえいアぁイあィぁうぁあいあいえぁえアィィ」
奇声が、一穂を打った……素っ頓狂な叫びが彼の精神の中で増幅され、反響し、無限に膨れ上がっていく。
周りの光景も狂い出す。生物の進化、個体の生きた時間……マクロ的、ミクロ的な過去の全てを映していた世界は混沌に変じた。あまりにも無秩序な進化、増殖……理性、本能さえもかなぐり捨て、道理に合わない形状の身体で乱痴気騒ぎをする、生き物らしいナニカ。
「いけない……」
一穂はまた異能の力を行使した。彼の中のホメオスタシスが投影される。見える世界に意味を取り戻させるために。
放たれた記憶がカオスと拮抗し、周囲は混沌としたまま秩序立った―――
そこかしこに蔓延っていたありとあらゆる無秩序に、既知の姿形が与えられていく。
生きる本能は、鎧のような鱗をまとったトカゲの形に。
死への欲動は鎌を持つ髑髏に託され、平和を携えた鳩は業火に焼かれて堕ちていく。
向けられたナイフと銃口、それだけで空を舞う吸血鬼の牙、悪意を持ったエイリアンの船は、いま明らかにここに接近している外敵のものである……否、本来一穂にとっては、ここにある全てが害なのだ。ただ、自意識を極限まで抑制したことにより、どうにか共存してきただけだった……
四方八方見渡す限りに蠢く異形の獄卒どもの暴力を一身に受け、六千度を越える灼熱に炙られる一穂は、さらに首に縄をかけられ、たった一つの拠り所たるその異常な脳への血流を絶たれつつある。
まさしく、それは、地獄の有様だった……
だが……少なくとも、『地獄』と形容できるものなのだ。何もわからぬ『混沌』ではない。
それだけで、遥かにましなのだ!
苦しみと痛みとを注ぎ込まれ、逸らしようもなく受け止めている、事実……
ただそれだけで、宮田一穂は、確かにここに『在る』のだ!
「一穂!!」
甲高い叫びが、聞こえた……
真紅の空に女の巨人が現れた。青白い肌と髪とを持ち、血の涙をどくどくと流している。
「一穂、一穂、狂ってしまう! わたしは狂ってしまう!!」
おぞましい毒虫が女の裸体に巻き付き、そこら中に噛み付いていた。
毒はあまりにも速やかに周り、彫像のように美しい彼女の身体を醜く腐らせていく。
「ああ、一穂! わたしを救いたまえ! 救って……救いたまえ!!」
やっとの思いで女は手を伸ばす。一穂に向かって。
「……救いましょう」
血の気が引いていく顔を、一穂は女の手に向ける。
「―――だからあなたも、僕たちを救って下さい」
延べられた手を、一穂は取った。
せめぎ合っていた全てがその中に吸い寄せられ、何もわからなくなった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
そして、気づけば彼は、イバラシティの地で目覚めていたのだ。
あの日から早くも数ヶ月が過ぎようとしていたが、未だに彼はツクナミ丘陵の展望台の傍で寝泊まりしていた。
ここからの日の出も、見慣れたものになりつつあった……もっとも、一穂は一度見ただけでまったく現実の通りに思い出すことができたのだが。
とっくに寒くはなくなったけれど、ここの気候が日本と変わらないのだとしたらそろそろ雨の時期である。いい加減テントでも用意しなくてはならないが、なにしろ金がなかった。
ここに至るまで、住所不定の身でも利用できるものをとにかく利用しつくし、やっとのことで生活できていたのだ……スタンプラリーに出て景品をかき集めたり、怪しいところに潜り込んでガラクタを集め、同じくらい怪しい店で売りさばいたり。そんな日々だった。
それでも、心折れることはない。
この世界を出る術を見つけ出し、WSOに帰還する。ただそれだけが、一穂の全てなのだ。
たとえ、何もかもが既に失われていたとしても。
一穂は今日も丘陵を降り、異能者たちの街の中に紛れていった。