「騒乱イバラシティ」日記

1-4

<その1>

正方形の島一つをまるごと都市としたイバラシティ。

その十六区画の中でもっとも賑やかとされるツクナミ区の町並みが、黄金色の光に包まれてある。


波をまぶしく輝かせる海。その少し手前から悠々と影を落とすイバモールツクナミの本館ビル。今ごろ中では、従業員たちがせわしなく開店の準備をしていることだろう。

枝分かれして伸びる水路が、一つの区にすぎないこの地域をさらに分割している。かつては運河としても用いられたのであろうそれらは、トラックの類が一通り行き渡ってしまった今となっては単なる区切り以上のものではなくなりつつある。静々と流れる川の内側で白煙を立てるのは、しのぎを削りあうラーメン屋。あるいは、個人経営の小さな店舗も少なくない。それと、川沿いの桜をベランダから見られるのを売りにした住宅も。


たいていの人は、さほど驚きもしないだろう場所だった。その見てくれだけを伝えられたのであれば。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

黒いニット帽を被り、マルーンのジャケットをまとった少年は、そんな町並みを見下ろしながら食事の支度をしていた。

五百ミリリットルのミネラルウォーターのボトルを片手鍋に注いでふたをする。それから無骨な折りたたみ携帯コンロを組み立て、真ん中にアルミホイルを敷いてから固形燃料を置き、マッチで火を灯す。寒さはきつくても風がないのは幸いだった。十数分ほどしてふんわり湯気を立てはじめたお湯の半分をマグカップへ注いだらインスタントコーヒーにし、残る半分にはコーンポタージュの粉を注ぐ。

あとは魚肉ソーセージが一本と、野菜ジュース。ここまでの全ては区内でしか知られてないようなミニスーパーのセールで調達してきたものだ。最後に一斤百円にも満たない食パンの一切れを小さくちぎって、コーンポタージュに放り込む。焼かずに食べるための工夫だった。

この町に家すら持たない彼が、なんとか身体をもたせるためのぎりぎりの食事だった。

彼は、ここツクナミ丘陵の展望台をねぐらにしていたのだ。設置されたトイレはいざとなれば雨風を防ぐためにも使えるし、夜になればそうそう人も来ない、都合のいい場所だった。


少年は早々に朝食を済ませるとバックパックを背負い、ツクナミ丘陵の山道を降りていった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

古びたビルの狭間、まだすっかり陰になっている中へ、若い男が駆け込んできた。

摂氏数度の空の下、上着の一つも着ていない彼は、保温性に優れるインナーウェアのおかげで鈍ることなく走り続けている。対して首から上は、鼻からあごまでも覆うマスクに、サングラス、ハンチング帽。手袋をした右手には、カーキ色の折り畳み財布を握りしめている。

男は時折後ろを振り返りながら走り続けているが、前への注意も怠ってはいないらしい。傍若無人に迫り出したゴミバケツや室外機をかわし、とうとう通路を塞いでしまってすらいるボロソファを踏んづけて大ジャンプ。両足でがっしりと着地をし、男は思わず自惚れた。

が、それが運の尽きだったのかもしれなかった。

ふと、何か柔らかなものが男の脚にひっかかれば、空中で半時計回りをやらせた挙げ句、背中を強かに打ちつけさせたのだった。

「っあいってェ……!」

衝撃で外れかけたマスクから呻きつつ、男は逆さになった大地に、自らを転ばせたものの姿をみた。

ぐにゃぐにゃのたるんだ塊が広がっている。

空気が抜けたビニールの玩具のようでもあったが、それにしては色がどうも不思議だった……薄ピンクの肌色なのだ。おまけに桃色の布のようなものが絡みついてもいる。もしかして、何かいかがわしい物だったのだろうか、とさえ考えてしまう。

そこへ―――バウッ、バウッ!

「ンッ!?」

男は上体を起こして前方を見やった。

T字の分岐路へと続く道の手前で、薄汚れた焦げ茶の犬が立ちはだかっていた……バウ! ワウッ!! まだ何もしてこない男を相手に、わめいている。

「なんだ、野良か……」

それならどうということはないのだ。男は立ち上がろうとした。

が、できなかった。

左脚はくの字に曲がって地面を押しているのに、右はだらりと弛緩したままだ。

バウ! ワウ! ガゥッ!!

犬は、あいも変わらず吠え続けている……

「アァ!?」

突然のことだった。上半身を支えていた左腕が力を失い、男は再び地面に打たれた。

そのまま、左腕は右脚と同じく、ぐったりと動かない。

男は脂汗をたらしながら右手で左腕に触れてみる……それは、あまりにも柔らかすぎていた。


男は、もう一度だけ、後ろを振り向く。

あの肌色の塊……その表面に、毛穴を、認めてしまった。


バウ、バウ、バウ、バウ……

野良犬が吠え続ける。その顔はどこか悦んでいるようにすら見える。

男の左脚が、右腕が―――端から崩れ落ちるように―――舗装のもとへ吸い込まれていく。


「―――アッ、いたッ!」

甲高い声がスッ飛んできた。

その主は前方のT字路の左側からきて、黒いニット帽を被り、インディゴブルーのジャケットをまとった少年だった。

「そこのォ! 財布!」

まだ声変わりしたての少年の叫びが路地裏に響く。

尻尾を振るいながら吠えまくっていた野良犬は、振り向くと、喉を鳴らした。

―――ウゥーッ!

「返して……ッ……!?」

少年は思わず足を止める。

つんのめりながらも踏みとどまれたのは、その脚にまだ芯が通っていたからだ。

―――ウゥーッ、ブルル……!

が、犬のうなりを前に、少年は進むことができない。踏み込んだ脚が音叉のように震え、それ以上の動きを妨げている。

「たっ……た、た、す、け……てェ!」

男の悲鳴が少年には聞こえて、犬の向こう側にも目を向けさせる。

仰向けになった男。四肢はだらりと投げ出され、ゴム人形のようにぐんにゃりとしている。

脳に規定された形と明らかに異なるそれは、少年に軽く動悸を起こさせた。

さらにその先には、たるんだ肉塊。

「う、ウッ……!」

少年の震えはいまや上半身にまで伝わっていた……しかし不随意でなく、右手を腰のあたりでわきわきと動かしてもいた。

左腕は横へと広げ、背筋を伸ばし―――己をどうにか大きく見せようと試みつつ。

が、野良犬はとうとう頭をあげ、喉をふるわせかかる。


その、まさに、一瞬のうちに。


―――パッ!!

乾いた音が、路地裏に、ひとつ……


犬はビクンと緊張し、振戦をおこしたかと思うと、まもなく横倒しとなった。

血溜まりができたりはしなかった。


驚くひまもなく、少年は駆け寄ってくるものを認めた。

肉塊と倒れた男を避けてやってくる彼は、自分のようにニット帽を被り、暗い赤のあるジャケットをしている。

その両手は小さく煙をたてる拳銃を支えていたが、すぐにホルスターの中に戻してしまった。そのまま、舌を出したまま倒れている犬の近くまで来たら、空けた右腕で抱え上げようとする。

「あ、あの……!」

青いジャケットの少年はやっとの思いで声をかけた。

が、赤いジャケットの少年は振り向きもせず、犬を担いでここを去ろうとしているらしかった。

「そ、そのワンコ、きみのか!?」

返事はない。赤ジャケットの左手は、なにかを探して懐に伸びる。

「そいつのせいなの!? あそこの人、骨抜きにされてンだぞ……!」

必死さを増して訴えかけても赤の少年は動作をやめない。彼の左手はすでに、ジャケットの中から丸いカプセルを取り出していた。白い表面に赤い線が一本走っているのが見えた。

「……応えてよ!! 聞いてンだろッ!!」

腹の底からの叫びが、赤の少年の背中を叩いた。

……そして、力なく垂れる、野良犬の頭をも。


―――グワゥッ!

起き抜けの、ひと吠え!


それは、まっすぐに、赤の少年の踏み込んだ右足首を震わせて……その機能を停止させた。

勢いのままにぐにゃりと変形していくように、青の少年には見える。

それが、確信となった。

犬は傾いでいく少年の腕の中から抜け出ると、再び大地に立った。

そのまま、尻尾を巻いて逃げ去るでもなく……貪欲によだれを垂らして、青の少年に睨みかかっている。

「お、オマエ……ッ!」

何かをしなくてはならない。

青の少年に、あらゆるものの流れが遅くなって思える。

この骨抜き犬に対して、一瞬のうちに、何かを!

「―――フゥゥッ!」

掌を、突き出す!

足元の舗装、左右のコンクリートが、一斉に分厚いほこりを発したかと思うと、とたんに全てが青の少年の手の中へと凝集する。

それは、宇宙のブラックホールがガスを吸い上げる様にも似ていた。

「ツァァッ!!」

ジィンッ!!

金属を激しくこすりあわせたような音とともに、青白い光芒が顕れ、少年の手と地面とを繋いだ。

犬の喉と胴とが、その線分の上に在った……


―――パァン!!

四脚の身体が、鮮血を撒き散らして、炸裂した。


「なんだァ!?」

流血に汚されたビルの住民たちは、ただならぬものを感じて窓を開け下に目をやる。

「ウッ!」

「人が倒れてる!!」

「血まみれだ!!」

「何よこれ、殺し!?」

降り注ぐ悲鳴と怒号。

その中で、倒れたままだった赤の少年は、一度はおさめた銃を握り直すと、転ぶ際に放り出したあのカプセルを撃った。

ブシューッ!!

銃弾で穴の空いたカプセルは猛烈な勢いで白いガスを噴射し、あたりを満たした。

比重は、空気よりも軽いらしい。すぐにベランダで騒ぎ立てる市民も巻き込まれていった。


やがてガスが晴れた時、赤の少年の姿はなかった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

まだ日が登りきらないせいで、路地裏は暗い。


青いジャケットを着た少年は苦しそうに頭を抱えつつ、立ち上がる。

目の前には、小さな血溜まり。その先に、手足がミミズみたいにぐにゃぐにゃになったままピクリとも動かない男と、なにかの塊。

少年は思わず、口元を押さえる。

「な……何さ、これ……ッ!」

心臓が激しく脈打つ。胸に触れてもいないのにはっきりと感じられるほどだ。

そこへさらに、

「人が倒れてる!!」

「あそこ! 血まみれじゃんか!!」

「ひぇッ!? 殺しか!?」

上の住民たちから悲鳴が飛んできた。

そのけたたましい声が、少年の脳をゆさぶった。


―――さっきも、この人達は、同じようなことを言っていたぞ……。


そうとわかったとたんに、少年はその場から駆け出していた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

赤いジャケットの少年は、川と直角に伸びる鉄道橋の下、コンクリートの塊にもたれかかっていた。

すでに日は高く登り、傾きつつあるところだが、人の気配はあまりない。

ここコヌマ区はツクナミ区の北側に位置し、イバラシティの中でも特に自然を多く残した地域として知られていた。

やや南西に位置する『小沼』をはじめとし、ラフティングが楽しめる川もあり、休日にはキャンプ場が賑わう。が、今はほとんどの人が会社や学校にいる時間だ。こんな場所を訪れる者は少ない。


手元には、松葉杖代わりにゴミ捨て場から拝借した物干し竿が二本。それから昼食としたパンの袋と牛乳のパック。

赤ジャケットの少年は疲れから眠りにつき、しばらくは起きる様子もない……はずだった。


「ねえ、きみ……」

そうならなかったのは、あの青いジャケットの少年が、気がつくと目の前に立っていたからだ。


―――なぜ、ここに?

赤ジャケットの少年は、青いほうの少年に鋭く冷たい視線を向ける。

言葉はない。


「……きみは……きみは、何者だ!?」

青いジャケットの少年は、震えながら、問うた。


瓜二つの顔が、向き合う。

<その2>

青いジャケットの少年を前にして、赤ジャケットの少年―――宮田一穂(みやた かずほ)は、何も言わずにただ待った。

あのカプセルの中に詰まっていたガスを吸わされて、なおもその持ち主を追いかけるなんてことができるのは、自分だけのはずだった……なにかを忘れるという、生き物として正常なことができない、自分だけなのだ。

目の前の彼は、ここで偶然に自分と瓜二つの顔をした人間を見つけて―――これだって不思議ではあるのだが今はどうでもいい―――驚いている。それはまあまあ尤もらしい結論だ。

しかし、

「きみ……あ、いえ、その……えっと、病院に行きませんか? その足、あの犬に……やられた、んですよね」

青ジャケットの少年が、善意からの提案をした……それを受け取った一穂の脳はすぐに危機感を増幅させる。この少年はやはりあの『骨抜き犬』のことを―――知られてはならなかったもののことを忘れてはいなかったのだ。

どうしたものか。この場で排除してしまうという手はあったが、それはいくらなんでも短慮すぎる。

それに、目の前の彼がずいぶんと殺傷力の高い『異常性』を発揮して『骨抜き犬』をぐちゃみその肉塊に変えてみせたのを、一穂はわかっていたのだ。おかげで死体をわずか数秒のうちにゴミ袋に詰め込んで、このあたりまで捨てにくるというのを、骨を抜き取られた右脚を引きずりながらやるはめになった。

いずれにせよ、とりあえずは、返事である。

「お気遣いいただきありがとうございます。少し休んだら行きますので、お構いなく」

「そんな、無茶ですよ! あの犬のことだって―――」

青ジャケットは声を張って、不意に黙った。

「―――それに、変なガスが出て、時間が巻き戻ったみたいになっちゃうし……

ここ数日物騒だっていうの、本当なんですね。町のあちこちで突然人が消えたり、戻ってきたと思えば……死んでるか、生きてても身体がどうかなってたり気がふれてしまってたり、って……」

一穂の脳に雷が走った―――人が、消える? 死ぬ? 狂う?

「あの犬だけではないのですか?」

完璧にされたはずの脳にゆらぎが生じて、一穂にそう言わしめた。

「そ、そうなんですよ……! 昨日のニュースでだってやってたでしょ!? カスミ湖で男女が行方不明だとか、変な空飛ぶ生き物が目撃されたとかって……」

昨日。

一穂は脳に、昨日を問うた……が、何も返ってはこない。

心が、虚無を視ている。一様の黒、無音―――脳活動が生み出すノイズが、強引に乱雑さをもたらして、テレビの砂嵐のようにする。

ありえないことだった。

例えば、三百六十五日前の今くらいに食べた昼食は白飯とレバニラ炒めととろみのついた中華風野菜スープだったし……そうとわかったとたんに、スープの色つやだとかレバニラのもったりと口内を支配するような食感だとかさえも感じ直して―――実際に五感にフィードバックさえしてしまうのが、一穂の脳なのだ。

それを、たった昨日のことを思い出せないだなんて、『異常』なのだ……

「だから……病院と、それと警察ですよ。助けを求めましょう? ぼくらだけじゃ、どうにも……」

と言う青ジャケットはすでにまわりにあったゴミを寄せ集め、一穂に肩を貸す準備さえ始めていた。

「あ、すみません……ぼくはクリストファ・マルムクヴィストって言います。K.M(ケー・エム)でいいです。長いから……」

一穂は、青ジャケット―――K.Mに何も言わず体を預け、立ち上がった。


そして、ふたたび己が脳と触れ合った。


「かッ―――!?」

刹那、K.Mを発作が襲った。

喉を押さえた彼は、膝から崩れ落ちてたちまち大地に転がり、振戦とともにのたうち回った。

その腕からするりと抜けた一穂は、松葉杖を草の上に突き刺して転倒を回避する。

振り向かず歩き出すつもりでいた彼は、しかしかすかに、絞り出すような声を聞いた。


青ざめたK.M。その手はあらぬ方向へ構えられ、土埃を引き寄せている。

彼の口が、動いている。


―――『に』、『げ』、『ろ』……


言われるがまま、一穂は逃げた。

ままならぬ足で、ずっとずっと遠くまで。


一穂は、K.Mやらはとんだお人好しらしいと記憶した。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

カスミ区。

コヌマ区の真西に位置するこの地域には、イバラシティを代表する二つの湖の片割れ―――カスミ湖があった。

主に賑やかなのは湖の東側である。特にほとりにある総合公園は巨大な風車が目を引き、駅に近いこともあって毎日多くの市民が訪れる。夜になれば風車がイルミネーションに彩られ、湖の反対側からでもその輪郭を捉えられるほどだ。

そういう場所のはずだったが、今は曇り空の下でどこか寒々しい雰囲気を漂わせていた。


あれから数日。

一穂は二本の足で歩き、公園の貸しボート小屋を目指していた。

「あぁ、お客さん?」

途中、分厚いジャケットを着て清掃をしていた初老の女性が一穂に声をかけてくる。

「ボートでしたらね、お休みですよ。ってか湖にも近づかないほうがいいわね……

ニュース見ました? 湖の上だけじゃなくて、端っこにいたってだけの人まで消えちゃった、って……それがちょうどあたしの息子と同じくらいの歳の人だったらしいんですよ、もう思わず電話しちゃったわ……」

「お気遣いありがとうございます。気をつけますね」

後はもう自分のことを吐き出していくだけだったろう女性を軽くあしらい、ついでに進路を変えるフリをする。

順路を外れて道なき道より、改めて一穂はカスミ湖に接近をする。途中、警察が張るようなテープらしいものも見かけた。


木々の間から見える水面は、暗く、穏やかに凪いでいた。

<その3>

どんよりとした空の下で静まり返っていた空気を、ふと誰かの声が揺さぶる。


「―――覚悟はあるんだな。ま、こんなことをしちまうくらいだもンな」

「―――あなたこそ。命知らずだなんて言われても、言い返せないわよ。まあ、せいぜい気をつけなさい」

その凛とした声が流れてくると、岸辺でかがみ込む一穂の心拍は、ほんのわずかに乱れた。


ほどなくして、会話を交わしていた二人の男女を乗せたボートが、小屋とは別な位置から現れる。


片方の少女は、一穂のよく知る人だった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

この少女、川野美香(かわの よしか)は一穂と同じく十四歳ほど。青っぽく染めた毛をボブカットにしておきつつも、マゼンタのトップスをまとってコントラストにしている。

相方はもう少し年上らしい角刈りの少年で、上半身のボリュームはひと目で体育会系の人間だと思わせるだけのものがある。彼は美香の代わりにオールを漕いでやっているのだが、それはより力があるから、というだけではなかった。


「最後に行方不明者が出たのは、ここから方位2-1-0、1キロばかし先の岸辺だな。つっても三日前の話だ、あんたの言うことが間違ってないんなら……」

「どこがヤバいかわかったもんじゃない。だから、あたしの力が要るんでしょう?」

ボートは、不自然なほど波紋を起こしていない……まるで、水面を文字通り滑るようにして進んでいるのだ。そんな凪の湖を、美香はじっと見つめている。ボートの上に立ったままで。

鏡でも持ってくりゃよかったかね、とつぶやく角刈りの少年は、ふと、

「お。ちょっと、あっち」

と、目を脇に向ける。

「ああいうの、探しゃいいンだよな?」

少年の視線のずっと先では、何やら水鳥達が蠢いているようだった。

美香も同じ方に目を向けて確認をすると、

「双眼鏡ある?」

「まあ……」

「借りるわよ」

美香は少年のものらしいバッグの開きっぱなしの口に手を突っ込むと、黒い双眼鏡を取り出して水鳥の群れを拡大する。

どうやらいるのはマガモで、求愛行動の最中らしい。雄のマガモたちが頭をリズミカルに上下させて水面を打ち、雌にアピールをかけている。

その数は、百羽どころではないかもしれない。頭を緑に染めた大勢の雄たちがせわしなく動き回る様は、砕いたエメラルドをふるいの上ではね回らせているようでもある。

「近づいて」

少年は、美香の指示に巧みなオールさばきで応え、ボートを進めていく。やはり波は起こらなかった。

ほどなくして、マガモたちの様子を肉眼でも捉えられる距離に至った。

「これさァ、人間で例えると―――」

「……バカ言ってる場合じゃないわよ」

雄どもの求愛のディスプレイはますます激しくなるようだ……美香には、単に近づいたからそう見えるというだけではないはずだとわかっていて、それが緊張をさせている。ボート脇の水面を凝視する彼女の表情は、角刈りの少年からはよく見えない。

パシャパシャパシャ……雄のカモたちはひっきりなしに首を振り、水面を波打たせる。人間の目からすれば明らかにやりすぎで、雌の側も「引いて」いるように思えなくもない。

「こいつらポロって首取れたりしねえか」

少年は淡々とジョークを飛ばしてみせたが、

「今は目ェ使って。口じゃなくて」

美香はつれない返事をする。

しかし当の彼女自身の目はカモたちではなく、奇妙に凪いだボートの周辺に向いていた。


バシャバシャバシャ……

鳥たちが作る円い波紋が、水面に広がる。あるものは打ち消しあい、あるものは重なり合う。


バシャバシャバシャ……

波紋が、広がる―――


ふと、そのうちの一つが凪の中を抜けて、ボートの横っ腹を撫でた、その時だった。


グワンッ!!

ボートが突然、大きく傾いだ。


「うぉッ!?」

「来た!?」

角刈りの少年は身を縮め、美香は即座にかがみ込んでこらえる。そのまま彼女は、ボートの底に置いてあったクーラーボックスの蓋を開けた。

瞬間、中から、ブワァーッ……白煙が吹きだす。ドライアイスのかたまりが入っていたのだ。

二人は、今このボートを揺らしている者こそがカスミ湖を訪れた人々を消してしまった犯人であると、確信をした!

「エタノール!」

「ホイ!」

ボートの揺れは収まらず、どんどん大きくなる一方だ。

そんな中でも少年は自分のバッグから無水エタノールのボトルをいくつも取り出し、ドライアイスの中に注ぎ込む。

「なんとかなンのかよこんなんでさァ!?」

「あんたが大学行ってりゃ液化窒素頼んでた!!」

クーラーボックスの中身が十分低温になるまでには少し時間がかかって、それまでは持ちこたえなくてはならなかった。

あれほど凪いでいたボート周辺の水面は、今や慌ただしく揺らめいている。ボートが傾くたびに波は起こるし、回数を重ねるほど大きくなってくる。

すぐに、跳ねた水がボートの中にいくらか入り込みだすようになった。

「やっちゃえってンだよォ!!」

「駄目ッ!! 耐えて!!」

しかしボートはもはや四十度以上も揺らされていて、こらえるのも限界が近い。

それでも美香はクーラーボックスを構えたまま踏ん張り続け、荒れる水面を見据え、時を待った。

そこへ、ザバァ!! 背中の側から大きく揺さぶられ、美香は前につんのめる―――

「危ねェ―――」

角刈り少年のゴツゴツした右手が、美香のわき腹をわしづかみにし、引き留めてみせた。

そのまま、美香は―――

「えぇいッ!!」

後ろの次、前方に迫る大波めがけ、クーラーボックスの中身を叩きつけた!


バッシャーッ!!


もうもうと立つ煙の中に、美香は、白く固まったものを見た。

不定形のなにかだが、丸みの大部分は斜め上に向き、放物線運動をいまだに続けている。


降ってくるそれを捕まえられるように、美香はクーラーボックスを構え直した……


だが……ザバァーッ!!

後方から、再度の大波が押し寄せる!


「オブァッ!?」

角刈りの少年は無意識にボートにしがみつき、耐える。けど、それに何の意味があろう? ボートごと転覆してしまったら、終わりだ……


が、ボートは持ちこたえた。少年もである。


……ただ、美香一人が落下し、水中でもがいていた!


「美香ァッ!!」

角刈りの少年が、それを見て叫ぶ。

「逃げて! このことは忘れて……!!」

美香は、何かに引きずり込まれているようでもあった。

「ンなこと……ンなことッ!!」

少年が自分の服を引っ張り出したその瞬間に、美香は水中へと消えた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

美香は、してやられた、と思った。


このカスミ湖に潜む怪物のことを、彼女は知っていた。

怪物は水と同化し、捉えどころのない存在であるが、水面の『波紋』の上にしかいられないらしいことがわかっていた。また『波紋』が大きく激しいほど怪物の力も強くなるのだが、なぜだかその力で人を呑み込もうとする。あの雄ガモたちの暴走も、怪物が『波紋』を作らせるために何かフェロモンのようなものを放ったのかもしれない。

そして美香は怪物が飛びかかってくるところを、ドライアイスとエタノールの組み合わせで凍らせにかかったわけだが、来たのはダミーであり、不意打ちをされてしまったのだった。


上を見ると、ボートの周りはまだ少しずつ波打っているが、さっきほど激しくはない。

美香が軽く念じると、波はスッと消えてしまった―――美香には、視覚によって捉えたあらゆる『波』を『凪ぐ』力があったのだ。イバラシティに住まう者、来る者は、皆なぜだか何かしら不思議な力―――異能を持っている。

この異能を使えば『波紋』の中を動く怪物など抑え込めそうなものだが、力としては相手の方が強かったらしい。


いずれにせよ、怪物は少年の方には興味がないらしい。

かわりに美香の足を掴み、宙ぶらりんの格好にしている……足首から、太ももへ、さらには腰へ。見えない怪物がまるで大蛇のように、冷たい水の身体を絡ませてきているのが美香にはわかった。

このまま最後には首を締め、とどめを刺しにかかるのだろう。


こんな場所で死ぬのか。


―――自分たちなど、いつ死んでもおかしくはないのだとは、わかっていたが。


遠のいてゆく意識の中、美香は視界の隅に、何か赤っぽいものが迫ってくるのを見た。

<その4>

すでに美香の息は続かなくなりつつあった。

あのカスミ湖の『怪物』はそれを知ってか知らずか、その身を締め付け、いよいよ喉に手をかけてくる。

酸素を求める肺のあえぎが、次第に弱まっていくように美香には思えた……苦しみにもピークというものがあるとわかってしまうのは、既に身体から生命が抜け始めている証拠なのだ。

こんな中でも知恵を絞って、抜け出す術を見出すには、齢十四の美香はまだ未熟すぎた。

今の『怪物』は、水の波に依って動き回っているのではない―――人間の身体をとらえるとなれば、そうもできるらしい。もはや美香の『波を凪ぐ』力では抵抗もかなわない。

果てしない坂を転がり落ちていくように、肉体の力が失われていく。

いよいよ、最期と、思われた、その刹那に―――


シャッ!!

何かがあぶくを曳きながら飛来し、美香をかすめて過ぎ去る。


直後、水が激しくゆらめき、美香の身体は投げ出された。


さらに上から、バシャ、バシャッ!!

何かが水面を激しく叩いて、波紋を作り出している。


変転する状況が、意識をにわかにつなぎとめ―――

薄れていく視界の中に、美香は知人・宮田一穂の顔を見た。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「ちきしょう、手遅れかよォ!?」

ボートに残された角刈り少年は水面をオールでぶっ叩き続けている。

波を立てればすぐにでも『怪物』は追ってくるはずだが、それをしないのは、引きずり込んだ美香を貪り食っているからかもしれなかった。

「美香……美香……ッ!!」

角刈り少年が最悪の想像を認めかけたところで……

ザバァーッ。見知らぬニット帽の少年が、上がってきた。その腕に、目をつむった美香を抱いて。

「はェ……!?」

少年が目を丸くしている間に、一穂はボートに手をかけ、細い腕から想像しがたい力で傾けにかかる。

「この人を乗せて下さい!!」

少年は言われるまでもなく、美香の脇に腕をひっかけてボートに運び込みにかかる。

が、自分の力がいらなくなったところで一穂はさっさと離れていってしまった。

「お前はどうすんだ!?」

「距離を―――」

刹那、一穂がグッと水中に引き込まれる……のを、角刈りの少年が左手でひっつかんだ。

「くっそォ……!」

一穂に絡んでいる『怪物』の方が、やはり力が強いらしく、ボートは少しずつ傾いていく。

しかし、時間を稼ぐには十分だった。

一穂は浮かんできた自分の鞄に手を突っ込み、フォークを取り出すと、

「ぱッ!!」

気を吐きながら自分の腰近く、水でできた『怪物』の身体へ突き刺した。

ゴポォッゴボゴボゴボッ!!

また、水流が激しく乱れる。

振り回される一穂を、しかし角刈り少年は決して離さない。

ボートがひときわ傾いたところで、エイッと力を込め、反動で引きずり上げてみせた。

「ハァ、ハァ……何やったンだ……!?」

角刈りの少年がさっそく尋ねてきて、一穂は考える。自分はむやみに身分を明かすべきでないと記憶しているが、ここから『怪物』に対処していくには協力が必要だ。

「ぼくの異能は物に『記憶』を焼きつけ、それを介して他の生き物に伝えるものです。

今ぼくを捕まえたやつに、フォークを通じて強烈な『記憶』をくれてやりました。ひるませはできましたが、すぐまた襲ってくるでしょう」

「あ、あぁ……どうすればいい?」

角刈り少年は思わずすがっていた。そうしてしまうほど、一穂は冷静に見えたのだ。

「広い水場にいる限り、やつは無敵です。殺すこともできない。

どこか狭い場所に誘い込んで、封じ込めるしか……」

「狭いトコ、か……」

そこへ、グワンッ! ボートが再び揺さぶられた。

「ギャッ! 戻ってきたぞォ!?」

揺れはだんだんと大きくなり、このままでは転覆も時間の問題だ。水に落ちてしまえば遅かれ早かれ『怪物』の餌食になってしまう。

「クッ!」

一穂は、今度は箸を手にして、『怪物』がいるであろうところに狙いをつける。

パシャッ!!

「っ、いいぞ!」

「いえ、手応えが浅かった……むこうも学習しているんだ。

それに、一度『記憶』を焼きつけたものは再利用ができなくなるから……いつまでもこうしちゃいられませんよ。

あなた……異能は?」

「おれ、のは……」

角刈りの少年は、明らかにためらっていた。

だが、『怪物』は待ってはくれない。ボートの揺れはおさまらず、波紋が拡がっていく。美香もまだ目覚めないから抑えようもない。

……ふと、騒ぎから遠いところにいたカモが何羽か、湖面を飛んでいくのが見えた。

「くっそ!」

飛んでくるカモに合わせ、角刈りの少年はボートの上で跳躍をした!

二本の腕でそれぞれ一羽ずつ、合わせて二羽を捕らえてみせた。

すぐさま、ゴツゴツした手に、額に、血管が浮かび上がると―――カモたちは突然、数秒ばかりけいれんを起こし、ぐったりとおとなしくなった。

「さぁ来いよ、さっさと来いよ化け物め!」

水面に向かって、角刈り少年は二羽のカモを構える。

その脇には一穂が、鍋を手にしてかがみ込んだ。必要ならそれでもう一発『記憶』をかましてやるつもりなのだろう。

だが―――グオンッ!!

次に来た『怪物』の一撃は、素早く、重かった。

たったの一発で、ボートは……バッシャアッ!! ひっくり返ってしまった。

『怪物』よりも先に、冷たい冬の水が、三人の体を苦しめる。

準備体操などしていない角刈りの少年には、それがことさら応えた。だが彼は、石になってしまいそうな身体に喝を入れ、カモたちを降ってくる水の塊めがけて構え、念じた。

「―――スイッチ・ON!!」

少年の叫びとともに、カモ二羽がくちばしを外れんばかりに開く!

ズォーッ!!

空気が、水が、渦を巻いて、カモたちの口の中へと吸引されていく。

引力よりも先んじて、一滴も残さず……

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

やがて、あたりに静けさが戻った。

角刈りの少年は、水風船のようにパンパンに膨れ上がったカモの二羽をおさえこむように抱えて、どうにか浮いている。その近くには、美香の顔を水面上に保ちつつ、ホイッスルで「SOS」を発している一穂。

『怪物』の気配は消えたが、危機から脱したとはいいがたい。助けが来ないようなら体温がもたなくなって死ぬだろう。

「ライフジャケットも自前で買うべきだったンだな……くっそ、何もかも甘かったんだ……」

角刈り少年は、悔しそうに、哀しそうに、手元のカモを見つめる。二羽とも、ぐったりと頭を垂れて、動く様子はない。

その様子を見つめている一穂が口を動かすより先に、少年はしゃべりだした。

「……おれの異能はな、生き物を機械に変えて、生命のエネルギーで動かすんだ。

使われたやつはすぐ死んじまうか……そうでなくても、大抵助からねえ……」

「しかし、こんなことができるのなら、もっと早くすればよかったのでは?」

一穂は平坦な声で問うた。

「わかってるよ。わかってるけどよ……」

角刈りの少年にとっては、その声は水よりも冷たく感じられた。

「……よしなさい。そいつ……生き方が、シビアなのよ」

ふと、美香の声がした。目が覚めたのだ。

「よ、美香ァ!」

クヨクヨしていた角刈り少年の顔がパッと明るくなる。

「こうしてられるってコトは……済んだみたいね、無事。どうも、ありがと」

「い、いや、でも、このままじゃあ……」

「……あちらを見てください」

一穂が、水平線の方を指差した。

しぶきをあげて、何かが近づいてくる。エンジンの音も聞こえてくるようだ。


三人はやってきた救助のボートに助け上げられ、その危機を脱した。