四城半日記

6~10

<その6>

(PL体調不良のため、実際のゲームではこの回の日誌を書くことができませんでした。以下の文章はゲーム終了後に書き下ろしたものとなります)


暗く騒々しい密林の中、大きな樹を登っていく一匹の蛇がいた。

三角形の頭の代わりに、痩せた女の上半身がくっついた、青い蛇だった。幹に身体をぐるぐると巻き付けて安定させ、それから伸びあがって上に進み、また巻き付いて登る。幹を掴むのに、二本の腕を上手く役立てていた。

彼女は、見晴らしの良い場所を求めていた。

だが、高さの違う樹木が複数の層を成す密林では、別な木に移らねばならないこともあるし、一本に全体重を任せきってしまうのも心細かった。そんな時には、背中に背負った浮き輪から出てくる空色の獣が頼りになってくれる。獣は身体を伸ばして樹に絡みつき、身体を支える助けをしてくれた。

青い蛇女―――クアン・マイサと、その仲間ソライロは、密林で緑の獣が空を舞っているという話を耳にして、自らそこへ出向いたのだった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

一番高い部類の樹木に絡みついて上の方までやってきたクアンは、空を眺めた。この地もこう見えて、広大な地底世界の一地域であるから、偽の空ではある……だがその広がりは、本物のそれと比べても遜色はなかった。

探している相手、トトテティア・ミリヴェがどこかにいないか、クアンはしばらくその場にとどまって見回してみる。鳥たちが木から木へと慌ただしく飛び移っているが、他に空にいるものはなさそうであった。

トトテティアなら、並び立つ木の間でだって飛び回ってみせるだろうが、そうだとすると少々厄介であった。

クアンは染料を使って、頬の紋様と同じ痕跡を樹の表面に残し―――《島》を一緒に探索するときにこういうサインを使っていた―――、それから降り始めた。今度は地面に向かって、身体を幹に巻きつけてから、伸ばして進む……

枝と葉が成す分厚い層を抜けた時、クアンはそこに動くものを見た。獣にしては、揺れの少ない歩き方をしている……もう少し降りてみると、それは人型の何かだとわかった。茶色に緑のバンダナを巻いた、深緑の髪の少年がいたのだ。

追いかけていき、太い枝に絡みついた姿勢のまま、頭上から声をかける。

「ねえ、そこの君、ちょっといい」

クアンは、ほとんど抵抗もなく話しかけることができた。目の前にいる少年が、不思議とただのヒトであるようには思えなかったのだ……具体的に形容してみろと言われれば、彼女は困惑しただろうが、自然と結びついた神秘的な存在であるような気がしたのだ。

「ン、なんです?」

振り返った少年は、明るめの黄土色の瞳をしていた。金色、とするには若干地味な色合いである。

「緑色の獣の子って見なかった? 空飛んでて、大きな尻尾が生えてるんだけど……」

「あぁ、それならここらで見かけましたよ」

瞬きし終えたばかりの眼を、クアンは軽く見開いた。

「えっ」

「ムササビみたいなやつなんですけど、僕の倍くらいはあった気がします……あんなのがいるなんて」

トトテティアはそんなに大きくはない。耳を除けば、少年と同じくらいの背丈だ。これは聞き方が少々悪かったといえる。

「えっと、獣人さん、って言えば判る?」

「ン……そっちは、見てませんね」

「そっか……」

「ごめんなさい、お役に立てなくて」

うつむきがちになる少年に、クアンは一言、良いのと言ってあげた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

植生の調査をやっているという少年は、拠点で休んでいかないかと申し出たので、クアンはお言葉に甘えさせてもらうことにした。互いに名前を教え合ってから、歩き出す。

「ねえ、ウツミは冒険家なの? それとも、学者さん?」

「いえいえ……将来は、なれればなって思ってますけど。それと、僕は孝明でいいですよ」

目指しているのか、と言い損ねてしまう程には、彼は成熟して見えたのである。

特に目印もない森の中だというのに、孝明少年には進むべき道がはっきりわかっているように見えた。足取りも軽く、うっかりすると置いていかれてしまいそうなほどだ。幸い、彼は比較的目立つ植物を見かける度に、その解説を入れてくれた―――自分の発見を他人に語ってみたくて仕方ないという様子はあったが、クアンがはぐれていないことの確認も兼ねていたのだろう。退屈しないという点でも、これはありがたかった。

それほどしっかりしている孝明少年だが、魔王や商戦のことは一言も口にしなかった。お金を使っていなさそうなこともあって、彼もまたこの世界に馴染めなかったタイプなのかもしれない。

しばらく歩いていくと、複数の樹を支えにして建てられたツリー・ハウスが見えてきた。

「あそこです」

孝明少年は、ツリー・ハウスを指さした。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「どうぞ、召し上がってください」

石造りのかまどで火を起こし、孝明少年はクアンにハーブティーを淹れてくれた。ソライロにも果物が与えられた。

「ありがとう、頂くわ」

長い身体を上手く部屋の中に収め、テーブルの前で上半身を起こしたクアンは、出されたカップを手に取った。その液面は、薄く金色の輝きを見せている。

クアンは、お茶の香りを鼻で吸い込んでみた……芳醇な香りをはらんだ蒸気は、鼻腔を通って舌までも刺激し、落ち着いた甘味を発散させる。口をつければ、それはもっと強く感じられる。優しい味わいの中で、クアンの身体は心地よく暖められた。

孝明少年のツリー・ハウスは、本格的な作りであった。隣の芝生は青く見えるとは言うものの、それでも四畳半よりかは優れた住まいに違いないと、クアンは思わずにいられなかった。

八角形の床面の真ん中にはちょっとしたカーペットが敷かれ、その上に木製のテーブルが乗っていた。これとは別に、北側の壁に張り付くような形で机がもう一つあり、そこには学術書や白光りする鑷子、円盤状のケースや顕微鏡―――アル=ゼヴィンのアカデミーで、生物について教わる学生たちが使うものと同じくらいの精密さをもっているようだった―――が置かれていた。その横には、釣竿や網が立てかけてある。もちろんベッドも用意してあった。

先ほどのカマドは地上に構えられた炊事場に用意されており、手作りの燻製器や、流石にどこかよそで手に入れたとしか思えない包丁やフライパンもあった。滑車を使った仕掛けも設置されており、下で作った料理をツリー・ハウスの中に運び上げることができた。

ハーブティーを呑み下したら、お茶請けに出された菓子―――クッキーだ。何故だか孝明少年の顔を模したものになっている―――を一齧りする。あまり砂糖を使っていないようだが、香ばしさのおかげで、味気ないとは思えない。

「ここには、一人で?」

「まあね。相方はいたんですが、ずうっと前にはぐれちゃって」

孝明少年はちら、と部屋にある棚の方を見る。そこには写真立てが一つあり、オレンジの髪の少年と今ここにいる彼を映したものが入っていた。

「相方、か……探してて?」

「そうだけど、この世界には居ないかもしれませんね。時々森を出て、聞いて回ってもいるんですが。そもそもあいつとはぐれたの、こことは別な世界なんですよ」

「随分あちこち旅していたのね」

「ええ」

そうだと思えば、いろいろなことに合点がいく。落ち着いた物腰、自然に対する深い理解……彼は幼いながらも、多くの経験を積んできた人間なのだろう。

けれど、そんな彼も自分と似たような問題を抱えていると知ったクアンの眼には、ほんのりと同情の念が宿ってもいた。それは、孝明少年にも伝わっていたらしい。

「さっきの緑の獣人さんっての、お知り合いなんですか?」

「ええ、トトテティア・ミリヴェというの。ドジで、可愛らしい子」

トトテティアのことをできる限り短く言い表すのに、クアンは何故だか小さな喜びを覚えた。

「孝明の相方さんって、どんな人なの?」

「ン、直樹ってヤツなんですけど……ちょっと、失礼」

孝明少年は立ち上がり、先ほどの写真立てを持ってきて、テーブルに置いた。

直樹とやらの特徴が、よりはっきり見て取れた……孝明少年に比べると肌の色が濃く、身の丈も高く、筋骨も逞しいようである。

「強そうね」

「そりゃあもう。前向きで、パワフルなんです。旅してて、僕はあいつに助けられてばっかりだった。挫けそうな時に支えてくれたのもあいつだった……」

彼の述懐に、ふとクアンはトトテティアのことを思い出す。

自分にも、彼女の明るさや馬鹿さ加減に救われてきた面があるのは、認めざるを得ないのかもしれない……そうだとしても、それにすがる気はなかったが。

「今もきっと、あいつはどっかで生きてます」

「信じているの?」

「ええ……それは、あいつも同じだと思う。だから僕も、強くあらなくっちゃなって。いつかまた、あいつに会える日まで……」

そんな風に言い切ってしまえる関係であることを、クアンは内心、少し羨ましがってしまっていた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

帰りは、孝明少年が案内をしてくれた。

彼には本当に森の全てがわかっているようで、クアンがここに入ってくるのに通った崖下のほら穴まで、まったく正確に導いてみせた。

「トトテティアさん、見つかると良いですね」

「あなたの相方さんも、ね」

孝明少年は小さく頭を下げ、ありがと、と言った。

「どっかで会ったら、またよろしくね。さよなら……」

クアンは背を向け、穴の中に消えた。

その後もしばらくの間、彼女はこの不思議な少年のことを忘れずにいた。

だが、結局この後―――少なくともこの世界においては―――、クアン・マイサと宇津見孝明が出会うことは、二度となかったのだった。

運命のいたずらがそうさせたのか、あるいは彼の方が一足先にどこかへ去って行ってしまったのかもしれなかったが、いずれにせよクアンには知る由もなかった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

○今週の未知との遭遇

『《ジャングル・イン・アンダーグランド》 』(建築/徳/迷宮)

散策中のクアン・マイサが訪れた場所。

ダンジョンの中でありながら偽の太陽によって照らされているエリアの一つだが、木が光を遮っているため、あたりはうす暗い。地形は複雑に入り組んでおり、まさに天然の迷宮といった様相である。生物種の宝庫でもあるため、興味があるならば観察に行ってみるのもいいかもしれない。

なおこの近辺で、ツタ柄のバンダナを被った人間の子供が何度か目撃されている。魔王たちの敵に回るつもりはないようだが……

<その7>

ソライロとは間違いなく仲良しだが、トトテティア・ミリヴェとはどうなのか、と問われると、クアン・マイサは少々言葉に困る。

可愛いやつだ、という印象はあった。立ち方の違いを計算に入れても、トトテティアは小柄な方に見える。それであちこち出っ張った丸っこい身体つきとくれば、愛くるしくもなるものである。

中身だってそうだ。ナメないでほしいと口では言いつつ、顔がほころぶような事ばかりする。《島》の探索でドジをやったのも、一度や二度ではない。浮かび上がった拍子にどこかにぶつかったり、罠にはまって情けない姿を晒したり……キャンプを張った時に、テントの中で尻尾を抱いて丸まっているのを見ることもある。

たまに《島》から持ち帰ったものに高い値がついたりしたときは、真っ先にお祝いのことを考えだす。クアンを飯屋に連れていき、大人しい彼女を放っておいて暴食の限りを尽くし、しまいには豊満な胸がおまけに見えるほど腹がまん丸く膨れあがって、歩くのも億劫になってしまい、宿に向かって引きずられていく。クアンの細腕にはトトテティアの身体は重すぎるが、ベッドに横たわる姿は、狩りを上手くこなせた肉食獣のようで心底幸せそうだった。見ていれば、癒されもする。

トレジャーハンターとしてトトテティアはライバルでもあるが、そう扱うには少々仲良くなりすぎた、ともクアンは思う。あの初めての冒険では屈辱を味わわせたが、それからは何かと一緒になって、逆に助けられたことも少なくはなかった。《第二十八の島》に入るのだって、彼女なしでは駄目だった……ということはないが、それなりの金を払うことになっていただろう。

それでも、彼女がいてくれなければ……とまで、思うことはない。厳密にいうならば、そういったことをクアンは自分自身に許していない―――親にすら裏切られたと思っていれば、すがる相手を持ちたくなくもなってしまう。けれど、それは結局単なる恐れでしかないから、彼女だけは助けて、アル=ゼヴィンに帰ろうなどとも考えるのだった。

今日もクアンはトトテティアを探して、ダンジョンの深層を彷徨っていた。これまで、行ける限りの範囲で聞き込みを続けてきたのだが、全く何の手がかりも手に入らない。

そうなると、彼女のスタート地点は自分のより、ずっと離れた場所である可能性が高い……何か術に頼る必要があると判断したクアンは、とある場所を訪ねてみた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「形のあるモノ持ってりゃあ、人探しなんざどうとでもなるンだがね……」

フードで頭を隠した老婆は話こそしてくれたが、大釜をかき混ぜるのに集中している。

「生憎ね。どっかで尻尾の毛でもむしっとくんだった」

ため息をつくクアン。

「この迷宮は複雑すぎるのさ。イメージだけで探し物すんのは無理ってモンだよ。大方、私なら何とかしてくれンじゃないかって、こんなとこまで来たんだろうが……」

「ええ……ごめんなさい、大事なお時間を頂いてしまって。もう、失礼しますね」

最後までろくに目線を合わせぬまま、話は終わる。

クアンが後ろのドアを開けて外に出ると、星のない闇の下、あらゆる色の灯りがそこら中にゆらめくのが見えた。ここは魔法使い―――ウィザードやウィッチたちの集う集落であった。

あの老婆のいた塔を降り、光に彩られた通りを進む。もう昼飯時になっていて、ここに来る前よりも辺りは騒がしかった。色もそうなのだが、音や匂いも混沌としていて、うっかりすると目を回してしまいそうなほどだ。

人通りも多い。駄弁っている者、脇目もふらずに目的地を目指す者……概ねみんな自分自身か、でなくてもせいぜい気の合う友人のことくらいしか考えていないように思える。こんな世界だからか。

そんな喧騒の中でも、両手に提げたブルー・トーラスから視線がくるのがクアンにはわかる。

「……そうね。次行く前に、どっかでご飯にしましょうか」

ソライロはあまり餌の種類を選ばないペットだったから、好きなところに入って、一緒に食事をすればいい。クアンは、行きがけに目星をつけていた魚料理の店に向かう。街の辺縁の崖に張り付くような形で、それはあった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

隅っこの方の席で、クアンはメニューをぱらぱらとめくる。中には生食の料理も少なくなかった。こんなところにも探せば海はあるらしい……あるいは、虫がつかない魚でもいるのだろうか。

目についたのは『地底海の幸と野菜のオイル煮込み』なるものだった。白身魚と貝を、濃厚なエキスを出す各種の実と酒で煮込んだ料理らしい。クアンは故郷にいた頃、家で自分の世話を任されていた使用人が、時々こんなものを作ってくれていたのを思い出した。特に好きな献立の一つだった。

中は騒がしかった。でも、どうせ連れはソライロしかいない。ウェイターと勘定係のことだけ気にしていればいい。何か、事が起こらない限りは……

「おいタック、今日もお前のおごりだからな、わかってんだろうな」

ドスの効いた声がどこかから聞こえてくる。ボトム・アップ的注意に任せてそちらを向けば、大男が一人いた―――格好からして、一応ウィザードらしい。

「わ、わかってるよ……払えば……いいんでしょ」

声が出切る前に、哀れな少年タックは大男のでこぴんを浴びてひっくり返った。男の腰巾着と思しき輩が、それを見てケラケラ笑う。

よくある、若人たちの光景だった……クアンはあまり見たことがなかったが。彼女が通っていたアカデミーには他者を弄んで暇を潰そうとする輩などそうそう居なかったのだ。真剣に夢を追っている者と、好きなことだけしている変人と、入学試験で気力を使い果たしてそのまま怠惰にのまれた者とが大半を占める、居心地のいい学び舎だった。

「つべこべ言ってねえで、さっさと金出しやがれッ―――」

大男が左の手でタック少年の胸ぐらを掴み、右の手でぶん殴ろうと迫る。無論クアンは全く動きもせず、ウェイターを待っていた。強い者も弱い者も両方いるのが、世の道理というものである。

その時であった。店内の壁から煙が上がり、ドーッ! すぐに、何も見えなくなった。床も揺らめき出し、そこかしこから悲鳴が上がる。

「ソライロッ」

命じた時にはもう、身体が宙に浮きあがっている。ソライロはとりあえず天井に伸びあがり、その牙を突き立てていた。彼だけは素直に信じられる……クアンは移動をソライロに任せ、砂煙の先にある一対の緑の光に目をやった。

ガガガーッ! 闖入者はすぐまた踏み込んできて、さらに店を崩す。煙の中からその姿が見えてきた。トカゲのような頭だが、兜のようなものを被ってもいる。人を一度に三、四人は呑んでしまえそうな大きさだ。その先の胴体は、どこまで続いているかもわからない。

客もスタッフも叫びをあげながら、逃げまどう。

「ワームのでかぶつだぁッ」

「渡りのコースにされちまったんだッ、この街が……!」

そういうことならまあ仕方がないと、クアンもさっさとこの場を去ることにしたが、なにぶん逃げ道が見つからない。

ワームとやらはとうとう穴から飛び出し、店の反対側―――入口のほうだ―――の壁をぶち破って、魔法使いの街の中に繰り出していった。その身は相当に長いようで、しばらくの間避難路を遮り続ける。

あの大男と取り巻きと、タック少年は外に出られたが、むしろ不運だったかもしれない。飛び出した頭に追われ続けるからだ。

さっきは奪う側と奪われる側だった三人も、この怪物の前では平等に逃げ回るほかなかった……いや、こんな時でも、力の差というのは現れるものである。腰巾着の少年が、目ざとく物陰を見つけると、大男を引きずり込んだ。タック少年も、そこへ飛び込もうとするが……

「お前はオトリだっ!」

ドッ! 彼は蹴り飛ばされ、怪物の進路に引き戻された。そうしてまた、走り続けなくてはならなかった。

「死にたくない……ッ」

タック少年は別な避難先を見つけ出すでもなく、世の理不尽を嘆くでもなく、ただ逃げ続けることしかできなかった。体力も度胸もなければ、そうやってじわじわ追い詰められて、殺されるだけである。弱い者はみな、どこかでそれを思い知らされる。

「アウッ」

とうとう、タック少年は転んでしまった。無意識に寝転がって体を起こすと、あのワームが頭をもたげている。

そして、クォーンッ! ひと吠えされて、少年は軽く吹っ飛ばされた。おかげで垂れてきたよだれを避けられたが、だから何だというのか。

「す、すっ、すいは、ッ……」

祈るように、少年は呟きだした。

「す、《水破》、《水破》、《水破》ッ」

彼も、魔法使いの街の一員である。知っている中で一番強い呪文を、縋るように唱え続けた。

影が、タック少年を覆った……

が、ドォーッ!! 迫ってきたワームはものすごい音と共に跳ね飛び、地響きを立てて倒れた。

「……は……?」

何がなんだかわからない。だが、もう危険は去ったらしい。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

その頃クアン・マイサは壁に思い切り叩きつけられ、水と血と肉にまみれていた。手元のブルー・トーラスはぺしゃんこになっている。ソライロは四散して、つぶれた顔が床に広がっていたが、すぐ消えた。

ワームの抜けた穴からは、まだ水が流れ出ている。ひっくり返った椅子やテーブルが壁の方に追いやられていた……どうやらあいつは、旅の途中で地下水脈を掘りあてて、ここまで引っ張ってきたらしい。渡りではなく、単に逃げてきただけなのかもしれない。

昼飯を邪魔された悔しさはあったから、水脈の力をソライロに与え、ワームに噛みつかせて術でもかけてやろうと思った矢先に、これであった。誰かが、水に反応する術を使ったようだが……

考える余裕もなく、クアンは意識を手放す。最後に見たのは、身体を再構成しながら戻ってくるソライロの姿だった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

○今週のおさんぽ先

《魔法使いのひきこもり処》 』(建築/カルマ/尖塔)

クアン・マイサがダンジョン内で発見し、訪問した塔。

ある魔法使いの集落の中心に立っており、約十数階建ての高層建築。しかも内側と外側の構造が食い違っており、実際のフロア数は更に多い。突起が外壁のそこら中に生えているため、それらを利用して登れる種族なら楽に上まで行ける。クアンもそうした。頂上には集落の長である老婆が住んでおり、何か困りごとがあるなら相談には乗ってくれるが、大抵は相談までである。

実は、壁の中に世界の滅びを乗り越えられなかった魔法使いたちの遺骨が塗り込んである。上記の異常な構造もそのためであるし、また外の環境では発動し得ないような術もこの中でなら使えることがある。魔法に関心があるならば、一度訪れてみるのも悪くないかもしれない。

<その8>

魚料理のレストランの壁で体を起こしたクアン・マイサは、そこに全く誰もいないことに気付いた―――そりゃあ、ばかでかいワームが突っ込んできて大騒ぎになどなったのだから、皆逃げるのは当然であるが、音すらろくにしないとなると、さすがにおかしい。

目を覚ました主に、ソライロはいそいそとまとわりついてくる。

「……タフだよね、君って」

クアンも、弱ったそぶりは見せない。ほっそりとした腕で飛び込んでくるソライロを迎え入れつつ、その身体がブルー・トーラスの開口部に伸びていくように誘導をする。ソライロもちゃんと応えて、ぺしゃんこになった青い輪にするりと流れ込み、みるみるうちに膨らませていった。

「行きましょう……あんまり、ここに居たくないわ」

形と張りを取り戻したブルー・トーラスを手に、クアンは来た時よりもずっと広くなった店の入口を抜ける。

その先で、彼女は目を見張った。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

あれだけそこかしこに、様々な色で灯っていた魔力の火……それら全てが個性を失い、ただ白く、ぼんやりと輝いていた。それに照らされる街並みは、灰色である。ワームがなぎ倒していった跡を追いかけてみれば、その先で黒く巨大な塊を見ることになった。

人の姿は、どこにも見えない。

クアンはほんの少し戸惑ってから、すぐに先日の出来事を想起する……あの日、自分はあろうことかこの地底の国でどこまでも広がる青空と草原を見つけ、しかしそれはある男の見る夢であり、本当の姿は色と時間が失われた世界であった。忘れもしないことだ。

この街もまた、現に出でし夢であったというのだろうか……ただそうだとしたら、外に出ることは難しくないはずである。端まで進み、そこで目が覚めるのを待てばいい。

クアンは、街に入る時に通ったトンネルを目指して進んでいくことにしたが、その途中、聞き覚えのある声に引きとめられた。

「おやァ、この間の……蛇の嬢ちゃんじゃねえか」

例の草原でクアンが世話になった、あの小男である。

「また会ったね……それよりさ。ここも、夢なの? あなたの世界の……」

クアンに問われた小男は、首を横に向けて、顔を隠してしまう。

「そうなるな。にっくき魔法使いどもの都さ」

そう言って、男は真っ黒な空に浮かび上がる灰色の塔―――クアンが訪ねたあの老婆がいた場所―――を、見上げてみせる。

「あいつらが、ほんの少しでも自分の欲を、どうにかできたなら……」

クアンは、草原で聞いた話を思い出す。

「魔法使いの実験のせいで、あなたの国は……」

「覚えててくれたか」

男の声が、にわかに高くなった気がした。

「実は、あいつらのことを、おれは少しだけ知ってるんだ。話してやろう」

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「人の目に映るモン……いや、目に限らん、聞こえるモンとかも何もかも全部を歪めちまう術を作る……それが、あいつらの研究だった」

「幻覚の術ってこと? ありふれてると思うけど」

「まあその類なんだが……あいつらの入れ込み具合は、普通じゃなかったのさ」

小男は、塔からクアンに視線を戻した。

「お嬢ちゃん、どうしても気に食わんものとか、受け付けないものって、あるかい」

「……まあ、ね」

主に父親の行動が、今でも理解できない。理由は察してみせたが、許せるつもりはない。

「誰だって、見たくもないもの、わけがわからんものってのが必ずあって、どうしても除けようとするもンだ。しかも、そういう気持ちに抗えるやつは、決して多くない。そのせいで、時としていらん争いが起きちまう……お嬢ちゃんにも心当たりはあるんじゃないか?」

「ええ。私のとこでも、珍しい話じゃない」

歴史に残る戦争の多くが、突き詰めればそういう理由で起きてきた……住んでいた屋敷の書斎で、クアンは学んだ。

小男は、また塔のほうを見て語りだす。

「……あいつらはまず、人の目にかける魔法を作った。厭なものを見ちまったとき、それが心に流れてく前に、気にならんように書き換えてから届けるんだ。次に、耳、鼻、舌と、同じような働きをする術を作っていった。神経質なやつらがお札を買ってって、あいつらは一儲けした」

小男はそこまで言って、ため息をつく。

「金持ちになっただけで満足してくれたなら、よかったんだがなア。それが目的じゃなかったのさ、はじめっからよ……」

小男はずっと、クアンと塔とを交互に見ながら話している。

「何がしたかったっていうの、あのおばあさんたち」

「嬢ちゃん、ブリゼビーネに会ったんか……っと。あいつらはな、世の中はうるさすぎるって思ってたんだ……気に入らんものを見たり聞いたりする度に、歪めの魔法を使う。でも、それは結局、きりのないことだ。そのくらいのことは、あいつらも、あいつらに頼ってたやつらも、すぐわかった……」

次に小男が目を向けたのは、真っ黒く広がる天である。

「あいつらは、思いつめて……心がいけないんだって、考えちまった。心を凍らせちまう魔法を作ればいいんだって……ばかげてるだろ……でもな、ばかげたことだって、できるかもしれないって確信があれば、やってしまうことができるのさ」

小男はぐ、と胸に右手をあて、それを見下ろす。

「実験ってのはその時のことさ……術が暴走して、おれの世界そのものにかかっちまったらしい。その結果が、あの灰色だ……灰色が広がるなかで、みんな大騒ぎした。泣いて、怒って、酔っぱらって、狂っちまったやつらは笑ったりもして。皮肉なもんだったよ……」

小男は、さみしげに微笑んだ。

「……気持ちは、わかんなくもないかな」

クアンは、ぽつりと言う。

「だろ」

「ブリゼビーネさんたちの方の」

「おいおい」

二人そろって、少々きまりが悪くなる。

この小男の言葉が―――魔法使いたちが一度は気づき、しかし認めなかった諦めが、世間的には正しい姿勢なのだというのは、クアンにもわかっていた。

厭なことや、気に食わないことから逃げ続けることはできない。それが真理である。だからこそ、変われ、成長しろ、強くなれ……誰もがそう言われ、認めて、大人になることを期待される。

けれど、そうだというなら……いっそ、水にでも溶けてなくなってしまいたい。クアンは何度か、そんな風に思うことがあった。あるいは、もしもソライロがいなかったら……もしも水術士の才が彼女になくて、屋敷の中で暮らしていくしかなかったら、本当にどこかで命を放り捨てていたかもわからない。

欲求が正しく機能していないクアン・マイサは、自分をごまかし続けながら生きるしかない。それはゆるやかな消耗の日々である。だけど、それでも……

「あの塔に入って、研究を盗んで引き継いでやろうとか……そういうことは考えてないわ。このまま、家に帰るつもりよ」

世界すべてを巻きこむとなると、さすがに気が引ける。

「そうかい、それがいいさ」

小男は、今度はほっとしたように暖かく笑ってみせた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

小男は別れ際に、この近くの集落にうまい屋台があるらしい、と教えてくれた。食が細いクアンだが、それなりに空腹は耐え難い。だがそれ以上に、一度力いっぱいバラバラにされたソライロのダメージが大きいはずだった。実際、初めのうちこそ元気そうに振る舞っていたが、今はブルー・トーラスの中でほとんど動かずにいる。何か食べさせてやらないといけないし、それであっさり元通りになるんだろうともクアンは思っていた。

街の入口のトンネルの前で、クアンはそっと目を閉じた。ふたたび喧噪が耳に届き始めたところで、また開く。

そうして振り向けば、来た時のような色とりどりの光景が広がるが、ワームの骸とその通り道はしっかり残っていた……夢の中の世界だとは言うが、それはそれで、きちんと時間が流れていると思える。人々も、ある意味では生き続けていると言えるのだろう。

「ねえ……」

クアンはブルー・トーラスに向かって声を掛けようと思って、やめにした。それよりも今は少しでも早く、身体を癒すことができる場所を見つけなくては。

彼女はトンネルを潜り抜け、入り組んだダンジョンの中へと戻っていくのだった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

○今週のスイーツ紹介

《蒸したて甘味パン》 』(商品/徳/食物)

クアン・マイサがダンジョンのどこかの店で見つけた蒸しパン。

キッチン付きの屋台で作られ、蒸したての状態で提供されており、口に含めば何もかもを忘れさせるほどの安らぎが舌の上に広がる。そればかりか、甘い木の実がサイコロ状にしてトッピングされている。しかも一度ふかすことで味が膨らみ、ホクホクとした食感を得てもいる。まさに心を癒すために生み出されたような素晴らしい食品であるが、あまりにも人気が出すぎたため、取り合いが激しくなり、その使命を果たせなくなってしまった。

人混みを嫌うクアンがこんなものを買えるわけもなかったが、他に美味しいものを見つけることができたので、問題はなかった。

<その9>

出元がはっきりしない情報をむやみに信用してはならないが、それが自分に都合のいいものとあれば、なかなか抗いがたいのも人情である。まして、全てに取り返しがつかなくなる時が迫っているのならば、なおさらだった。

緑の毛玉が、崖から崖へと飛んでいくのを見た……そんな声が、いつもの魔王たちの通信に混じって流れてきたとき、クアンはいわゆるカクテル・パーティー効果のありがたみをほんのりと感じた。

一方で、こうも考えた。今使っている回線で流してきたからには、あの声の主もまたどこかの魔王なのだろう。わたしがトトテティアを探しているのを知っていて、罠に陥れようとしているのかもしれない。そんなことをする輩がいない保証はどこにもない。それでも……

手元の茶を飲み干したクアンは蛇体を起こし、上半身を宙に引き上げ、ゆっくりと前進を始めた。膝にあたる部分の上で顔を出していたソライロは、ブルー・トーラスの中に引っ込む。

いつものように、お出かけをする。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

勇者の相手をする時間までに戻ってこれる範囲で、情報が集まるような場所は、もう一通り回ってしまった。そのうちのどこでもトトテティアに関する話は聞けなかったのだ。

いっそ自分のように魔王をやってくれてれば、楽に見つけられたろうに……そう思うこともあった。だが、たとえ魔王になれと頼まれたとしても、彼女なら断っただろう。一所に留まって仕事ができるタイプではないし、それがトレジャーハンターを志した理由の一つでもあることはよく知っていた。

ふと、クアンはこうも思った。逆に、魔王をやっている自分の噂が、どこかにいるはずのトトテティアに伝わることはあり得ないか……?

その時、視界の隅を一匹のアリ―――ただし大きさはクアンと同じくらいもあり、頭から胸にある部分を起こしてもいる―――が通り過ぎた。蟲の魔族だろう。アル=ゼヴィンにもこんな奴らはいて、主に資源開発やトンネルの掘削を生業にしていた。外で見かけたときは、だいたい背中に何かしら担いでいたものだ。

今ここにいる彼も、いびつに膨れた袋を背負って歩いていた……だが、少々詰め込み過ぎたらしい。中からゴロリ、と石が一つ落っこちてきた。

「落としましたよ……」

クアンが声をかける間に、ソライロが石をくわえようとする。

が、バチッ! 石は火花を散らし、ソライロは怯んで飛びのく。

「いけない!」

働きアリは、細くも力強い腕で宙に浮いた石をキャッチした。石の中で、淡い緑の光芒が、残像を残しつつ三次元的に回転しているのが見えた……

「ごめんなさい。この子が……」

ソライロはぶるぶると頭を振るってから、働きアリに穏やかな顔を見せ、問題がないことをアピールする。

「いやいやこっちの不注意だ。すいません」

頭を下げる働きアリ。この閉塞した世界で、心だけは広く保てる理由が何かしらあるとみて、クアンも緊張を解いた。

「ところであなた、魔王さん? ご商談で?」

「いえ、人探し。緑の獣人の子で、空を飛ぶのが好きなのだけど」

「はあ、知りませんな」

なんせ僕ら下ばっかり見て働いてるもんで、と働きアリは笑って、言葉を続ける。

この先はきっと狭い鉱山の中で、トトテティアも流石に飛び回るわけにはいかないだろう……クアンは引き返そうと思ったが、直後に認識を改めないといけなくなった。

「ただね……飛ぶものだったら、いないわけでもないと思います。というのも、この先、僕らの仕事場なんですが、上の方が空洞になってンですよ……しかもどれだけ高いかわかりません。上層から吹き抜けになってンのかも……まァ、なワケないとは思いますがね。それだったら、なんか落っこちてきたりすることもあるでしょうし……」

今朝聞いた崖の話が、クアンの心の中にぼんやりと浮かんだ。

「お邪魔させて頂いても良くて?」

「上の方なら、大丈夫じゃないですかね」

「そう、ありがと」

クアンは働きアリに別れを告げ、そのまま先へ進んだ。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

振動と、ツルハシの鳴る音が辺りに響いている。

人混みもそうだが、刺激が飽和している場所はクアンは苦手だった。少しでも早く上にあるという空洞に至れるように、道を選んで進んでいく。

やがて、螺旋の坂道をのぼり、クアンは大きく開けた場所に出た……そこは、途方もなく巨大な円筒の中のようなところだった。上を見れば、吸い込まれるような暗闇がただあるばかりで、壁すらも離れている方はぼやけて見えるほどだった。

そして水平方向には、これまた大きな裂け目があったのだ。

「崖から崖、か。確かに……」

クアンは呟き、必要なだけの用心をしながら崖の縁の方まで進んで行く。

さすがに壁や天井ほどの距離はなく、対岸の様子もどうにかうかがえた。向こうにも光が点々と灯っていて、人がいるようだ。きっとどこかに橋でもかけてあるのだろうが、目の届く範囲には見当たらない。

「あの……そこの方」

次の行動を考えていたクアンに、声をかける者があった。

振り返ってみれば、真っ白な肌の女性が見えた。頭からは笠のようなものが伸びて、顔と尖った耳以外を隠している。

「花人族……」

と言って、クアンは口をつぐむ。それはアル=ゼヴィンでの名であり、ここでは彼女らはアルラウネと呼ばれているのだ―――植物の魔族の中にも、陽の当たらない場所に適応する種はいくらかいた。あの白い身体は、そういうことなのだろう。

「危ないですよ。崩れてしまうかもしれません」

植物の女の声は綺麗だが、あまり力がなかった。何の仕事をしているのかわからないが、この騒々しい場所で働いているのなら苦労していそうだとクアンは思った。

「ごめんなさい、向こうに渡れないかと。知り合いがそうしたかもしれないと聞いたのよ」

「お知り合い?」

「ええ。緑色の、ふさふさした子……」

「ああ、それでしたら! こちらへ」

そう言って、植物の女は軽い足取りで、縁と逆の方向に歩いていった。クアンにそれ以上話させもせずに……

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

四つ脚で、翼のある獣―――いわゆるグリフォンの一種か―――が女性に撫でられている。その毛並みは、やや明るめの緑色だ。ところどころに、傷の手当をした跡がある。

「この子が落っこちてきたときは、驚きましたよ。苔たちの力を借りて、どうにか受け止められたの……」

「大変だったのね」

ハズレを引かされたわけだが、顔には出さない。これでこの女が暗殺者だったりしたら、罠だということになり、然るべき対応をするまでなのだが……

「きっと上の方で、争いに巻き込まれたんだわ。ひどい怪我をしていたけれど、元気になってくれてよかった」

ちょっと雰囲気が穏やかすぎて、殺しをしたことがあるようには思えない。

穏やかといえば、この場所そのものもそうだ。今座り込んでいる地面は、青や緑の混じった苔に覆われて、下手なカーペットよりもよっぽど上等な肌触りだ。周りを見回せば、大きな亀のような生き物―――後で竜の一種であり、鉱石を背中にまとって甲羅にしているのだと聞いた―――が、のんびり地面の植物を食んだりしている。

この辺りだけ、時の流れが遅くなっているようにすら思えた。

「私の知り合いも、あなたみたいな人に拾われてたらよかったのだけどね」

「そんなこと……」

「元気が良すぎて、危なっかしいのよ。こんなのどかな場所だったら、落ち着いててくれそうだわ」

もらったお茶を一口すすり、クアンはゆっくり息を吐いた。

「のどか、ですか……」

植物の女は、思うところがあったらしい。すこし考えるような様子を見せてから、またクアンに目を向けた。

「ここは、ある意味で……逃げ場所みたいなものだって、思うんです」

女は少し、うつむく。どこか寂しそうな眼をしていた。

「この崖の洞窟の中に、争いはないの……生きていけるだけのお金を稼ぐために働いて、家族や仲間がいることを幸せに思う人たちが住んでいる。私もみんなも、この世界のお約束に嫌気がさしてしまったのよ」

いつもの不愛想な顔で、しかしクアンは耳を傾け続ける。

「でも、魔王さまって……そうせざるを得ないお仕事なのでしょう?」

女はクアンにたずねてきた。

「いい迷惑だとは思ってる」

「そうなの?」

植物の女は不思議なものを見るような目をした。

「そこら中で戦争やってるようなものじゃない」

「戦はお嫌い?」

「私を巻き込むようなのは」

商戦は、エキサイティングではある。だが勇者が去った後の夜には、吐き出した声の分だけ、鉛のように疲れがのしかかってくるのだ……

ふと、いつのまにかブルー・トーラスが手元を離れていることに気づく。見れば、ソライロが先ほどのグリフォンに飛びかかっては前足で弾き飛ばされ、というのを繰り返していた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「もう行ってしまうのですか」

「ええ。ここにいないのなら、他を探しに行かなくては」

名残惜しそうな女とグリフォンに背を向け、クアンはブルー・トーラスを手に、再び崖の中へ降りていく穴へ進み出した。

「……それと、押しつけがましいかもしれないけど」

「えっ?」

クアンは、女の方を振り向いた。

「ここを逃げ場だなんて思うのは、よしたほうがいい……この世界のイデオロギーに逆らってでも、望んだ生き方なのでしょう?」

「あっ……それは……」

「じゃあね」

クアンはまた動き出し、そのまま穴の中へと消えていく。

他人に助言するなんて、らしくもなかった……それでも、たまに口に出して言わないと、たやすく崩れてしまうものがあった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

○今週の生物図鑑

《断崖洞窟の石竜個体群》 』(護衛/徳/ドラゴン)

クアン・マイサがダンジョン内で発見した、鉱物を背負うドラゴンの個体群。

草食性で、四つ脚で歩き、体高は2~3メートル程度。遠目には大きな亀のように見えなくもない。

背中から粘着質の物質を分泌し、勢いをつけて転がることで石をまとうほか、個体によっては近くの小動物に鉱物を運んでもらい、代わりに隠れ場所を提供する共生関係をもつものもいるようだ。

人になつかないようなことはないため、その気になれば手なずけることも可能。力仕事はそれなりにこなしてくれるし、戦いに出すのなら坂道に配置しておけば転がって敵をなぎ倒すだろう。

<その10>

今日も世間は騒がしい。

あのメガネ―――どうせもうわたしのこともわかっているはずだと、クアンは念頭に置いて行動している―――はデバステイターなるものを作り上げ、領域を殲滅するために使う気だろう。

それでデバステイターへの燃料供給を妨げる為に魔力炉を買いあされと言われれば、今度は勇者が嗅ぎつけ、阻止しようとしてくる。そもそもクアンには買う余裕もなかったのだが。

こんな調子では滅びが来る前に、他人の手によって殺されるかもわからない……

先日あった混信は最後までなかった。通信機のスイッチを切り、クアンは四畳半を後にする。

もはやトトテティアを探すあてはないが―――今は自分の情報を流し、向こうから嗅ぎつけてくることを期待している―――気分を変えたかった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

魔王に立ち向かう者を、勇者と呼ぶ。アル=ゼヴィン以外でもそれは概ね変わらないらしい……散策の末に本屋に入ったクアンは、その勇者に関する本ばかりを集めたコーナーがあるのを見て、思い知らされた。

「彼を知り己を知れば、百戦危うからずって言葉があるザンショ。よその世界から流れてきた本を、魔王様たちの為に集めてみたんでゴザンス」

店員らしいゴーストが天井から伸びてきて、クアンの長い耳に声を吹き込むが、彼女が話に付き合ってくれるタイプではないと悟ってか、そのまま戻っていった。

棚から適当に一冊、取り出してみる。

『魂真勇者ディオス・三 ~襲来! 魔王八武衆の巻~』

ページを開くと、濃い色の鎧に身を包んだ戦士が、四本の腕にそれぞれ武器を持ったヒト型の魔族と戦いを繰り広げる様が描かれていた。

いわゆる、漫画である……クアンは興味がないが、トトテティアは暇つぶしのために何冊か漫画を持ち歩いていて、夜眠る前などに読んでいた。それらはもう少し穏やかな内容だったと記憶しているが。

『ディオスよ 諦めろ!! よくがんばったが、所詮人間ごときが八武衆にかなうはずがない!!』

八武衆の一人がコマの中で威圧的な微笑みを見せ、ハリフキダシに主張をさせている。

そのディオスとやらは明らかに劣勢だった。鎧を破壊され、剣はひび割れ、頭からは血を流している。仲間もいるようだが、彼らももう戦えそうにない。

『ゴーデめ…やはり…僕では…』

心が折れかけている。

『ディオス!! 死ねぇ!!』

八武衆のゴーデとやらは、上側の腕二本でトゲの付いた槌を大上段に構え、ディオスに飛びかかった。

これがアル=ゼヴィンの大昔の本だったら、このまま勇者ディオスはあっけなく五臓六腑をぶちまけ、彼の仲間も皆殺しにされるのだろう……それ以前に、この戦いのような状況に至れるかどうかすら怪しいものだ。

当時の魔族は、ちゃんと言葉を話せる種族を蹂躙し、挙句絶滅させてしまったことを、正当化しないといけなかった……未来を掴む為の戦争だった、というだけでは不十分であったのだ。

とはいえこれは人間サイドで書かれた本らしいから、ディオスはきわどいところで新たな力に目覚め、反撃をする。

『これが人間の底力だっ!! 爆轟龍斬(ドラゴニック・エクスプロージョン)!!』

炎の竜がディオスの剣から放たれ、哀れゴーデは消し炭にされた。見開きの四分の一ほどもとって描かれた、技の名前に囲まれて……

ディオスの英雄譚を棚に戻し、他の本も見てみる。

実に様々な勇者の物語が取り揃えてあった。

魔族と心を通わせ、魔王ともわかり合おうとして、けれど結局果たせなかった心優しい人がいた。

魔王を討つべく立ち上がったが、人の醜さを知って失望し、しまいには人類に仇なすものとなった英雄もいた。

魔王どころかそもそも魔族も魔法も存在しない世界から異界に迷い込み、そこで勇者に仕立て上げられ、何だかんだで世界を救ってみせた少年の話もあった。

人として生きる喜びを知らぬまま、魔王を倒す為だけの教育を受けて育ち、その使命を全うした直後に首を吊った哀れな男もいた。

話としては確かに興味深い。だが、あのゴーストが言っていたように今後の参考になるか、といわれれば、ならないと思った。今やっているのは世界の命運を賭けた戦いではなく、単なる商売であるからだ。

上手く立ち回っている魔王のノウハウでも盗んだ方が、よほど有益だろう。

別な棚も一通り覗いて帰ろうと思ったその時、ある本の背表紙がクアンの目を捉えた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

四畳半の中に、長い蛇の身体―――彼女の体長は、読者の皆様の世界観でいえば八メートル以上にも及ぶ―――をうまく収めるのにも、もうクアンはすっかり慣れていた。

真ん中に置いたちゃぶ台を中心に、体を起こしてくるくる回れば、押し入れ―――ソライロの寝床になった―――にも、台所にも手が届く。

魔力で稼働するコンロに火をつけ、湯を沸かす。

クアンはあの本屋を出た後市場に立ち寄り、そこで異国の茶器とルジの葉に近い味わいの葉を見かけたので、買っておいた。

急須にお湯を注ぎ、浮かんできた香りを吸い込めば、懐かしさを感じることができた……これならば、十分代わりになってくれることだろう。

今夜は、ちょっと夜更かしをすると決めていた。鞄の中から本を一冊取り出して、ちゃぶ台の上に置く。

表紙には、こうあった……『残光 - 心の中の勇者ゼネレスタへ -』。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

アル=ゼヴィンでかつて起きた人類と魔族の戦争は、勇者ゼネレスタ・ゼルシアの死をもって終わった。

戦いを続ける力はまだ残っていたのだろうが、魔王を殺せるだけの手段が他にないとなれば、結局は負けを認めるしかなかったのだ。

遠い昔、天空の島々に連れていってもらえなかった魔族の憎しみはあまりにもひどく熟成してしまっていた。生き残っていた人類はいたぶりつくされ、絶滅危惧種となった。

ただ人類にも魔族にも、互いを恨み続けることに疲れていた者たちが少しはいた……後にアル=ゼヴィンに真の平和をもたらすことになる環境改善技術の研究も、そうした人々が協力しあって始めたものだとされている。

そして、人類がどのみちもう長くないことを悟って、遺せるだけのものを遺そうとした者もいた。クアンが買ってきた本も、そうした人間の一人が書いたものだった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

著者のパイロン・モッシナは、かつて兵士をやっていたという。だが、その頃既に戦争は末期に差し掛かっており、パイロンの住んでいた《島》も魔族のものとなりつつあった。やがて彼は、お偉方や戦えない人々を空飛ぶ船で別な《島》に逃がすために、撤退戦をやらされた。

生きては帰れぬ戦いで、それでも力が出たのは、勇者ゼネレスタの姿がいつでも心の中で輝いていたからであった……パイロンは一度だけ、はるか遠くで戦う彼の姿を、偶然にも望遠鏡で見たことがあった。自分の何倍も大きな魔族を、それも何十体と相手にして、彼は一歩も退かずに戦い抜き、勝利をしたのだ。

そのゼネレスタの首級が掲げられた写真を、パイロンはある魔族の町の一軒家の中、車椅子の上で見た。

不器用になってしまった顔から、涙が流れた。本当は大声で泣きたかったくらいだけれど、それすらも今の彼には叶わなかった。

自分は何を為してきたのだろう……戦をし、みんな揃って傷つき倒れ、自分だけが拾われた。

何が悪かったのか……元を辿れば、人類なのだろう。けれど例えば、彼らに今この時の有様を見せることができたとして、良しでは魔族も天空に住まわせよう、と言ってくれるものか?

体はろくに動かなくなったのに、思考はむしろ強まってゆき、堂々巡りにはまる。

魔族を憎んでみようにも、パイロンを拾った男は優しすぎ、思慮深くもあった。彼は家族に未来を与えるべく戦場に立っていたが、その為に人類を皆殺しにすべきだなどとは考えていなかった。

戦争の中にあった心が、これから納得のいく答えに辿りつくことはもはや期待できない……そう考えたパイロンは、その身体でもまだできるやり方で、一度自らの命を断とうとした。

けれど、それを目ざとく見つけた魔族に止められた。彼は言った。心のやり場がないのなら、その想いをどこかに遺せばよい。いつか誰かが受け取ってくれる、と。

いつか、誰かが……都合のいい話だと、パイロンは思った。結局、彼もあの魔族と同じで、自分が冷たいものだと思いたくないのだろう。だけどそれを否定することもできない。それは、わたしがかつて勇者ゼネレスタを心に掲げながら殺し合いをしたのと、さほど変わらないことなのだろうから。

二度目の自害もやらせてはくれないだろう。なら、彼の言う通りにするのも悪くはない。

時間をかけて取り組むものを用意するのだって、自分を騙す方法の一つだ。心の中の勇者ゼネレスタを、わたしを騙し続けたわたし自身を、この本の中に遺せたと信じたい……

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

読み終えた本を押し入れに放り込んだクアンは、ちゃぶ台の上に上半身を横たえた。

夜更かしするつもりでいたとはいえ、ここまで遅くなるとは思っていなかった。生活リズムをうかつに崩せば、そのままずるずると体調が悪化していくのが、よくわかっているはずなのに。

それでも最後まで読んでしまったのは、ほんの少しの期待があったからだった。

生きることは、自分を騙し続けること。クアンはそんな風に諦めていたつもりだった。だけど、それでも……

『幸せな人ってのは、騙さなくていい人を言うんだろうね。そうでしょ……トトテティア?』

そんな考えを頭に浮かべ、クアンはまぶたを閉じた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

○今週の読書感想文

《命によせる哀歌》』(商品/カルマ/書籍)

アル=ゼヴィンに残された古い書物の一つで、魔族の著者によって書かれたもの。

著者は人類との戦争において天空の《島》の一つに攻め込むも、戦いの中で重傷を負い、部隊からもはぐれてしまう。その後彼はひっそり生きていた人間の女性に救われて一命をとりとめ、共に生きるようになる。だが終戦後、そこを魔族に発見され、引き離されてしまうのだった。

人間も魔族も、そして自分自身も憎しみを捨てきることができないことを、著者は認めざるを得なかった。それでも前向きに生きていこうとすることもできたはずだが、諦めてしまった。

この本に書き綴られたものは、そんなことを思わせる。