「騒乱イバラシティ」日記
5-8
<その5>
空はどんよりと赤黒い雲に覆われている。
電気の明かりはなく、手元の懐中電灯だけが行く手に延びる線路を照らす―――ひどく錆びつき、ところどころで千切れていた。
街は完全に廃墟と化していた。
ビルは傾き、中には倒壊してしまっているものもあった。小さな家々は奇っ怪な獣たちの棲家と化した。
コンクリートの道路の多くは、草原や湿地に取って代わられていた。
ところによっては森ができたり、山が隆起したりしていたりもした。それどころか、天まで延びる隔壁に覆われてしまっているところも……
道のそばに倒れている看板には、辛うじて『チナミ区』の文字が読み取れる。
ふと足音が聞こえて、一穂は銃を手に取る。
まもなく線路の向こうからK.Mが歩いてきた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
イバラシティに滞在する全ての人々は、ある日突然このイバラシティを廃墟にしたような世界―――『ハザマ』に連れてこられ、そこで白いスーツの男から信じがたい事実を矢継ぎ早に告げられた。
『アンジニティ』なる世界の者たちがイバラシティへの侵略を開始したこと。
侵略のために『ワールドスワップ』なる異能が用いられており、それによって『アンジニティ』の人々は新しい姿と記憶を持ってイバラシティに仮移住しているということ。
侵略戦争はこの『ハザマ』の中において行われるため、今すぐイバラシティに被害が出るわけではないこと。
しかし戦争に負ければ、二つの世界の住人はまるごと入れ替わってしまうこと。
決着が着くまで、イバラシティにいる間はこれまで通りの生活を続けられるが、おおむね十日に一度『ハザマ』に送り込まれ、一時間ほどそこで戦うことになること……
イバラシティに戸籍すら持たない一穂でさえ、兵役逃れはできなかった。
スーツ男の淡々とした語り口、人々の反応―――戸惑ったり泣き叫ぶような者もいれば、淡々と受け入れる者、むしろ興奮する者さえいた―――それら全てを彼は記憶している。
記憶といえば、『ハザマ』での記憶をイバラシティで思い出すことはできないが、逆にイバラシティでの記憶は『ハザマ』に持ち込まれている。
また、二つの世界における自分自身はそれぞれ独立しているらしい……というのも以前、一穂は吠えるだけで人間の骨を抜き取れる異常な犬に襲われ、しばらく足の骨を失うはめになったのだが、『ハザマ』の中では何事もなかったかのように歩くことができていた。
仮にイバラシティで命を落としたとしても、ここでの戦いから解放されることはないのだろう。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「こ、こんにちは……えと、この間の―――」
K.Mはそこで言葉に詰まった。あの橋の下で出会った時に一穂は名前を教えていない。
「その、一人、なんですか? ハザマで……」
緊張気味に、だが心配げにK.Mは尋ねてくるが、
「何か用ですか。何もないなら僕は行きますが」
と、一穂。
あまりにもつれない態度に、K.Mは余計に緊張を深め、次の言葉を決めあぐねた。
が、そこへ―――ビュゥッ!!
あまりにも突然、空気が裂ける!
一穂はすぐさま横転するも、ジャケットは裂け、皮膚に鋭く痛みが走る。
転がりながら、今の『攻撃』が来たと思しき方向へ目を向ける……敵の姿は、見えない。
「き、君っ!」
K.Mの声もろくに耳に入れず、一穂は一瞬だけ思案する。
攻撃者の候補は大きく二つに分けられる。ハザマに住まうクリーチャーか、自分たちのようにここで戦わされているアンジニティの輩か。前者ならおおむね戦力の予想もつくが、後者だとそうもいかない。
が、直後、暗闇の向こうがまた赤く光って―――
「―――ゥッ!!」
ザクッ!
一穂の右足首に、なにか棒状のものが突き刺さり、そのまま強い力で彼を斜め上に引っ張り上げた!
逆さになった視界で、ワイヤーらしきものを刺されたのを見る。手にした銃で撃つことはできたが、あえてすぐには抵抗しない。
空中高く、六メートルほどに放り投げられたところで―――
一穂は下に、自分を迎え入れようと大きく開かれた獣のあぎとを見た。マズルはワニのようにずいぶんと長く、舌がでろりとどこかへ延びている……
喉に続いているであろう空間を狙って、一穂は銃のトリガーを引いた。
パンッ!!
「ギュィイィーンッ!?」
その悲鳴は人にも、身近な動物にも似ていない。特撮のモンスターを思わせるものだ。
一穂は今撃った銃弾に、異能で記憶を焼きつけていた―――下腹部が裂け、そこから腸を引きずり出される記憶だ。ただの生き物が相手なら十二分に戦意を奪えるし、それどころかショック死すら狙えうる。
実際、舌を伸ばした獣は狂乱し、頭をめちゃくちゃに振り回しながら両手でかきむしり―――
―――獣の舌につながれているはずの一穂は、あわせて振り回されてはいなかった!
「危ないッ!」
K.Mは叫びとともにその力を行使した!
彼の右手の中に線路のサビや崩れた破片が凝集していき、黒曜のような刃を形作って―――
ギィンッ!!
甲高い音とともに射出され、一穂を縛るものを断ち切ってみせた。
獣はゴロゴロとのたうち回り、やがて動かなくなった。
「―――K.M、よォ!?」
しゃがれた男の声が飛び込んできた。
コツ、コツと錆びた線路を打ちながら歩いてきたのは、トカゲの頭からロン毛を生やした輩だった。
いわゆるリザードマンというやつ―――と思うには、異形の度合いが強すぎた。人型なのは腰から上だけで、下半身は本物のオオトカゲのそれだった。アンジニティの者なのは明白だと、一穂には思えた。
彼の口からは長い舌が延びてもいる。一穂の足につながっていたのはこれだ。先ほどの怪物は囮だったらしい。
「キシャァ……K.M!! 邪魔、しちまったァ、なァ?
でもよォ、どうせさ、ヘタレの、お前にゃァよ、殺しャァ、できねェ、だろ。
オレによォ、ヤらせろやァ……キシッシシイィッシィーッ!!」
一穂はたちまち、これが一対二の状況なのだと理解して、トカゲ男の舌から放り出されて転がっていたところからすぐに立ち上がってみせた。
アンジニティの住人たちは、イバラシティにいる間はそこにふさわしい姿と記憶を得て生活しているが、ハザマに来た途端に元々あるべき状態に戻るという。このトカゲ男もイバラシティでは普通の人間の見かけをしているはずだ。
一方でK.Mの姿はイバラシティで見たそれと全く違わない。しかしそれは、アンジニティと何の関わりもないという証拠になるだろうか?
トカゲ男の口ぶりからしてスパイというわけではないだろう。何らかの異能で化けているか……あるいは、元からこんな姿だったのか。
いずれにせよ、もう容赦することはない。
一穂は、構えていた銃のマガジンをおもむろに外してしまった。
「なぁに、やっとン、ジャァ!!」
トカゲ男は鋭い爪を振るって、一穂を引き裂きにかかる!
だがそれより先に、一穂はマガジンから取り出した弾丸を手に取り、記憶を焼きつけ、投げ放った……一つはトカゲ男に、もう一つはうろたえていたK.Mに。
一穂の異能をまだきちんと知らない両者は、かわしようがない。
火薬の力で撃ち出されなかった弾丸は、体を傷つけることはできず、だが心をずたずたにしてみせた。
―――かたや全長十メートルはあろうかという大蛇に締め付けられ、骨を砕かれながらじわじわと呑み込まれていく記憶。
―――かたや巨大な水槽に閉じ込められ、窒息するまでもがき苦しむ記憶。
「ギィッ!! ィ……痛ィ……!! 痛イッ、イダイ……やめろ゛ォ、痛ァイ゛ィッ!! やッ、やめ゛ッ、ガ、ハァ゛―――」
「アッ……ガ……ッ……!!」
トカゲ男もK.Mも倒れこみ、のたうち回って泡を吹く。
一穂はすぐさま、銃をナイフに持ち替えると―――
ザスッ! トカゲ男の肋骨の隙間に突き立てた!
ためらうでもなく、何度も!
何度も、深々と……
その息が、止まるまで……
苦境の極みにあるK.Mの眼にも、流れ出る血は鮮やかに映った。
……そして、次は自分だと、思わされた。
案の定一穂はK.Mへと駆け寄ってきている。死に瀕し、何もできぬK.Mの体にのしかかり、その首元めがけてナイフを振り下ろし―――
―――そして、静止した。
一穂の喉元にも、黒光りする四角錐が突きつけられていたのである。痛みを感じるほどに。
「……どう、して……。」
K.Mは、口を開いた。
「ぼ、僕たち……こんなに、そっくり、なのに……
どうして、心は、こんな……違って、しまってるんだ?
どうして、君は、そんなに、残酷に、なれるんだ……?
何が……何が、君を……そうさせるンだ……ッ!!」
K.M自身も気づかぬうちに、目から涙が一筋流れていた。
「いまの、水の中に閉じ込められる幻……君の力、だろ。
とんでもなく、リアルだったよ。まるで、実際に経験してきたみたいに……
……教えてほしい。あの水槽に……君を閉じ込めたようなやつが……いるのか?」
一穂は―――内心しまった、と思って―――弾かれたようにナイフをK.Mの首へ押し込もうとした。
が、不可能であった。
よく見ればどこかから微細な粒子がナイフの先端へと集い、なめらかなさやを形成している。これでは気管を貫くことなどできやしない。
うかつだった。K.Mの話をなぜだかまともに聞いてしまった自分のミスだ。殺されるほかない。
一穂は、早々に覚悟していた。
が、K.Mは再び喋りだしたのだった。一穂にとどめを刺す代わりに。
「……言いたくないなら、いいさ。
けど、君の力がもし僕の想像したようなものなんだとしたら……ひとつ、頼みたいことがある」
「殺し合うべきはずの相手に、なぜ頼むのです」
一穂は冷たく返した。
「もしか……もしかしたらみんな助けられるかもしれないんだ! こんな戦争から!
イバラシティの人たちもアンジニティの人たちも、両方……!」
一穂は、今度は力によらず止められた。
K.Mが突拍子もなく夢みたいなことを言い出したからか。その夢に自分自身が反応してしまったからか。
さっきこいつの話に耳を傾けたせいで、殺しそこねてしまったというのに。
「僕の共犯者になってくれ!
僕らでやるんだ! ……『ワールドスワップ・ジャック』を!!」
一穂の手を握り、K.Mは力強く言う。
―――その瞬間、どこかで動いていた時計の長針が、十二を指した。