Seven Seas潜航日誌

1~5

<その1>

『オルタナリア』という世界があった。その世界では、多くの種族による文明が栄え、主に魔法の力で生活をしていた。

そのオルタナリアの海の片隅にある『ビーピル島』に、一人の少女が居た。

彼女は、ヒトではない。水中生活のために、体のあちこちにヒレを持ち、長くて太い尻尾を生やした水棲人だ。名前は、ネリー・イクタといった。

そのネリーが、ひょんなことから、ここテリメインにやってきた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ビーピル島の北東にある港町『コルム』。その近くの入り江にある洞穴が、ネリーの住処であった。中は色々とガラクタ―――ネリーにとっては大事な宝物だが―――が転がっている。

「……ン、ンン……。」

オルタナリアに朝が来る。洞の中に差し込む朝日で、ネリーは目覚めた。

「…… ……おっはよ?」

返事をする相手はいなくとも、朝の挨拶をするのは忘れない。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ネリーは、海で狩りをして暮らしている。この日も獲物を探しに、早くから出かけていた。

頼みの武器は、右手に持った貝のハンマー。先に括り付けられているのは、ギザギザの鋭い歯を持つ、大きなシャコガイだ。叩きつけるだけでもかなりの破壊力があるし、気合を入れれば口が開いて、噛み付くこともできる。このハンマーと、その幼い体に似合わぬ腕力で、ネリーは自分よりずっと大きな獲物だろうと打ちのめすことができた。コルムの漁師を襲う魔物を殴り倒し、お礼に珍しい物を貰ったりしたこともある。

今日の狩りでも大物を狙ってみせる。そんなことを思いながら、ネリーは軽快に海を泳いでいた……はずだった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「アレ……ッ……!?」

異変に気付いた時には、もう遅かった。身体がどこかへ引き寄せられている。必死で尻尾をばたつかせ、ヒレで水を切ろうとするのだけれど、どうしようもない。

「あ……ぁ……!!」

引き寄せられる。

「あぁぁぁぁぁああぁああーーーーんっ!!」

水がうねる音を聞き。目の前は濁り。そして間もなく、ネリーはなにもわからなくなった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

やがて、閉じたまぶたに光が差し込んできた。

「…… ンン……」

眼を開ける。ここがどこかはわからないが、まだ海の中らしい。

ネリーはとりあえず、人のいる場所を探して泳いでいった。そうして辿りついたのが、海底探索協会の窓口だった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

身構えるマリンオーク、シュナイダーを前にして、ネリーもまたハンマーを構える。

ここで冒険をするために、ネリーは彼を打ち倒さなくてはならなかった。

「……負けないよっ!」

何かが立ちふさがるならば、殴り倒してでも前に進むまで。ここがどこかもわからないけれど、立ち止まってはいられない。

オルタナリアへの帰り道を見つけるために。有り余る好奇心と、底無しのお腹を満たすために。

きっと、呆れるほどに広大なのであろう、テリメインの海へと、ネリーは、飛び出していくのだった。

<その2>

巨躯のマリンオーク、シュナイダー教官は、ネリーの前に崩れ落ちた。自分から力を使い果たし、溺れる形で。

彼は面構えこそ恐ろしいものの、決して怖いヒトでもないのかもしれないと、ネリーは思った。

人魚ロザリアネットとシュナイダー教官に見送られ、ネリーは旅立った。だが……

「……あ、忘れてた……」

というのも、シュナイダー教官の好物だという、『テリメイン水牛100%ハンバーガー』。それを食べられる店を聞いていなかったのである。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

次にやることはもう決まっている。

探索への出発、ではない。休む場所と、海で獲ってきたものをいい値で買い取ってくれる場所の確保。そして良さげな飲食店を探すことであった。飯を特盛で出してくれるようなところが欲しい。大食いの彼女にとっては、とても重要な問題だ。

むろん、『テリメイン水牛100%ハンバーガー』を提供する店も、見つけなくてはならない。

「ンゥー……」

尻尾を揺らして、ぱたぱたと、セルリアンのどこかの島を歩くネリー。

この辺りは、探索者たちや、彼らを相手に商売をしようと考える人々で賑わっていた。道も混んでいる。ネリーは背丈が低いから、こうなるとろくに前も見えなくなる。まるで海の中で、魚の群れにつっこんだときのようだったけれど、それとは勝手が違う。魚は追いかければ逃げていくけれど、ここでは自分が避ける側なのだから。

ネリーはオルタナリアでもわりと人が少ない地域で生きていたので、こういうことにはあまり慣れていなかった。もっと時間が経てば、他の海にも拠点ができたりして、少しずつ人がばらけるはずだし、マシにもなるのだろうけど。

「…… ……おなか、すいたよっ」

つるつるとしたお腹が音を立てる。もう、シュナイダー教官が言っていたハンバーガーでなくてもいいから、何か食べたかった。

いっそ海に潜って、狩りでもした方がよいか……そう思い始めたころになって、そこまで混雑していない飯屋を見つけることができた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

冒険の準備には使わない分のSCで、ネリーはパンと魚のフライ、野菜のスープを注文した。

周りの人々が、これからの冒険はどうだ、テリメインの秘密というのはきっとこうだ、などと話をしている。でもネリーは黙々と、けれど幸せそうに食べ続けた。食べてる間は周りが見えない。

味はそこそこだったけど、空腹が癒えるなら何でもよかった。ネリーはそういう子だった。でも、満足するにはもっと金が必要だ。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

休む場所はすぐに見つけられた。海に面し、半ば水没した、とても小さな洞穴だ。もともと、そういうところで寝転がって眠っていた身だ。必ずしも宿に泊まらなくてはならないというわけでもなかった。

まあ、寝込みを襲うようなものが何かいるのなら、考え直さなくてはならないが。

洞穴から、夜の海が見える。オルタナリアにいた頃は、夜になったら浜辺に出て、星を見上げて過ごしていた。海面に映り、ゆらゆらとする月を見つめたりもした。テリメインの星空は、どんなものだろう。月はあるのだろうか。

一旦外に泳ぎ出して、眺めてみる。悪くはなかった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ネリーは洞穴の片隅で、身体を丸めた。破裂しそうなほど肉の詰まった自分の尻尾を、枕代わりに抱いて、静かになる。

「……わたし、ボウケンするよ。あしたから、がんばるよ。おたから、みつけるよ。わたし…… ……。」

洞穴が、ネリーの言葉を受けた。早すぎて、そして小さすぎるオウム返し。その後にはただ、波の音と自分の息遣いが続くばかり。

しばしたたずみ、眼を閉じる。

「……おやすみ……。」

ここにはいない誰かに向かって、挨拶を一つ。そのままネリーは、深い眠りにとらわれていった。

そしてまた、テリメインに朝が来る。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

さて、ようやく遺跡の探索である。

それに際して、二人の仲間がついた。一人は、短剣を振るう黒髪の女、ナズナ。もう一人は、仮面をつけ、執事服をまとった男、ゴトー。

この中でネリーは最年少だが、おとなしく守られるつもりなんて毛頭ない。

ネリーはハンマーの具合を確認し、行動を開始した。力強く尻尾を振るい、海中で身体を押し出す。ヒレで水を切り、身体を左右にくねらせ、前進していく。

さぁ、いよいよ、冒険の始まりだ。

<その3>

ネリーははじめての探索を終えた。棒人間とヒトデ女を前に、彼女は猛然とシャコガイ・ハンマーを振るい、打撃を加えた。

容赦はない。牙を剥き、力の限り得物を振るって、殴りつけ、吹き飛ばす。これが一番、慣れた戦い方だった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

シャコガイ・ハンマーを手にしたのは、ネリーが今よりもう少し幼い頃。コルムの入り江に棲むようになって、しばらく経ったある日のことだった。

その日、ネリーはいつものように、海を駆け巡っていた。多くの生物を抱える、美しいコルムの海。ネリーはまだ見ぬものを見てみたくて、まだ会ったことのないものに会ってみたくて、どこまでも泳いだ。

そうしているうちに、ふとネリーは、何かに気付いた。魚をおびき寄せる匂いが漂っていたのだ。

ネリーもまた引き寄せられたが、途中、どこかおかしいとも思った。匂いの源に、水が引き込まれているように感じたのだ。

果たしてそこには、大きな割れ目があった。ギザギザに尖った、鮫か何かの口のような割れ目が。

それは大きく水を吸い込んで、ネリーの頭を引き寄せ、そのまま勢いよく閉じた。赤い霧が、水中に漂った……

割れ目は閉じかけたところで力を失い、水の中でふらふら揺れた。ネリーの首は繋がっていた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

それは大きな貝で、魔物の一種であるらしかった。匂いで獲物を呼び寄せ、近づけば吸い込み、ギザギザの殻でもって食いちぎる。そういう奴だったらしい。

ネリーはあのまま中の肉を全て貪ってしまい、貝殻だけが残った。その大きさは、彼女の頭よりも二回り、いや、三回り程大きい。

貝を持って、海上に上がる。豆粒のようになったビーピル島が見えた。

「……チョーシ、のりすぎたかな?」

ネリーは再び潜ると、戦利品を大事に抱えて、島へ向かって泳ぎ出した。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

帰ってきたネリーはコルムの港近くの、一軒の建物を訪れた。

中にはノコギリやハンマーといった、物を加工するための道具が沢山あった。ネリーにはどうやって動くかもわからない機械の類もあった。

「ふむ、なかなか面白いものを拾ったじゃないか?」

赤茶けた髪で、髭を生やし、緑色のオーバーオールのような服を着た中年の男が、感心した風にネリーに言う。彼はネリーが拾ってきた貝をテーブルに置き、仔細に眺めていた。

「これをハンマーにしてみるか。この間大陸から届いた木材を柄にしよう」

「うゃ? いいの?」

「気にすることはないさ。まだ沢山あるしね。それに、君にはいつも漁師の皆が世話になっているから……」

この頃から既に、ネリーは漁師たちを魔物から守る立場にあった。

力があるのなら、それを正しいことに使う。ネリーはそのことを両親から教わり、離れ離れになってしまった後でも忠実に守っていた。彼女からすれば、ただそれだけだった。もちろん、お礼としてご飯をもらえることも、期待していたが……

だが守られる側の人々だって、不甲斐なさを感じてもいた。自分達は大人で、相手は子供だったのだから。

翌日、完成したハンマーを手にしたネリーはそれまで以上の活躍を見せた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

遺跡から一旦戻り、街で仲間とのやり取りを済ませ、テリメインでの棲み処とした洞穴へと戻る。

ネリーは空腹だった。冒険のついでに狩りをしようと思っていたのだが、いざ魔物に遭遇してみたら、その気は失せた。彼女はどんなゲテモノでも平然と食べてしまうけれど、人間のように見えるものだけは喰えなかったのだ。

「…… ……ンゥ……!」

耐えられなくなって、ネリーは海へと飛び込んだ。

小魚の群れを目ざとく見つけ、ネリーはハンマーを構える。柄を握る手に気合いを入れると、ハンマーの先端部となったあの日の貝が、再びそのあぎとを開いた。

「だぁッ!」

ハンマーを、勢い良く振るう。小魚たちは、貝の中に呑まれていった。匂いではなく、力によって。

ネリーは貝を閉じ、獲物を棲み処へ持ち帰ることができた。

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そしてまた、冒険は始まる。ネリーは遺跡のより深い所へと泳いでいった。ハンマーを構えて。

今日もきっと、これが役に立ってくれるだろう。

<その4>

遺跡を抜け、その先にあったのは、大きな泡で作られたフィールドだった。これが、探索協会の最先端の拠点であるのだという。

「……うゃあ?」

ふとネリーは、後ろを振り返る。出発点はもう目では見えないけれど、ここへ来るまでにあったことは、何もかも鮮明に思いだせる。

意外と近かった『最前線』ではあるが、ネリーはそのことを決して悪く思ってはいなかった。誰も行ったことのない場所が、この先にずっと広がっているということでもあるからだ。

とりあえずは飯だ。ネリーは泡の内側に入り、飲食物を提供する場を探して回った。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ネリーは小さいころからずっと、冒険を求めていた。

暇さえあればいつでも想像を巡らせていた。海をずっと泳いでいったら、どこへたどりつくのか。魚たちはどこで生まれ、どこへ向かって旅していくのか。そして、海から上がると、どんな世界が広がっているのか……

彼女の周りには、海しかなかった。ネリーが生まれたのは、海底に造られた水棲人の都『マールレーナ』であったためである。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「いっただっきまーすっ!」

ネリーは無事に食事にありついていた。

パンと焼き魚と、海藻のサラダといったオーソドックスなメニューが並ぶ中、ネリーの目を引くものがあった。ヒトの拳より少し大きな巻貝を焼き、中に塩と油の味がする汁を垂らした料理が出されたのだ。

ネリーは中身をほじくりだし、それを食べていく。なかなか歯ごたえがあるが、自分の強靭な顎の前ではどうということはない。その気になれば、貝ごと噛み砕いてしまうことだってできた。

食事を終えたネリーは、残った巻貝を皿の上に立てた。そのまま、それをじっと見つめた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

マールレーナでは、ネリーは自分の何倍もある巨大な巻貝の殻を住まいにしていた。

この貝殻にも当然ながら、かつての主がいた。

マールレーナを巨大なヤドカリの魔物が襲ったのは、ネリーが生まれるいくらか前のことだった。街の戦士達が迎撃をしたが、なす術もない。

だが、どこからともなく現れた水棲人の狩人が、果敢にも魔物に立ち向かった。彼はとてつもない怪力で魔物を殻から引きずり出し、柔らかい腹に銛を突き立て、とどめを刺した。

その狩人は、一夜にして英雄となった。ひとりの水棲人の女と結ばれた彼は、魔物の貝殻を家に作り変え、やがて子をもうけた。

彼こそが、ネリー・イクタの父親、ネプテス・イクタである。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ネリーは父ネプテスに憧れていた。周りの大人達がいつでも、ネプテス・イクタの伝説を教えてくれていた。ネプテスもネリーの望みを知り、彼女に狩りを教えた。ネリーは日に日に腕っぷしが強まり、他の子どもにケンカを売られても必ず勝つようになった。大きな獲物を捕らえ、大人たちに褒められたこともあった。

誰よりも強い父のようになりたい……その想いだけでネリーは行動し、努力していた。

だが、そんな父ネプテスですらどうにもならない出来事が、あるとき起こった。

まるで竜巻のように動き回る渦が、マールレーナに襲いかかった。それまでは起きたことのない出来事だった。建物 が壊され、人がさらわれていく。なすすべもない。

そして、渦はネリーのことも呑み込もうとした。

「……ーさん……! おとー……!」

ネプテスは、左手で銛を掴み、深々と地面に突き刺した。そして右手で、今にも吹き飛ばされてしまいそうな我が子の身体を、その場に留めようとした。

「……おとーさん……っ……!!」

「ネリーッ! 諦めるな! 離すんじゃないッ!!」

ネプテスの力と、渦の力とが拮抗する。その間にあるネリーは、身体が千切れてしまいそうになった。

一番最初に屈したのは、銛だった。地面から切先が抜けると同時に、渦はすべてを引きずり込んでいった。そしてとうとう、ネプテスの手の中から、ネリーの身体が、するりと抜けていった。

「おとーさぁぁぁぁぁーーーんっっっ……!!」

「ネリィィィィィーーーッ……!!」

やがて謎の渦は去り、ネプテスは、街から離れた場所で目を覚ました。それからすぐ、娘がどこにも見つからないことを知った。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ネリーは過去から引き戻された。飲食店のスタッフが、もう中身がないように見える貝殻を回収しようと尋ねてきたのだ。

「…… ……! あ、ぅゃ。おねがい、します……」

代金を支払って外に出るが、まだ休むには早い。ネリーは、探索者協会の建物に向かうことにした。小遣い稼ぎの仕事を探すためである。

この拠点を維持するのにだって、食べ物や物資が必要だ。もちろん地上や、他に人が居るような所から送られてくる分もあるだろうが、周りの海にあるものを採って賄うことも必要であろう。それならば、狩りもまたここでの仕事として成立するはずだ。協会が人員を募っていたりもするかもしれない。

果たして、ネリーは食用になる魚介類の捕獲を依頼されることとなった。大した報酬は出なかったけれど、それでネリーが文句を言うようなことはなかった。そういう性格ではないのもあるし、ただ、今日は何となく狩りがしたかったのだ。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

そういえば、今年の冒険は、これで最後になるらしい。

オルタナリアには年の瀬の祝い事はあったし、ネリーもそれを楽しみにしていた。だが、テリメインには何か、そういったものはあるのだろうか……金を稼ごうと思ったのも、イベントへの備えのためだった。特に何もないのであれば、ちょっと高めの食事をするなり、人の集まっている所へ遊びに行くなり、勝手に面白い事を探しに行けばいいだけだ。

ネリーはもう仲間たちと相談して、このまま拠点の先、未開のエリアへと進んでいくことを決めている。年が明けると共に、新たな場所へ行く。悪くない始まりだ。

泡のドームの中から、ネリーは先の海を見つめる。海底は暗いから遠くまでは見えないけれど、想像をするのに支障はない。

「このさきには、何があるんだろう……。」

今はまだ、わからないけれど。ただ、来年も、これから先もずっと、みんなで健やかに冒険ができますように。

ネリーは、ここにはいないだろう、オルタナリアの女神ミーミアに祈りを捧げた。

<その5>

出発の日が来た。ネリーは今日、新たな場所へと旅立つのだ。

向かう先はまだわからない。灼熱の海レッドバロンなのか、渦潮の海ストームレインなのか、はたまた他のどこかなのか。いずれにせよ、これまでとは違う旅路が待っているはずだ。

「さあ、いっくぞーっ!!」

最先端拠点を包む泡のドームを抜けたネリーは、尻尾を曲げては勢いよく伸ばし、力強く前進していった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

実のところ、ネリーにとってこれが初めての長旅というわけでもなかった。

オルタナリアにいた頃にも、彼女は大きな冒険を経験していた。けれどそこへ彼女をいざなったのは、オルタナリアの者ではなかった。きっかけは、『地球』からオルタナリアへとやってきた、三人の少年たちであった。

地球……それは、オルタナリアと隣り合わせに存在するとされる、もうひとつの世界である。

地球人は、オルタナリアの人々と違って魔法が使えないという。それどころか、魔物も、妖精や妖怪の類も、ネリーのような亜人もいないのだという。

そんな世界からやってきた少年たちは、なぜだかオルタナリアにおいて、魔法とも違う謎の力―――異能の力を使うことができた。

空を飛び、熱や風を操る少年、萩原広幸(はぎわら ひろゆき)。

森と心を通わせ、草木を使役する少年、宇津見孝明(うつみ たかあき)。

身体に金属をまとい、雷を放つ少年、瀬田直樹(せた なおき)。

彼らとの出会いをきっかけに、ネリーはオルタナリア中を旅することとなったのだ。ずっと憧れていた、初めての冒険だった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

その日、いつものように棲み処の洞穴で目覚めたネリーは、コルムの街の方が騒がしいことに気づいた。騒ぎの場へ行ってみると、人が何かを取り囲んで、いろいろ話しかけているらしい。

「ねーね、なんかあったの?」

仲良くしている、入り江近くに住む男児に尋ねてみるネリー。

「ね、ネリーか、おはよう!」

「おっはよー、はともかく、どうしたの!」

「そ、それがさあ! ち、地球だよ、地球! 地球からなんだよっ!!」

「地球?」

地球はオルタナリアの隣にある世界。そして、そこから人が来ることもある。それはネリーも知っていた。マールレーナにいた頃、夜眠る前に読んでもらっていたお話で。

地球から来た人々は、オルタナリアを救う英雄『ヴァスア』である。世の中を正し、英知を伝え、最後は地球に帰っていく。

地球はオルタナリアに影響を与えてきたが、逆にオルタナリアから地球へと渡ったものもあったらしい。二つの世界は互いに、ひっそりと、しかし確かに繋がって、歴史を前へと進めていったのだった。

そういう事どもがオルタナリアには伝承として残っているのだから、地球から人が来たとわかれば、騒ぎにもなる。

ネリーは四つん這いになって、野良犬のように人混みをすり抜ける。そうして、向こう側で、問題の地球人―――三人の少年たちを見た。その時は、話せそうになかったけれど。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

彼らがオルタナリアに現れ、この町へやってくるまでに何があったのかは、後で聞くことができた。

三人の少年たちは、みな十二歳で、小学校というものに通っていたらしい。そこはオルタナリアで言うならば、大きな町には必ずあるアカデミーの初等部のような所であり、読み書きや生活の術、体の動かし方など教えてもらえるのだという。

ただの子供のはずだった三人は、しかしなぜだか、オルタナリアに来ることになってしまった。

ある晩それぞれの家で眠りにつき、ふと目を開いてみたら、三人揃ってこのビーピル島の奥地の小さな集落にいたらしい。そこでは水にとりあえず形を与えたような姿をした粘球族と、彼らを見守る独りの老人チャルバーが暮らしていたのだが、最近になって魔物の脅威に晒されていた。

三人は、勇敢にも魔物の退治を買って出たのだが、いざ戦いとなれば窮地に立たされた。だがその時、三人の少年の一人―――広幸が、それまで全く見せなかった力を発動した。彼は突然、五感で観測できるオーラのようなものを発したかと思うと、魔物に向かって白熱する矢を放ち、斃してしまったのだ。三人が広幸の発した謎の力に呆然としていると、頭の中に何者かの声が響いた。それは途切れ途切れに語り掛け、彼らにこう伝えた。

「―――おまえたちは、ヴァスア。オルタナリアを……救う者……変える……者……―――」

ヴァスアとは、創世の女神ミーミアが選んだオルタナリアの救い手のことを意味していた。

実はオルタナリアは、地球人の力がなくては存続できない世界であった。世界のどこかに現れる七つの『神秘』にヴァスアとなった地球人が触れ、『心の儀』を行うことで、オルタナリアは安定を保つことができる。

だが、三人の前にヴァスアとなった者は、その使命を果たすことができなかった。そのせいで、オルタナリアに魔物や災害が増え―――ネリーを父ネプテスから引きはがしたあの渦もそうである―――、世界は危機にあった。

「お前さんたちは、これから多くの困難を知る。失敗や敗北を経験することもあるじゃろう。だが、投げ出してしまえば……もっとずっと重いものが、お前たちの人生にのしかかる。そのことを、よく覚えておくのじゃぞ」

チャルバーは三人にそう言って、集落から送り出した。

当面の目的地は、中央大陸の大国『セントラス』の首都にして、オルタナリア最大の都市であるともされる『セントラス・キャピタル』となった。世界中から人が集まるその地ではなら、『神秘』の手がかりも得られるはずだと。

だが、まずは島を出るためにコルムの港に行かなくてはならず、集落からそこまでの間には『蛍樹の森』と呼ばれる森林が広がっていた。

蛍樹の森はその名の通り、闇の中で蛍のように光る木が生えている森だった。

けれど、そこはいたずら者の妖精シールゥ・ノウィクが根城にしている場所でもあり、うかつに入れば彼女の魔法で惑わされてしまうのだった。三人も森に入ると、彼女の術にはまってしまうが、孝明が何故か妙なカンを発揮し始めて道を示した。

ところが、やがてシールゥも意図していなかった事態として、森に潜んでいた魔物が動き出す。彼らは蛍樹の森の中心にある大蛍樹を汚染して操り、三人を襲わせた。

蛍樹たちは大蛍樹を中枢として互いに結びつきあっている生命で、大蛍樹が失われれば他の樹も長くはもたない。広幸の熱の矢では大蛍樹を破壊してしまうため、手出しができなかった。

だが、この事態もまた孝明が解決する。彼は森の植物の助けを借り、大蛍樹を傷つけることなく元に戻すことに成功した。孝明もまた、広幸のように、しかし彼とは違う異能の力を行使していたのだった。

三人は無事に森を出て、その先の港町コルムを眺める。彼らに興味を持ってこっそりついてきたシールゥと共に。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

そんな話を少年たちから聞きながら、ネリーは歩きなれたコルムの街を彼らに案内していた。

けれど、心の中ではもうそれどころではなかった。地球からやってきた彼らに、ついていきたい。オルタナリアを救うための旅に、自分も加わりたい……でも、ネリーはコルムの街を守る為に重要なのも、また事実だった。漁師を襲う海の魔物を退治するには、水中を自在に動き回れるネリーが欠かせなかった。

あらかた街を案内し終えて、今度は少年たちに入り江の棲み処を紹介するネリー。かき集めた宝物を自慢していると、また街が騒がしくなりだした。

今度は、穏やかではなさそうな騒がしさだった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

そんなことを思い出しつつ、未知の海域を目指して進んでいくネリー。この後が、彼女にとってとても大事なところだったけれど、思い出巡りに邪魔が入ってしまったようだ。

魔物がやってくる。これまでとは違う気配だ。少し緊張して、けれど決して力は込め過ぎずに。ネリーは、シャコガイ・ハンマーを背中から構えた。

近づいてくるなら殴り飛ばしてやるが、搦め手を使われたら、ちょっと困る。それでも、そう簡単に負けてなんかやらない。

憧れる相手が、父以外にできたのだ。あの日の騒ぎと、それに続く大冒険を通じて。