Stroll Green日記
1~6
<その1>
オルタナリア。
そこは、魔法で満ち満ちた世界。
この世界の生き物のほとんどは、魔力を生み出します。体の中にたまった魔力はやがて外へとあふれ出し、空気のようにそこらじゅうを漂いはじめます。
そのせいで、オルタナリアでは不思議なことも起こるのです。
それは例えば、夢が現実へとにじみ出てきてくるようなこと。
それは例えば、理屈では片付けられないような出来事を起こすこと。
それは例えば、生き物によらずに生き物を生み出してしまうようなこと。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
オルタナリアにはオスフォンという森がありました。
世界の始まりの日からあるというこの森には、多くの生き物が棲んでいます。
言葉を持たぬ動物たちも、言葉を持つニンゲンたちも、オスフォンの森はわけへだてなく受け入れます。
森のはずれはニンゲンの国。奥はとこやみ、獣のすみか。
では、その間はどうなっているのでしょう?
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
泉に巻き付いた森の小道。
枝の渦を抜け、霧雨のようにやんわりと降ってくる光の中、ダークブルーの魚たちが影絵芝居のように現れては消えてゆきます。
丸い葉っぱの上では大きなカエルがどっしり構え、いばりんぼぶって鳴いているけれど、誰も気にしちゃおりません。
ふと、歩いてきた誰かさんも。
「ウゥ…… ヒック……ズズッ……」
その男の子はすすり泣きをしながら、歩いていました。
フードをかぶっているけれど、大きな耳を通すために頭のところを破かないといけませんでした。
ズボンもそうです。ふさふさした灰色の尻尾が顔をのぞかせています。
よく見れば、足を引きずってもいます。かわいそうに、どこかで痛めてしまったのでしょう。
とうとう疲れ切ってしまったのか、男の子は泉のほとりでへたりこみました。
「……ウゥ……。」
耳と尻尾のある男の子は水面を見つめます。
泉は深い闇をたたえた穴のようで、それでいてどこか、冷たく、気持ちよさそうでした。
吸い寄せられるように、頭を、近づけて……
「おーい、お腹壊すよ?」
「ッ!?」
どこからか声がして、男の子は右に左に、それから上にと首を振ります。
「ほら、こっちこっち……」
誘うような声は、前から―――と思ったら、すぐに後ろから聞こえてきます。
ビックリした男の子はぐるりと振り向き、
「やッ!?」
黒い鼻を、眼の前で浮いている手のひらほどの大きさしかない女の子に、うっかりぶつけてしまいました。
男の子は狼の頭を持っていて、ちょっと鼻っ面が長かったのです。
「ご、ゴメン……」
「あ、うん、大丈夫、こんくらいはね」
小さな女の子は背中の羽をばたつかせ、どうにか宙にとどまりました。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「……学校の子たちにはいじめられるし、父さんも母さんも、僕の話なんか聞いてくれなくて……だから、この森に逃げてきて……でも、ここは……町よりもずっと、怖くって……」
「そっか……」
羽根を持った女の子は、狼の男の子の話を一通り聞いてあげると、彼が歩いてきた方に向かって飛んでいきました。
「こっちの方が怖いってわかったんなら、帰ろうよ。いま、森に案内をするように頼んだから、このままこっちへ歩いていけば町に帰れるよ」
「で、でも……」
「……キミには、勇気があるはずだよ。逃げたいって思って、こんなところにまで来ちゃったんだろう? その気持ちが続く限りにぶつけてやればいいじゃないか。それでも、ダメなら……その時は、ボクがキミを、勇気のいらない世界へ連れてってあげるよ。だけどその前に、もう一度だけ、確かめてよ」
男の子のうるんだ目の中に、小さな女の子は、しかしはっきりと見えていました。
「―――うん、わかったよ。ありがとう」
狼の男の子は笑顔をみせて、道の先へと歩いていき、もやの中に消えていきました。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「へへ、世話が焼けるなあ……ここにはもう戻ってこないって信じてるよ。今度会うとしたら、森の外れで、ネッ」
去っていく男の子を見送った女の子は、振り子のように空へ飛び上がりました。
どうせ羽根があるのだから、ちょっとでも明るいところで過ごしたいのです。
枝の間をすり抜けて、どんどん、どんどん高く―――そこへ、バサッ!
「うわっとと!」
何かヒラヒラしたものが女の子に覆いかぶさりました。
手紙のようです。なんとかつかんで、飛び上がりながら読んでいきます。
「なんだこれ、なになに、素敵な庭園をオープンしました……空の、島に? ふうん、そんなのあったら面白そう―――」
手紙を読み終えた女の子は、ふと顔を上げます。
―――そこは雲の海の上。大きな島が、浮かんでいました。
<その2>
空の上の島は、大きな庭園になっていました。
そこは見たこともないような美しい花が咲き乱れ、雲の海にまで香りを満たす、不思議な場所でした。
しかも、村や町というくらいの大きさではなく、とても一日二日では周りきれそうにありません。お庭なのに、人の手が入っていないようなところさえありました。
それなのに、もうすぐここは閉まってしまうというのです。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「んふふっ、おいしーい」
庭園の入口近くのレストランで、翅の生えた小さな女の子が食事をしています。
今日の献立は、紫色のほんのり甘酸っぱいジャムがちょこんと乗ったワッフルのきれっぱしと、作りたてでほっくほくのポテトサラダ、それから庭で採れた木の実のスライスです。
どれもみんな、とても小さな女の子に合わせて、特別に用意してくれたものでした。
「お庭が閉まっちゃったら、これも食べらんなくなっちゃうよねえ……」
せっかくのおいしいお料理なのに、そう思うとどこか寂しくなってしまって、満足に味わえません。
「人が来なくなっちゃったから閉めなきゃいけないのかな。それとも、閉めなきゃいけなくなったから人が来なくなったのかな……?」
ここが閉まってしまうのを女の子に伝えたのは、コバルトという若い男の人です。だけど、コバルトはそれ以上のことはまだ教えてくれていませんでした。
「あの招待状だって、そもそも閉めちゃうのなら、なんでばらまいたんだろう。コバルトさんも知らなかったみたいだし」
いくら考えたって答えは出ません。わからないことが、まだまだ多すぎるのです……
そこへ、ピ、ピピピッ、フィィーッ。笛の音みたいな鳴き声が聞こえてきました。
小鳥が―――そうはいっても女の子にとっては、抱きつけるくらい大きいのですが―――はたはたと羽ばたきながら、女の子のいるテーブルに降り立ちました。
「ウン? どうした?」
小鳥は続けて、ピピッ、ピリピリ、フィーッ。さえずるたびに、女の子もウン、ウンと首を振ります。
「よしわかった、行こう!」
女の子は残っていた料理をほっぺに詰め込むと、そのまま背中の翅を広げて小鳥とともに飛び立っていきました。
おっと、お代はちゃんと先に払ってありますよ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
小鳥に案内されて向かった先は、おだやかな草原の道から少しそれた森の方でした。
中を見ると、夏の暑さに耐えかねているらしいゴブリンが二匹、できるだけ木陰に入っていられるようにふらふらと歩いています。
小鳥は枝に立ち、ゴブリンたちを見つめ、ひそやかに鳴きました……ピ、ピピッ。
「……オッケ、ちょっと見てくる。まかしといて」
女の子は脇の木々の間をすりぬけて飛び、二匹のゴブリンの右手に出ました。
「あッ、アレ……」
ゴブリンたちはカゴを担いでいました。中には果物やらきれいな石やらが入っていましたが、それらに混ざって女の子の目を引くものがありました。
ピンクの髪の、女の子と同じくらい小さな人が横たわっていたのです。その体は、カゴのふたが陰になっているのを考えても、とても色あせて見えました。
女の子には、小さな人が、今にも消えてなくなってしまいそうに思えました……
「ッ!」
女の子の指から光の矢が放たれ、地面に咲いていたマジャの花を撃ちました。
すると、どうでしょう。花はみるみるうちに紫色の大きな毒蜂に変わり、ブンブンと音を立てて陸から浮き上がっていきます。
「ややっ!?」
前のゴブリンが驚いて、カゴを落としそうになりました。
「なんだ? あんな魔物はいたかな……さては、ジャマする気か。追っ払うぞ!」
後ろのゴブリンはそう言って、蜂に向かって小石を放り投げましたが、かすりもしませんでした。
「くぬやろ、くぬやろ!」
ゴブリンたちは蜂にくぎづけになりました。
その間に女の子はカゴのふたを開けようと手をかけましたが、女の子の力ではなかなか開きません。
そこへ、ピピ、ピリリッ。さっきの小鳥もやってきて、ふたをクチバシでつかんで頑張ります。
「あっ、ありがとう!」
ふたが少しだけ開いたところに、すかさず女の子は飛び込みました。あの小さな人のところまですぐさま飛んでいき、
「きみ、しっかり!」
小さな人を抱き起こしますが、目が覚める様子はありません。近くで見ると、枯れそうな花のようですらあります。
「本当に弱ってしまってるんだ……ええい!」
女の子は力を振りしぼり、小さな人を抱えたままカゴの外に抜け出しました。
「あっ、ドロボウ!」
蜂と勝負していたゴブリンたちが振り返り、怒鳴ってきます。
「悪いけど、いただいてくよ!」
女の子と小鳥は一緒に小さな人をつかみ、お互いの翼の力を合わせ、空へ上がってゆきました。
<その3>
羽のある女の子と小鳥は、小さな人を河原まで運んでいきました。
目ん玉とヒレのついたスイカたちが、水の中から顔を出して女の子たちを見つめています。女の子は彼らに左手を突き出して待ったをかけつつ、陸におりたちました。
「さあ、もう大丈夫だよ」
初めからそうすべきであるとわかっていたかのように、女の子は小さな人の身体を抱えて河原の浅いところに漬けました。
心地よく冷えた水が、ゆっくりゆっくりと小さな人に染み込んでいきました……色をなくした身体はみるみるうちに、お花畑のように鮮やかになっていきました。肌にはきれいなハリが現れ、こころなしか重みも増していくようです。
そして、とうとう小さな人はまぶたを開き、ローズ・クォーツの瞳に女の子の顔を映しました。
「よかった! 目が覚めたんだね!」
女の子は一息つくよりも先に、にっこりと笑いました。
まだぼんやりしている小さな人は、それでも返事をしなくてはと思って、
「……あなた、は……?」
オカリナを思わせる、高く柔らかい声でした。
「ボクはシールゥ、シールゥ・ノウィク! 見ての通りの妖精さ。キミもそうなの?」
「……わからない。名前、は……」
小さな人は、何回か息を吸って吐くまでの間考えてから、女の子―――シールゥに答えました。
「―――プレシャ」
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
その頃、森の奥の方で大声がひびいていました。
「まったく、こんの役立たずめが! 妖精ごときにあの花の娘を盗まれただと! あんな、人間にこびを売るような連中にしてやられるだと! お前らなんぞ、ゴブリンの恥さらしだ!」
ひときわ背が高く―――それでも人間に比べれば小さいのですが―――腕っぷしの強そうなゴブリンが、さっきシールゥと小鳥が相手をした二匹に向かってどなり散らしていました。
「ご、ごめんなせえ、親分。でも今日はおかしかったんです。変な毒蜂が出てきて……」
「おかしもカカシもあるかってんだ! あいつがいれば、おれたちが花の力の秘密をひとりじめできたかもしれねえってンのに……!」
親分ゴブリンはいらいらして、得物の斧を思い切り地面に振り下ろしました……ガッチーン! 目の前の二匹はノミみたいに跳び上がってしまいました。
「す、すみませんだ、ほんっとにすみません!」
「本当にすまんと思っとるんなら、必ずやその妖精をやっつけ、羽もむしって持ってくるのだ。もちろん、あの花の娘も取り戻せ。それまで帰ってくんじゃねえ!」
「へ、へい!」
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
シールゥとプレシャ、それから小鳥は木の枝の上にあがって休んでいました。
「これ、おいしいよね。ボクもうすっかり気に入っちゃって……」
枝から摘んだ、牛の角の先っちょみたいな形の木の実を二人と一羽で食べています。
「うん……食べたの、はじめてだわ」
「ン? 食べたことなかったの?」
「……食べてたのかも、しれない。私、なんにも覚えていないの。あなたに会うまで、ずっと眠っていたような気がする」
「き、記憶ソーシツってやつ……? もしかしてあのゴブリンどもに、なにか……」
シールゥは悪い想像をしましたが、プレシャは小さく首を振るばかりでした。それなら、無理になにか言うことはないのです。
「うん、まあいいや。きっとそのうち思い出すよ。それまでは……どうしようかな、いったん帰ろうか」
とりあえずハナコたちのいるところまで戻れれば、悪いやつはそうはいません。
ここへ逃げてきたときのように、シールゥと小鳥の両方でプレシャをつかみ上げ、飛び立とうとした、その時でした。
「待ちたまえ」
後ろから聞こえてくる声が、動きをぴたりと止めました。
「だ、誰だっ!?」
シールゥが振り向くと、そこに布切れをまとった何かが、木の上の方から降りてきていました。
影の中に漂うゴーストです。
「その子を、どこで見つけた?」
ゆらゆらと震えるような、けれど確かなリズムの声がシールゥに投げかけられました。
「だ、誰だって聞いてるんだよっ!」
「わたしは幽霊さ。それ以外の何者でもないよ。それより、その子はどうした?」
「ゴブリンに捕まっていたんだ。なんだか放っておいたら死んじゃいそうだったから、かっぱらってきた!」
「……死んでしまう、か。そんな風に見えたのだね、君には」
ゴーストは、まだなにか言葉を続けたがっていたようでした。
けれど、その前に、どこかから……ヒュゥッ!
「あッ!」
石が飛んできたのです。シールゥたちの、ちょうど真後ろから!
振り向いたときには、もうよけるには手遅れだったのです。
―――ガスッ!
シールゥの目の前が、真っ暗になりました……
<その4>
……シールゥはどこも痛くないのに気が付きました。では、目の前を隠しているものは何なのでしょう。
それは、ゆっくり傾き、ばさりと枝から落ちていきました。さっきまでちょうど反対側で話していたはずのゴーストです。
「わぁあ!」
シールゥは弾丸のように下へ向かって飛び出して、真っ逆さまに落ちていくゴーストを追いかけようとしました。が、ヒュッ! ヒュッ! ひとつ、ふたつと石がすっとんできて、シールゥに当たるかというところでそれていきました。
石が来た方を見ると、小さな人影が二つ。何かを構えているようです。
いずれにせよ、このままではかばってくれたゴーストのことを助けられやしません!
「ええいッ!」
―――ィーン! シールゥが目をつむったとたんに、甲高い音が響きました。
すぐさま小さな影が現れて、落ちていくゴーストをかっさらいながら走ります。布のような身体をまとったまま、石を投げつけるやつらの下へ!
「なんだァ!?」
バウ、バウッ! ゴーストの身体をふるい捨てて現れたのは、一頭の犬でした。
慌てふためく襲撃者たち、その片割れの胸元をめがけて飛びかかります!
「わァ、わあっ」
木のボウルとくず鉄のパチンコが宙を舞い、草の上に落ちました。持ち主はゴブリンです。それもさっき、シールゥと一悶着起こした連中でした。
「こんの、犬ッころなんぞに!」
もう片方のゴブリンが犬の頭めがけ、パチンコの持ち手を振り下ろしました。
が、ビュッ、ヒラリ! 犬はまるでわかっていたかのように小さな動きでそれをかわすと、ちょうど目の前に来た腕に思いっきり噛みついてやりました。
「ウンギャア!」
二体のゴブリンはもう、てんてこまいです。
そうしている間にゴーストも力を振りしぼり、起き上がって前を見ました。小さな淡い光が、木の下で躍っています。
「今のうちに逃げてっ!」
光の主―――シールゥ・ノウィクが叫びました。
その通り、逃げるべきでしょう。ですが、あの木の枝にいたはずの子は……?
さっきまで居た木の上を見上げてみると、差し込む日差しが風のせいとは思えないほどにひどく揺らめいていました。
―――ピィーッ!!
甲高い小鳥の悲鳴の中で、ゴーストには確かにプレシャの声が聞こえていました。
「きみ、プレシャを……!」
「えっ!?」
シールゥが体をひねって飛び上がろうとした矢先に、バッタが、まさにバタバタと、降ってきたのです―――大きなバッタに乗った、グラスホッパーたちが!
「ワアッ―――!」
落ちてくるバッタの細い足に蹴っ飛ばされ、シールゥはのびてしまいました。
「待てェ!!」
力強い声が、ゴーストの中から出ました……彼はほんの一瞬、そのために、動きを止めました。
そこへ……ガォン! 後ろから振り下ろされた何かが、ゴーストを再び大地に押し倒してしまったのです……
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
輝くもやが、シールゥ・ノウィクを包み込んでいました。目をこすっても消えませんし、触ることもできません。
耳を澄ますと、風の音がするようです……かと思えば、まるで割れていくガラスのようにおそろしい悲鳴を上げました。
鼻の奥にも匂いを感じます……マーサ? それとも、コリノ? 空の庭で見つけた花を思わせ、けれど自分の知っているどれとも違う香りです。同じようにやってくる、掴みどころのない味、手触り……
「ウゥ……!?」
この世のものに似ているようで、何か決して理解できないものがすぐそこにある。そんな感じがして、シールゥはとても不気味に思いました。
そういうものは、妖精のこころとからだの枠を侵しうるのです……
「……シー……ゥ……」
誰かの声が、ふと、聞こえました。
「アッ!? 誰だ!」
なにしろ声の響きの具合もいつもとは違うのです。
「シー……ルゥ……」
光のもやの向こうから声がします。
名前を、呼んでいる……そうとわかった途端に、みるみるうちにそこに形が現れていきました。
「シールゥ……」
見えたのは、花の咲く庭。そして、
「……こわがらないで。私は……」
桃色の髪をした、女の子が、一人。
<その5>
男の人は、ほとんど毎日シールゥを連れて町に行きました。
「こんにちは、レイウッドさん。お仕事、お疲れさまです」
町の門に立つ二人の衛兵が、あいさつしてきます。
「シールゥちゃんも元気そうで何よりだよ。ほら、おやついるか?」
もう一方の衛兵が、男の人……レイウッドの肩に乗るシールゥに、コリッとしたお豆を一粒差し出しました。
「こら、やめろって……ごめんなさい。こいつ、シールゥちゃんみたいな、かわいくて危なくない妖精見るの、初めてだってンで」
そのシールゥはもうお豆をつまんでリスみたいにかじっていました。
「はっはは、よかったなシールゥ? ほら、ちゃんとお礼するんだぞ。あなた方もお疲れさまです」
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
町はおもちゃ箱をひっくり返したように、刺激に満ちていました。
パンの焼けるにおいが漂ってきたかと思うと、そのとなりではつややかなお皿がガラス越しに飾られています。さらにその先には、花のような服を売る店。道にだって、ふざけ合う子どもたち、うわさ話に興じる大人たち、どこからかやってきた旅人、馬車を走らせるお金持ち……
シールゥはそこかしこに目を向け、耳を澄ませています。ここでぼうっとしているだけでも飽きない自信がありました。けれど、レイウッドは目的があって町に来たのです。
町の真ん中の噴水広場で、レイウッドは年をとった女の人に声をかけました。
「こんにちは。モウミアさんですね?」
「ン? あら、レイウッドさんじゃあないの。やや、よく来てくださりました……そのね、最近ね、変なネズミを見ちゃったのよ。豚くらいに大きくて、こおんな長くてぐるって曲がった爪があって……確か、角もあったはず。もしか危ないマモノだったらと思うと、怖くて怖くて……お隣さんの飼ってるネコちゃんも、毎日なにかにおびえてるみたいだっていうし……」
目を伏せるモウミアに、レイウッドは落ち着いた声で答えます。
「ふぅむ……とにかく調べてみましょう。そいつはどこで見かけたんです?」
「こっちです、ついてきてくださいな」
モウミアは通りに入り、家をいくつか通り過ぎた先の路地裏まで歩いて行きました。
こんな具合にレイウッドは、魔法の力で町の人の悩み事を解決してあげて、そのお礼で暮らしているのです……他にもあれこれ仕事はあるのですが。色々なことができる魔法使いは、なんでも屋みたいなものなのです。
たまに、こうやってマモノが出たなんて言ってくる人もいました。マモノはこの世界に生きるニンゲンたちの敵です。放っておけばどんどん仲間を増やし、大変なことになってしまうのです。もっとも、町の外側はさっきのように衛兵たちが守っていますし、雇われた魔法使いたちも見張っていますから、マモノが入ってくるなんてことはそうそうないのですが……
「ここですよ、レイウッドさん」
モウミアが指差した先は薄暗くて、奥まで見えませんでした。太陽がまだ昇りきっていないというのもあるのでしょうが、それにしたってちょっと暗すぎるように思えます。
「わかりました。後は私にお任せ下さい。結果が出たらお知らせしますから」
そう言ってレイウッドは路地裏の中に入り込んでいきました。どんどんと、闇が迫ってきます……見れば、途中からいきなり暗くなっているようでした。
シールゥはレイウッドの肩をぎゅっと握って、途端にあの光を撃ち出す魔法の図形を一瞬のうちに感じ取りました……
パァン!
と、光が放たれるというだけなら、予想していたことです……が、照らされた先から、闇が虫の塊だったかのようにうぞうぞと動き出し、石畳の隙間に逃げ込んでいくではありませんか。
「シールゥ。日が沈むまで……そうだな、レストランのコーヴァさんのところでお世話になりなさい。お金も渡しておこう」
レイウッドはシールゥをそっと引き離そうとしますが、弱いなりにしっかりとした力でしがみつかれて離れません。
「今回はもしかするともしかするかもしれん。お前を危険にさらしたくはないんだよ。何、安心しなさい。ちゃんと帰ってくるからね。さあ、行くんだ」
この先にマモノがいるかもしれない。あの黒いのも、まさか……
シールゥは羽ばたき、そっとレイウッドの肩から飛び立ちます。空いた両手にコインをもらって、路地裏を離れていきました。
奥に進んでいくレイウッドを、二、三回ばかり振り向いて、見つめながら。
……だけど、その姿がだんだんよく見えなくなっていきました。
闇ではなく、光に。
光のもやに、覆われて……
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「レ、イ……ウッドッ……!」
握ったまま、グッと伸ばした手が……ゴチンッ!
「あいったたぁ!」
おかげで目が覚めたシールゥは、ゆっくり身体を起こして辺りを見回しました。
目の前に、柱が並んでいます。右、左、後は壁です。柱の先を見てみると、スコップだのジョウロだのといった花壇の世話のための道具だったり、剣や兜や盾だったり、さらにはなにかの生き物のドクロが飾られているようです。
「……捕まっちゃったんだな。多分あの、ゴブリンどもに……」
檻の中にいるのはシールゥだけでした。あの小鳥も、守ってくれたゴーストも、プレシャも、ここにはいません……けれど、プレシャに関して言えば、どこかに置いておかれているかもしれません。なにせあのゴブリンたちが狙っていた相手なのでしょうから。
だけど、一体どうしてゴブリンたちはプレシャを求めているのでしょうか。もしも、なにか良くないことをしようとしているのなら……
「なんとか、しなくっちゃ!」
シールゥは心に念じました。暗闇の中に点をうち、線を結び、あの時とは違う形を作ります。
部屋の空気がシールゥの周りで暴れだして……ビウッ! 風の刃が撃ち放たれ、檻を切り裂きにかかりました。が、キィーン! 傷の一つもつけられず、かき消されてしまいました。
「な、なら……!」
もっと強い魔法の形を念じて……ボゥッ! 空気の塊が、檻の中でさく裂しました。けれどやはり、檻を壊すことはできませんでした。
けれどシールゥは諦めません。何度も、何度も魔法を撃ちます。ボウ、ボウ、ボウッ―――
―――バァーン!
突然、どこかの扉が開き、何かがずいずいと迫ってきました。
やがて、檻の向こうに顔が見えました。ゴブリンです。けれど、明らかに目つきが違います。ごつごつとした冠みたいな兜をかぶり、腕も首も太く、背中には大きな出刃包丁を背負っていました。
「騒がしいじゃねえか? おう、妖精さんよ」
ドスの効いた声が、シールゥに、まるで重りのようにのしかかってきました……
<その6>
「……プレシャをどうしたんだ。答えろよ!」
体中の力を振り絞って叫んだシールゥに、兜のゴブリンはフンと鼻を鳴らして、
「教えてやらねえよ?」
グルリと背中を向けてしまいました。どこかの獣の皮に覆われた、岩のような背中が遠ざかっていきます。シールゥの目の中から、去っていきます―――
―――ボッ!
檻の隙間から出たシールゥの右手から、空気の塊が放たれました。
兜のゴブリンは右肩を打たれてよろめき、あやうく倒れこむところでした。彼は床を捉えなおすやいなや、ずんずんと音を立てて檻の前に戻り、太い指でシールゥの右腕をペンチのように挟み込みました。
「アウッ……!」
次の瞬間には骨を折られても、あるいは腕を丸ごともぎ取られてもおかしくはありません。けれど、シールゥは目をつむりませんでした……瞳は妖しく金色に光り、まだ空いている左手に風が集い始めています
兜のゴブリンはすかさず檻のカギを開け、シールゥがなにかしようとする前に大きな手で彼女をつかんでしまいました。
「グ、ゥ……ッ!」
「……おれさまの前でずいぶん根性あるじゃねえか。ここの妖精じゃあないな?」
あまりの力で、もう息もろくにできません。
しかしそれでも、かすんでいく兜のゴブリンに向かって、シールゥは叫びました。『そうだ』と。
ふいに、力が緩みました。シールゥがすかさずもがくと、
「あグッ……!」
「大人しくしろ!」
また締め付けられ、息が詰まります。今の彼女はまるで、嵐の海の中でもてあそばれる小舟のようでした。
兜のゴブリンは、入ってきた扉を抜けて歩いていきました。
部屋の外にはトンネルがずっと続いていて、ランプの灯りが照らしていました。道は上に下にと枝分かれし、部屋がいくつもつながっています。中では魔物たちが暮らしているようでした。皆、外にいるのとは違った目をしていて、なにかに従い続けているようでした……あの時、蹴っ飛ばしてきたグラスホッパーたちの姿もありましたが、掴まれたシールゥの姿に気づくと目を伏せてしまいました。
進んでいくにつれて部屋の数も減っていき、曲がり角もなくなります。真っ直ぐな長い下り坂に至りました。ずっと、ずっと降りていくと、その先はにわかに、外からの光で明るく……色鮮やかになっていました。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
巨大な円柱の形をしたその場所は、薄暗く、けれどやんわりと明かりが降りてきていました。見上げると天窓があって、そこから月明かりが差してきているのです。
部屋の外回り、人間が五人くらいは並べるほどの幅の道を除いては、全てが花畑で占められていました……木の柵で分け、そのひとつひとつに違った花が植えてあります。ブラドやレスプといった寄せ集める育て方をするには適さないようなものや、こんな風のこない場所では咲けないはずのフウガの花までありました。
こんな、息が詰まる地底の城のような場所には似つかわしくない風景……ですがそれ以上に、シールゥの目を引いたものがありました。
「……ちょっ、アレ……!」
シールゥは見逃しませんでした。花が揺れる真ん中に、座り込んでいる、自分と同じくらいの背丈の、ピンク色の髪をした……
「ねえっ! あの子は! 何でこんなとこにいるんだ! プレシャはっ!」
「ちょっと黙りな……」
ググッ! 兜のゴブリンは、シールゥの身体をへし折ってしまいそうなほど強く握りしめました。
ですが、シールゥの瞳の中の光を消すことはできませんでした……そこに描かれている、形を。
―――ビュゥッ!
突然、皮が割れるような痛みが兜のゴブリンの足元に襲いかかりました。たちまち、力が奪われ……ドゥッ。滑るように倒れ込んでしまいました。
「はぁッ!」
シールゥは身をよじって兜のゴブリンの手を抜け出し、花畑へ飛んでいきました。なんとか立ち上がろうとする兜のゴブリンは、その行く手に……青と白の毛皮と氷のような角を持ったドラゴンの首が佇んでいるのを見たのです。その口からは、白い息がほろほろと霧のように漏れ出していました。
「なっ……ど、どこから……入った!?」
蛇のように鎌首をもたげ、わめくように花弁を広げるレフロスの花。シールゥはその横をすり抜け、声の限りに叫びました。
「プレシャーっ!!」
『……えっ!? シールゥ……!?』
返事が、どこからか、届きました。
「こんちくしょうがッ!」
兜のゴブリンが出刃包丁をグルリとぶん回すと、ドラゴンはいともたやすく首を切り飛ばされ……宙を舞いながら、花びらに変わり、散っていきました。脚に受けたあの痛みも、嘘のように消えていきます。
「幻かい! あの妖精めが……!」
ドスン、ドスン! 花を踏み荒らしながら、兜のゴブリンはその中心めがけて駆けていきます。
『早く逃げて! わたしにはもうどうにもできないの! あなたも殺されてしまうわ!』
プレシャの声がします。ですが、目の前にいるプレシャは、口を……それどころか身体全体をぴくりとも動かしていません。
「キミにだめならボクがなんとかする! ここの花を使えば、あんなやつ!」
シールゥは迫る兜のゴブリンを見据えました。今、自分の下にはヴァイタの花がある。この花の守りの力を引き出せば……
「……花の、力をッ!」
『やめてェ!!』
シールゥは一瞬、何が起きたのかよくわかりませんでした。
ゴブリンが、すごく恐ろしげに笑って、プレシャの、声が……
……なんだか、寒い。
見下ろすと、
身体が、斜めに、切り裂かれて、いたのです。
『いやぁぁァァァーッ!!』
―――ゴーォォオオーゥッ!!
竜巻が、起こりました。
花びらが舞い飛び、かんしゃく玉のように弾けては、形の整わない力を撒き散らしていきます。
風が吹き、雷がそこら中を打ち、炎と吹雪が踊り狂い、光と闇とがせめぎ合います。
土の上に落ちたシールゥは、焼け付くようなその光景を見つめ、今にも消えてしまいそうな身体に鞭を打ちました。
寝返りを打ち、這っていきます。片腕で地面をつかんで、前へ。プレシャの、いる方へ……
『シールゥ……私の、せいだわ……私の……』
「……かまわ、ない……ボクは、キミを、ほっとけ……ない、から、さ。大切……なんだよ……」
『たい、せつ……』
「うん……だから……」
ふと、シールゥの身体が、見えないなにかの力で持ち上げられました……大きく裂けた身体に、ピンクの光の粒が吸い込まれていきます。
「プレ、シャ……?」
『あなたは……私にだって、大切なの。きっと、そうだわ』
プレシャが少しずつ遠ざかっていきます。
「プレシャ!? 何を!?」
『ごめんなさい。あなたには生きててほしい。もう二度と会えなくなっても……ここからは、私だけで、全部すませる』
「なんでだよ! 何言ってるんだよ!」
『……ほんとに、ごめん……シールゥ! 元気で……!』
ゴォォーッ!!
未だ続く花の嵐の中を、シールゥは一気に上昇していきました―――