百合鏡(5期)記録
21~30
<その21>
ググッ! グワンッ!
獣は、背後から、胸郭をまるごと握られ、持ち上がる。
へし折られそうに思えるほどの圧を受け……ポゥッ! 獣は、口から胃液を撃ち出す。
ジュウーッ!
捕縛する力がゆるめば獣は落下するが、四つの脚を広く取って、転ばずにすんだ。
ここでようやく、襲撃者の姿が目の中で像を結ぶ。どす黒い、腕だけのなにかだ。
獣のゲロをひっかぶったそれは宙をメチャクチャにひっかきまわし、そこら中に悪臭を撒き散らしている―――もともと、骨でも分解してしまうほどの強い胃液だ。使い魔となってからは敵意を込めながら吐き出すことにより、銀の延べ棒でさえ溶かせるようにもなった。
すぐには復帰できまいとふんで、獣は駆け出す。
とにかくここを逃げ出し、よそでゴミ漁りをすることだ。天井近くに隙間がある。逃げるとしたらあそこからしかないだろう。
決断するや否や、獣は別なゴミバケツへと跳躍をした。
が、ダァンッ!
踏んだバケツが勢いよく倒れ、獣の前脚は隙間に届かず、空振りになる。
そのまま、今度ばかりは獣も、ドォッ! 壁に勢いよく身体を打ち付けてしまう。
痩せ細った獣の身体に衝撃は強く響き、なかなか起き上がることができない。
それでも首を起こして見れば、あの腕がばらばらに分解しつつある。
胃液に溶かされて、ではない。積み木が崩れるようだった。あの腕は、何かが寄り集まってできていたのだ!
ピチャッ、ピチャピチャッ! 地面に落ちたその欠片たちは身体を震わせ、黒い粘膜を振り払う。そうして顕になったのは、獣の足より一回り小さいくらいの虫だった。
彼らは列をなして逃げ去っていく。ゴミ捨て場の出入り口ドアの隙間から、キッチンの方へ……
そうはさせまいと、獣は大きく前方に飛んで立ちはだかる。彼女の帽子の穴から、鋭い紅の光が吹き上がった。
―――バゥン!
獣の鼻っ面の延長線上で、宙が爆ぜる。
建物のどこをも傷つけぬような術だったが、吹けば飛ぶような虫けら達はコロリとひっくり返ってしまう。
その間に、後ろへ一歩、また一歩。尻にドアを感じたら、横っ腹で張り付き、隙間を塞ぐ。
ところが、背後からくる声と足音。
「なんだァ?」
「爆発だよなぁ、今のは?」
さて距離はいかほどか、推し量ろうとしたところに……ブウブウ、ブブブッ! 前方から、耳障りな羽音が来る!
虫たちは、あの天井の隙間から羽ばたいて逃げるでもなく、再びあの粘膜で身体をまとおうとしていた。
身を覆い尽くし、結びつき……先程のように、一本の腕へと変じる。
その先っぽの手だけがぶくぶくと太っちょのように膨れ、握りしめられ……獣の浮いた肋骨をめがけ、拳骨が飛んだ!
ブォゥン!
獣はすぐさま立ち上がると、正面から漆黒の拳に喰らいついた。
ズッ!
獣はわずかに土埃をあげて後退したが、それだけだった。
そして、瞳がまた赤く輝くと、獣の体内に光源が現れ、ぶち柄の皮を照らした。
光源は腹の奥から胸へ、それから喉へと進み……
ゴォゥ!
炎として、その姿をあらわにした。
壁にも天井にも届かぬ、小さな炎の放射である。しかし牙を突き立てたものを焼くには十分なものだ。
虫たちはたまらず、散り散りに逃げようと試みた。
が、獣はそれより先に、首から肩の力で喰らいついたものを地面に押し付け、勢いのままに喉の奥へと引きずり込む。
絶えず炎で炙りつつ、拳骨から手首へ……
そこでドアが開く。
「お、おぉいおいおいおい!?」
「おいおいおいおォ!?」
入ってきた、二人のスタッフ……ヤギの頭をした男と、紫の肌と角を持つ男は、揃って目を丸くした。
おおむねは静かなはずのゴミ捨て場で、大きな四脚の獣が黒い蛇のようなものと格闘していれば、そうもなるのだ。
「ってちょっと待て、あの食われてんの……バケゴキブリじゃねえか!?」
「うわ、マジだ」
そのバケゴキブリとやら―――黒い腕となった虫の群れは、二人の見ている前でどんどんと飲み込まれていった。
ググッ、ゴクン、ググッ、ゴクン……ッ。
獣の喉元の膨らみが、流れるように腹の中へと移動していく。
ついに、最後の数センチを口の中に納め、残り火を漏らしながらあぎとを閉じる。
それから上を向き、重力の助けを借りて飲み下そうとしたところで、獣は入ってきた二人に気づいた。
<その22>
獣は天に伸ばした頭を下ろし、入ってきた二人の男を見つめた。
あの虫の集合体を身体に収めたことで、腹が西瓜を丸ごと飲み込んだみたいに膨れてしまった。これではちょっと隙間から外に出るというわけにもいかない。
幸い、獣には戦うか逃げるか以外にも選択肢がある。首輪に念を込めて、振動させた。
「……《あの》《ごめんなさい》」
「へ!? しゃ、しゃべっ……」
「おいおいおいおぉい……!」
前方の二人がそろって目を丸くする。
次はどうしたものかと考えている間に、ヤギ頭の方が深呼吸を一つして、
「や……謝ンのはいい。むしろ感謝してる。バケゴキブリが出たなんつったら給料減らされちまうからな」
「そ、そうだな」
隣の紫の男もうなずいた。
「しかしお前さん何モンだ? 使い魔だよな?」
と尋ねるヤギ頭に、獣はとりあえず肯定をした。
「ンー……それにしちゃおかしくないか? ちょいと痩せ過ぎかもだぞ。喋れるくらいすげぇ割には」
「それもそうだな。お前さん、どこの先生のところから来た?」
ヤギ頭は少し腰を下ろし、獣の身体を観察しながら聞いてきた……確かに、今の自分はとても、いいとこの使い魔には見えまい。
さりとてバカ正直に答えれば門の外に放り出されるだけだ。
「……《猫》」
考えた末に、その一言が獣の首から出てきた。
「猫?」
「《白くて》《黒い》《年寄りの》《猫》」
「……あぁ、あいつか?」
うまい具合にヤギ頭と紫の男の注意がそれて、話しだす。
「このアカデミーに、年取った地術士の先生がいたんだ。去年の今くらいに亡くなられちまったんだけど……その人の使い魔があの猫そっくりだったんだよね」
「そうそう。八年くらい前の魔法大会でさあ、城みたいにデッカイ獅子に化けて、もう火は吐くわ竜巻は起こすわ地面は揺らすわで、危うく会場がぶっ壊れるんじゃねえかって思ったよ」
「まぁ、ご主人の先生の助けも借りてのことだけどな。もちろんすごくないわけじゃないが」
「で、先生が亡くなられた後もその猫を見たってやつがちょくちょくいるんだな……まぁ、そんだけ力があったんだし、きっと幽霊になってアカデミーを見守ってたりするんじゃねえかなーってことになってんだ。そういや、俺もいっぺん見たような気がする」
「《生きて》《いる》?」
「あり得ねえよ。主が死んだら使い魔も死ぬ、常識だろ?」
獣は静かにため息をついた。
あの猫が幽霊だなどとは、獣には思えなかった。音も立てれば重力にも従い、なにより臭うものが、幽霊であるはずが。
「……話戻すけど、お前さんはどっから来たんだ?」
獣は怯えるでも困るでもなかった―――話しがそれている間にも考えて、どうごまかすかを思いついていた。
「《わたしは》《学者見習いの》《使い魔》。《仕事》《来なくて》《貧乏》。《研究の》《持ち込みに》《来た》。《主人と》《はぐれた》」
「そうだったのか……」
ヤギ頭は、ほんのりと優しげな微笑みを浮かべだした。
「うん、もしよかったら……がっつり食いだめしてけ? あんなマズそーな虫だけじゃヤだろ、残飯でよけりゃたっぷりあるぞ」
「おいお前……」
「いいじゃんかよ。虫退治の礼だよ」
「いや、そういう問題じゃ……」
小突かれたり小突いたりの二人に、獣は声を投げかける。
「《魚》」
「お、魚料理か、どんなのがいい?」
「……《猫に》《お供え》」
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
獣はあの物置の片隅に戻ってきた。
老猫はぐったりとしていたが、獣が入ってくると、どこか億劫そうに反応をみせる。
獣は咥えていた袋を床におろし、開いた。中には、調理されていない、筆箱くらいの大きさの魚が一尾。
「《食べられる》?」
首をかしげる獣の前で、老猫はすぐには動かなかった。
空腹でないのか、ものを食べられないほど弱っていて手の施しようがないのか……獣にはわからない。
ただ、どうもしてやらないわけにはいかなかった。獣は首輪を震わせる。
「《聞いた》、《主人を》《失くした》」
老猫の耳が立ち、閉じていた目が開くのを獣は見て、畳み掛ける。
「……《わたしは》《あなたと》《同じ》」
老猫の目から、涙が一筋、こぼれる。
あたりは静かで、獲物の入った獣の胃袋がごぽごぽと鳴るばかりだった。
<その23>
老猫は自分を見て目を潤ますばかりで、魚に口をつけようともしてくれない。
だんだん居たたまれなくなってきた獣は、
「《行ってくる》……《また》《あとで》」
と喉を震わせ、ぼろ物置の出入り口から出ていった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
アカデミーの象徴たる二本の塔の巨城。そのふもとの一角に、獣のお目当ての場所はある。
目的を同じにする学生たちの流れに混じり、獣はなるだけ自然に歩いていった。皆、試験だレポートだと話し合っては、とりあえずという風に笑い合って緊張をほぐしている……そう言えば長らく笑っていない、と、ふと獣は思う。あるいはこれから先も、笑うことなどあるのだろうか……自分が生きている理由がわかったとして、その後は……
考えを振り払い、獣は巨大な扉をくぐって屋内に入る。
その先に待っていたのは、並び立つ本棚たちだった。高さは獣の十倍、あるいはもっとあるかもしれない。五段くらいごとに人が立てる程度のへりと安全柵とがついている。備え付けのはしごで登り降りできるようになっているが、意外と使われていない。翼のある者は羽ばたいて、そうでない者も魔法で浮力を得て本を取りに行っている。上には天窓があり、広大な空間をやんわりと照らしている―――よく見れば光に色がついている。入口側の壁にステンドグラスがついていて、西日が差し込むようになっていた。
とはいえこのまま中に入るわけにはいかない。皆、使い魔はケージに入れている。こういう場所で放し飼いにしてはならないのだ。
獣はちらと上を見てから一旦外に出て、城を見上げる。入り口、太い柱、ステンドグラス、その先は屋根、塔、窓、屋根、窓、窓、……
獣はしばらく散策し、二百メートルばかり南南西にある小講堂の、外壁に沿って積まれた木箱を見つけて飛び乗った。そこから、街路樹の幹へとジャンプ。抱きついたなら身体が落ちるより先に右前脚を伸ばし、幹の枝分かれに引っ掛けて登る。下から学生の訝しげな視線を感じたが、しばらく大人しくしていたらそれていった。
いくぶん太い枝の上を慎重に歩き、建物の屋根の上に乗ったらしめたもの。大通りから身を隠しつつ駆け抜け、跳んで、また駆けて……
獣はあの城の近くまで、今度は一定の高度を得て戻ってくることができた。が、それでも、あのステンドグラスにすらも届きそうもない。
姿勢を低くし、棟の下に隠れて獣は時を待つ。狩りをするようなものだ。待っていればチャンスは巡って来るし、来ないようなら別な手立てを考えるほかない。
今回に関して言えば、前者であった―――遠くから誰かが喚く声と、火が爆ぜる音が聞こえてくる。乗り出して見やると、小さななにかが炎を撒き散らしながら空中を駆け抜けていた……鳥の形をしている。火の鳥だ。誰かの使い魔で、うっかり逃がしてしまったのだろう。
その軌道が、獣の脳内にすぐさま描かれた。
獣は勢いよく空気を吸い込む。腹が丸く膨らんだかと思うと、白に近い橙の光が宿り、周りの景色が揺らめくほどの高熱を発する。
ほんの一秒ほどで、それは獣の喉からあぎとへ移動し、姿を現した―――白い、直径十センチほどの、火をまとった弾丸だ。ほぼ消化されかかっていたあのバケゴキブリとやらの残骸とともに、外界に放たれた。
そのまま直進するそれを追いかけるかのように、ドウッ! 獣は屋根から跳躍をした。
羽ばたく火の鳥。直角に突き進む火球。陸にいる者たちは激しく舞い散る火の粉に惑わされ、誰一人本当のことがわからない……そうでなくてはならぬと、獣は願った。
火球が、火の鳥がついさっきまでいた場所を抜けた、まさにその時に―――
ドォーンッ! 光芒を散らし、さく裂!
次いで放たれた爆風は火の鳥を大地に叩き落とし、獣を巨城の屋根へと運んでのけた。
急峻な斜面の上で、すぐさま獣は立ち上がり、伏せて下を見やる。
赤い鱗の竜人が後ろからのこのこと駆けてきて、火の鳥をケージの中に入れていた。
同じ火の力でそうそう傷つくものではないと信じ、獣は城の登頂を試みた。
<その24>
獣にとって、山や岩壁を登るくらいのことはたやすい。だから屋根の上を歩き回るのだって大したことはない。
西側の斜面から伸びた小さな塔を見つけると、獣はそこに身を隠し、時を待った。
やがて夜になり、あたりがすっかり静かになったところで獣は起き上がった。
塔の窓に回って口から小さく火を吐き、通れる程度の穴を空けてすり抜け、侵入をする。
この一回で、必要なものすべてを手に入れなくてはなるまい。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
夜の図書館は真っ暗ではなかった。
あの正面から見た本棚の列、その先にちらりと見えた巨大な階段の上に獣はいる。
教員たちのためのフロアに続く扉があって、そこから入ってきたのだ。左右にはバルコニーが広がっていて、そちらの壁にも本がびっしり詰まっていたりする。
手すり越しに下を見ると、灯りは本を読むためのテーブルでついていた。他にも、本棚の間を慎重に移動していくものもいくつか。この真夜中にまで調べ物をしなくてはならなくなってしまった連中だ。
とはいえこのくらいなら、隠れながらでも本は探せる。獣は臆することなく階段を降り、本の森へと入り込んでいった。
口の中に火を浮かべて灯りとし、使い魔に関わる本を探しまわる。
図書館の中にまで入った経験は少ないが、本が一定のルールに沿って並んでおり、内容を分類するシステムがあるらしいことに気づくまでにそう時間はかからなかった―――見たものからすぐにパターンを見いだせるほどには、獣は聡明なのだ。
案内板を見つければ、もう時間の問題だった。使い魔についての書籍が詰まった本棚に飛び込み、前脚で頭から傾けるようにして本を一冊ずつ取り出す。
『使い魔とは』、『契約』、『使い魔の選び方』、『使い魔としての亜魔族図鑑』……
ページをぼんやりと捲る分には、獣が知らないことも多く、興味深くはある。が、そうではないのだ……主が死んだのに使い魔だけが生き延びた、という事例がどこにもない。
中には、病に倒れてしまった主の闘病記なんてものさえあった。むしろこういうのは本屋に置くべきものなのではないかと獣は思う。ここは学術研究の場所ではないのだろうか。あるいは、憩いの場としても機能するようにしてあるのか……
いくら本を読んでも、目当ての情報だけが見つからないと、段々と孤独になってくるものだった。
結局、これに関して悩んでいるのは自分だけなのではないか、と。
そんな思いが獣を視野狭窄に陥れたのかもしれない。
本棚のへりに座って読みふける彼女は、近づいてくる灯火に気が付かなかった。
「……何? そこの?」
ローブをまとった魚鱗の女が、獣に声を投げかけてきた。
<その25>
獣はとりあえず返事をしてみることにした。
「《すみません》《ご主人》《トイレ》」
人はそこらにいるのだ。誰かの使い魔を名乗って、まだごまかせるやもしれぬと獣は期待した。
だが、魚鱗の女はとたんに腕を組んで、
「この時間は教員と警備員しか入れないはずなのよ。それに、アタシこれでも人を覚えるってのが得意なのよね。
あなたみたいのを連れてた人は、今日はいなかったと思うのだけど……」
と、ぎろり、と睨みつけてくる。
「まして口がきけるレベルの使い魔だなんて、忘れるわけないでしょうに」
昼間のあの二人のようにはいかなかった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
しかしながら魚鱗の女は獣を放り出すというわけにもいかず、鎖をつけて引っ立てていくことになった。
巨大階段の脇にひっそりとあったドアを抜けると、小さめの本棚にいくらかの箱、それと机と椅子とが何組か設置された部屋があった。その一つにネズミ頭の魔族が座って船漕ぎをしているが、足音に気づくと目を覚まし、
「んあ、アネさん……ほぇ! どうしたんですその……」
獣を見て眠たそうな眼をぱちこんと開く―――これが、同じスケールだとすれば捕食者と被食者の関係になるのだが、そういう恐怖はみられない。
「闖入者ってとこ。喋れるくらいの使い魔なのよ……学生さんとこの子とは考えにくいわね。今日ってどなたかゲストは来てて?」
部屋の中に獣をつないでおけるようなところがないので、魚鱗の女は仕方なさそうに鎖を持ち続けている。
「……ううん、そりゃあ、ゲストは毎日出たり入ったりしてるんでしょうけどねえ」
「覚えてないの?」
「学内全部見張れってのは無理ですよ」
「そこまでしろとは言ってないでしょ。この建物の中でいなかったか聞いてるの」
「それだって全部は……」
「見てるか見てないかって聞いてる」
「それなら見てませんが……」
うすぼんやりとした返事を返すネズミ頭に、魚鱗の女はかかとで床を打っている。
「それよりその子……屍掃(しそう)種の、それもメスっぽいですけど、にしちゃあずいぶんやせてませんか……」
あの二人にも言われたな、と獣。あのとき平らげたバケゴキブリは強力な胃酸で早々に溶かされ、出ていた腹もだいぶしぼんでいる。
「……ご飯でもあげようっての?」
「え、そうじゃないですけど……だって、多分先生の、それも割といいとこの人のでしょう? 屍掃種って前に見せてもらったけどだいぶでっぷりしてましたよ、これじゃ……」
「なんかワケありって言いたくて?」
「《あの》」
獣は首輪を震わせ、割り込んだ。
「《本当》《の》《こと》《話します》」
「……ン?」
魚鱗の女は見下ろして、ネズミ頭はわざわざ椅子から降り、かがんでのぞき込んでくる。
「《だけど》……《学者》《さん》《に》《会わせて》」
「理由は?」
魚鱗の女だ。ネズミ頭は出方を伺うばかりである。
「《信じる》《こと》《難しい》《かもしれない》《こと》《だから》。《まだ》《わからない》《かもしれない》《こと》《だから》」
「具体的に言って頂戴。その信じられないことは置いておいて、あなたがどこから来たのかを」
「《来た》《ところ》、《第三の》《島》」
「オンセ=モか……」
と、そこに、トントンとノックがきた。
「どうぞ」
ドアがガチャリと開き、現れたのは赤茶けた肌にオレンジのたてがみの、丸々肥った猿人だった。
「すいません警備員さんたち、ワシの部屋の窓に穴が開いとったのを見つけてしもうたんですよ。何も盗まれたようではないけども―――」
その野太い声に、獣の目がすっと向く。
「《ごめんなさい》……《それ》《わたし》《です》」
三つの視線が獣に集中するが、怯えることはない―――まさに待っていた相手が来てくれたらしい。少々申し訳ないことをしてしまったけれど。
「《お話》《させて》《くれますか?》」
<その26>
「確かにこんな子は見覚えありませんな」
綿のジャケットをやや窮屈そうに着こなす猿人の教授は、ゆっくりかがみ込んでから獣を見やった。
「それに……なんというか、喋り方がな。ワシが見てきた口のきける使い魔さんたちとはちょっと違うような」
「《それは》《これです》」
獣は後ろ脚で首輪の辺りを指し、あー、とか、うー、とかと声を出してみせる。その度に首輪が震動しているのを見せた。
「ふむん……あぁなるほど、のどの震えをその首輪が調節して、人語にしているということですかな?」
「へえぇ、オンセ=モの技術ですかね? すっごいなあ」
ネズミ頭が感心して口を挟んだ。
が、このままではいられない。今はある意味で、またとない好機だ。
「《これは》《わたし》《の》《ご主人さま》《が》《作りました》。《だけど》《もう》《死んでいる》。《なのに》《私》《は》《生きてる》。
《なぜ》《私》《が》《生きてる》《か》、《わからない》。《謎》《を》《解く》《お願い》、《いいですか》?」
獣は、言いたかったことを吐き出し切った。
「その、なんだ。要するにあなた、自分を実験台ってことで売り込もうってわけ? 主人が死んだのに使い魔だけ生きてるだなんて、ありえないわ。使い魔をもつってことは魂を分かち合うことで―――」
魚鱗の女が怪訝そうに睨みつけてきて、もう何度も突きつけられてきた『常識』を語る。
だが獣は臆することはなかった。どれだけ否定されようとも、誰かが興味を持ち、自分とともに謎の答えを追い求めてくれればそれでいいのだ―――そして今一番そうしてくれそうだと思うのが、分厚い手を顎に当てている猿人教授であった。
「……君、泊まるあてとかはないのかね?」
教授が尋ねてくる。
「《いいえ》《野宿》《です》」
「ふむ、そうか」
教授はしばしの間、そのままの姿勢で考えてから言葉を続けた。
「まあ、とりあえず、今日はもう遅い。詳しい話は明日聞くから、ここに泊まっていきなさい。警備員さん、この子に食事を出してあげてくれませんか。費用はワシが持ちますんで」
「しかし、先生……」
魚鱗の女は反論にかかるが、
「このまま放り出すなんてわけにもいきますまいよ。よろしく頼みますね……」
と、黙らされてしまった。
そこへ獣は、食い気味に、
「《あの》」
「なんだね?」
「《今》《お部屋に》《行きたいです》。《窓》《直さなくては》」
「……ああ、そのことなら構わん。今日は板でも張っておくさ。では、また明日」
教授は大きな背中を向けると、肩をちぢめてドアをくぐり、閉めていった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
魚鱗の女は、まったくもうとため息をつき、全てをネズミ頭に任せて警備に戻っていった。
ランプでぼんやり照らされた部屋の中、ネズミ頭は獣に肉とスープを与えていた。獣は前足でお椀を傾けてスープを飲み干し、それから肉にかぶりついている。
「口に合うといいんだけど……」
「《はい》《おいしいです》」
頷き一つだけして獣は食事に戻る。
これが野外であればあっという間に平らげてしまうところだが、今は散らかさないように気をつけなくてはならない……明らかに丁寧にしようと努めている獣を見て、ネズミ頭はにわかに微笑んでいた。
「なあ、きみさ……」
ふと、ネズミ頭が問いかけてくる。
「……ご主人さんが亡くなって、ずっと一人ぼっちだったのかい?」
「《はい》」
ここまで孤独だったのは事実だが、ずっとだなんて言うのも大げさだと獣は思う。主人が亡くなってから、まだたった二日しか経っていない。
けど、ネズミ頭の方はそうでもないらしい。うつむいて、妙にきらりとした目を向けてくる。
「寂しいよな、やっぱ」
それも否定はしきれない。
けれど、
「《寂しい》《けど》……《死んだ》《もの》《は》《仕方ない》《から》」
「そっか……」
後はもう何も話すことはなく、獣は食事を終え、横になった。
獣は、明日からの自分のこともそうだが、あの老猫がどうしているかが気がかりだった。
<その27>
翌朝になると、あの猿人教授自らが獣を迎えに来て、自室まで連れて行ってくれた。
「さて、お入り」
教授が部屋のドアを開けると、まず朝日に照らされた床にのっぺりと四角い影が張り付いているのが見えて、獣はばつが悪くなる。話を聞いてくれる者ならこの人の前にもいたというのに、どうしてこんな悪事に走ってしまったのだろう。
教授はのしのしと、獣の罪の証拠の上を横切って、大きな回転椅子にどっかりと座り込んだ。
「して、話を聞こうか。主を亡くしてしまったというのは?」
「《はい》」
獣は『おすわり』の姿勢のまま、顔を上げて語りだした。
「《わたし》《の》《ご主人》《は》《小鬼族》。《名前》《は》《タックトック》。《オンセ=モ》《の》《機械技師》。
《空》《飛ぶ》《機械》《を》《作ってた》」
そこで、獣の言葉は一旦止まった。
教授はふむ、とうなずき、続きを待っているのは明らかだ。
あとはもう、死因を言ってしまえば終わりのはずだった。
空飛ぶ機械を作ってた。けど、扱っていた金属の汚染が身体に溜まって、そのせいで病気にかかり、死んでしまったのだと。
……自分の看病の甲斐なく、死んでしまった。
……いまだ空にある《島》を追う夢を叶えられずに、死んでしまった。
……ある意味では、夢のせいで、死んでしまったのだ……。
「大丈夫かね」
気がつくと、獣の前で教授がかがみ込んでいた。
「……グ、グゥ、ッ」
獣の喉から、『もともとの声』が漏れて、
「《どうか》《し》……」
首輪が不完全に震動した。
「無理をしちゃいけない。ゆっくり話せばいい。大事な人だったのでしょう?」
大事な人。
そうではない、はずがなかった。
タックトック。
ひ弱そうな見てくれに強い情熱を秘めた人。
自分のような者を拾い上げ、ずっと共に歩んでいくことを選んでくれた人。
彼を失って、悲しくないはずがなかった。
ただ、覚悟しきっていたはずのことが起こらなかった不可解さが、それを覆い隠してしまっていただけだ。
「……グ……」
うつむいた獣から、涙が光りながら落ちた。教授は大きな手で、その肩に優しく触れてやる。
割れた窓を覆う板の影が、獣を暗く染めていた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
やがて落ち着きを取り戻した獣は、教授にこれまでのことを簡潔に話した。
「……うむ、大体のことはわかった」
聞き終えた教授はうなずいて、
「実はだね……ちょっと前に小耳に挟んだことがあるんだわい。それを通じて君の知りたいことがわかるかもしれんのだが……」
言いつつ、教授はどこか悩ましげにため息をつく。
「《それは》《いったい》?」
「……魂に関する実験をしようとしとる先生がおるんじゃ。
オンセ=モから来た君なら心当たりもあるかもしれないが、ワシら魔族は、なかなか科学っちゅうやつの道理に合わん生き物なのだよ。
例えば……ワシにゃ双子の弟がいるのだが、たてがみの色は似ても似つかぬ流氷みたいな色だ。もちろん生まれつきでだぞ。それに、やろうと思えば男同士女同士でも、あるいは違う種族ですらも、子を成したりした例がある」
聞いていて、獣は思った……そこまであいまいな生物だというのに、なぜ此度の例外―――主が死んだのに生きている使い魔―――はなかなか受け入れてもらえなかったのだろうか。あるいは、科学技術を発展させてきたオンセ=モだからこそ、そういうふうになったのだろうか……ここにも、あの警備員の魚鱗の女みたいな人は、いるようだけど。
「その道理に合わんところを解き明かすために、魂を調べにゃならんと考えている先生がいるのだ……しかもその方ときたら、死後の世界ってやつにも興味があるらしい」
「《わたし》《の》《ご主人》《との》《繋がり》《調べる》、《そうすると》《死んだ》《後》《の》《世界》《が》《わかる》?」
「うむ、まあ……そんなところだろうか。……どうする? もし望むなら、ワシが紹介をするが」
「《お願いします》」
獣は、即答した。
きっと、ここでなら答えが見つかるはずだ―――そういう信頼が、もはや獣の心を支配していた。
<その28>
ふと、魔法陣の中心のシルエットがなめらかに変化をはじめる。
人型らしき、それ―――気づけば「らしき」とは言えなくなっている。浮動していた点と点とが線を結ぶ。線と線との間に、今度は面が生じる。
そうしていくうちに、シルエットの詳細が見えてくる……コウモリのような翼が見える。体格からして、おそらくは成人男性らしい。
「わぁ、せ、先生が、帰って、きますよ」
と、シジ。
「《先生》《は》《何を?》」
獣が尋ねる。
「見に行っていたのさ」
そこへ返ってきたのは、シジの声ではなく、ひどくうねった男の声だった。
同時に、シルエットがブゥン、ブゥンと震動し、さらなる詳細が描き出される。まだ光の塊でしかなかったそれの上に、色と陰影、質感が表れてくる。
『先生』の物理世界における実体が出現をしたのだ。
「きみが例の、ご主人さまを亡くしたっていう子だね。タン・ブゥ先生から話は聞いている。
私はエストナー・カストン。よろしく」
エストナー教授は長身痩躯の人で、特に脚のラインは湖に立つ水鳥のそれを思わせる。あの猿人教授―――タン・ブゥ氏とはほぼ対極の体つきといっていい。顔さえもひょろ長い。
それでいて決して貧弱そうには見えないのは、背中から広がる大きな翼のおかげかもしれない。
肌の色は、部屋中が真っ赤なのを差っ引いて考えると、氷みたいに白っぽいようだ。
「それでこちらの子はシジ・ジーチィ。私なんぞについてくる、物好きだ」
「よ、よろしく……お願いします」
シジは上半身でぺこりとお辞儀をすると、おずおずと後ろに下がっていってしまった。
「……ま、さっそくだが、まずはきみに協力してもらうにあたり、私の研究の説明をさせてもらおうかな。こっちへ」
エストナー教授はそう言って、円柱群の右手、壁に取り付けられたボードへと歩く。
細い足が立てるコツコツという音が、いやに獣の耳に残った。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
エストナー教授が、とりあえず見なさいと杖の先端でボードを突くと、表面に映像が浮かび上がる。
それは、ちょっとした動くマンガであった。
まず描かれたのは、汚れた大地と、その中でわかりやすく暗い顔をしている魔族たち。空に浮かぶ美しい島々と、そこで幸せそうにしている人間たち。
やがて魔族の中から周りの倍くらいの背丈がある魔王が現れ、軍団を率いて空の島に攻め込む。人間の側からも勇者が出てきて魔王と戦うが、首をはねられて死ぬ。人間は燃え盛る炎に包まれて、消えてなくなる。
空の島に移り住んだ魔族たちだったが、今度は彼ら同士で戦争を始めた。島の奥底に眠っていた兵器を掘り起こして互いに撃ち合い、大空は炎に覆われ―――全ての島は、大地に堕ちる。
が、堕ちた島の一つにズームインをすると、中にはまだ生きている者たちがいて、なにやら機械のスイッチを入れている。再び、ズームアウト。島を中心に、荒れ果てた大地が蘇っていく。島の中に引きこもっていた魔族たちが出てくるとその上を歩んで、別な島へとたどりつき、その中でまた機械を動かして環境を回復する……
―――誰もが学ぶ、アル=ゼヴィンの歴史である。学校に行っていない獣でさえも知っている。
「魔王が生まれて以来、我々魔族の歴史は、望むもの全てをみずから掴み取っていくものだったといえる。
頼れるものは、自分と仲間だけ。あらゆる障害は越えられるべきもので、あらゆる不思議は解き明かされるべきもの」
エストナー教授はまとめに入ったかのように見えたが、動くマンガはまだ終わってはいなかった。
島から島へ渡り歩くうち、視点がどんどん上昇して、アル=ゼヴィンの世界地図―――もっともまだ、世界の果てまでの地図ではないのだが―――が表れるところまできた。
そこへ突然、それら全てをまるごと取り囲む、何者かの腕。
「今は昔。『神様』てやつが力を持っていた時代があった。そいつはアル=ゼヴィンの作り主で、いざとなったら私たちの想像もつかないようなことを平気でしでかしたっていう」
神。獣にとっては、ほとんど馴染みのない言葉だった。
「人間どもは……いや、戦争が起こるもっとずっと前には、我々魔族も神様をあがめていたらしいね。まあそのへんは考古学科の先生にでも聞くといいさ。
私はね。神様ってのは本当に、何らかの形でいるんだと思っているし、どんなやつなのか知らなくちゃいけないとも思う」
そこまで言うと、杖をボードから離し、エストナー教授はぎょろりと獣のほうを見る。
「だって……危なっかしいじゃないか?」
<その29>
「ってなわけで、危なっかしい神さまに近づく試みに入る」
エストナー教授は改めてボードに向き直り、杖でつついた。
すると今度は、部屋の真ん中の魔法陣と、その上に乗った円柱たちを模した図がボードに描き出される。
「シジの言ってたスピリチャル・ダイビングの装置だ。ま、神の国への入口……になるかもしれんものと思っておきなさい。
して、私の場合はああしてヨソの世界をほんのちょっぴり垣間見て―――というか、あれがヨソの世界だって保証もまだないンだがね―――まあそういうわけだが、君ら使い魔が乗った場合は……」
「《場合》《は?》」
獣は思わず聞いてみる。
「―――ご主人が引きずり込まれてくるのさ。理論上は、ね。
魂が結びついているから、一方が引っ張られると、ゴム紐みたいに反動がかかるわけだな。
……あぁ、理屈でとりあえずの説明をつけようって話だ。試すのはもうしないんだよ、リスクがデカすぎる、からね」
獣の視界の隅で、シジがにわかに縮こまったように見えた。それからうつむいてしばらく顔を上げない。
「ところが君の場合、そのご主人が亡くなっている。
なんで、そうなると、おそらく……」
「《死んだ》《後》《の》《世界》《へ?》」
言ってみて、獣はにわかに震えが来る気がした。
「ウン」
エストナー教授はこっくりとうなずいた。
その口元は、緩んでいる。
一方の獣は穏やかではなかった。
一度は覚悟したはずの死。
来るはずだったのに来なかった死。
ほんの何日か前……主が病に倒れ、自分自身も日に日に弱っていく中で、けれど最後には素直に受け入れられたはずだった。
それなのに、今はなぜか、死は獣の身体を―――あの時に比べれば全く調子のいいはずの心身を―――すくませてくる。
特に拒む理由などないはずだった。
これで、自分の生命の謎が解けるのなら。
これで、主に会いに、死後の世界へと行けるのなら―――
―――本当に、そんなもの、あるのだろうか?
獣の鋭い感覚が、空気の震えを感じ取る。エストナー教授の喉の振動である。
話が先に進んでしまおうとしている。
エストナー教授はきっと、あの魔法陣の上に乗れと言って―――
「……むろん私も一緒に行く。君は私の乗り物になるんだよ」
その言葉とともに、獣はピタリと止まった。
力が思うように入らないという気がした。
獣の四つの脚が、魔法陣の方へ―――それが当然のことであるかのように、向かっていく。
後ろには、エストナー教授。
魔法陣の中心に立った獣の視界が急激に赤く染まっていく。
閉ざされた場所が火事になって、その中に取り残されたかのように、獣には思えた―――未完成の機械を扱っていれば、まだ一度くらいはそういう目に遭ってしまうものだ。
その紅い炎の向こうに、シジ・ジーチィがいる。
あれからずっとうつむいて震えたままだ……が、獣はその目の中に、一面の赤の中、なお目立つ『赤』を、捉えた。
自分をここに抑え込む力が働いている。
そう獣が気づいたときには、背中にグッと重みを感じて、反射的に腹に力を込めていた。
赤は深く、なお深く。
シジの目も、並ぶ機材やら棚やらの輪郭も、とうとう何もわからなくなる。
―――ウウウゥゥ……。
あの部屋に入ってきた時聞こえてきた唸りが、また鳴り出して、
―――ウウウヴヴヴヴヴーッ!!
際限なく大きくなり、獣の耳をも埋め尽くした。
鼻から入るのは凍てついたものの匂い。
口からくるのは虚無の味。
肉球はもう大地をとらえてはいないように思える。身体が傾いでいるはずはない。いや、傾いでいる?
周囲の全てに対する確信が、消しとぶ。
そうして、獣の心が、とうとう、いったん、機能を停止した、その瞬間―――
―――ウォーンッ!!
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
シジ・ジーチィは、獣が文字通りエストナー教授の乗り物になって、地下室から消失するのを見た。
残された魔法陣から、ゆっくりと光が抜けていく。彼女の瞳からも。
「……ご、ごめん、ね……」
シジは涙を一筋こぼし、明らかに声をうわずらせていた。
しかし、
「……でも、わ、私……も、行って……み、みたかった、なあ。
先生……か、かえって……くる、かし、ら?」
シジは、微笑んでもいたのだった。
<その30>
そこを一言で表すとしたら、冷ややか、といったところになろう。
重いまぶたを開けた獣が見たのは、青白い色をしたあぜ道だった。脇にはこれまた色素の薄い植物が、地平線の方まで生えわたっている。空は白く曇っているが、雨が降ってきそうというほどでもない。
ともかく、先ほどの部屋とは正反対の色合いに、獣の眼はなかなか慣れてくれなかったのだが、
「おぉ、着いたな。さっそくだが歩いていってくれたまえ?」
背中から獣をせかす声がする。
獣は、少々身体が重いのは彼がまたがっているせいだと思い出した……同時に、その体重がここにくる前に比べるとだいぶ軽くなっているのにも気づく。
獣がぐ、と頭を後ろに向けようとしたとたんに、首に細い腕がまわってきた。
「ここには胸から上しか来れんかったのだ。君はやはり、全身で入れるようだがね……さ、頼むよ」
エストナー教授はその言葉通りの状態になっていた―――もっとも、欠損した部分はなにか霧のようなもので覆われていて、血やはらわたの臭いはしてこない。
獣は浮かんだ疑問を全て後回しにすることにし、あぜ道をとことこと歩いていった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
と、数時間ばかりは歩いたような気がするのだが、景色は代わり映えしない。
変わったことといえば、時々暖かいとも涼しいともつかない風が吹いてきて、獣と教授を撫でていく程度だ。
「《なにも》《ない》」
ふと、獣がぼやく。
「そんなことはないさ。道があるだろう」
「《先生》《が》《来た》《時》、《無かった》?」
「いい質問だな。そう、私がここに来たときは、どこにも道がつながってないかったんだよ。
この道はもしかして、君のご主人さまのところに続いているのかもしれんな」
「《そう》」
獣は、ここに本当に主がいたとしたら、と考えながら歩き続けた。
自分がいないことで寂しがっているだろう。機械と縁のなさそうな場所だから、さぞ退屈もしていよう……
自分はといえば、跳び上がって喜んでもいいはずなのだが、意外とそうもならない。受け入れたはずの死が来なかった、というのが、どうも心を動かなくさせているのだろうか。あるいは、エストナー教授を疑っている?
どうにも考えがまとまらないまま……しかし唐突に、獣の物思いをやめさせるものがあった。
「どうしたね?」
教授は獣がひくひくと鼻を動かすのを見て、たずねた。
「《なにか》《火》《の》《におい》」
「ほう? あの世かもしれんのだし、屍が焚かれる臭いでも漂っているのか?」
昔、天に浮かぶ《島》に住んでいた人間たちは、遺体を燃やして葬っていた。使える土地が限られているので、なかなか土に埋めるというわけにもいかなかったらしい。《島》が大地に堕ちてしまってからは、絶滅寸前にまで減った人口を伝染病で減らさぬようにと魔族も真似をし始め、世界が概ね平和になった今でもそれは続いている。
「《違う》《におい》、《死体》《燃やす》《違う》」
獣の言葉に、教授は鼻を動かして返事をする。
「ふうむ……確かに、そうだな。近づいてくれたまえ」
進んでいくとまもなく、吹き上がる黒煙が見えてきた。昇っていくそれはどこかに吸い込まれているようで、白い空は真っ白いままだ。
次いで、煙の根本には、煙突が一本……それに気づいた獣の足取りは早くなった。
「ン!? どうした―――」
「《あれ》《確か》……!!」
獣は食い気味に喉と首輪を震わせ、駆けていく。
煙突のついている建物をめがけて。
それは、獣の主が働いていた―――そして獣自身もよく知っている、工場であった。