百合鏡(5期)記録
31~40
<その31>
獣は工場を取り囲む死人の色をした林の中に身を隠し、裏手に回りこむ。
コンテナが積まれているのを見ればそこまで走っていって、飛び乗り、開きっぱなしの窓の前に出る。まだ使い魔になっていなかったころ、こうやって忍び込みタックトックに会いに行ったことがあった。
そのまま窓の中へと飛び込み―――
ゴチンッ!!
「あいてェ!!」
「《あ》《ごめん》」
背中にエストナー教授を乗せていたのを忘れていた獣は、かがみ込んでゆっくりと、改めて窓を通り抜けた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「君のご主人さまはここで何を造っていたんだね?」
「《空の島》《探せる》《機械》」
「へぇ、あれを信じてるのか。夢のあるヒトなんだね」
あなたも大概だと思う、と言いかけて、獣は代わりの言葉を告げる。
「《神様》《たぶん》《いない》」
「……あぁ、構わんよ。
大事な人のことなんだろう。今は好きにしてくれたまえ。
それに、これはこれで面白そうだからね」
身を隠す場所はいくらでもあるとわかっていた―――部品の入った箱だったり、作業用の装置だとか、あるいは作りかけの機械とか―――だから、不安はないはずだった。
はずだったのだが、獣の心は違和感でいっぱいだった。
「《何》《これ》……」
思わず首輪が振動したのに気づいて、獣は慌てて喉を緊張させる。
「どうしたね? ずいぶんと年代物のマシンばっかりだが―――」
「《うん》」
獣の目の前にあるのはごく初期の排水ポンプで、今使うにはあまりにも効率が悪すぎるものだった。
それだけではない。古い紡績機に、旋盤。ばかでかい蒸気機関の部品も転がっている。
「おや、これは古くはなさそうだぞ。見たこともないが」
ボールに六つ管をつけたような機械に目を向けて教授は言った。
なるほど、確かに錆びついたりなどはしていない。むしろほとんど使われてすらいないようだ。
ふと、誰かが機械のひとつを運んでいくのを目の当たりにし、獣とエストナー教授は息を潜めて観察を続ける。
「……おい、見ろ。あそこを」
教授が指差す先から、ガツン、ガツン! と音がする。
骨董品たちの陰に隠れて接近すると、死してなお働き続ける作業員たちがハンマーを振るって部品を砕いているのだとわかった……その右隣には、先ほど運ばれてきた機械を分解する者たち。左隣には細かくなった破片を、赫々と輝く炉に放り込んでいる人々。
「古くなった機械を壊しているのか……いや、古くないものも壊しているな?」
獣は返事をせず、破壊の作業ラインをただ見つめていた。
「……あ、そうだ、思い出したぞ。さっきのボールのような機械。確か私が世話になった教授……の知り合いが造っていたものだ、全く見向きもされんかったが―――」
教授は、そこから先を言えなかった。獣が急に下に飛び降り、駆け出していったからだ。
その目は、作業ラインの一点を見据えている。
タックトックと作った空飛ぶ機械、その一部が流れてきているのだ。
獣が目立つ場所に躍り出ても、激しく息をしながら走っていっても、労働者たちは手を休めない。
「馬鹿、ングッ」
教授は、咎めようとして舌を噛んでしまった。
獣は駆けて、駆けて、駆けぬけて……
その先に、自らの創造物を破壊しようとしているタックトックの姿を見た。
かつての、主を。
<その32>
気づけば、獣はタックトックの腕を踏んづけてしまっていた。
作業ラインは停止し、作業員たちの顔が獣に向く。
タックトックもだ。だが、獣はその瞳を、うつろに感じる。
「《やめて》、《やめて》……」
獣の首輪が震え、言葉を垂れ流しにしている。
この死後の世界―――もう、そうとしか言いようがない―――そこで、どんな理屈が働いているのかはわからない。
だがそれでも、二人で追いかけた夢を、これ以上壊させるわけにはいかなかった。
「《お願い》《やめ》―――」
獣の喉にすっと手がのび、震えを止めた。
「……ボーリィ」
タックトックが動いていたのだ。
力自体は決して強いものではない。ただその声があまりにも平坦すぎて、獣はそれ以上しゃべる気になれなかった。
「ここにある機械たちがわかるかい。みな、もはや必要とされなくなったものだ。
だから壊しているんだよ」
「《違う》《これは》」
「僕はもう、こいつに乗って《空の島》を探しに行くことができない。
さりとて君にも動かすことはできない。違うかい」
どうしてこんなに、タックトックは淡々としているのだろう。
どれほど馬鹿にされても、決して諦めなかった夢を、自分で叩き壊そうとしているのだろう……
「ボーリィ……君はきっと、こっちで迷子になっていたんだね。なかなか会えなくて、心配していたよ。
この仕事が終わるまでに会えてよかった。もうしばらく待っていて―――」
その声に我に返った獣は軽く頭を振るって喉の制御を取り戻した。
「《違う》、《わたし》《まだ》《生きてる》」
「え?」
「か、彼女の言うとおりだ。我々は生きながらにしてこの世界に来た……」
背中の教授も言葉を添える。
タックトックは、口をぽかんと開けたまま、静まり返ってしまった。
―――その時ふと、何かが獣の毛皮に障った。
何かが振動している。
何が。
空気が。
いや、空間そのものが。
正面に見据えたタックトックの顔が、いきなり奥へと引き伸ばされていくように見える。
「《タックトック》《待って》」
そう、言った、かもしれない。
獣の耳にはほとんどなにも聞こえない。音がきちんと届くより先に、どこかへ持ち去られているらしい。
そうして全てがまたたく間に遠のいていき―――
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
―――赤い光がそこら中から来て、獣の目を苛む。
「ア、先……生」
か弱い声がする。
シジ・ジーチィ、とかいう教授の助手の声だ―――あたりには魔法陣と、柱。
戻ってきてしまったのだ。
脚を取り戻したエストナー教授は獣の背中から床に降りたち、シジに一言ただいまと返すと、傍ら目には少々ぼんやりとした様子で頭を掻いている。
そんな中で、獣は、うつむいていた。
「……辛いかな、やはり?」
教授は立ったまま獣を見つめ、考え考えしながら言葉を発している。
「彼らはいったい、何をしていたんだろうな。
あの……タックトック、だったか。彼の回りにいた者たちも技師に見えたよ。慣れてそうだったし。
……あの解体の仕事が終わったら、どうするつもりだったのだろう」
獣の脳裏に鮮明に浮かぶ、分解されゆく飛行機械。
二人で造った夢への翼の、その最期―――
獣は、部屋の外へと駆け出していた。
教授が止めるのも聞かずに。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
通路を駆け抜け、あのエレベーターに飛び込み、さきの猿人教授に倣って操作パネルを動かす。
エレベーターは小さく振動して上に向かい始めた。
が、遅すぎる。来たときには気にもならなかったエレベーターの動きが、今はどうしようもなく鈍く感じられる。
丸い床の上でぐるぐると獣は回り、エレベーターを軽く揺らしすらした。
早く、早くオンセ=モに帰らなくては……獣には、飛行機械がこの現実の世界においても壊されようとしているように思えてならなかったのだ。
やがてエレベーターが地上につくと、獣はそのまま建物の外に飛び出した。
そして、強かに降る雨に打たれた。空は真っ暗だ。エストナー教授のところでどれだけの時間を過ごしたかは定かでないが、すっかり天気が変わってしまっている。
獣は、ふと、あの年老いた猫のことを思い出した。
雨がにわかに頭を冷やしてくれたのかもしれなかった。
<その33>
あの古びた物置の中に、老猫の姿はなかった。置いておいたはずの魚は、骨も残っていない。
焦り気味にあたりを見回した獣は、写真を一枚見つける。写っているのは、背の高いトラの頭をした男。その隣に、恰幅のいい猿人がいる―――あの、自分を案内してくれた教授を若くしたような姿だ。
トラ頭の男は、猫を抱いているらしい。
もっとよく見てみようと踏み込んだ獣は、その足で写真を踏んづけ、あっさりと破いてしまった。
よほど古びていたらしい。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
獣はきびすを返し、外に出た。
雨はますます強くなっていくようで、粒の一つ一つが痛く感じられるほどだ。ザア、と音が耳を埋め尽くす。雷も鳴っているらしい。
外に出ている者なんて誰もいない、はずだった。
だが、獣は正面に―――雨が煙ってろくに見えない中に、あの老猫の姿を捉えた。
滝のような雨の中に鎮座する、モノクロの小さな身体。
そこにいることだけは確かにわかる。だが、どちらを向いているのだろう。自分の方か、途方も無い雨の中か。
獣の首輪が、《ねえ》と震えた……
……その、はずだった。
耳にフィードバックされた音が、どうしようもなく不明瞭に感じられる。激しく打ちつける雨粒が首輪の振動を乱していたのだ。
ウォーゥ……ッ―――!
獣は、吠えた。
背中なのか顔なのかもわからぬほど、ぼやけてしまった老猫の姿に。
ウォォーッ―――!
ウォオォオ―――!
どうしようもない豪雨に、せめて少しでも抗うように。
老猫が、立ち上がったように、見えた。
そのままどこかへ歩いていってしまう。
彼も、タックトックがいたあの世界に逝くのだろうか。
この世にかつてあったもの全てを忘れさせる、あの世界に。
あのトラ頭の男がそこにいるならば、それもいいだろう。
だけど、もし……
もしも、先んじて、主に忘れられてしまっていたら……
かつて必死に追いかけた夢さえもあっさり壊させしめるあの世界が、思い出を大切にしてくれるとは、もう獣には思えない。
そして、それは獣自身をも思いつめさせる。
ウォオォォ―――ッ!
ウォーォ……ッ!
獣は、見えなくなった老猫に吠え続ける。
これからお前はどこに行くのだ。
お前はどうなるのだ。
お前がどうなってしまったのかがわかれば、私もまた救われると思っていた。
少なくとも、未来に目を向けられるかもしれぬと、思っていた。
それなのに。
雨は当分止みそうになかった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
獣はそのままアカデミーを脱出し、駅へと走る。
オンセ=モ行きの列車が出ているとわかれば、来たときと同じように貨物車に忍び込み、発車を待つ。
濡れ鼠になった身体から、水気が抜けて、床をじっとりと濡らしていく。
ひどく疲れた。頭がぼうっとする。
これだけ濡れたのだから当然かもしれない。高い熱が出るだろう。
獣は重いまぶたを閉じた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
夜遅くになってオンセ=モに到着した列車から、転げ落ちるように獣は下車した。
雨はいくらかましになったが、まだ止まない。
全く水分を摂れていないせいで、獣の身体は憔悴しきっている。足取りは明らかにふらつき、少しの段差でも転びかけるほどだった。
それでも、獣は歩いていった。
街を抜け、道を進み、かつての我が家へ―――
飛行機械がおさまっているはずの格納庫。
最期を過ごした、あの小屋。
―――なにもかもが、ボロボロに、崩壊していた。
力が急に抜けていく。
獣の意識は、そこで途絶えた。
<その34>
獣があの港で―――トスナ大陸の片隅で目覚めたのは、このあとのことだった。
あれから色々なことがあった。
結局魔族とは戦うことになってしまい、プラインカルドの城に飛び込んで、ついには魔界にまで攻め込んでしまった。
もちろん、ここは自分の故郷とは異なる世界であるのは獣も理解している。
ここに住まうのは、同じ『魔族』という名で呼ばれていても、全く異なる種族なのであろうということもわかっている。
それでも獣は、思わずにはいられなかった。本当にこんなことをしなくてはならないのかと。
なぜ、こんなことをしているのだろうと。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
魔族の村を前にして設営されたキャンプから、獣はこっそりと抜け出し、ひとり村の中へと入っていった。
門をくぐると、妖しげな魔力の灯火がそこかしこに設置されている。そのせいで、獣の赤い毛皮も、ここでは緑になったり青になったり、灰色になったりもしてみせる。
この時間に出歩いている住民は、みなナナフシみたいに細っこくて、青白い肌をしている。あのエストナー教授のように。
こちらの世界では確か、ヴァンパイアと呼ばれている者たちだ。魔界に入ってからここに至るまでに襲ってきた相手でもある。
何をしているのかははっきりしないが、少なくとも夜風に吹かれて散歩をしているというふうには見えない。今は非常時であるのを考えれば当然ではある。
「ウン、なんだ、どこぞの魔物か?」
そのヴァンパイアの一人が獣に気づいて声をかけた。
「見ない顔だが。まさか……」
相手は軽く身構えている。下手な素振りをすれば、後ろに飛び退いて、戦える者を呼ばれるだろう。
が、さりとてどうすればいいかもわからない。攻撃などしていいはずがないが、言い訳も思いつかない。
逡巡は、無意識のうちに手のつけようのないエネルギーを蓄えて、思わぬ事態を引き起こす。
「《あの》」
獣の首輪が不意に震えだした。
「《今》《ニンゲン》《の》《世界》《から》、《攻撃》《されている》」
ぴくり、とヴァンパイアの尖った耳が動く。
獣の耳も、同じように動いた。
「……いや、それはすでに我々も知っている。
多くの仲間が傷つき、倒された。人間どもの中には、我々を不死者だと言う連中もいるが、ずいぶんと買いかぶられたものだ……」
ふと、獣の視界の隅を、担架が通り過ぎていった。それも一つや二つではない。
半人半馬の魔族がせわしなく駆け回り、伝えるべきことを伝えて回っているのも見える。
野生の世界で生きるべく研ぎ澄まされた耳をすませば、そこらじゅうから聞こえてくる、すすり泣きに、呻き。
鼻からは、血の匂い。
「《近く》《に》《います》」
獣の首輪は、また震えた。
「なんだと?」
「《近く》《に》……《ニンゲン》《の》《世界》、《の》《戦士》《たち》《が》……」
首輪が震えるに任せた後、獣はうつむいてしまった。
あのヴァンパイアがその後どこへ行ったか、獣はよく覚えていない。
ただ、その後の騒がしさだけを記憶している。