四城半日記

1~5

<その1>

クアン・マイサはどこだかわからない場所で目覚め、魔王をやれ、と言われた。あと三月ほどでこの世界が滅びるので、それまでに金を稼げと。

クアンが動揺をしたのは、もちろん全てがあまりにも唐突だったからでもあった。しかし、彼女のふるさと―――アル=ゼヴィンの地において、魔王というものは、ただならぬものだったのである。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

この数日前、クアンはアル=ゼヴィンのとある酒場で、情報をもらっていた。

「少し前に出てきた、第……えェと、二十八、だっけ? の島……あそこにデッけぇ滝があるんだが、その下になんかあるってんでよ」

トカゲ頭の男が、カウンター越しにクアンと話している。

「水術士のお前さんなら、仕事があるんじゃないかい」

水術士とは、水の行使を専門とする魔法使いのことである。

「無駄足になんなきゃいいけどね、また」

と、漏らすクアン。そこでカウンター奥の厨房から、何かの生き物が料理を持ってやってきた。そいつは二本足で歩いていたが、目は一つで口がなく、青白い肌だった。

「勘弁してくれな。ほれ、お待ちどう」

野菜の盛り合わせとパンのセットを、テキパキとクアンの元に送るトカゲ男。

スタッフも客も、誰一人としてヒトの姿をしていないが、別にここに限った話ではない。アル=ゼヴィンにもはやヒトはいなかったのだ。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

昼食を終えたクアンはあてもなく町をゆく。噴水のある広場に入ると、彼女はベンチにその身を軽く乗せた。蛇体の始まるあたりに、抱えていた青いドーナツ状の物体をおくと、小さく震えて、中から透き通った獣の頭が飛び出した。ドーナツの中に住んでいた獣は、噴水と己が主クアンの顔を交互に見つめる。

「だめよ、ソライロ。水が跳ねちゃ、周りに悪いわ」

ソライロと呼ばれた獣は、鳴声の一つも出さずにうつむく。

「また遊べそうなトコ、連れてったげるから」

静かに微笑み、クアンはドーナツを撫でる。ソライロは素直に、その中へ戻って行った。

しばらくして、にわかに子供たちがひとところに集まりだす。一人一人が、まるっきり違う姿だった。

「見ろ! 魔王の剣だぞッ」

体格のいい子が、ゴテゴテと飾りつけをした木の剣を掲げ、にわかに歓声が上がる。クアンは、はしゃぐ子供たちをしばし見つめた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ずっと昔、アル=ゼヴィンは地上と天空に浮かぶ島々に分かれた世界であった。ヒトは魔族―――すなわち、クアンらの祖先―――を環境がひどい地上に取り残し、天空の地で暮らしていた。なぜそうなったのかは、今もなお不明である。

そんな中で魔族の未来を拓くため、立ち上がったのが魔王であった。魔王には、異常な才能と勇気があった。夢物語のために本気で努力して、実際に成果を挙げられるような男だった。魔王はばらばらだった魔族をまとめ上げ、天空への侵攻を開始した。彼の指揮は的確であったし、もともと魔族はヒトよりもポテンシャルにおいて優れていたから、たやすく優勢となった。

だが、ヒトの側にも、魔王と同じくらいに異常なものがいた。勇者と呼ばれた彼は信じられないほど行動的で、成長性があり、また善性というものを信じるのに何のためらいもなかった。どんなに力で圧倒しようが、どんなに彼の大事なものを奪おうが、勇者は決して止まらなかった。

だから魔王は、最後に勇者の相手をしてやらないといけなかった。血しぶきを散らし、武具を砕き、骨をへし折りあう死闘の末に、魔王は一瞬の隙を突いて勇者の首をはねた。

勇者の死がヒトの知るところとなるのに、さほど時間はかからなかった。ヒトは全面降伏をしたが、それは魔族に屈しても生きていけるかもしれないという思いからだった。命がなくなるその時まで希望は捨てられないし、そのためならば逃避も諦観も使い潰してしまうのが、知的生命の性である。ところが現実を見れば、地上の過酷さや、魔族の恨みつらみがあって、それらすべてに耐えて生きられるほどヒトに力は残されていなかった。

共通の敵がいなくなったせいで、魔族の社会も腐敗をはじめた。魔王は志と知性でもってよく権力者たちを抑えたが、後継ぎを立てるのには失敗して、そのままいなくなった。とうとう魔族同士で戦争になって、彼らはせっかく手に入れた天空を汚染し、破壊した。かつて新天地と夢見ていた空に浮かぶ島々は、みな地上に堕ち、輝きを失った。

こうして、またも魔族はばらばらになったが、歴史が一回りしただけにならなかったのは、天空に残されていた技術のためであった。ヒトも、何の労力もなしに美しい住処を保っていたわけではなかったのである。魔族の学者たちはそれらを解析し、地上の環境を改善できる手段を見つけた。多くの努力によって、地上のあちらこちらに少しずつ、安全な場所を作っていけた。

そんな歴史のもとに、魔族は今日まで生き続けている―――というようなことが、クアンの使っていた歴史の教科書にも載っていた。

今のアル=ゼヴィンに、かつての魔王と同じ地位にあるものはいない。あちこちに国が散らばっていて、それぞれに元首がいる。もしもこの先、また世界が再び一つになることがあるとしたら、その理由はきっと明るいものではないだろう。

魔王は、魔族の英雄であり、伝説となった人である。それはこれから先も、変わることはない。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

その魔王に、クアンがなるのだという。

冗談を言われているわけではないとすれば、ここは異境である。クアンの、もしかしたらアル=ゼヴィンそのものの常識が通用しない場所に連れてこられてしまったのかもしれない。だが、他に行くあてがないのであれば、はいそうですか、と返すしかない。

与えられたのは、四畳半の住居である。実のところ、クアンは畳というものを知らなかったのだが、とぐろを巻いて落ち着けるだけのスペースであるとわかって、それで納得した。

壁に立てかけておいたはずの青いドーナツが、気が付くとそこら中を転がり回っている。見ると、頭だけ出したソライロが一匹のネズミを追いかけていた。遊び場はどこか、別に探してやる必要がありそうだ……クアンはぐっと身体を起こすと、ソライロを脇に抱え、四畳半の外に出ていった。

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○今週の魔族

『アル=ゼヴィンのとあるペンキ屋のハーピィ』(護衛/カルマ/ハーピィ)

彼女は高い建物に色を塗る仕事を与えられた。かぎ爪ではハケは持てないので、腰にくくりつけた別な魔族にやってもらうことになった。

ある日塗り役の魔族は、塗料に混ぜてこっそり唾を壁に塗った。夜になるとそれは光りだし、彼女への感謝の言葉になった。数日の休みを経て再び出勤した彼女は、今日から別な相方と仕事をするようにと言われたのでそうした。あの塗り役の話はそれから聞かない。

<その2>

二人の旅人を乗せたグライダーが空を行く。

「届くの、テティ!?」

クアン・マイサは蛇体を骨組みに巻き付け、ブルー・トーラスを抱えながら踏ん張っていた。

「やってみるってのォ!」

前方で、トトテティア・ミリヴェが叫ぶ。大きな尾がせわしなく跳ねていて、顔が見えない。

そのトトテティアの眼前には、大地に突き刺さった巨大な円錐がひとつ。あそこに降り立てばいいのだが、風が荒く、なかなかうまくはいかない。辛うじて制御を取り戻すが、そこにまた突風が叩きつけてくる。

「アーッ!?」

甲高い声を上げるトトテティア。それで思考停止に陥らないのは、彼女が風の専門家であるからだった。

トトテティア・ミリヴェは緑色の体毛をした狐獣人の魔族であり、風術士という魔法使いの一派に属していた。クアンたち水術士が水を操るように、彼女らは風を利用することができた。

円錐の端を囲むかのように、険しい山々が連なっている。あれを超えられるだけの高度は、どうにかある。トトテティアは通過すべき隙間を見定めた。

思考にグライダーが応えてくれれば、抜けられる……が、ゴゥッ! 荒々しい風が、二人を横から殴りつけた。

「乱暴なッ!」

風術士は風と共に生きるものだが、一方でそれを支配するものでもある。だからときには、怒りでもって応える。

「《サーマル》ッ!」

トトテティアの叫びが空中で形を得て、グライダーを支えた。上昇した二人はそのまま山の間を抜ける。

「よーし、降りるよ」

グライダーは旋回し、高度を少しずつ下げていく。クアンはその間に、眼下に目をやる。三方を崖に囲まれた湖があるのが見える。この地こそが、先日飯屋でクアンが耳にした《第二十八の島》であった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

崖の上、川のそばに作られた発着場にグライダーを停める。

「あァ、嬢ちゃんたち、停め賃いただきやす。ミッテル貨で三枚ね」

クアンらが降りたところに、ゴーグルのついた皮帽子を被った、やせっぽちの魔族が来た。どうぞ、と懐から金を出し、掴ませるクアン。

「もうだいぶ調べられちゃってそうじゃん、こんなとこで金取られるんじゃさ」

不機嫌そうに漏らすトトテティア。

「ここら、水術士があんまり居ないって聞いたわ。チャンスはあるはず」

クアンは、そんな彼女を見下ろして言う。トトテティアの背丈は割と小さいほうであり、全体的にふっくらとした体つきである。ころころとしていて可愛らしい、とはクアンもたまに思うのだが、なめてかかられるのは好きでないようだから、口には出さない。

他のグライダーやら、鎖につながれた大鳥や飛竜やらを横目に発着場を後にすると、そこらに店も建っていた。

「なんか食べてかない」

鼻をひくつかせながらトトテティアが言う。

「さっさと下見に行きたいンだけどね」

「それでも、持ってけるやつくらいさ。お腹すいちゃったわ」

「はいはい」

たたた、と駆けていくトトテティア。尻尾と、それからさっきは見えていなかった豊満な胸が揺れていた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

クアン・マイサ、そしてトトテティア・ミリヴェはトレジャーハンターであった。ヒトが空に浮かぶ《島》に遺したものを掘り返し、魔族の富にする生業である。かつてのハンターは魔族の未来のために必要な存在であったが、社会の基盤が整いつつある今となっては、単なる稼業の一つに落ち着いてきている。それでああいう風に、彼らを相手に商売をしようという連中も出てきていた。

クアンとトトテティアの出会いは、四年ほど前、お互いまだ故郷を出て日が浅かった頃のことだった。手慣れのハンターが、次の探索に水術士と風術士が必要になったというので、二人一緒に雇われたのである。だが、当時のクアンは今より引っ込み思案で、一方のトトテティアは自信過剰なところがあったから、片方が片方を振り回す形になって、上手くいかない。

それで《島》の遺跡に入れば、一行はトラップにはまって分断され、挙句トトテティアが致死性の呪いを喰らって倒れる。薬では治療が追いつかない。そこで、クアンはブルー・トーラスから放ったソライロをトトテティアの口に捻じ込み、体内に行きわたったそれを媒介して浄化の術をかけた。白目をむいたまま、内も外もスライムまみれの、あられもない姿でぐったりしているトトテティアを、クアンは見下ろした。無論救命のための行動であったが、胸がすく思いというものを、彼女はこのときになって覚えたのである。

それから二人は何度か互いに利用したり、されたり、あるいはそんなことも一旦脇に置き、二人でのんびりと休暇を楽しんだりもした。出会いの一件も今では思い出話のひとつであり、ある意味では信頼しあってもいる。

それなのに、彼女を友と呼ぶことが、クアンには認められなかった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

崖を回り込むようにして、二人は湖まで下る。

「ひゃァー、絶景」

トトテティアが指さす先には、もうもうと白煙を立てる瀑布がひとつ。クアンはしばし言葉を発さず、静止した。

「あんなん珍しくないの、水術士さんの故郷じゃ」

「珍しい」

「へぇ」

見渡せば、湖のほとりにテントがいくらか建っている。ここに何かがあるというのは本当らしい。先に行った奴らに話でも聞けないか、と近づいてみるが、人気はない。

「みんな潜ってる、か。じゃ、急ごう」

クアンは湖に入りこむ。

「テティ」

「あいさ」

クアンを追って水に浸かったトトテティアは、彼女の傍に寄る。二人は、念じた。

「《バブル・シップ》」

「《エアー・リンケージ》」

大きな泡があらわれて二人を包み込むと、ゆっくりと湖の底へ向かって降下させていった。中ではどこか離れた場所と空気のやり取りがなされ、窒息をすることがない。

しばらく底の方を漂っていると、小魚が一匹、大きな魚に追いかけられているのが見えた。すんでのところで魚が逃げ込んだのは、自然の場所ではない。なにかのブロックが積み重なってできた隙間だ。

「こんなところに、建物ねえ」

クアンの念に応じて、泡は動いた。ブロックの分布を追うようにして進んでゆく。そうして至った、滝の裏側にあたる位置に、二人は石造りのトンネルを見つけた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

トンネルの先は空気のある場所だった。二人は泡を破り、水から上がる。照明器具に火を灯せば、四角い通路であるとわかる。奥は見えないが。

「静かね。先達さんたちはもう先の方かしら」

「……や、待って、クアン」

トトテティアの方を見ると、えらく真剣そうな顔をしている。

「風よ。手前から、奥に」

「ここで?」

「ええ、自然じゃないのはわかる。もう少し進んでみましょ」

奥に行くにつれ、トトテティアだけでなくクアンにも、風が感じられるようになってくる。

「……何かに吸い込まれてるみたいだね」

「まさかこの通路自体、罠なんじゃなくて?」

「ありうるね」

とはいえ、ここですべてを判断することもできなかった。

「ソライロ、お願い」

クアンは帽子を懐にしまうと、ブルー・トーラスからソライロを放つ。彼はクアンとトトテティアに結び付いてから、壁の隙間にしみ込んだ。

そのまま、壁に張り付いて進んで行くと、通路の奥、床の方がにわかに光り出していた。

「何かある」

「ソライロ、心の準備しときなさい」

ここまでくると、クアンの長い後ろ髪が前方に引っ張られ、軽く鬱陶しさを感じるまでになっていた。

やがて通路は終わり、広い部屋に出た。中心にぽっかりと穴が空いている。その下が光の、そして引き寄せる力の出元であるらしい。

「ねえ、あそこ…… ッ!」

クアンは、何か言おうとした……だが、ガラガラガラーッ! 直後に床は崩れ落ち、穴を広げる。それは、光の力を強めることにもつながった。クアンは踏ん張りがきかなくなり、空中に投げ出される。

「アゥッ……!?」

命綱となったソライロがいるが、それも伸びきって、いつもたなくなるかわからない。

「《アゲインスト・ウィンド》!」

トトテティアは自分の風をまとい、引き寄せに対抗する。しかし、クアンも救うとなると、難題であった。ソライロの身体も、少しずつ壁から引きはがされていく。クアンは手を打たなければならなかった。

「ソライロ、固まれッ! 《フリーズ……」

だが、術を唱え終えるより先に、限界が来た。

「クアァーンッ―――!!」

身体が、離れていく……最後に聞いたのはトトテティアの叫びであった。クアンは、どこまでも遠くへ落ちていくように感じた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

目を開ける。そこは風の音も川の流れもない、コンパクトな四畳半のど真ん中だった。

「……あァ」

クアンは夜遅くまで営業をして、そのまま倒れ込むように眠ってしまっていたのだった。結論から言えば、あの後目を覚ましたのが、この今の自宅の前だった。だが、あれからトトテティアはどうなったんだろう。先に来ていただろう連中も、自分たちのようにこの世界に来てしまったのだろうか……

考えるのをやめ、ブルー・トーラスを抱えて散歩に出かける。よさげな地下水脈の話を聞いたので、そこでソライロを遊ばせてやれるだろう。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

○今週のヒトの遺産

『《アンチパノプティコン》』(建築/カルマ/尖塔)

アル=ゼヴィンの《島》に残されていたヒトの遺産の一つ。術の力により、誰もが立ち止まって見上げずにはいられない塔。首が疲れればまた歩き出すが、それでも塔は心の中にそびえ立つ。

これを見ている限り、本当に気付かねばならないことには気づけない。これを見られている限り、本当に都合の悪いことは隠すことができる。

<その3>

ここに来て三週間で、クアン・マイサはやっと要領をつかみ、余裕を得つつあった。各所に連絡をして商品を仕入れ、顔の筋肉を酷使して客を迎える。綿密だがいまいち温かみの無いサービス案を用意し、雇った用心棒どもに渡して、各自の判断でもって実行させる。

クアンは、その根っこからしてあまり温かい人柄ではないから、接客業にはあまり向かず、やりたいと思ったこともなかった。けれど実際始めてみれば、自分勝手になだれこんでくる勇者たちの相手をするのは、エキサイティングであった……生きて動いている人間を、こうも大勢見ることになろうとは思っていなかったのだ。それに、知り合いもいくらかできた。冷たい女だからって、誰とも話さずに生きていけるわけではない。

しかし一方で、楽しんでばかりはいられないのもわかっていた。なにしろ、あと十二週した後に来るものに対処できなければ、世界は滅びてしまうのだ。元々の住民たちはみな刹那的に生きているようだが、クアンには帰る場所があるので、そういうわけにいかない。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ところでこの四畳半の城は即ちすべてが店舗であり、パーソナルスペースが無い。そこでクアンはスコップを担ぎ、穴を掘ることにした。横に広げられないなら、下である。勇者が来る日までには終わらせなくてはならない。計画書を書き上げ、その通りに作業をする。

まずは全ての畳をはがし、その下の木板を外す。穴をあけるのはハーフサイズの畳の下である。決してたくましくはない腕でスコップを操り、身体をくねらせて土を運ぶ。溜まった土は袋の中に入れれば、いったん土嚢としてとっておける。不要な分はどこか差し支えないところに捨てに行けばいい。

途中何度か休憩し、お茶を淹れる。アル=ゼヴィンから持ち込んできたルジの葉の茶で、渋みが少なく、目が覚めるような香りがある。クアンのお気に入りであるが、あと十二週はもたないだろうから、代わりになるものを見つけなくては。

畳の下に蛇体が収まる程度のスペースができれば、穴の中で土まみれにならないよう、布を適当に敷き詰める。それから木材で枠と柱を作り、補強をする……クアンも専門家ではないが、このあたりは冒険者として覚えておくべき技術であった。いざとなれば、小屋を建てるくらいのこともしなければならない。

最後は、木板と畳をはめ直して終わりにする。これで今日からは、誰の目にもさらされることなく眠れるだろう。

すっかりくたびれた彼女の耳に、寂しくないようにと勝手に配信されている声が届く。どこかの委員会が、どこかの魔王を禁忌指定したらしい。そういえば、そんな話もあった。だけど、どのみちここからは逃げて、アル=ゼヴィンに帰るつもりなのだ。障害は全てうまくすり抜けてみせるほかない。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

営業開始まではまだ多少時間があったので、クアンは先日見つけた地下水脈へ出向くことにした。

流れは静かだった。壁には灯りが吊るされて、水面と空間をやさしく照らしている。そこにブルー・トーラスを放り投げれば、ソライロが中から顔を出して、車輪のように走り回るのだった。

微笑みを見せてから、クアンは帽子を取り、服を脱ぎ始める。青いトップスを床に下ろすと、布をぐるぐる巻き付けて隠してある胸元が見える。いわゆるサラシというやつで、これでどうにかなってしまうほどには、バストが乏しい。あっちもこっちも出っ張っているトトテティアとは、対照的な体つきである。特に気にしているわけでもないが。

さほど手間もなく裸になって、クアンは水のなかに転がり込む。熱をもった腕が、冷たさによって楽になる。水の力は程よくて、張り詰めた筋肉をもみほぐしてくれているようにも思えた。青く長い後ろ髪も、川の流れを形にしているかのように、ふわりと漂った。水が好きで好きでしょうがないから水術士になった、なんてことはないけれど、こんなふうにしているのは嫌いじゃない。

夢中ではしゃぎまわってきたソライロが、クアンに気付いてか、近寄ってくる。彼女はその頭をなでてやると、ブルー・トーラスごと掴み、胸元に置いた。そうしてしばらく、川に身体を預けていた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

水浴びを終えたクアンはブルー・トーラスを小脇に抱え、四畳半の居城に戻って行く。勇者どもを相手取る時間が近づいていた。

さて、今日はどうなるやら。

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○今週のマジックアイテム

『《泣き虫の虫籠》』(商品/カルマ/呪物)

アル=ゼヴィンにあるマジック・アイテムの一つ。

手のひらに乗る程度の紫色の小箱で、中からか細くも悲痛な泣き声を発する。持ち手はこの音を聞き続けるうちに、不安と焦燥感にかられていく。箱の中を見てみようにも、どこにも開け口らしきものはない。ただただ箱は泣き続ける。

やがて、誰かの涙に応えてやれぬ悲しみを押し殺した時、その者は優しさを失うだろう。とはいえ、それが普通なのかもしれない。

<その4>

魔王としての活動に馴れてきたクアン・マイサは、商品の発注と用心棒の雇用を早いうちに済ませ、広大なダンジョンの中へと繰り出していた。自分のように、アル=ゼヴィンからここへ送られてきた者がいないか、探しに行くのである。恐らくは皆、この地の別々な場所に飛ばされてきたのだろうから、自分の足で―――クアンには無いが―――見つけなくてはならない。

勇者が来るのは一週間に一度だから、それまでにこの四畳半に戻ってくればいい。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

地図を書きながら曲がりくねった道を進み、あるトンネルをくぐった先で、急に視界が開けた。

青い空と風にそよぐ草原、まばらに立つ木、そして遠く水平線まで伸びる道とが、そこにはあった。クアンは目を慣らすために、少し立ち止まらなくてはならなかった。それから、辺りを見回す。蒼天と一面の緑が、どこまでもある。山すらも見えていた。

「嬢ちゃん、新入りかい」

クアンの驚きを察してか、脇から誰かが声をかけてきた。振り向いてみれば、道の傍にあった岩に小男がひとり、腰かけている。

「……これは、偽の空さ。ここは地底の国だがね、光や風が必要なやつも住んでるンでさ」

天を見上げ、小男は呟くように言った。

「そうらしいわね」

クアンもハーピィ―――アル=ゼヴィンでは半鳥族と呼ばれていたが―――を雇用している。四畳半では流石に面倒をみてやれないので、暇な時には解散をさせているのだが、きっとこういうところで気晴らしをしているのだろう。

まがい物だという空に、目を向けてみる。その広さと青さが嘘だとは、少なくとも彼女にはわからない。ここにトトテティアがいたならば、喜び飛び回っているだろう……そう、クアンは思った。あるいは、もしかして……

「ねえ、緑色で、丸っこくて、毛むくじゃらの獣の子、見てない? ここらでさ」

「ンゥ……知らんねえ。悪いが……なにせ、おれもついさっきまで、寝こけていたのでな」

「そう、ありがと」

小男に別れを告げ、クアンは道をゆく。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ふと、どこかから鳥の群れが発ち、ばらばらに飛ぶのが見えた。その後ろから、クアンの数倍はありそうな大きな虫が追いかけている。長い胴をくねらせ、何組もある羽で空を泳いでいた。

自然を設けたのなら食物連鎖があるのも当然だが、それであんなものがいるとなれば、クアンだって襲われないとも限らない……実際、鳥に逃げられたらしい巨虫は、ぐるりとカーブをして、地上に迫ってくるのだった。

「……良くない、ね」

クアンはブルー・トーラスを小突くとそのまま宙に放り投げ、自らは地面に伏せた。トーラスの中のソライロは空中で偽足を発し、主の背に取りつく。そのまま道の脇、草むらの中に潜り込む。大きな影が通り過ぎるのがわかった。腰と首とをひねり、どうにか空を視界にとらえると、巨虫が、何度か地面をさらってはまた離れるのを繰り返すのが見えた。

クアンの方から動くことはしない。ただ、別な何かが犠牲になって、あの虫が満足してくれるのを待った。けれど、そうはいかなかったのである。

ゴーッ! 一瞬、強く風が吹いて、クアンの感覚を飽和させる。次に気がついた時には、彼女はつまみあげられていた。

「アッ……!?」

巨虫の脚の一本が、クアンを引っかけていた。

「ソライロッ!」

クアンが叫ぶまでもなく、ソライロはその牙を硬化させ、巨虫の脚を食いちぎろうと努力していた。けれど、地面はみるみるうちに離れていく。ソライロが脚を噛み切り、自由になった時には、既に致死の高度であった。

だが、何も策がなかったのだとしたら、クアンだってソライロを止めている。

「《セイフティ》!」

詠唱と共に、ソライロは素早く動いた。背中から肩へ、腕へ、そして魔力で輝く手の先へ……ソライロは弾けるように、主の身体から地上目がけて飛び立った。そのまま彼はあぎとを開き、あたりの空気を吸い込み、大きく膨れ上がっていく。あの中に飛び込めば、死にはすまい。虫に喰われるのはゴメンだが、ソライロだったらむしろ歓迎だった。どこもかしこもひんやりしていて気持ちがいいし、何より生きて出てこれる。

だが、あの巨虫もソライロを脅威と判断してか、大きく身を曲げて突撃してきた。

「アーッ……!?」

空中ではかわせない。得体の知れない衝撃が、クアンを襲った。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

そっと目を開けると、見えたのは、一面の灰色であった。

身体を起こせば、あたりには草むらと木と、一筋の道。だがそのどれもが色を失っている。

「……嬢ちゃんか。やられたな」

聞き覚えのある声がくる。ここに来る時出会った、あの小男だった。

「あなた……」

「助けに来たわけじゃあないぜ。散歩の途中で、たまたまここに来ただけさ」

男はぽりぽりと、顎をかく。

「ここ、どこなの? あの世とかじゃないでしょうね」

「……おれにとっちゃあ似たようなもんかな。お前さんは、違うがね」

顔こそ変えていないが、クアンは困惑をした。

「帰りたいだろう。ついてきな」

「……ン」

男は歩き出し、クアンもあとに続く。その途中、男は語り出した。

「おれのふるさとは世界ごと滅んじまった。えらい魔法使いさん達がでかい実験をして、失敗してな。世界がどんどん灰色になっちまいだしたんだ。こんな風にな……」

色のない空を見上げる男。

「生き物が灰色になると、動かなくなっちまう。その魔法使いさん達も当然真っ先にやられちまって、もうどうしようもなかった。それでもみんな、死にたくねえから、一生懸命どうすりゃいいか考えて、出来ることは全部やった。だが、どうにもならんものは、どうにもならんかったのさ」

男は前しか見ていないくせに、足も口も、止めるつもりはなさそうだった。

「……最後に残ったのがこの野っ原だった。それもどんどん狭くなってくし、食べ物だってもちやしない。だが、人間なかなか、自分の命を諦めるってできねえもんなんだな……人が減ればいいって、みんなとち狂って殺し合いを始めちまった。おれは黙って見てるだけだった。最後に残った一人が、おれに向かってきた。その時にはもう、灰色も目の前まで来てた。おれの胸にナイフが刺さって、そのすぐあとに、そいつは灰色に呑まれちまった……おれは血にまみれて、灰色にはならなかった」

クアンは相槌の一つも返してやらなかったが、男は気にしていないようだった。

「それで、気がついたら野っ原と一緒に、この地底の国に来ちまってた。初めは、助かったんだって思った。だけど、眠った時に、こういう風に……見えちまう。ここに見えてんのは偽の空だって言ったが、そういうわけさ。たぶんここでは、夢とうつつがあべこべになってんだと思う。おれだって、灰色から体を守り切ってくれるくらいに、ドバドバ血を流したんだ。生きてる方が、おかしいってもんだ。どうして、こんなんなっちまってンのか……それに、どうしてこの地底につながっちまったのかは、わからねえがよ―――」

そこで男は突然、なにかにぶつかったかのように立ち止まった。

「いてて。いけねえ、うっかりしてた。さ、ここで、目がさめるのを待ちな。元いた世界でも、ここまで歩いて来たことになってる。あの虫ももう来やしねえさ」

「……ありがとう。助かったわ」

「こっちこそ、礼を言うよ。話を聞いてくれて……寂しさも、まぎれるってもんだ」

男はそう言うと、クアンに背を向けた。

「おれはもう少し、散歩をしてくるよ……こんな場所だが、ないがしろにしちまいたくはないんだ。それじゃあな、嬢ちゃん」

「……ええ。また、どこかで」

クアンは男を見送る。彼の姿が小さくなるのに合わせて、視界がぼやけ、よくわからなくなっていった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

クアンは目覚め、再び偽りの空の光と熱に晒された。世界は色を取り戻し、振り向けば初めに通ってきたトンネルも見える。

「……さ、他を当たるとしましょうかね。行くよ、ソライロ」

ブルー・トーラスを小脇に抱え、クアンはトンネルをくぐり抜けていった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

○今週の発見物

『《夢の通い路》』(建築/カルマ/秘密の部屋)

クアン・マイサがダンジョン内で発見した異常な空間。内部では夢と現が逆転していて、周りにそぐわない環境が広がっていたり、時には過去をかいま見ることもできたりする。

もしも夜眠った時に、突然夢が終わる経験をしたら、それが現実にあらわれていないか探してみた方がいいかもしれない。どこかに発生したこの空間があなたの夢を勝手に吸い寄せ、誰彼かまわず見せてしまっているかもしれないからだ。

<その5>

クアン・マイサは紙に書き出された通信文を見て、頬杖をついた。

どうもアンデライトの魔王が禁忌選定委員会だかに禁忌指定とやらを喰らってしまい、国ごと引きこもったところを圧し潰されそうになっているので、皆で支援に向かう、という話のはずだ。それを魔王たちや、委員会の穏健派たちが手伝ってくれる。

だが、メガネいじりが得意技らしい輩が通信を送ってきて、彼が魔王を禁忌にする側だと知った時、クアンは少し考えなくてはならなくなった。これで救援作戦に参加して、下手を打てばマークされる。そうなれば、次に禁忌指定をくらうのは自分かもしれないのだ。それではたまらない。

ぶっちゃけてしまえば、クアンはここの奴らが生きようが死のうがどうでもいいとさえ思っていた。滅びの日が来るまでにトトテティア他アル=ゼヴィンからここへ来てしまった者たちの安否を確認し、跡を濁さずここを去ることこそが、彼女の目的なのだから。商売は意外と楽しんではいたが、たった数週間で世界のすべてに情を抱けるほどには温かくないのが、クアン・マイサという女性である。

彼女は、概ねドライに人と付き合う。ソライロと、かろうじてトトテティアを除いて。

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クアン・マイサの故郷は、湖のほとりの町である。そこは《島》の墜落地点に近く、アル=ゼヴィンの中でも特に環境が良い場所の一つだった。人や物の出入りも激しかった。美しい景色を見に来た旅人やら、この地を原産とする薬草類を求める錬金術師や学者やら、商いをしようとする者やらが次々とやってくるのだ。

マイサの一族の祖先もまた、長い旅の末にこの地に辿りつき、居を構えた。湖の薬草について研究し、その栽培に成功した彼らは、多くの富を築いた。そんな家に生まれたクアンは、生活の不自由こそなかったものの、孤独に育った。父も母も、子供は勝手に育つものだと思っていたらしい。毎日商売の為に、駆け巡っていた。町のアカデミーに通ってはいたが、その頃のクアンは引っ込み思案で大人しかったから、友達もろくにできなかった。

金持ちだからといって楽ができるわけではない。努力をやめれば、いつでも富は逃げていってしまう。忙しくしているのはお前のためでもあるのだ……そうクアンに言い聞かせては、二人は家を空けていた。クアンも昔の一族の話を聞いたりして、何となく理解はしていた。アル=ゼヴィンの環境の改善だの、技術の進歩だののために、自分たちの地位がずっと前から盤石ではなくなりつつあったということを、である。

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幼き日のクアンは、自由時間にはいつも湖へ遊びに出かけていた。岸に沿って進み、街から離れていく。あまり遠くへ行くと危険な生き物も現れるが、恐れることはなかった。

ふと、湖面に小さな盛り上がりができて、ゆらりと動き出す。その中には顔のようなものも見える。クアンは、自分の元へ近づいてきたそれを、両手ですくい上げる。

「こんにちは、ソライロ」

ソライロは、もともとこの湖に住む生き物であった。この小さなボディーガードを連れてクアンは岸辺を進み、目に映るすべてを楽しんだ。静かに揺れる水面、時々跳ねる魚、風にそよぐ木々と草、そしてなにより、大地に聳えたつ《島》……

服を脱ぎ捨てて、湖の中に行くことだってできた。空気を吸い込んで風船のようになったソライロが管を作ってくれる。それを咥えれば、水の中でも息ができた。泡や魚と戯れながら泳ぎ、ソライロの仲間に出会ったこともある。みんな微妙に顔と色が違っていて、しかし湖に溶け込める姿をしていた。

そうして湖の真ん中の方まで泳いでいって、そこで浮かんでいるソライロの上に乗るのが一番の楽しみだった。陸の無い場所から、街を、湖の周りの森を、そして《島》を、ぐるりと見渡す。そうしていると、絵本に出てくる水の精になったような気分がしたのだ。

けれど、楽しい時間はすぐに過ぎてしまう。陽が落ちるまでには、家に帰っていないといけなかった。

「じゃあ、ソライロ……また明日ね」

両手で抱えた彼を、水面に戻す。名残惜しそうに湖面に消えて行くソライロを見送り、クアンは家路につく。夕食を済ませて身体を綺麗にしたら、寝るまでまた勉強をしないといけない。そうして将来は、自分も家業を継ぐことになるはずだ。父や母のように忙しくなって、ソライロとの日々も終わってしまうのだろう。当時のクアンは、そう思っていた。

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父が逮捕された、と聞いたのはそんなある日のことだった。湖の薬草の中に、麻薬の材料になるものがあったらしい。それで犯罪組織と金のやり取りをしていたのが明るみに出た、という。

ベッドの中に閉じこもり、クアンは思った。こんなことをしたのも自分のため、なのか。私がいたからこうなったのか。あるいは結局、父も母も、金持ち一族でなくなるのが怖かっただけなのかもしれない。

その後、クアンは離れた街のアカデミーに進学し、家を出て寮に入った。消去法で選んだ水術士の養成コースで彼女は良い成績を収め、しかし独りぼっちのままでいた。

それっきり、父とは一度も会っていない。

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アカデミーの卒業試験は、独自のマジックアイテムを一つ作るというものだった。

始めて言い渡されたあいまいな目標に、クアンは戸惑いを覚えた。同期生たちが次々計画を立て、製作に取り掛かるものすらいた中、彼女は何もできずにいた。そんなクアンを見かねてか、教員がアドバイスをしてきた。

「好きなように作れ、と言われているんだ。君の好きなものが何か考えてみればいい。実際どうやるかは、一旦置いといて……」

言われるがまま、乾いた心をしばらくまさぐる。クアンは、思い出を一つと、おぼろげな未来への展望を掴み取った。

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休日を利用し、クアンは故郷の町を訪ねた。家に帰ることはせず、代わりにあの湖に向かう。思い出の中のあの子が、まだいるかどうかはわからない。それでも。

湖の前に立ち、クアンはしばらく待つ。すると、湖面が盛り上がった。顔が見えてきた。寄ってきた……

「―――ソライロ!」

あの子は、ここにいてくれた。もう両手ではすくい上げきれなくて、とろりとその身がこぼれていってしまう。だから、ソライロの方からまとわりついてきた。

「くすぐったい、ソライロ! もう……っ」

思う存分、ソライロを甘えさせる。草の上に寝転がって、そこらじゅう水浸しにして、服を脱ぐ間もなく湖になだれこんで……ようやく落ち着いた頃には、岸から離れてしまっていたほどだった。

「……ソライロ、大事な話があるの」

透き通る水の上、空気を含んで膨れたソライロに掴まりつつ、クアンは本題に入る。

「私ね……この街から、このまま……出てっちゃおうって、思っててさ」

ソライロの顔は、見えない。

「きみも、ついてこないか、って。それを……今日ね、聞きに来たのよ」

うつむいた顔に、ソライロの目は入らない。

「どう、かな……」

ソライロは偽足を伸ばし、ゆっくりとクアンの上半身を包み込んだ。クアンも、ソライロを抱き返す。

「……うん。離れたく……ないや……」

その後、ソライロを連れてアカデミーに帰ったクアンは、ブルー・トーラスを作り上げて卒業を果たし、水術士となった。そして、トレジャーハンターの道に進んだのである。

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クアンは腕を上げて、腰を伸ばし、商売の手続きに入った。どうでもいい、とは思いつつも、アンデライト救援作戦での振る舞いは考えていた。

リスクを冒してでも行かねばならないというのなら、それなりに対策を練って事に当たるのも彼女のやり方である。

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○今週の思い出

『《空と海との間には》』(建築/カルマ/水路)

クアン・マイサが通っていたアカデミーにあった、娯楽用の部屋の一つを再現したもの。

中には巨大なボウル状のプールが設置されており、その壁面にはアカデミー上空二キロメートルに位置する魔導衛星からの映像が投影されている。空を飛んでいるかのような気分で泳げるのがウリで、雨や雪が降ったりするとなかなか面白い光景になる。

特に水棲魔族の生徒からの人気が極めて高く、連日満員であったため、人混みを嫌うクアンは、明け方や深夜にこっそり一人で入っていた。