クリドリ日記
1期1~4
<1期 その1>
魔法世界オルタナリアには、竜がいた。
遺伝子の変異によるものか、地に満ちる魔力の気まぐれでか、とにかく他の生物種よりも抜きん出た彼らは競うように強く巨大になってゆき、大地を席巻した。
竜の腹の下に富が敷かれ、竜の脚の下に兵たちが集い、竜の尾が囲む中に街がある。そういう時代が、確かにあった。
けれど竜たちは、あまりにも突然に消えていったのだった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
オルタナリアの北方に、メシェーナという小さな国がある。そのさらに北の果て、そびえ立つ霊峰べゾムのふもとにあるマバデデの村では、子どもたちが一斉に家の外へと飛び出してきていた。
短い春がもうすぐやってくる頃のことだった。
「おい、ワルセーン! 早く早く! もう来ちゃってっかもしれねえぞ!」
髪をつんつんとんがらせた十歳かそこらのヒトの少年が、雪を踏んづけて駆けていく。
「言うけどよぉ、滑っちゃうぞ! ラムシンのかあちゃんに言い訳すんのもうごめんだぞ!?」
ワルセンと呼ばれた、恰幅のいい山猫の獣人の男の子が後ろに続いている。初めから追いつけるなどとは思っておらず、声だけでも届けようと頑張っていた。
「アノーヴァを驚かせてやろうって思ってンだ! 早くしなくっちゃさあ!」
尖った髪の少年……ラムシンはベゾムの方を見据え、軽く幅跳びをきめた。
が、ズボッ! 積もった雪の下に、地面がない―――
「あはっ、わ、ワァッ」
ラムシンは目の前にしがみつくので精一杯だったが、そこもまた雪なのである。振るった腕は、むなしく呑み込まれた。
「言わんこっちゃなァーい!」
「うるせー!」
鈍くさいふとっちょの友人が後ろから叫んでくるのが、やんちゃ盛りのラムシンには悔しくて、まだ慣れないことでもやろうという気にさせてしまう。
「見てろ、こんくらいなあ……!」
ラムシンは手を埋もれさせたまま、雪をこねくり回して段々にし、それから念じだす。
「ンゥゥ……凍れ、凍れ! 凍れェ!」
念を汗のように染み出させて、手の平から、雪のなかへ……
雪はたちまちより白く、冷たく、固くなっていった。
「へへん、どうだい」
凍りついたそれをとっかかりにし、ラムシンは雪の中から体を持ち上げてみせ、そのままアザラシのようにきちんと積もった雪の中に滑り込んでいった。
ただ、それがまたいけなかった。
「アレ……ッ」
加速は止まらず、重力がどんどん強く感じられていく。
ラムシンは大きな傾斜の中に放り込まれてしまっていたのだ。
「ワァァーッ!?」
ブレーキなどかけようもない。勢いがついて、一体どこまで滑るのだろう……答えはすぐにわかった。
切り立った、愛嬌のかけらもない崖が一つ、ラムシンに急速に近づいている。
「あっ、アヒ、ヤバ、ヤババッ……」
さっきは魔法の応用でどうにかなった。では、崖にぶつかりそうになった時には?
「ヤババァバァァーァーッ!?」
危機的状況のさなかで閃きが生まれるほど、ラムシンは強くはない。
けれど、たった一つだけできることがあった。
「たっ、た、たた、た、たった」
たった一つ。
「……助けてェ! アノーヴァァァァーッ!!」
叫び終えて、崖は、迫ってくる。
その硬さと密度でもってラムシンの顔面を粉砕しようとしている。
迫って、迫って、岩の筋と質感がはっきりと確かめられるほどになって―――崖は突然、視界の下へと消えた。
「アッ?」
ラムシンが次に見たのは、青空だった。
雲が、太陽が、上から下に、流れた。
それから、山と、森と、雪の積もった大地がきた。
お人形さんのように小さなワルセンと、その先には家々が―――
「ワッ」
ズボッ! 何かが、ラムシンの身体に巻き付いた。
青く、大きく、柔らかく、温かいものだった。一方でその側面には、馬の鞍のように氷の塊が張り付いている。
「……だいじょうぶ、ですか?」
声がした。子どものように高いのに、長生きをした女性のもつ何かを含んだ声だった。
ラムシンがよく知っている声だった。
「あぁ……アノーヴァ!」
アノーヴァと呼ばれた声の主は、毛むくじゃらの、狼のような、四脚の竜の仔であった。
体毛は上半分が青く、下は白い。頭と背中はやはり氷のような甲殻で覆われている。太く長い尻尾は、ラムシンを優しく包み込んでいる。
ワルセンは遠くから、友と仔竜と、崖の直前に突如現れたそそり立つ氷の壁を眺めていた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「ごめんよアノーヴァ、ラムシンが迷惑かけたね」
「いいのですよ。お怪我がなくてよかったわ」
ラムシンとワルセン、それからアノーヴァは並んで村への道を歩いた。
入り口の門をくぐって挨拶をするよりも早く、三人を目がけて村の子どもたちが駆け寄ってくる。
「覚悟しとけよアノーヴァ? みんなアノーヴァとやりたいこととか、話したいことがたっくさんあるんだからさ」
「わふっ、そうみたいね」
アノーヴァはラムシンとワルセンよりも速く歩いて、小さな女の子に前脚へまとわりつかれる。『おすわり』の姿勢になって、今度は男の子を一人脇に迎えた。そのまま、背中、尻尾、腹……次々と空きが埋まっていく。
体高でいえばラムシンと大差ない仔竜の身体は、たちまち子どもたちの元気の中に呑み込まれてしまった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
楽しい一日はあっという間に過ぎ、マバデデの村には夜の帳が下りてきた。
「じゃあおやすみなさい、村長さん」
「うむ、おやすみアノーヴァ」
たっぷりと髭を蓄え、たくましい体をした村長は竜人だった。彼はべゾムを祀る一族の者であり、アノーヴァが村に下りてきた時には面倒をみてあげていた。
暖炉で暖められた部屋の一角に、藁が敷かれている。
その上でアノーヴァは丸くなり、大きな尻尾を抱きしめて、目をつむる。
考えるのは、明日のことばかりだった。子どもたちに魔法の手ほどきをすることになっている。特にラムシンやワルセンは、そろそろ狩りを学ばなくてはならない年頃だ。どう教えたらいいだろうか。
少しずつ、移ろうようにして、現から夢へと旅立っていく。
いつもよりもずっと長い、夢の中へ。
<1期 その2>
アノーヴァがマバデデの村を訪れる百年ほど前、霊峰べゾムを登ってゆく人々の群れがあった。
長い冬は未だ終わっていない。それどころか、この世のものとは思えぬような吹雪が山肌を駆け抜けている。人の生命の一つや二つ、簡単に吹き消せてしまえそうなほどだ。
それでも彼らには、今すぐこの山を登らねばならぬ理由があった。
先頭に立つ恰幅のいい初老の竜人は、目を固くつむって念じながら急峻な坂を上っている。彼の頭から熱を帯びた光のカーテンが現れ、後方の仲間たちまでも包んでいる。これが絶えたなら、輝く大気があっという間に一行を氷に変えてしまうだろう。
ほとんど真っ白な視界の中で、しかし一行はただ一点を見据えて突き進んでいく。
大きな洞穴が、その先にあった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
先頭の竜人は、後続の者たち全員が洞穴に入ったのを見届けて念を解き、倒れ込んだ。
「オッズ様! しっかり!」
すぐ後ろにいた、背の高い白熊の獣人が助け起こす。
「すまん……ワシゃ、大丈夫だ。それより……」
竜人オッズは自分の脚で立ち上がり、洞穴の奥へ叫んだ。
「エブテスト様! ティーテ様! マバデデのオッズにございます! 山の妖精たちが伝えてくれました! 卵が、卵が孵られたと……っ!!」
オッズの声が闇の中に吸い込まれた先から、青い光がふたつ返ってきた。
それは、生き物の双眸だった。重々しく迫り、全体が露わになる―――四つ脚の、青い雄の竜だった。体高でいえば、オッズの倍以上はある。頭には樹のように枝分かれした氷の冠を戴き、首から背中、尾までもが同じような甲殻に覆われている。翼も結晶が連なってできていて、その合間に膜が張られているつくりだ。それ以外の部分を覆うのは、鱗ではなく毛だった。首が少々長いのを別にすれば、結晶の鎧をまとった巨大な狼のように見えなくもない。
「マバデデの者たちよ、よく来てくれた。確かに、我らの仔が先ほど産まれた。このベゾムに住まう始祖竜の、最後の仔だ」
「エブテスト様……」
雄竜、エブテストは寂しそうな顔をしたオッズを前に、ぐるりと後ろを向こうとする。
「さあ、こちらへ。我らの仔の顔を見てくれたまえ」
エブテストは念じ、角と爪とに青い光を灯すと、洞穴の奥へと歩いていった。
一行はエブテストともに広い空間に踏み込んで、そこにもう一頭の竜の姿を見た。エブテストよりもひと回り小さく、体毛はより白っぽい。エブテストの番の相手、ティーテである。
その懐には、割れた卵の殻と、母の乳房に吸い付く小さな生命が、ひとつ。
「あぁァ……! ティーテ様、お、おめでとうございます! その仔なのですね! その仔が……!」
「……よく来てくれました、オッズ。とても元気な女の仔です。私たちがこのオルタナリアに生きた証です。さあ、もっと近くで……」
促されたオッズは産まれたばかりの仔竜に歩み寄る。
傍のティーテに比べてあまりにも小さかった。両手だけでもどうにか抱えきれそうな程度の大きさだ。毛も生え揃わず、まだ湿ってすらいる……けれどそこには、親譲りの白さがあった。このべゾムの山肌のような、汚れなき白さが。
目をつむれば、瞼に焼き付いた像がむくむくと成長し、ティーテそっくりの姿になるようにすら思えた。
が、ふと、そのティーテが声をかけてくる。
「皆様……まもなく春が訪れます。よろしければ、それまでここに留まり、この仔の御世話をしてくださいませんか。蓄えならばありますから……」
オッズも、その後ろの者たちも、次々と目を見開いた。
「てぃ、ティーテ様!? そのような……畏れ多い……!」
「オッズ、聞いてください。私たちが死んだ後、この仔がすがれるのは、恐らくニンゲンたちだけです……この仔は、ニンゲンとともに生きることを学ばねばならないのです」
「我ら始祖竜は、もはや滅びゆく生き物だ。だが、この仔がその悲しみに沈むようなことはあってほしくはない。精一杯に生きてもらいたいのだ。この仔が闇にとらわれてしまわぬように、そなたらには灯火となってはくれぬか。頼む……」
エブテストが、頭を下げている。
オッズは一瞬混乱しかけ、だが逃避することなく、その姿を見据えた。自分たちは、願いを託されている。
「オッズ……この仔の名前も、あなたにつけて頂けませんか?」
「わ、私めが……?」
「あなたにならば任せられます。私たちを愛してくださったあなたになら……」
願いを、託されている。
オッズは考えた。目の前にある生命の幸いを祈りながら、考えて、口を開いた。
「あ、アノーヴァ……アノーヴァというのは、いかがでしょうか」
「まあ、素晴らしいわ」
「アノーヴァ……か、うむ」
エブテストも、ティーテも微笑んでいた。
緊張が解けたオッズは、その場でくずおれて膝をついた。そして、どうしようもなく涙がこぼれてくるのに気づいた―――アノーヴァがこの山で産まれる最後の始祖竜だと認めざるを得ないからかもしれない。命を懸けて吹雪の中を抜けた先で、産まれたての生命を見た感傷のせいかもしれない。長年始祖竜に仕えた一族として、いま託された使命の重みに泣いたのかもかもしれない。
「おぉ、アノーヴァ様……なんと、なんとぉお美しい! あなたの幸せを、あなたの未来を! このオッズめが、生命にかえてもお守りすると、誓いますぞぉォ……ッ!!」
もう、ただただオッズは涙を流した。止まらなかった。
アノーヴァの身体を濡らしてしまわぬように、少しだけ離れて、オッズは泣いた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
悪夢の侵食に苛まれる、夢の世界。その片隅に小さな穴ぐらがあり、そこがアノーヴァ・ピイヴァルの塒となっていた。
丸まって眠っていた彼女は、ふと目覚めて、つぶやく。
「……オッズ……?」
夢の中で見た夢は急速に遠のいていく。今はもう、洞穴の壁しか見えない。
始祖竜の時は、あまりに長い。アノーヴァが赤ん坊も同然のうちにオッズは寿命を迎えてしまって、ここにくる直前まで面倒を見てくれていたのは彼の孫だったのだ……それでも、彼に与えられた温もりは今も確かに心の中にあって、寂しさを癒やしてくれる。
「オッズ……あなたが守ってくれた生命、粗末にできようはずなどありません。わたしはきっと、強く生き抜いてみせますわ。どんな世界にあろうとも」
もう一度目をつむり、アノーヴァは身体を休めた。朝が来ればまた戦いに行かなくてはならない。
<1期 その3>
やがてアノーヴァは親に頼らず山を降りられるようになって、何度もマバデデの村を訪れた。
エブテストもティーテも喜んで彼女を送り出し、信頼している村人たちに託した。彼らの言うように、始祖竜は滅びゆく種族なのだから。
村にいる間、アノーヴァはいつも子どもたちにまとわりつかれていた―――背中に乗れば家畜とは比べ物にならないほどの速さで走ってくれるし、強かで優しい毛並みは普段の防寒着や布団なんかよりも全然心地よく受け止めてくれる。日が沈んできたら暖炉を囲んで、ティーテから教わったらしい昔話を聞かせてくれる。優しく面倒見の良いアノーヴァが、人気者にならないはずがなかった。
子どもたちの世話を終えたアノーヴァは、今度は自分の面倒を見てもらいに、村で一番大きな家に帰っていく。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「やあ、おかえりアノーヴァ」
メガネをかけた竜人の男が、奥の机から立ち上がってアノーヴァを出迎える。
「ただいま、です、ザンプルさん」
アノーヴァは『おすわり』の姿勢になり、男にぺこりとお辞儀をした。彼、ザンプルはオッズの子であり、マバデデ村の現村長で、もちろんアノーヴァの世話を任された人でもある。
ザンプルが炊事場に向かおうとするとアノーヴァもついていって、食事を運ぶのを手伝う。芋とカブのスープと、ベゾムのふもとの森で捕れた草食獣の肉、それから果物の盛り合わせが今日のメニューだ。アノーヴァの分は結構な量になるので、簡単な荷台に載せて彼女自らが運ぶことになる。
テーブルについたザンプルの横でアノーヴァは夕食をとりはじめた。
「いただきます……」
一応は四脚の獣であるアノーヴァは、しかしマズルを丁寧に動かして床を汚さないようにスープを飲む。前脚で食器を支えるのもお手の物だ。まだ幼いながらも美しく振る舞おうと努めているのは、母親ゆずりの繊細さかもしれぬとザンプルは思った。
「子どもたちとはどうだったかい?」
「わふっ、みんないい子でしたわ。今日はまず、わたしがソリを牽いて森の方まで行ってきました。みんな、どちらかというと、景色より速さの方に興奮していたようですけれど……」
「ハハ、まあ最初はそんなもんさ」
そうして一日を振り返りながら、二人は雪山の恵みを味わっていた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
一日の終わりに、アノーヴァは眠くなるまで本棚の前で過ごす。
ザンプルが棚の下の方だけあえて隙間を空けて並べてくれていたので、そこに前足を突っ込めば簡単に読む本を取り出すことができた。
アノーヴァが今日取り出したのは、『竜の国』と題された紺色の本だった。やはり前足を器用に使い、開いて読み始める。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
―――今はむかしのオルタナリア そこはまさしく竜の国
息は風、血は川、鱗は山に とぐろの中にヒトの街
驕りの数だけ富が湧き 考えの数だけ知恵ができ
怒りの数だけ争って 愛の数だけ生命が産まれた
けれど終わらぬものはなく 木々の葉っぱが散るように
彼らはすっかり 消えうせた
これはどちらかといえば絵本に近いものらしくて、どこを開いても挿絵がある。
竜たちは太く継ぎ目のない線で形を与えられ、同じような線を内側に並べることで影をつけられていた。彼らは今にも迫ってきそうで、だが決してページの外のものにはなれない。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
毒竜リクリフッドはいよいよ本物のニンゲンでお人形ごっこをしようと考えついた。
彼は知り合いの魔法使いに《あべこべ触媒》を用意させて、腐らせる力を育む力に、破壊の力を創造の力にして、箱庭を築いて生き物を生やした。
とくに何も手を入れずとも、ニンゲンがあくせく生きているのを眺めるのは興味深いものだった。リクリフッドからすればたいへんつまらないことで彼らは愛し合うし、つまらないことで欲をかくし、つまらないことで思い悩む。
ただ、ある時自分と彼らの違いはなんなのだろうかとリクリフッドは考えてしまった。
考えて、考えて、それでも答えは出なくて、ついには考え過ぎで溶けてしまったリクリフッドは樹海になってその後もつまらない生命を育み続けたとさ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
時代の終わりに竜たちはばたばたと倒れていった。
ある者は病に侵されて。あるものは災厄に見舞われて。
愛した人は、悲劇と言った。
恨む人は、裁きと言った。
悟りし人は、無常と言った。
オルタナリアはただ女神様の思し召しのままに。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
布団に入ろうとしたザンプルは、本棚のほうがそういえば静かであると気づく。
見れば、案の定アノーヴァが本を開いたまま眠ってしまっている。
そっと毛布をかけてやり、その場を後にした。
<1期 その4(最終回)>
アノーヴァ・ピイヴァルは、体感で一ヶ月近くを夢の世界で過ごした。
多くの人々に出会い、多くの戦いをこなし、多くを見た。そんな、気がした。
すっかり疲れてしまったアノーヴァは、夢の世界での住まいとした洞穴の中に戻ってきていた。何もない、元いた場所よりずっと寂しいねぐらではあるけれど、それでも居れば安心できる。
崩れ落ちるように横たわり、体を丸め、尻尾に顔を埋める。
なんだか、どんどんと力が抜けていくようだ。もうまぶたを開いていられそうにない。
静かに、眠りの、中へ……
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
藁のベッドの中でアノーヴァは目覚めた。
熱気を感じて振り向くと、村長が暖炉に火をつけているところだった。
「おぉ、おはようアノーヴァ。今日はねぼすけさんじゃないか?」
起き上がり、窓の外を見る。日はすでにのぼり切っていた。
ちょっと焦り気味に体を起こしてみると、
「あ、おい、慌てなさんな。ちょっと待っとれ」
引き止められて、しかたなく『おすわり』の格好で待つ。
村長が奥の部屋に引っ込んでいくと、すぐに匂いがしてきて、お腹が鳴る。
「ほら、朝ごはんも食べないで行ったら力が出ないぞ」
野菜のスープと、焼いた干し肉とパンとをたっぷり抱えて村長は戻ってくる。
こうなるとアノーヴァも、ただの人懐っこい獣にならざるを得ない。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
食事を終えて表に出てみるが、見えたのは仕事をしている大人たちの姿ばかりだった。
ラムシンたちのことを尋ねてみるが、もうどこかへ遊びに行ってしまったようだ。アノーヴァも疲れているから、と伝えておいたという。彼らも彼らで、それなら、と納得したと。
けれどアノーヴァからするとそうはいかない。約束はよっぽどのことがない限り守るべきだし、寝坊なんてのはよっぽどと言うにはほど遠いものだ。
それに、今のアノーヴァは、なんだか無性に人恋しかった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
倉庫からソリが引っ張り出されたのを確かめたアノーヴァはその跡を追って、林の中に入った。
微妙な調節で木をかわしながら、アノーヴァは吹き抜ける風のように駆け抜けた……自分はこんなこともできる。けれど子どもたちは、ましてまだ不慣れなソリで、無事に抜けられるのか。
ぶっ壊れた木片も、雪の中から出た手首も見ることなく、アノーヴァは斜面を抜けて開けた場所に出る。
ソリの跡はまだまだ続く。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
林の先には小さな湖に、ラムシンら数人の子どもたちを見つけた。彼らはどうやってか、湖の上を滑って回っているようだった。
雪国の湖ゆえ、氷が張っていることは珍しくないのだが、今は暖かくなる時期だ……
「みんな……!?」
ただでさえハイペースで走っていたのが、よけい急ぎ足になる。
ラムシンたちが気づいたらしく、アノーヴァの方を向いて手を振ってくる。
「アノーヴァ? おぉーいっ……!」
大声で呼んでくる……それが、いけなかったのかもしれない。
ピシ、ビキビキッ……バンッ!
アノーヴァの目の前で湖の氷は裂けていき、子どもたちは分断された。
「アァッ!?」
まっさきに悲鳴を上げたのは子どもたちではなくアノーヴァだ。
まだ距離がある。アノーヴァはほとんど飛ぶようにして、湖に駆け寄る。
「落ちないでッ……!」
アノーヴァは急いだ……自分が彼らを助けてあげなくてはならない。一人残らず、傷一つなく、生命を危険に晒すことすらもなく。そうでなければ……
そこへまた、バキ! 運の悪いことに、ラムシンの股間の真下で氷が割れた。
「ウソだろぉ!?」
一方に飛び退くにはもう遅すぎた。
二つに分かれ、離れていく氷……ラムシンはすぐに股が裂けそうになってきた。それ以前に、氷の上では踏ん張りも効かない。
「ラムシィーンッ!」
アノーヴァは冷たい湖の中に躊躇なく飛び込んだ。氷の竜の身体は寒さに強いが、それでも痺れるような感覚がくる。
それでも、早く、行かなくては。もう一刻の猶予もない。
子どもたちを、守れなくなる……
「も、もうダメ……」
ラムシンが震えながら、弛緩していく。限界を迎え、踏ん張りを失う。
そして、目の前で、凍れる湖に、
「ーーーラムシィーン! 駄目だーッ! 諦めんなーッ!!」
声が、ひとつ響いた。ワルセンだ。どこかほかの氷に乗っているらしい。
それは何かを変えられるだけの声だった。
「……わかってらァ!」
真っ逆さまに湖に落ちるはずだったラムシンは、しかし念じながら右手を突き出す。青白い光が手のひらから発し、爆発的に膨張をする!
ビカァーン!
しぶきが、上がる……ラムシンが水面に叩きつけられてしまったようにも見えた。
だが彼は、腹でそこを滑っている。しぶきが、湖面が、一瞬のうちに固体に変じたのだ。彼は魔法を操っていた!
「こンのやろぉーッ!」
ラムシンはさらに、手を上へと掲げる……答えるように湖面の氷も反り上がった。昨日、アノーヴァがそうしてくれたことを、彼は自らの手でやってのけたのだ。
宙に躍ったラムシンは、自分より小さい子が取り残された氷に降り立った。
「ラムシン……!?」
アノーヴァは、声を出すのを忘れていたのに今さら気づいた。
「あ、アノーヴァ! 他の子を助けてあげてくれ!」
「は、はいっ!」
後は目の前のことに集中するだけだった。
アノーヴァとラムシンの活躍により、誰一人凍れる湖に落ちることなく、全員で岸に降り立つことができた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「……もう! 危ないところで遊んじゃいけないって、ずっと言ってきたじゃないですか!」
助かった子どもたちを前に、アノーヴァはひどく叱りつけてしまう。
「わたし、あなたたちに、何かあったらって思うと……わたし……」
普段はこんなことはしないはずだった。
けれど、今日はなぜだか自分を抑えきれない。涙まで出てくるようだった。
「……ごめん、アノーヴァ」
やんちゃ盛りのラムシンがいつになく神妙になって答える。
「オレたち……その、アノーヴァに無理させちゃってたって、思ってる。魔法もちょっとずつ使えるようになってきて、今のオレたちならどんなことがあっても何とかなるって思っちゃったんだ。アノーヴァはずっとオレたちのことを心配してくれてたのにさ……」
そう、ずっと……あの夢の世界の中にいる間も、そうだった。だからこそ余計に、長いこと会っていないように思えてしまっていたのかもしれなかった。
「だからもう、アノーヴァに心配かけるようなことはしないよ! 勝手に遠くまで行ったりしない……一緒になら、行ってみたいけどさ……ホントにごめんよ、アノーヴァ!」
ラムシンが頭を下げる。
「……みんな、村に帰りましょう。それから、約束通り魔法の勉強をしましょう」
アノーヴァはようやく、少しばかり顔を崩した。
「特にラムシン、さっきのあなたは格好良かったけれど……これからもあんな風に人を助けてみたいなら、もっともっと、色んなことを学ばなくてはいけないわ」
「ヘヘッ……そうだね、アノーヴァ。これからも教えてくれよな!」
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
子どもたちと仔竜はソリに戻っていった。
帰りは上り坂だけれど、アノーヴァの脚ならばどうということはない。
彼らは無事に村に帰り、その後も短くも楽しい春の日々を大切に過ごしたことだろう。
そして、アノーヴァ・ピイヴァルもいつかは大人になっていくのだった。
<了>