百合鏡(5期)記録
11~20
<その11>
獣のいた世界において、使い魔を得るということはそう単純なことではなかった。それは亜魔族と魔族の間でかわされる、ともに生きることへの契りであった。
そのままでは野生の動物でしかない亜魔族の生きる時間は、ものにもよるが魔族よりかはずっと短い。そこで、互いの身の内にある魔力の流れを結びつけることで同じ時を生きられるようになると、大昔に誰かが思いついたのだった。けれどそれは、運命をともにするということでもあった。どちらかが死んだ瞬間に、もう片方の命も尽きるのだ。
誰のものでもなく、まったくの自由であった生き物同士が、魂を分かち合う行いだった。
そういうことをしてもいいと思えるほどに、獣と男の絆は深くなっていたのである。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
獣は堂々と男の職場に居座るようになった。
これまで通りに物を運んだりするだけでなく、いつしか道具を使って部品を磨いたり、簡単な加工機械の操作までもやってのけるようになっていった。獣はもともと亜魔族にしては賢いほうだったけれど、ここまでのことはできないはずだった。
二本足で歩き、しなやかな手先を持つ男に比べれば効率こそはずっと悪かったものの、仕事に支障が出そうで出ないという程度に任せていた。
ある日、水浴びをしてから男に毛並みを整えてもらっていると、彼がふと目を細めて微笑むのに気づいた。
すぐさま持ってこられた鏡の中を見ると、前脚には―――確か、ボルトとかいうものを回すための道具が。後ろ脚には、歯車が。
男の生き様にあてられてこんなにも変わってしまう。
この世界で、使い魔になるとは、そういうことだった。
とても、幸せなことだった。
<その12>
獣のいた世界には、大地に突き刺さった《島》がいくつもあった。それらはかつて奇妙な力で天空に浮かんでいたのだが、二度にわたる戦いが世界中を炎に包み、《島》もまた焼かれて地上に堕ちていったのである。
しかし、一つだけ、まだ浮いている島があるという。そんな噂がいつからか、魔族達の間に流れ始めた。
それはかつて他の《島》があった高度よりも遥かに高みにある、かもしれない。それは空の青さに姿を隠し、生物の感覚器によっては捉えることができない、とか。それはまた、そもそもどうして宙に浮かぶ《島》などという奇妙奇天烈なものがこの世に現れたのかの秘密を孕んでいる、だの。
もうずっと前、獣がこの世に生を受けるより昔から不定期に流れていた噂らしい。聞けば誰もが憧れ、調べ出し、だがすぐに確たる証拠はないことに気づき、追い求めることをやめてしまう。
だが、獣のパートナーとなった小鬼の男は、少々違った。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
『おすわり』の姿勢になった獣は帽子とゴーグルとをつけてもらい、傍らの柱に支えられたものを見上げる。
男が仕立てたそれは、コウモリのものだか鳥のものだかいまいちはっきりしない形の翼がついていた。翼竜の皮と骨とを使っているが、陽の下では異様な光沢を見せる。翼の根本の胴体は、がらんどうの紡錘形。その先端には軸を中心に回転する羽根があり、尻尾はひょろ長く垂れている。
乗り込むために用意された階段を無視し、獣は跳躍して胴体の中に潜り込んだ。
「ハハ、元気だな、ボーリィ」
男は微笑みを一つ向け、タン、タンと高い音を立てて階段を登る。これが獣は好きでなかったわけだが、彼にまで自分と同じことをさせるのは無茶というものだった。それに、このくらいはすぐにどうでもよくなる。
「後ろ脚のトコにボタンがある。押してごらん」
尻で座席についた獣は、言われたとおりにする。シュルリ! 座席の背から堅くしなやかな帯が蛇のように飛び出し、獣のくびれた腹に巻きついて、そのままどこかに固定される。
「きつくないか?」
獣は、首を横に振ろうとして、そこを覆っているもののことを思い出した。今日の獣は緑色の首輪をつけていて、それはゆっくりと震えだし、
「《い》、《い》……《え》」
たどたどしくも、言語として聞こえるものを発した。
「良かった。そんじゃ、発進だ!」
男が手元にあったレバーを倒すと、マシンは目を覚ました。ブゥー……ン。グググ……鉄の胴ごと、男と獣は振動する。先端の羽根が回りだし、途端になにもかもが動き始めた。
風を感じる。切り拓かれた森が視界の隅を通り過ぎていく……だんだんと、速く。
マシンはやがて、獣が本気になっても出せないほどの速度に達し、
「離陸!!」
ゆっくりとそのこうべを上げ、始めは坂道でも登っていくかのように―――その次には何かの流れに乗るかのように、大地を離れていった。
<その13>
男と獣を乗せて飛び立ったマシンは、高く高く、今や雲の高みにまでも達しようとしていた。
「ふう、冷えてきたね」
男が右足の近くのボタンを膝で押すと獣の座席の背中が開いて毛布が飛び出し、身体にふんわりと巻き付いた。
「飲み物もいるかい?」
「《だ》《い》、《じょ》……《ぶ》」
首輪の振動を、獣はまだまだ上手く制御できない。
習得までには長い時間がかかるだろうが、努力には値すると思っていた。いくら使い魔になったとて普通は人語まで話せるようにはならないが、この首輪があれば話は別だし、何よりこれは男が獣のために発明してくれたものなのだ―――首輪自体もまだ実験段階の品で、獣と二人三脚で作り込んでいるといったところだ。完成すればきっといい商売ができるし、そうなれば夢を追う助けにもなる。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
なおも高度をぐんぐんと上げ、ようやく止まったところでマシンの後部がゆっくりと開いた。その中から、カゴに入っていた鳥のように、バタバタ慌ただしく風船らしきものが五つ、六つばかり飛び出していく……獣は耳をピンと立て、前の男の背を見つめた。
「ちゃんと出たな……探知の術を使おう。ボーリィ、君の力も貸してくれ」
獣はためらった。別にそれはできなくはないのだが、と。
「今出てったのは魔術の媒体だ。この高さで探知をすれば、空の《島》の手がかりが何かつかめるかもしれないからね。まずは《サーチ・ソリッド》、次は《サーチ・フォース》を試して、後は気流の乱れなんかもチェックだ」
と、未知なる物体の性質と目的を伝えられた獣は、すぐに瞑想に入った。
男も魔族として魔法の力は持っていたのだが、決して強いものではなかった。機械の道を選んだのもそれゆえのことだった。けれど獣の方はそれなりに才能があったので、力を合わせればそこそこ派手なこともできるのだ。
獣は暗闇の中に男との『つながり』を見出し、さらに拡散させて、あたりに浮かぶ六つの媒体に結びつける。
勝手気ままに漂う風船の紐を引っ張るように、制御し、可能な限りの陣を組ませる。空の《島》はどこにあるのかわからない。はるか遠くかもしれない。できる限り強力な力を放って、探知しなくてはならない。
『やるぞ、ボーリィ』
大気の震えでなく、男の声が獣に伝わった―――
結びつけた『つながり』の全てに、体内に蓄積された見えざるものを伝達する。弓のつるのようにそれは伝わり、末端に届き―――放出された。
―――《サーチ・ソリッド》。放たれた波はどこにも当たることなく、減衰し、消え果てた。
―――《サーチ・フォース》。ある方向へ、かすかな抵抗を感じた。
『……あッ、来たぞ!』
瞑想を続ける。わずかな手がかりを、手繰り寄せよと念じる。それがお目当ての空の《島》であるかどうかなどわからない。それでも。
力を、力を、もっと、
「……ッ!」
ふと、途切れてしまった。『つながり』が。
獣は目を開ける。男の顔は見えない。けれど、ぐったりとしている。
ベルトで繋ぎ止められた身体をどうにか前に押し出し、前脚で男の肩を、叩く。
「……ボー、リィ?」
どこかぼんやりとした声が返ってくる。
「《だ》《い》《じょ》《う》《ぶ》?」
「……う、うん。力を……使いすぎたか……だけど……」
「《お》、《り》《よ》《う》」
「そう、だね……」
男は操縦桿に再び手をかけた。マシンは地上に向かっていく。
いつか再び、この空に戻ってくることを誓って。
<その14>
マシンが陸に降りてから数ヶ月が経とうとしていた。
格納庫に現れた獣は片隅に置かれていたバケツの取っ手を咥えると軽い足取りで出ていき、すぐ近くの川に向かい、水を汲んで戻ってくる。
重たくなったバケツをどさりと置くと、今度は外で陽に晒されてからからになっていた雑巾を持ってきて濡らし、マシンのボディを拭き始めた。首が届かないようなところは、そのへんに打ち捨てられていた箱を押してきて、それを支えに立ち上がってやる。それでもマシンの下、四分の一かそこらをきれいにするのがやっとだった。
最後に雑巾をグイグイ足で押し、水気を可能な限り吐き出させる。なおも湿ったままだが、これ以上は広げて干しておくほかない。
バケツも元の場所に戻し、獣は格納庫を後にする。向かう先は、やはり近くにぽつんと建ったトタンの屋根の小屋。
「……おお、おかえり、ボーリィ」
涸れた声が獣を出迎えた。ベッドの上から、男が声をかけてきたのだ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
あの日着陸した後、獣は男を支えて小屋まで歩いた。
本当に魔力の使いすぎに過ぎないのだろうと、その時は思っていた。今日一日休めば元気になる。そしてまた、次の調査の算段をすることになるだろう。
はたして男は次の日になっても体調を崩したままだった。けれどまあ、きっと風邪か何かだと考えた。大したことはないから、と遠慮する男を獣はむりやり荷車に押し込むとたった一匹でそれを牽き、町の医者のところまで向かった。その姿に少々驚かれこそしたものの、薬はもらえた。へとへとになった獣に男はなけなしのお金で新鮮な肉と山で採れた水を買ってやり、労をねぎらった。
だが、それから二日経ち、三日経ち、一週間が過ぎても男の身体はよくならなかった。それどころか少しずつ弱っていくようですらあった。
獣は何度でも男を医者のもとに運ぶつもりだったが、三度目の訪問で向こうは結論を下した―――この人は確か技師だったか。扱っていたマシンの部品に有害な金属が含まれていたのだろう。最近そういう事例は増えている。いじくり回しているうちに微細な粉末が少しずつ体内に溜まっていき、ついに病を引き起こしたのだ。ばい菌などと違って、免疫力ではどうにもならん。
残念だが、治す手立てはない。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
獣は両脚で支えるようにしてすりこぎを持ち、すり鉢に入れた野菜をすり潰す。それに水を足して、魔法による火で温められた鍋の上に流し込む。獣にできる精一杯の料理がこれだった。
やがて煮立ったら、噛み跡が山ほどついた取っ手を咥え、男のところまで運んでいく。お椀に移すのは流石に獣の身体では難しく、やってもらう他ない。
「《タックトック》《これ》《食べて》」
「ありがとうね、ボーリィ」
男が衰えてゆくのとは対象的に、獣の声は鮮明なものになっていた―――言葉をもたらす首輪に習熟してきたのだ。今の状況ではこれをどうにかして使いこなせなくては生活に支障が出る。山ほどやることがある中でも、獣は必死に練習を重ねてきた。
ふと、男は与えられたスープに口をつけるより先に、獣の身体のあちこちに小さな傷があるのに気づいた。スープの中に、目立つ赤色の葉っぱ……確かいつか買った本に書かれていた、山の薬草が含まれているのにも。
「……ボーリィ。僕のために、危ないことをしてきたのかい」
「《気に》《しないで》」
男は目を潤ませた。
怪我だけではない。明らかに獣は痩せてきている。緩く下向きにカーブを描いていた腹はすっかりくぼみ、肋骨はうっすら浮いていた。獣が男のために消耗しているのは確実だった……過労であるにせよ、男の衰弱と連動して生命力が失われつつあるにせよ。
主人が死ぬ時、使い魔の命も尽きる。主の延命を図ろうとするのは当然とも言えよう。だけど獣にはそれ以上の理由がある。
男は涙の混じったスープを飲み、既に限界が近づきつつある肉体に染み込ませようと努めた。
<その15>
布が擦れる音に気づき、力なく丸まっていた獣は目を開いた。
夕陽が窓から差し、部屋をオレンジ色に染めている。もうこんな時間か。食事を用意しなくては。もうここ数日、食べ物も喉を通らなくなりつつある。それでも、やるのだ。
獣がふらつきながらも立ち上がると、後ろから絞り出すような声が聞こえた。
「……ボー、リィ……」
振り向くと、ベッドに一人分の空きができている。男が、もはや石のようになりつつある身体を引きずってこさえたのだ。
「あり、がと、う……ごめ、んな……」
まるで影が語りかけてきているように思えた。
はるか太古の昔から変わらずに降り注ぐ金色の光の中、儚く揺れている、影が……
獣は予定していた動作の全てを頭から放り捨てた。そして、しばしうつむいた。
わかってしまった。
眠りにつく時が来たのだと。そして、再び目覚めることはないのだと。
夕暮れ時が過ぎ、夜を越え、また朝を迎えることは、ないのだと。
お互い、わかってしまった。
それならば、せめて。
獣はベッドの中に潜り込んだ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
西から流れてきた雲が空を覆い、月と星とを隠した。
真っ暗な部屋の中、もう言葉をかわすこともない。辛うじてまだぬくもりだけは感じられる。
獣は男の胸に頭をうずめていた。どんどんと弱まっていく鼓動も、今はまだ聞こえる。
神様を信じない自分たちは、死んだらどうなるのだろうか。
獣が、ただの獣でしかなかった頃は、そんな事は考えたこともなかった。死体となったものは自分みたいな連中に食べられる。食べきれなかった分は鳥が食う。それでも余ったら虫たちが始末をつける。それだけだった。
男と出会って使い魔にならなかったら、考えもしなかったはずのことだった。
鼓動と熱とが消えていく。世界がどんどんと、遠ざかっていくような気がする。
まだ、今のうちに、声は出せるだろうか。男がくれた、この首輪で。
「……《だ》、《い》、」
喉が、動く。
「……《す》……《き》」
ほんの少しだけ、身体を撫でられて、
獣は、闇に身を委ねた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
タ、タタッ。
動くものなどなくなったはずの部屋に、ゆらぎをもったリズムが響いた。
棚の隙間から、手のひらから少しはみ出すくらいの大きさの、だが頭に小さな角を持ち毛の間に鱗をつけた茶色のネズミが這い出て、あたりの様子を伺っていた。
彼はずっとここで暮らし、敵の多い外の世界を避けていた。無論ここでも困難がなかったわけではない。食べ物を失敬しようとすると、あの憎き赤毛の獣がすぐさま気づいて踏みつけにかかってくるのだ。とはいえ、長く付き合っていれば相手の癖も見えてくる。この時間はあまり彼女も起きてはこないことも知っていた。
角つきネズミは素早く、常に隠れる場所を確保しながら走る。とりあえず、テーブルの上に何かありそうだ。椅子の足にとりついて駆け上り、丸板の上に出る。食べ物の残りカスが散らばっている。それらをつかみ上げようとしたところで、ふと、ベッドの上の状況に気づいた。
赤毛と、その飼主らしい男が身を寄せ合って、停止している。眠っているのではない。どこかしら動いているはずなのに、動いていない。
食事を中断してテーブルからベッドへと飛び移り、赤毛を角で軽く、二、三度ばかり突く。動かない。
―――やった! 憎き獣が、死んだ! その飼主も! 今からこの家は、まるごとおれさまのものだ!
角つきネズミは、もう部屋の中を跳ね回ってしまいそうなほどだった。
どこかに保存の効く食べ物を隠してあるのを、遠慮なく引っ張り出させてもらおう。いやそんなことをせずとも、この獣を今から自慢の牙で平らげてしまえばいい。一匹でひとりじめだ。そうしたらこの小さくて弱々しい体はきっと十倍にも二十倍にも膨れ上がり、外にいた頃にさんざんいじめてきた狐や鳥なんかもひれ伏してくるようになるだろう!
飛躍した夢想とともに獣の喉に噛みつきかかった、その時だった。
角つきネズミの丸い背中に、獣のあぎとが、深々と突き刺さった。そのまま、ネズミは身体を二つに折りたたまれながら呑み込まれ、周囲からの圧によって角もへし折られた。
起き上がった獣はテーブルの椅子を押し、後ろのキッチンにあるタルのところまで押していく。
椅子の上からフタを開け、中に頭を突っ込んでがぶがぶと水を飲んで乾きを癒す。
そこまでやってから、獣は自分自身を見つめて小さく悲鳴を上げた。
男の方はもう二度と動くことはなかった。
<その16>
右の前脚の肉球にぬるい冷たさを感じる。それは固まりつつあり、動く様子はない。
何度も何度も繰り返して確かめてみたが、確かに、永遠に停止していた。自分の主であった男が……同時に死ぬべき理の者が。
獣は心臓が脈打つのを、温かい血が体中を流れるのを、動揺のために呼吸が乱れるのを感じていた。本調子には程遠いとはいえ、少しずつ体力が回復してきているようでもある。
なぜなのだ……なぜ、私はまだ、生きている?
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
気づけば窓の向こうから朝日が差し込んでいた。
雲の一つもないようで、やけに明るい。男の身体はまた影になっていくように見えた。
彼をどうすればいいのだろう。このまま放っておくというわけにはいかない。
やはり、これまで他の生き物の屍に対してそうしてきたように、食べてしまおうか。まして大切な相手だ。自分の血と肉にしてしまえば、それはずっと一緒にいられるということになりはしないだろうか?
獣は頭を近づけ、しかしふと思い出す。彼の身体は機械をいじる過程で汚染され、そのせいで病気になって死んだのだ。医者の話だってきちんとわかるくらいには、獣は賢くなってしまっていた。
こうなったからには、自分まで死ぬわけにはいかなかった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
大きく凹み、プロペラが半ば吹き飛んだマシンを前に、男は工具箱を持ってきて、ドサリと置いた……聞きつけた獣が、開きっぱなしの入り口から飛び込んできた。
男もそこかしこにすり傷をこさえ、ガーゼをいくつも貼り付けていた。そんな彼を獣は心配そうに見上げる。
「ボーリィ、ごめんよ、大人しく休んでなくて」
と、獣の頭から背中にかけて、たてがみに沿うようにひと撫ですると、男はすぐにまたマシンの方を向いてしまって、
「でも、失敗の原因が想像ついちゃってさ。どうにかしたかった」
凹んだ板を外し、中に潜り込む。獣も工具箱を鼻で押しこくり、近くに寄せてやった。
いつもこうだ。わからないこと、正せるかもしれないことがあるとわかれば、彼は迷わず動いてしまう。
理解ができないもの、予想に反するもの、違和感を感じるもの……その裏にある何かを、どうにかして探り出そうとする。そんな彼だからこそ、空の《島》を見つけるなどと本気で考えてしまうのだろう。
そんな彼が、獣は好きだった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
前脚で穴を掘り、そこへ男を放り込む。
土をかける前に、しばらく見下ろしてみる。ろくに見てもいなかった死に顔が見える。静かに目をつむり、ほんの少し口を開けている。
獣はふと、男のかぶっていた帽子を咥えて宙に放り投げた。くるくると回って落ちていく帽子に向かって跳躍し、頭で受け止める。世界が突然暗くなったような気がした……帽子のツバで空が隠れてしまっているし、ちょっと油断したら目が覆われてしまいそうだ。これは獣のようなもののために作られた帽子ではないのだ。けど、そうそう脱ぐつもりにはなれない。
それから、やはり前脚で土をかけ、男の身体を完全に隠した。墓というのはこの上にさらに何かを立てることで完成するものだと獣は知っている。
獣は少し考えてから格納庫へと走った。マシンは―――下側も含めて――ホコリをかぶりつつあった。流石にこいつは、ここに残していくほかない。工具箱から一番長いスパナだけを取り出して戻ってくる。
盛り上がった土の上にスパナを突き立てると、高く昇っていく太陽がそれを煌めかせた。
獣は喉に静かに力を込め、首輪へと伝達する。
「《さよなら》《タックトック》」
獣は、またひとりぼっちになった。風と鳥とが、頭のずっと上を知らん顔で通り過ぎていく。
ぐるりと墓に背を向けると、獣は力強く走り出していった。とりあえずは遠く道の先に見える、いつも世話になっている街を目指して。
使い魔は主とともに死すべきもののはずである。
それが生きているのには、きっと何か理由があるはずだ。解き明かさなくてはならない。
<その17>
「……あぁ? 亡くなっただって? タックトックさんが?」
下半身がクモ、上半身が人の魔族―――半蜘蛛族の女が、カウンターの向こうから怪訝そうに獣を見下ろしていた。
「なんだい。たしかに最近、病気で寝込んでるってえけど、死んじまって見えるくらい酷いってのかい。だったらこんなとこで油売ってないでさあ……」
「《ちがう》《ほんとに》」
「……主人が死んだのに使い魔だけ生きてるなんて話し、聞いたことないよ。さあ、早く帰っておやりな。諦めんじゃないよ」
獣は諦めた。ここから先に進むのを。
ぐるりと背を向け一歩進むと、後ろに立っていた狼頭の男が前に出て、さっきの女と少々話しただけで何事もなく切符を一枚手に入れ、ホームへ歩く。その次の人も、隣に並んでいた人々も、同じように。
この工業が発達した国には、列車があった。
外に出て眺めれば、線路がずっと延びている。遥か遠く、大地に刺さった《島》に向かって。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
結局、獣は日没とともにあの小屋に戻ってきた。
背負った重たい袋を床の上にどさりと置き、口を開く。中身は肉の塊とミルクの入った瓶だった。これを買ってくる時にはタックトックにお使いを頼まれたと嘘をついた。意外と、抵抗がなかった……こっちの言い分だって信じてはくれないのだから。
獣はまず瓶を開ける。尻で床に座り、後ろ脚で瓶の下を押さえ、前脚を器用に使ってフタを開ける。次いで心置きなく肉にかぶりついた。強靭な顎で食いちぎっては次々と飲み込み、獣の胴回りくらいはあった肉はたちまちなくなった。その後でミルクの瓶を前脚で掴み、傾けながら飲み干していく。金はもうあまり残っていないがそれでもたっぷりと買ってきた。助けもなしに旅に出るからには、ある程度太っておかないと心もとない。
自分の今の状態について知るためには、ここではおそらくだめなのだ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
駅の朝は早かった。
大きな箱が、がっしりとした体格の魔族四人に運ばれていた。数十年を風に耐えた樹にも似た腕を持つ彼らは、線路に突き当たる度にふんと息を吐きながら乗り越えて、その先にある貨物車両へ荷物を運び込む。
汗ばんだ身体を、昇りゆく朝日がにわかに輝かせるが、眺めている暇などなかった。
やっと運んだこの箱と同じようなものが四つほど、駅の方から迫ってきている。牽いているのはこれまたどっしりとした四脚の竜だ―――土色の身体を、背中から脚にかけ、鈍色の甲殻が覆っている。遠くにある山の国から働き手として輸入されたのだろう。
やれやれ、後いくつかついできゃいいんだ。魔族の一人がぼやくが、他の連中も似たようなもの、言っても始まらない。彼らはまた、次の仕事に向かっていく。
その脇を素早くすり抜けてゆくものがあった。
獣は勢いをつけたまま駆け抜け、跳び上がって、車両に詰め込まれた箱に飛び乗り、見下ろした……しめた、箱の間にほどよく隙間があるじゃないか。決して小さくはない身体だが、潜り込むのは不得意ではない。これでここを出ていける。
列車が蒸気を吹き上げ、ゆっくりと動き出した。
そのうち、隙間の獣にも爽やかな風が吹き込んでくる。どうせなら、と獣は箱の上に顔を出し、遠ざかっていく街を見つめた。
あの小屋に戻ってくることはあるだろうか。あったとして、それまで残っているか。
獣は隙間の中に戻り、目をつむった。
<その18>
差し込む日差しが獣の目を覚ます。
箱をよじ登って貨物車両の上に出ると、太陽はすでに高く昇っていた。
行く手には、塔を二つつけた巨城。その周りを取り囲む家々。それをさらに囲む壁。もっと外周となると、森が広がっている。他にも確か湖もあると聞いた。
そろそろ起きていた方が良さそうだ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
門を抜け、市内をほんの数分ばかり走り、列車は駅に入って停車した。
獣がするりと素知らぬ顔で貨物車両から飛び降りてくると、そこにちょうど検分に来た職員が歩いてくる。
「ンー……なんだおい、どっから入ってきたお前?」
と、睨みつけられた獣は、後ろに一歩下がったかと思うと……ザッ! 俊敏に斜め前へと飛び、そのまま脱兎のごとく駅を後にした。
誰かが追ってくる様子はないが、それでも獣は裏通りに飛び込み、足を止めずに駆けていく。行くべき所はもう決めてある。後はそれがどこにあるかだ。
バルコニーの下をすり抜ければ、傍でゴミ箱を漁る野良共が振り向いてくる。珍しくもない。今は亡き主に出会う前は獣自身もああだった。まともなものを毎日食べるようになって久しいが、魚の骨やら腐りかけの卵の味やらは今でも思い出せるし、今日……というか向こうしばらくは、また同じことをしなくてはならないかもしれない。
ちょっと明るいところに近づいていけば魔族の子どもたちがいて、得物やら玩具やらを手に走り回っている。これだって珍しい風景ではない……のだが、獣がいたところに比べるといささか人数が少ない。
そこから大通りに出てゆけば、今度は若人たちの世界である。彼らの口から出てくるのは、恋でも遊びでもなく、数日後に控えているらしい試験の話。道に面した店は、本屋と魔法に使う品を売る店が主であり、その間で安い飯屋が競り合っている。
そういう道の先に、あの二本の塔の城はそびえ立っている。獣はまっすぐに、お使いを頼まれたどこかの誰かの使い魔であるという風に、向かっていった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
ところがいざ城の正門を見つめた獣は、見えざる眼に見つめ返され、毛が逆立った。
いかつい気配が門全体を―――その周辺にずっと続く壁を、さらには上空までも丸ごと包み込んでいる。それが巨大な視線になって獣に突き刺さり、鼻の先から熱が奪われていくように思わせる。
おそらくは結界が張られているのだろう。獣も何度か経験したことはあった。魔族には何も感じさせないまま、亜魔族にだけ恐怖をもたらす術がある。それを長期間維持するとなると、ましてこれほど広範囲に力を及ぼすとなれば莫大な魔力が必要になるはずだが、この城にとっては大したことはないらしい。
それもそのはず。門に刻まれた文字に目を向ければ、『クァロ=ウーロ魔法アカデミー』。何の飾りもされていないその一連の文字列に、凡百の魔族は畏敬の念を抱く。ここの学生であると名乗れば常人はおよそ解さぬであろうことをたやすく理解するのだろうと思われ、ここの教授であると名乗れば何を語ってもそれなりに人が振り向いてくる。
魔族社会の外で産まれた獣でさえも、ただならぬ物を感じずにはいられなかった―――だからこそ、ここに来た。あの切符売りがしたように常識はずれのものを打ち捨てることをよしとしない心が……その結果としての知識の集積が、この城の中にはあるはずなのだ。
正門から反時計回りに進み、絶えず湾曲した壁を見つめる。さてどこから攻略したものか。年を経た外壁は、しかしミミズ一匹通さないほどの堅牢さを感じさせる。まるで汚染を拒む実験室のように。あの視線は正門から離れるにつれて弱まりこそすれ絶えることはないし、もちろん人が入ることを想定した場所にさしかかれば途端に強く獣にのしかかってくる。
こうして侵入できそうな場所を探していることさえも、もしか見透かされていたら……
後ずさった獣の後ろ脚に、ふと、ふわりとしたものが触れた。
振り向くと、一匹の猫が座り込んでいて、じろりと獣を睨んでいたのだった。
<その19>
しばらく猫と睨み合う。
彼は白黒写真から這い出してきたようないでたちで、割と痩せてもいた。大きさでいえば獣のほうがだいぶ上だが、怯えたり興奮したりする様子はない。
年をとり、老熟しているのだと獣は確信する。だが、その程度で全部をわかった気になるのは甘かった。
老猫は獣から視線をそらすと、臆することなく門を見つめ、かと思うと悠々と獣の脇を抜けて歩き出す。
向かった先は門の一角、そこで立ち止まる。特に他と変わるところのない、堅く冷たい壁しかない所。そこへ、前脚で触れる……ふと、固体が、その姿を保ったまま液体に変じ、気体になるに至ったようだった。老猫の身体が、するりと壁の中にめり込んでいったのだ。
老猫は呆然とする獣の方に振り返り、しばし待った。入りたいのならついてくるがいい、と言わんばかりに。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
二本足で歩くものには見えない道を次々と通過する。
並び立つ木々の下、洗い物を干すための竿、講堂の照明、梁の上……肉を蓄えずにここまで来たのは良かったかもしれないと獣は思う。自分の身体は、この老猫と同じ道を進むには大きくて重すぎる。時には少々ルートをアレンジして追いかけねばならぬこともあったほどだ。
老猫は何かに阻まれることもなく、勝手知ったる場所であるかのように進んでいく……彼はきっと、このアカデミーに属する誰かの使い魔なのだと獣は思った。どこかへお使いに出され、帰ってきたところで自分と出会ってしまったのだろう。
が、行き着いた先に彼の主はいなかった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
この老猫のすみかは小さな物置の中にあった。
下手な村よりもよほど広大なアカデミーの中、存在自体を忘れられてしまった場所である。隣の講堂の増築でもすることになったら、その時にうっかり壊されてしまいそうだ。
中にあるのは、木箱、割れたランプ、錆びついた食器、ありふれた本、それら全てに積もる埃、埃、埃。入り口付近には、色あせた皿が一つ。
なにか食べたり飲んだりするでもなく、老猫は気だるそうに丸まって目を瞑る。しばらく見つめていたが、動く様子がない。これ以上どこへ行く気もないらしい。
獣はふと、喉に震えを覚えて、
「《ひとり》、《なの》……」
首輪の力で人語を発してしまっていた。
老猫は一瞬耳を立て、顔をにわかに向けてくる。だが、すぐにまた微睡みの中に戻っていってしまった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
物置を後にした獣はその屋根へと飛び移り、人の通らぬ場所を進んでいった。
屋根から屋根へ、あるいは木の中へ。地上に降りねばならぬときは野良のふりをして陰から陰へと矢のように駆け抜け、時には息を止めて水路の中を泳いでいったりもする。どれほど進みにくい道を選ぶことになったとしても、可能な限り身体の露出は減らさなくてはならなかった……魔族の中には耳や鼻が利いたり、空を飛べたりする者も少なくないのだから。
今はちょうど昼過ぎ。若者たちはひと所に流入し、また流出する。
獣はそれを追い、巨城のふもとに張り付いたドームに行き着いた。壁を周り、裏手へ。
何十種類というスパイスの香りが、獣の鼻を散々につついて回る。
<その20>
アカデミーの食堂はとにかく混雑する。
燕の頭をした若い女性が、トレーに白身魚のフライとパン、いくらかのサラダを乗せ、そわそわと尻尾を震わせながら列が進むのを待っていた。支払いを済ませなくては食べられないが、八つもあるカウンターは全てが埋め尽くされ、人の流れは泥のように思われ、特に鈍いところがわかってしまう……よく見れば、案の定、新入りのスタッフの研修をやっているようだ。もっと人が少ない時間にやるんじゃだめなのか、と女は思う。
彼女は昼休みの前後を講義で埋めることになった。『水術理論の壱』に、『《島》由来技術基礎』。どちらも必修だ。前者を担当する教授は講義の延長をいやあつい癖でしてと憚らない。後者は遅刻にペナルティを課していて、学生の事情がわかっていないとしか思えない―――いっそ声でもあげれば聞き入れてくれるだろうかと思ったこともあったが、他の学生が言うにはすでに試して一蹴されたとのことだ。その時の教授様の曰く、遅れて来る者が受講者の三分の二を上回るようならその時は考える、と。実際、なんだかんだで遅刻者はあまりいない。皆、見えないところで少なからず無理をしているのだろうが、どうでもいいことなのだろう。見えないところのこと、なのだから。
ようやく支払いを済ませ、埋まりきった席の空きをどうにか見つけた頃には、もう次の講義まで十五分もない。味わうのもほどほどにして、かっこまなくては。
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一方の獣は時間には縛られないし、なんなら場所に縛られることもなかった。
裏口から入り込んだ獣は、くすねても気づかれなさそうな残飯のある場所を鼻で探る。以前、主人と暮らしていた頃に一度アカデミーを訪れたことがあったが、食後は食器を一所に運んでいき、その際残った食べ物も処理されるというシステムだった。恐らくはここもそうだろう。
絶えず隠れる場所を意識し、人が近づくのを感じたら潜り込む。この、そこらの野良よりかは大きな身体でも、意外となんとかなるものだ。
キッチンを避け、清潔だが薄暗い通路を抜け、外の風がにわかに入ってくる場所にゴミバケツの列を見つけた。
匂いをかいで選択した一つのバケツの上に飛び乗ると、獣はフタを咥えて持ち上げ、飛び降りた。
―――グォン!
中から伸びたらしい、何かが、獣の胴体に、迫る。