らすおだA記録

1~5

<その1>

まいったなあと漏らして、腰を抑えながら、モーク・トレックは目の前の巨大な青い鳥を見上げた。

約三十年―――彼の住む世界の基準から、読者の皆様の尺度に換算すると、概ねそのくらい―――もの間、多くの探検に付き合ってくれた宇宙船『ブルー・バード号』は、突然のトラブルによってその翼をへし折られ、どこともわからぬこの星に不時着をしたのだった。


電気系統は生きていた。ドアはこじ開けるまでもなくスライドし、タラップもきちんと降りた。

外へ出たモークを最初に出迎えたのは、眼下の巨大な滝であった。船があの中に落ちなかったのも、不幸中の幸いというものであろう。

ただ欲を言えば、せめて人がいるところであってほしいかなあ……と、モークが願う前に、スーツを着た紳士が現れた。


宇宙に飛びたてぬことを別にして、問題は解決した。モークの長い休暇、あるいは新たなる冒険がここに始まったのであった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

キャプテン・モークと言えば、惑星オーゲルでその名を知らぬ者はいない。

かつては無名の探検家であった彼はある時、その有様を想像することすら難しいほどの科学技術をもっていたという先史文明『プラエクサ』の遺跡―――それも当時、まだ例がなかったほど大規模なものだった―――を発見し、その名を星々に轟かせた。以後もモークは満足することなく宇宙を駆け巡り、プラエクサの痕跡を探し続けた。

けれどそんな彼もやがて結婚をし、妻が子を身ごもったのをきっかけに引退を表明した時には、そこら中の星の人々がそれを惜しんだものである。

そして、モークは初老に差し掛かったこの頃になって、突然探検家業への復帰を表明したのだった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

未開の惑星でありながら、拠点は十二分に整っていた。

ブルー・バード号もあの崖っぷちからけん引され、充電をし、まだ残っている機能を惜しみなく使えるようにしてもらえた。とはいえ、完全な修理には当分かかりそうだし、金も要るが。


病院で湿布を出してもらい、痛めた腰に負担をかけないよう、モークはゆっくりと夕暮れの丘を登っていく。

今朝不時着した地点が、そこに見えた。白く、それでいて単純ではない激しさを持った、ミルキーウェイの流れ。段差のある土地の、大きな滝。

翼をもつ者たちが、岩から飛び降り、水面に叩きつけられる直前にふっと浮かび上がる。そんな光景を幻視して、モークは一つ思い出した。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

惑星オーゲルは高低差の激しい地形を特徴とする。モークたちオーゲリアンは、獣のたくましさと鳥の翼を併せ持つからこそ、そこで栄えることができた。

オーゲリアンたちは、若さと活力に満ちた時期に、一度はその翼を試す。モークの息子、ムート・トレックもまた、ある日友人たちと共に巨大な滝を訪れ、自らに試練を課したのだった。

皆で、滝口の岩に立ち、下を見下ろす。高さは、身長の百倍もありそうだった。凄まじい流量は、目だけではなく、耳までも圧倒する。だけど―――勇気は、生きていくための条件、である。偉大な父を持ち、人並みに夢を見て、人並み以上に思い悩んだムートは、そう信じていた。


オーゲリアンの翼は重い身体を浮かせるには小さすぎる。自ら飛び立つのではなく、風に乗せてもらうのだ。

……精神を一点に集中し、その時を、待って、

―――今!

ムートは、飛沫と共に、宙へと飛び立った。

水面へと落ちるのではない。そこに現れると予感した、風の、背中へ!

だがそこに、甲高い悲鳴が飛び込む。脇で一緒に飛び込んだ友人が、叫んでいる。恐怖に耐えられなくなったのだ。それは他の者も、ムートをもかき乱していく。

先ほどまでの勇ましさが、揺らぐ。このまま死んでしまうのではないか―――

その時、ふと身体を傾け、ムートは揚力を得た。彼はその目と手で仲間たちに促した。この風に乗れ、と。わめく声は消え、皆彼に従っていった。

オーゲリアンの若者たちは誰一人欠けることなく、川の上空を通過していく。


そこへ、空を飛ぶ乗り物に乗った茶色のオーゲリアンが、サイレンを鳴らしながら接近してきた。

現代のオーゲルでは、崖からの飛行は危険であるため、違法となっていたのだった。命を懸けてでも自らの力を試すなんてことは、はるか昔の話である。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

自分の下へ連れてこられたムートが、いつかはこのくらいのことをしなくちゃいけなかった、と吐露したのを、モークは今でもよく覚えている。自分は勇敢なるキャプテン・モークの息子なのだ。たとえオーゲルで良くしてもらっていたって、一歩外に出て臆病なところを見せでもしたらたちどころに馬鹿にされる。そんなのは嫌だった、と。

モークは父として、彼の頬を張った上で言わなければならなかった。そんな思いに駆られてしたことが勇気の証明になりはしない。世間から馬鹿にされるというなら、それをはねのけることこそが、本当の勇気なんじゃないか。僕が冒険家をしていた時だって周りから褒められてばかりいたわけじゃない、プラエクサの存在を認めたくない連中にねちねちと嫌がらせをされたこともあったし、それに……

けれど、ムートの恐れも、理解はできた。

キャプテン・モークとしての名誉は、自分の手で築き上げたものだ。だけど、ムートにはまだ何もないし、何をしたわけでもない。

自分の意志で手に入れたわけではないものを前にして、すくみあがってしまうのは、きっと自然なことなのだろう。

丁度いい。遠からず、ムートは独り立ちをするだろう。その時に自分も探検家に復帰して、またあの日のように生きてみよう。

ムートが、自分のペースで、ありのままの姿をこの世界に誇れるようになっていくのを、親として見届けよう。残りの人生を、じっくりと楽しみながら。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

夕日は沈みつつあった。白く躍っていたミルキーウェイも、闇の中へと薄れていく。

家としての機能も兼ねるブルー・バード号に引き返したモークは、コクピットからムートに通信をしようと思ったが、かなわなかった。それどころか、他の連絡先にも一切繋がらない。

レーダーやコンピューターを起動してみるが、表示される情報はちぐはぐだ。それは、この星が既知の宇宙に属するものではないことを示唆していた。

コクピットに備え付けたベッド―――ここは実質的に彼の個室でもある―――に寝転がり、モークはここに来た時のことを思い出していた。

<その2>

平らになるまでリクライニングしたシートから、モークはゆっくりと起き上がる。正面のモニターに、ゆっくりと流れていく丸く大きな深青の星を見ながら、脇のレバーでシートの背を起こす。

「おはようございます」

自分以外には誰もいないはずのコクピットで、モークは声を発した。

「おはようございます、船長。今は星系標準時で0558です。早起きですね?」

応えるものが、この部屋に、というより、この船に、宿っていた。

「歳を食ったせいですかな……して、それよりモーリス君、モニターを撮って頂けますかな? 今、サンロクイチが見えてるンですよ」

「かしこまりました」

モークの見えざる相棒、モーリスはその指示を実行した。モニターから軽く電子音が鳴ると、『録画中』を意味する単語が表示された。

この世界において、たいていの宇宙船には乗員の手伝いをするシステムが積まれているが、その中にはある程度人間らしい受け答えをするように作られたものもある。ブルー・バード号を動かすモーリスもその一つだった。

「朝食のご用意は?」

「僕がやりますんで、お構いなく」

ドッ、と床に降り立ち、モークは後方のスライド・ドアーを開けてコクピットを出た。

鳥の形をしたブルー・バード号の、腹にあたる部分にリビングはあった。

湾曲した天井の真ん中と端に仕込まれた照明は部屋を温かく照らしており、床には青いカーペットが敷かれている。真ん中のテーブルは木製で、七人くらいで囲める大きさがあった―――今となっては、たまに客を招き入れた時くらいしか使わないのだが。壁には、ディスプレイも備えつけてある。窓代わりに外の景色を映してくれるほか、様々な星の放送局から番組を受信するテレビにもなる。

そんなくつろぎの空間の向こうには、特に仕切りもなく、いわゆるシステム・キッチンが設置されている。そこに立ったモークが、大きな指で備え付けのタッチ・パネルをつついて少し待つと、小さな扉が開き、中から野菜やら肉やらが転がり出てきた―――この裏側は食糧貯蔵庫になっていて、そこからコンピュータ制御されたマニピュレーターが指定した食材を取ってきてくれる仕組みになっていた。無論、ここにもモーリスが関わってはいるのだが、こんなところで頼る位なら全部自分に任せてくれればいいのに……などと言ったりすることはない。

炒り卵を作り、ソーセージを焼いて、野菜をてきぱきと洗っては切り、一つの皿に盛り付けたところで、脇の加熱器から狐色に焼き上がったパンが飛び出した。それら全てと飲み物をお盆に乗せ、この部屋のテーブルではなく、コクピットまで運んでいく。

「お疲れ様です、船長。サンロクイチの撮影は完了しました」

「どうも」

モーリスの声に迎えられながら、モークはシート脇のテーブルを起こして、そこに朝食を置く。

ムートが独り立ちして以来、モークの朝はいつもこんな具合だった。

サンロクイチ、と呼ばれた星は、モニターの中から去ろうとしていた。それを見送りながら、モークはドレッシングのかかったサラダをフォークで突き刺し、口に運ぶ。

「目的地へのラスト・ジャンプの準備は完了しています。船長のお食事が済み次第、実行しましょう」

飯を食っているモークに、モーリスは特に断りもなく今日の予定を伝える……咀嚼しているタイミングを、うまく外しながら。

「ほぉう、では順調に行けば、お昼前には向こうにつけるということで?」

モークはモニターに向かって、目を細めてみせる。そこにモーリスが顔を見せることはないのだが、彼と話す時は何となくいつでもこんな風にしていた。

「その見込みですね。ワクワクしていますか、船長?」

「ええ、もちろん!」

モークは、明るい声を飛ばした―――今向かおうとしているのは、自らそこに何かがあると、目星をつけた星である。こんなことも、もう久しぶりだ。心が躍らぬわけがなかった。

そのまま早々に朝食を終え、食器を洗いに行き、すぐにまたコクピットまで戻ってくる。

「モーリス、ジャンプを開始しましょう!」

「かしこまりました」

その主の声を受け、ブルー・バード号のエンジンは輝く煙を漏らしはじめた。

続いて、船体の『尾』の方から、ゆらめく光に覆われ、全体を包み込んでいく。それはまるで、炎のようでもある。ブルー・バード号は、星の海を翔ける火の鳥になろうとしていた―――特別なことではない。モークと共に、この船は幾度となく、そんな旅をしてきたのだ。

「ジャンプ・スタート!!」

モークとモーリスの声が重なりあって、コクピットに響く。

ブルー・バード号は急に速度を上げたかと思うと、たちまち縮み、白い光の点に変じて、彼方へと消えた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

遠い距離をわずかな時間で飛び越える、ジャンプの技術。ある惑星でそれが発明されたことで、世界は変わり始めた。人々は生まれた星を越えて交流しあうようになり、未知の宇宙を探索しようとする者たちも現れ出したのだ……これがなければ、モークの人生もずっと違うものになっていただろう。

モニターに映るのは、百の色をぶちまけて混ぜ合わせたものを塗ったくった不定形のトンネルと、その奥に輝く白い光点だ。たまに、ゆがんだ星のような何かが流れてくるのも見える―――高い次元からいつもいる世界を見ると、そんな風に映るのだと、幼い頃に本で読んだ。

けれど今となっては、全て見慣れたものである。到着までのんびりと景色を楽しんでいれば、それで、よかった。


が、ゴゴーン! 突然の振動が、モークを襲った。シート・ベルトが彼の身体を引き止めなければ、どこかに身体を打ち付けてしまっていただろう。

モニターからの景色が急激に揺らめきだす―――何かが、おかしい!

「も、モーリス! 何が起こってンですか!」

ブウーッ、ブウーッ! 辺りにはもうアラート音が鳴り響いている。

その中でも聞こえるように―――モーリスには、雑音環境から生き物の声だけを抽出するプログラムも備わっているのだが―――モークは声を張り上げた。

「時空間異常のようですが、原因は不明です。有効な対処は行えませんが、船長の生命を守るために最大限の努力をいたします」

「た、頼みましたよっ……!」

「かしこまりました」

モーリスを信じ、モークはシートにその身を押さえつける。だが、そこへまた、ガガガーン! 揺れがひときわ大きくなったかと思うと、コクピットの灯りが消えた。

「船長……私、が……守……」

モーリスの声も、もはやノイズだらけになり、程なくして聞こえなくなった。

数秒の間をおいて、モニターが全体から凄まじい閃光を放った。あまりの輝きにモークは右手で顔を覆おうとするが、激しい揺れのせいでろくにできない。

仕方なく、なんとか下に目を向ける。今度は計器類が視界に入るが、その中の数字は目まぐるしく、かつ無秩序に変動している。

ジャンプの失敗は、致命的である。元いた世界に戻れなくなる心配をする前に、船ごと消えてなくなってしまう!

「くううッ…… なん、とか……せねば……!」

なんとかできるあてなどない。モークは操縦桿を握ろうと手を伸ばすが、それすらももはや叶わない。

コクピット内に奇妙な音が聞こえだした。初めは、何か低く、広い宇宙に響くような音だった。しかし、たちまち、より高い音が加わって、できそこないのハーモニーを奏でだした。やがてそれは、耐え難いほどの音量になって、モークを襲った。

すると今度は、白い影のようなものが室内で、モークの周り、揺らめきながら現れていった。

「現、実、なの、か……これはァ……!?」

歯を食いしばる中で絞り出した声は、もう誰にも届かない。

影たちが、モークにその手を伸べてきた。

「ムー、トッ……!」

その声が、ひとまず、最後になった。


そして、次に目を覚ました時には、未知の惑星にいたのだった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「―――船長」

声が、した。確かに。

モークはたちまち、回想から引っ張り出された。

「も、モーリス! 無事なんですか!?」

「はい。衝撃によりシステムの一部がダメージを受け、対話不能に陥っておりましたが、先ほど自己修復に成功しました」

「ああぁ、喋らなくなってしまったンで、駄目だったかと……! はぁ、よかった、よかったっ……!」

軽く涙を流しながら、モークは安堵した。

「しかし、今の状況は不明です。船長も恐らくお気づきかと思われますが、ここは我々が元いた宇宙ではない可能性があります。帰還できるかどうかの見通しは……」

「……大丈夫、ですよ」

モークは諭すように言った。

「これまでだって色んなことがありましたが、何とかしてきたではありませんか。幸い、この辺りには人もいます。何か手立てを見つけられるかもしれませんし、明日から探検に出てみます。君はいつも通り、この船を守っていてくれればいい」

それからまっすぐに、モニターを見て、

「信じてください、今度も」

「かしこまりました」

いつもと同じ調子で、モーリスは応えた。


最初の一日は、こうして終わった。

<その3>

腰の痛みは、幸いにもすぐにひいてくれた。

モークは探索者たちの拠点となる街にジムを見つけると、そこでフィットネス・バイクとショルダー・プレスに屋内ロック・クライミング、あとはトランポリンで飛び跳ねながらの翼の運動をやって、その身に活力と自信を取り戻させた。

荒事は避けるつもりでいるが、それでも何があるかわからない。いざという時に最も頼りになるのは、やはり自分の肉体なのだ。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

トレーニングを終えて颯爽と歩きだしたモークは、やがて海岸につきあたった。

既に高く昇った太陽は、惜しむことなくその光を水面へと放ち、不確かで、しかし儚いと言うにはほど遠い輝きを海に与えている。砂浜も、たった一歩歩いただけで、ひどく賑やかにきらめいてみせる。

特に危ないものはいないらしい。モークは、のっしのっしと浜辺を通り過ぎ、その先の岩壁に登ると、バックパックを地面に降ろして休憩の用意を始めた。灰色の棒状の物体を土の上に突き立てて側面のボタンを押せば、シューッと三メートルばかり伸びあがって枝を生やした後、それらをつなぎ合わせるようにオレンジの不透明な膜を吐き出して、陰を作ってくれる。四角い箱はひとりでに展開して小型のコンロになり、そこでお湯を沸かして携帯用の圧縮食を戻すことができた。

そんなことをしつつも、モークの目は海のほうに向いていた―――食料になるようなものがあれば、採っていきたかった。のどかな風景だが、ここは既に未開の領域のはずである。いつまた人に会えるかわからない。

年老いた今でも少々味が濃すぎるように思える圧縮食を平らげ、一息ついたら、今度はカゴと銛とを手にして海へと潜る。

遠くで魚たちがその身をひらめかせたのを見れば、太い両足を力強く上下させて突き進む。モークの頭は、既に自らが為そうとしている運動の軌道をはじき出していた。それは、経験と訓練のたまものである。

ついに追いつき、銛をグッと突き出したら、ブオッ! 魚群が、オレンジ色の煙を吐き出した……モークは慌てず海床に下降すると、この目くらましを懐から取り出したカプセルに収める。それから、得物の先端に運悪く捉えられた一匹の魚を見て、あの岩壁の上に戻った。

オレンジのパラソルの下でバックパックから灰色の立方体を取り出し、脇についているケースから親指ほどのガラス管を二つ抜き取ると、その中に先ほどの煙幕と魚から切り取った肉片とをそれぞれ入れて、立方体に開いた穴に差し込む。スイッチを入れて電気を流せば、箱の中の有機体が活性化し、抽出された成分を取り込んで、代謝をはじめる。

この毒見ボックスが結果を出してくれるのには、少し時間が必要だった。それまでは魚を凍らせつつ、海を眺めてしばし待つ。

そういえば、若い頃の探検で、ほとんど海だけの星に行ったことがある。あの時は乗り上げた島が実は巨大なアンコウめいた生き物で、ブルー・バード号ごと丸呑みされそうになったりもした。何とか離脱して上空に出たら、今度は吸盤のついた触手が海の底から飛んできて、カエルが虫でも捕まえようとするかのように追いかけ回してきて……

ピロン!

毒見ボックスが明るく肯定的なサウンドを発して、モークを回想から呼び戻した。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

そのまま西へと歩く中で、モークは多くを見た。天を衝く塔があったかと思えば、地の底に続いているのではないかとも思われる縦穴があり、その先には魂魄がまるごと漂っているかのような畏れを抱かせる川が流れていて、やがて海に流れ込めば激しい渦へと変じていた。

たった半日歩いただけで、世界が四度も変転する……これまで多くの星を渡り歩いてきたモークだったが、流石にこんなところは見たことがなかった。もっともっと歩いてみたかったが、気づけば陽はすっかり沈んでおり、雨の匂いもしてきた。これ以上の探索は危険が伴う。

テントを張るのに丁度いい場所を探していたら、人工物とおぼしき大きな影を見つけた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

それは木々の間に埋もれかけているようで、確かな形を保っていた。

モークは崖の上から羽ばたいて、それの屋根の上に乗り、木を伝って地面へと降りる。

上方に向けたライトが、口を結んだいかつい顔を浮かび上がらせた。

巨人が、いる……!

モークは、思わず後ろに下がった。そうするとライトが照らす範囲は広がり、この巨人がそこに存在する理由を映し出した。石造りの門、丁度反対側に立つもう一体の巨人、植物たちに呑まれかけながらもなおその存在を確かに訴えかける小道。ここは、寺院であるらしかった。

ふと、ぽつりと鼻先に水気を感じる。ついで頭の羽根に。バックパックの上面も軽く音を立てる……とうとう降り出した雨は、急速に強くなっていくようだった。

モークは寺院の屋内へと駆けていった。土着の人々がいるなら後々面倒に巻き込まれぬためにも声をかけておきたかったが、生き物の気配は感じられない。

寺院の中は意外と広く、床は石造りであったためコンロを使っても問題はなさそうだった。

昼間の魚を解凍し、火を通してから身を解し、乾燥インスタント・スープに混ぜ合わせて足しにする。弾力のある白身魚なので、塩気の強いスープとの相性は悪くはなかった。

夕食を終えたら、ライトを手に軽く寺院を歩き回る。

柱に文様を見つけたら、ライトのお尻についたボタンを押し、中から『脚』を展開させて地面にセットする。そうして空中に固定された明かりを頼りに、デジタル・カメラで文様を撮影する。カメラは土地に宿った霊的存在を刺激するのでよろしくないという意見もある―――実際、それで被害を受けた者もモークは知っている―――が、ここにはそんなものはいないだろうと思っていた。さっきからずっと、自分の立てる音と雨の音しかしないのだから。

歩いて、照らして、記録を取る。その中でモークはふと、翼を生やした人型の像を見つけた。オーゲリアンにも似ているが、スマートに締まったシルエットだ。こいつのモデルになった人は、自分よりもずっと軽やかに空を舞うのだろう……そう考えた時、モークの頭に、忘れられないおとぎ話がよみがえった。


はるか昔、オーゲルに夢を抱いた男がいた。そいつは自らの翼で、天に住まうオーゲルの神―――と言っても三柱おり、オーゲリアンに鳥の翼を与えたものと、獣のたくましさを与えたものと、知恵を与えたものとがいる―――に会いに行こうとした。どうしてそうしたいのかを、彼は語らない。

男はただひたすらに天への階梯を求め、全ての山に登った。最後に訪れた頂で、彼は空の果て、衛星の狭間、星の海の手前に浮かぶ光の国を見た。迷うことなく翼を広げて空へと舞い上がった男は、しかし宇宙から降り注ぐ熱の矢に焼かれ、跡形もなく消えてしまったという。


今の感覚からすればいささか濃く、遊びのない絵柄の本は、この物語を勇気を訴えかけるものとしてモークに教えた。だがある時遠くの町に行ってみた時、そこではこの男は無謀さの象徴であり、神に戒められたのだということになっていた。強い信仰を謳った話とされていたこともあったし、神は触れ得ざる者だとしたものだと言う人もいた。物語の中の男は、何も語らないというのに。

モークは、時々このことを考えて、時には誰かと話したりもして、いつしか答えに思い至った。きっと自分も、根っこの所ではこの男と同じなのかもしれない。だからこそ、勇気を高らかに掲げて生きていくしかない。だからこそ、ふと顔を出す無謀さに目をつむってはいけない。

いつでもそのことを心に留めながら、冒険家をやってきた。


どこかから、足音が聞こえてくる。

やはり誰かがいたのだろうか……ライトを手に振り向いたモークが見たのは、不時着した時に出迎えてくれたあのスーツの紳士だった。お菓子をプレゼントしてくれて、そのままどこかへ去って行った。

意外と先の方まで人はいるのかもしれない。そういえば、『追加注文』の講習とやらももっと北の方で行われるのだっけか。少し安心する反面、がっかりしたような気分にもなる。まあ、一度は人が入った星だというから、当然のことなのかもしれないが。


夜は更けていった。

<その4>

この星では花見もできるらしい。

赤い花が咲く樹の下で、モークはビニールシートに座り、お茶を淹れていた。

四方は、緑豊かな山々だ。傾いてきた太陽が、はっきりとしたコントラストをつけている。


平和な風景だが、ここに来るまでが大変だったのだ。もう少しくらいのんびりしていてもいいだろう。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

寺院にたてたキャンプを明け方に引き払い、モークは西への旅を再開した。


森の中を抜け、視界が開けたと思ったら、目の前に控えていたのは大きな滝だった。

迂回するよりも翼を使うことを選んだモークは、目をつむる。岸辺に降り立てれば、進む道もあろう―――ビュルルッ! 空に踏み出し、風に飛び乗った。ふわりと、断崖の狭間を流れる。

さて、どこに降りたものか?

モークはきょろきょろと瞳を動かしていた。それが真下だけでなく、前の方にも向いたから、河の曲がり角に穴を見つけることができた―――闇が、太陽の下で、堂々と大口を開けている。そんな穴だった。

興味のままにモークはその中へと飛び込んでいった。どのみち、このまま曲がってしまえば、ずっとよそへ行ってしまうようだから。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

洞穴に入れば、今度はぼんやりとした光に取りまかれた。

しかもその一つ一つが人の顔を持ち、モークの周りをぐるぐると漂いながら、行く手を阻むわけでもなく、ただしげしげと見つめてくる。

できる限り洞窟に変化を与えぬように、モークは歩いた。

モークは、宇宙には生きている者だけでなく、死せる者や形なき者たちの居場所もあるのだということを、よく知っていた―――先史文明プラエクサは物質世界と精神世界の相互作用について追求し、その成果として現実を改変する術を得た。モークと、彼と同じ志を持った冒険家たちの調査からわかったことだ。

そのことは、ずっと昔に妻を亡くしたモークにとって、支えにもなっていた。


ゴーストたちの穴倉を後にすると、そこは谷であった。脇にあった急な坂から崖の上に向かう。

登り切ろうとしたとき、大きな翼をもった鳥が飛び立とうとしているのが見えた―――よく見れば、トカゲのような体つきであるし、翼に生えているのは羽毛ではなく膜だ。翼竜の類だろう。彼らは空に向かうかと思えば、谷の上で急降下して消え、四つ脚の毛深い獣を脚で掴みながら再び上昇してくる。

下を歩いていたら、自分も危なかったかもしれない……一息ついて前を見ると、さらなる山々が聳え立っていた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

この後もいくつかの冒険と、発見があった。

山の中腹にはキノコの輪がいくつもできており、もっと上に登って眺めてみると輪が組み合わさって、塔に取り巻かれた建物の底面を描いたような図になっていることがわかった。その建物であるらしき、天空に浮かぶ城も見た。幻であるとは思えなかったが、飛んでいってみようにも風が届かないようだった。

しかたなく、城が山の狭間に消えるまで歩いたところで見えてきたのが、今いるこの花園だった。


お茶を飲み終え、例の『追加注文』の講習の場所を確認する。運が良ければ、明日にはつけそうだ。

<その5>

追加注文の発注用紙。

ついに、やっとこさ、手に入れた。


ただ、いざこうして大きな指でつまんで見てみると、少々持て余す。

そもそも、喉から手が出るほど欲しかったというわけでもない。単に当座の目標として講習の場を目指していただけだ。


とはいえ使わずにおくのも、それはそれで勿体ない。


☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆


ここは天空に浮かぶ城、その廊下。

並び立つ柱の狭間から、赤い光が注いで、壁に染み渡る。

もう少しすれば陽が沈んで、風が気持ちよくなってきそうだ―――初めは中の部屋を適当に借りようかと思っていたが、外周の庭にテントを張って過ごすのも悪くないとモークは考えた。嵐が来るようならその時引っ込めばいい。


草むらの上に座ると、闇に消えようとしている山並みが見える。

数時間ほど前まではあの辺りにいた。そこへ、この城がひとりでに階段を伸ばしてきたのだ。まさにモークを目がけて、招き入れるかのように。

だが、それを昇り終えた彼を迎える者はいなかった。罠の類であるやもしれぬと一応の警戒をし、人を探して歩いたが、何の気配もなかった―――あの発注用紙をくれた女性は別にして―――よくよく見れば、部屋の中も埃だらけだったり、そんなところに誰かが、珍しい物でも残されちゃいまいかと踏み込んだ跡らしき様子であったりしている。

この城は、置いてけぼりにされてしまったのかもしれない。ならば多少なりともその寂しさを癒してやれればと、伝わるかどうかもわからぬ老婆心を見せてしまうのが、モーク・トレックという男であった。


城の外周を回るように、庭を歩いていく。

お花見をしたあの山の中の場所が見える。東に目をやれば、なにやら大きな祭壇と思しきものがある。西には森と、その外れにはやはり神に関わるのだろう小さな城めいたものが建っていた。

あるいは、もっと遠く―――はるか彼方にうっすらと聳える、明らかにこの城よりも高く伸びている塔。


何もかもががモークの好奇心を刺激した。けれど、自分の足でこの星の全てを見て回るには、あまりにも時間が足りなさすぎる。


それで何を注文するかは決まった。


☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆


屋根に近い場所にテントを建てたモークは、茶を飲みながら星空を見上げていた。


ここは別宇宙だ。立ち去ってしまえばきっと、二度と再び訪れることはない。

それゆえに、ここで何を発見しようとも、元いた世界での探検家としての実績に加えることはできないだろう。

でも、そんなことはどうでもよかった。何のしがらみもなく、ただひたすら冒険ができる今の日々は、若さを蘇らせてくれるような気がした。

それに、多分何を話しても聞いてくれるだろう、息子ムートだっている―――帰ったらどこかで時間を取って、久しぶりに二人きりで過ごそう。この旅の思い出を、ムートへのお土産にしよう。


夜は更けていった。