Seven Seas潜航日誌

36~40

<その36>

ネリーは冷たい海を、マグロのように力いっぱい突き進んでいた。

幼い彼女だが、一度は世界中を旅した身でもある。オルタナリアの地図と故郷マールレーナの位置くらい、ちゃんと頭に入っている。

「みんな、まっててねっ。ネリーが、たすけにいくよっ……!」

テリメインの皆のことも気にならないわけではなかったが、こうなったからには家のことが先決だった。

だがその時、視界の隅に捉えた光芒が、ネリーの動きを変えさせた……ズバーッ! 光ははじけ、拡散した。

「な、なんだとて……っ!?」

あの光の矢の威力は人を即死させかねないが、ネリーが驚いたのはそのことだけではなかった。

「……こいつぅっ!」

尻尾を振るい、下へ勢いをつける。地面を眼の前にして、ネリーは急激なカーブをした。これでぶつかってくれればよかったが、何本もの光の矢は同じ動きで追いすがってきた。

ネリーは速いリズムで身をくねらせ、海底すれすれを駆け抜ける。

その先に、光の射手の姿を見た。

「……!?」

錆付きながらも、なお鈍く光るその身。生命体ではないことは、すぐにわかった。それがテリメインの海の魔物―――誰にも持たれていないのに勝手に引き金を引く、古代の銃だ―――であることも。

しかし、近づけば近づくほど、明らかに何かがおかしいと思えた。表面が妙にでこぼこしている……錆のせいではなさそうだった。

だが、今は気にしている場合ではない。ネリーは腰蓑に右手を突っ込もうとして、やめにした。ここはもうテリメインではないから、スキルストーンが力を発揮するかどうかがわからなかった。

代わりにネリーは心に念じた。魔力の光が、彼女の右の手のひらに宿った……

「《ハイドロ・プレッシャー・ボム》!」

ボウッ! 海水が膨れ上がり、はじけ飛んだ。

放たれた力はネリーを押し上げたが、質量のない光の矢はそうはいかなかった。

古代の銃は、撃ったものを銃口に差し戻されて……ガァーン! 粉々に砕け散った。

「テリメインのマモノ、なの……!?」

あの渦が近くで起きたならば、それも十分ありうる話だったし、ならば今倒した相手だけが運ばれてきたわけでもないとすぐ想像できる。

事実、いくつもの悪意が、海の水を通じて、ネリーの神経を突き回していた。

「こないで……オルタナリアに、こないでっ!!」

招かれざる客を追い返すため、ネリーは背中のハンマーを抜き、弾丸のように飛び出した。

大きな影が、急速に近づいていた……鯨の魔物、キラーホエールが、その身を北海の底に漂わせていた。

「このっ、やんろぉーっ!!」

臆することなく、頭をめがけてハンマーを振るう。

だが、この鯨も、異常であった。形と色こそテリメインで見たものと大差ないが、近づいていくと、色々な形のものが皮の下に埋め込まれているように見えた……

その疑問が、ネリーに隙を作らせた。

ドッ! 彼女の脇腹に、何か鋭いものが突っ込んできた。

「がべっ……!?」

ドッ! ドドッ!

次から次へと、何かがネリーに体当たりをしてきた。

気力でもって態勢を立て直し、ようやくその正体を捉えてみれば、大ぶりな鰯の群れであった。

「クッ!」

痛みをこらえながら、ネリーは身を翻し、鯨の背を視界に入れる。見れば、腹の下から次々と鰯が湧いて出ていた。

鰯の主があの下にいると、ネリーは確信した。鯨の巨体で身を守りながら眷属を呼び出し、時が来れば《カルパッチョ》の術を使って、それらを一斉に自らの力に変換するつもりなのだ。

そうなれば、ネリーの敗北は必至である。

「やらせる、もんかあっ!」

先ほど、光の矢をしのぐために見せた泳ぎをもう一度行う。鰯の群れを誘い、高度を稼いでから一気に降下する……

だが、ガァーン! 海底近くから一尾の鰯が現れ、ネリーの腹にぶつかった。

「アウッ……」

ネリーは体勢を崩すが、鰯の方もふらりと力を失った。すでに数十匹にまで増えた鰯たちが、鯨の下へ吸い寄せられていく。

そこから真っ赤な光が放たれ、血のように広がったかと思うと、すぐにまた引き戻されていった。

光をそのまままとったらしい魚が―――鰯たちの王だ―――その隠れ家から二、三尾、飛び出してきた。その殺気は、圧倒的なものになっている。

「うぅ……」

それでも、ただやられてやるつもりなどなかった。

「ま、負けない……もんっ……!」

鰯の王たちは、破壊力のある波動を放とうとしていた。

だが、そこに、バババッ! 氷のつぶてが、どこからか飛んできた。それらは鰯たちの周囲で炸裂をして冷気を放ち、攻撃の準備を行っていた彼らを凍らせた。

「離れろッ!」

それらが来た方向から、声がした……ネリーは言われた通り、尻尾の力で飛びのいた。

直後、ドドドドッ! 矢が、光芒が、雨あられの如く降り注ぎ、鯨と鰯とに突き刺さっていった。

「なんなの……」

攻撃の軌跡に沿って振り向けば、水棲人の男が近づいてきていた。その後に続き、武装をした人魚やイルカの獣人たち、軍馬代わりに手なずけられた海竜なども現れる。

彼らの防具に描かれた紋章は、ネリーもよく知っているものだった。

「奴らは……」

水棲人は双眼鏡を懐から取り出し、着弾地点を見る……水煙が晴れてくると、そこには小さな残骸がバラバラになって転がっていた。

彼は後ろを向き、後続の味方たちに向かって叫んだ。

「無力化を確認! 襲われていたのは、ネリー・イクタだったぞ!」

ネリーの名が出て、一同はにわかにどよめく。

「うっ、うゃ……おにーさん……兵隊さん、だよねっ……?」

驚きはしていても、助けられて何も言わないのは気まずい。

「ああ。俺はフォーシアズ海軍のゼバ・エブカだ。臨時のパトロール隊の隊長をしている……」

海に面した国は海軍を持っているわけで、海の民を雇って回していた。

そういえば、ワサビが言っていた様子見に来る水棲人というのは、ゼバのことだったのかもしれない。あるいは、彼の同僚か。

「ネリー、早速だが、落ち着いて聞いてくれ……」

「うゃ?」

「君の街、マールレーナは……あの渦のために、壊滅してしまった」

「えっ……!?」

「だが、人は無事だ。ネプテス・イクタも君を心配している」

「……おとーさん……!」

ネプテスの名が出ると、ネリーは少しホッとしたようだった。

「我々はこれから、一度フォーシアズに帰る。君も一緒に来てくれ」

「そこに、おとーさんも……?」

「ネプテスは、セントラスの方だ。大丈夫、必ずまた会えるさ」

「……うん。おとーさん、生きてるんなら、だいじょうぶ。」

振り向けば、ゼバの部下たちが残骸の回収をしていた。あれが終わるのを待って、出発するのだろう。ネリーはその前に、一つ伝えておくことがあったのを思い出した。

「っと、ねぇ……フォーシアズに、いくんだったら、これ……」

ネリーは懐から、例のウニもどきの破片を取り出し、ゼバに差し出した。

「これは……?」

「あの、渦をおこしてたやつの、カケラかもしれないの。フォーシアズなら、ガクシャさんがたくさんいるから、しらべてもらえるかなって……」

「なるほど、それはいい……! 必ず、送り届けような……」

ゼバは努めて明るく振る舞っているように思える。目の辺りに疲れの色があることは、ネリーにもわかった。

「ゼバ隊長、回収作業が完了しました」

ゼバの部下らしい人魚の女性が、報告にきた。彼女自身も、残骸の入った袋を担いでいる。

「ご苦労、ではネリーを我々の所へ迎えるとしよう。ネリー、彼女は副隊長のサニア・サミアだ。他の隊員も、後で紹介しよう」

「あなたが、狩人ネプテスの娘ですね……活躍は聞いています。よろしく頼みます」

サニア副隊長は、ずっと年下のネリーに丁寧なお辞儀をしてみせた。

「うゃあ、よろしくねっ。ところで、そのカケラって、あいつらの……」

「そうだ。奴らは生き物のようにみえて、実はこういうガラクタが集まってできている。少し壊したくらいじゃ身体を組み直してまた動き出してしまうから、コナゴナになるくらいまで攻撃しないといけない……厄介なやつらだよ」

「ね、ねえ……ゼバさん。こいつら、もともとテリメインの……」

「テリメイン?」

「あっ、わたしの行ってたセカイ……」

詳しく話せば、ここで足止めをくわすことになるだろう。

「……フォーシアズについたら、お話するね。いこう、ゼバさん」

「ああ、わかった」

一行はその場を後にし、フォーシアズを目指して泳いでいった。

<その37>

ネリーとフォーシアズ海軍のゼバ、その部下たちは休むことなく泳ぎ続け、フォーシアズ東の港に辿りついた。

首都フォーシアズ・カピタルへと向かう前に、渦による被害の状況を確認して回る。この港は幸いにも、概ね無事なように見えた。避難勧告も出ており、人の気配は既にない。

「ネリー、疲れちゃいないか?」

自分に続いて埠頭に上がったネリーに、ゼバが声をかける。

「うゃっ、ぜんぜんげんき!」

あのくらいで疲れる訳もなかった。

「ほう、流石だな。けどここからは、鉄道が使える。駅には人が残っているはずだ。渦も来ないだろう距離にあるからな……」

「そーだねっ、乗れるんなら、ひさしぶりに乗ってみたいなっ」

この国には、フォーシアズ・カピタルを中心とした鉄道路線ができていた。

この港も普段は外国からの受験生や留学生たちで賑わっており、汽車に乗って首都のアカデミーを目指し旅立っていくのだ。逆に、高等教育を経た自分を売り込むべく、フォーシアズの外へ向かう者も少なくない。

駅の方へ向かおうとすると、ゼバの部下の若い水棲人が慌てて駆け寄ってきた。

「隊長! ほ、報告です、海の方から……!」

息を切らしながらも、若者は伝える。

「海が……? まさか、渦か!?」

「ええ、乗り上げてきます!」

三人は駆け出し、港町を一望できる丘の上に登る。水平線から現れた渦が、港に近づいているのが見えた。

「と、止めなくちゃ……!」

そう言うネリーは、既に構えている。

「どうやって!?」

「凍らせる!」

ドーッ! ネリーとゼバは強く大地を蹴り、斜面に着地すると、そのまま颪のように駆け下りた。

二人が埠頭に着くと、渦はその手前で止まり、海上に向かって伸び上がるところであった……

「《アイシクル》ッ!!」

ビカーッ! 突き出されたネリーの手から青い閃光が放たれ、竜巻に変わりつつあった渦に突き刺さった。ビカッ、ビカッ! ゼバと、既に周囲に駆けつけていた部下たちもそれに続き、同じ術を唱えた。

海面から立ち上がった渦は動きを鈍らせ、白く固まる。

「やったか……!?」

が、バキバキッ! すぐにヒビが入ったかと思うと、竜巻は氷を振り払っていく。

「だめっ……!」

なおも、冷気を浴びせ続ける根性がネリーにはあったが、そんな彼女をゼバは後ろから抱え上げる。

「ゼバさんっ!」

「無理だ! 気持ちは判るが!」

バキーン! とうとう竜巻は自由を取り戻し、再び前進を始めた。

もうなす術もない。ネリーたちの目の前で、放置されていた船や木箱、小屋などが巻き込まれていく。

「逃げるぞ、ネリー! お前をカピタルまで届けねば、やられっぱなしになる!」

「う、うんっ……!」

対抗を諦めたネリーはゼバの腕の中から抜け出し、自分の意志で走りだした。

この状況となっては、陸を歩けない者は置いていかれるしかない。海で警戒に当たっていたサニアは海竜たちを連れ、退避することを決めた。

「隊長、ネリー・イクタ……どうかご無事で!」

海の中に潜り、サニアは離脱をした。

一方、時々後ろを振り返りながら走っていたネリーは、竜巻の動きを疑った。

「ねえ、ゼバさん! なんか、ヘンだよっ!?」

「ン……!?」

初めはあてもなく彷徨い、手当たり次第に物を呑み込んでいたかに見えたそれが、駅の方向に向かっているように見える……

「ええい! あれは知恵でもつけたってのか!?」

「は、はやく汽車を……!」

「すぐに動かせるものじゃないンだ! ……だが、人は逃がさないといけないな!」

今度は、二人で駅へと向かって走る。大声をあげ、退避を促しながら。

「竜巻が、ここまで来まーす! 早く、逃げろォー!!」

ゼバの声に、留まっていた駅員たちは跳ね上がった。

「はぁ!?」

「ホントだァ!?」

最低限残っていた人々が、一斉に街の外へと走りだした。

ネリーとゼバはその場に残り、竜巻を出迎えながらも、巻きこまれぬよう脇に逃げた。最初の数倍にまで大きくなった竜巻の根っこに、ガレキの塊が見える……残骸をパーツとして組み上げ、ムカデに似た姿を為していた。中枢には、あのウニモドキがいるのだろう。

ネリーが、反撃の機会を伺っていると……ガガガガッ!! 竜巻は汽車の車体と、線路までも飲み込み始めた。

「ああっ!!」

汽車を呑み込んだガレキの怪物が、変形を始めた。その脚の下に奪い取った車輪を出現させたのだ。

スピードを高めた怪物は、そのまま竜巻と共に、線路を追うようにして進んでいく……

「まさか、カピタルへ行こうってのか!?」

「ゼバさん……! わたし、おっかけてくるっ!」

ドーッ! ネリーは強く大地を蹴って跳び、四つん這いで着地すると、そのまま獣のように駆け出した。

「ま、待て、ネリー!」

言ってはみるが、相手はネプテス・イクタの娘である……ただの水棲人であるゼバには、とても止められそうになかった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「はあ、まーた見つかんなかった、ね……」

「……ああ」

テリメインの方の港で、クリエとシールゥの二人はオレンジに染まる海を見つめていた。

今日もサンセットオーシャンの辺りまで探索に出てはみたが、ネリーの消息はつかめず、あの渦を見つけることもできなかった。

「ネリー、今頃どうしてんだろ。まあ、あのコのことだから、どこいったって生きてくだろうけど……」

「や……だけ、ど……」

「ン?」

「一人、に……させ、たく……な、い。心、配……」

「……ボクだって、それはそうさ。でも考えてたってしょうがないよ。とりあえず……アイツんとこ、行こう?」

海に潜る他にも、やることはある。シールゥがクリエの頭に乗り、そのまま彼女は探索協会の建物へ歩き出した。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「で、今日もボウズ、ッチか。しゃーないッチねェ」

「釣りやってんじゃないんだよ」

もう何度目かの、ドクター・アッチへの事情聴取である。

「ねえ……そういやさ。あの渦起こしてるウニモドキ、オルタナリアで作られたかもしれないんでしょ。なんか……ああいうの作りそうなヤツに、心当たりってないの? アッチも……学会ってのに、いたんだよね」

「んむ。ボクちゃんがちょーっと気に食わないからって、追放しやがったッチけど」

シールゥは、かつてオルタナリアを冒険していた頃、直樹が教えてくれた地球の漫画のことを思いだした。そこに出てくる悪役の博士も学会を追放されていたのだ。

危ないことを考えている人間を、話し合いもせず野放しにするというのは、あまり賢くないやり方に思えた。

「……あのウニと関係あるかどうか知らんが、ミクシン・ミックってヤツがいたのを思い出したッチ。ボクちんがまだ学会にいた頃、アカデミーで反ヴァスアをやってたガキだッチ」

「反ヴァスア、ね……」

オルタナリアは、地球人の力がなくては存続できない世界であった。定期的に地球の子供を呼び出してヴァスアの勇者として祭り上げ、各地の『神秘』を回らせて『心の儀』を完遂させなくては、世界はバランスを崩し、滅びてしまう。

そうして異世界の人間に依存して生きることをよしとしない人々がいた。それが、反ヴァスア派である。

彼らはヴァスアに依らずにオルタナリアを存続させる術を探し求めていたが、ヴァスアや『心の儀』にまつわる物事はオルタナリアを創世した女神ミーミアが決めたことだとされており、その女神に逆らうものと見なされた反ヴァスア派は世間から冷たい目で見られ、長らく日陰で細々と活動を続けていた。

ところが時が経つにつれ、地球人を呼び出す間隔が次第に狭まってくるようになった。これを知った反ヴァスア派は、ヴァスアによる仕組みの限界が近づいているのだと謳い、支持を得るようになる。あるヴァスア―――広幸、孝明、直樹の直前に来た少年である―――が『心の儀』に失敗し、それ以来世界各地で異変が続発したことも、彼らの活動を後押しした。

だが、その後にヴァスアとなった広幸たちは、長い旅の末に『心の儀』を完遂するだけでなく、オルタナリア存続のメカニズムをも解き明かしてみせた。彼らが冒険の最後に起こした奇跡によってオルタナリアは独立した世界となり、未来は開かれた。

そういうわけで、現在は再び反ヴァスア派の活動は下火になりつつある。

「ミクシンはアカデミー出た後、事業を起こしたらしいッチが、ボクがここに来るちょっと前にナゾの失踪を遂げた……て新聞でやってたッチ。その前からちょくちょく、たまにいなくなったりすることがあったらしいッチがね」

「ふうん……怪しいけど、こっからじゃ調べようもないね。まあ、覚えとくよ」

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「はっ、はっ、はぅっ」

汽車の代わりに線路を疾走する竜巻を、ネリーは追う。獲物を追う肉食獣のように。

自分の中に流れる魔物の血を呼び起こすことで、こんな力を発揮することもできた……だが、それも体力が尽きてしまえばおしまいである。

車輪を得たガレキの怪物は、ほとんど速度を落とすことなく走り続けている。どこからエネルギーを得ているのかもわからない。

『飛びつかなきゃ……はやく……!!』

力を引き出しながらも、冷静な自分を心の中に保つ。ネリーの目は、怪物の尾っぽにあたる部分だけを見つめていた。

だが、その視界は赤く染まりつつあった……遠からず、精神か身体のバランスを崩し、走り続けることはできなくなるだろう。

『カピ、タルに、行かせ、ないっ……! オルタ、ナリアをっ……! こわさせ、ないっ……!!』

その決意に、ネリーの身体は追いつかなかった。

「アッ……!?」

ドッ! ネリーの腕は大地を掴み損ね、彼女は思い切り前のめりになった。その勢いのまま何度か転がり、地面を長く滑り、そして停止した。

「あっ……あ……!!」

顔を上げる。ガレキの怪物が、遠くへ過ぎ去っていくのが見えた……

<その38>

オルタナリア中央大陸、セントラス。世界最大の国家として名を馳せるこの国も、沿岸では渦の力に苦しめられていた。

大陸東岸のオークロフ港でも、海軍を交えた避難活動が続いている。

「竜巻だァ……! 渦が上がってきたッ!」

ゴォーッ! 声を上げる兵士の目の前で、渦は木箱や樽、鎧に身を包んだ仲間達までも巻き上げながら寄ってくる。

彼は無力だったが、しかし勇敢でもあった。

「逃げるなら高いところだ! 建物じゃなく山の上! 渦がバテるまで耐えろーッ!」

叫びながら後退する。民よりも先に走り去ってはいけないが、自分の命も守らなければ人は救えない。

「ワァーッ!!」

「ンッ!?」

甲高い叫びに振り向けば、男の子が一人、仰向けになってわめいているのが見えた。転んでしまい、起きようとした所に迫る渦を見たようだ……

「今行くぞ!」

兵士は子供に駆け寄り、抱え上げてやった。

「へっ、兵隊さんっ!」

「舌ァ噛むぞ! 掴まってろ!」

そのまま、全速力で走りだす。

しかし、もうすぐ後ろから風が殴りかかってくるのが感じられる。子供を後ろ側にしなかったのは幸いであるが、それもこのままでは無意味となろう。

例えどうあっても、死ぬつもりはない……そんな想いも空しく、兵士の足は間もなく浮き上がり、きちんと地面を捉えられなくなった。

そこへ、ビシャーッ! 一筋の雷が奔った。

「アウッ!」

倒れこむ直前、兵士は子供を圧し潰さぬように体を傾けることができた。

勢いのまま転がれば、空が見えた……金色の光が鞭のようにしなり、竜巻を叩きつけているようだ。

「渦と……戦ってるの!?」

子供は兵士の腕から転がり出し、一足先にそれを目撃したようだった。

「お前ら、下がれェ!!」

どこからか、ややあどけなくも力強い声が飛んできた。

その主は空中からこの場に乗り込んできていた。

彼は人間であり、歳はここにいる子供とほぼ同じ程度であった……だがその身体は雷をまとって輝いており、右手に構えたハープーンはさらに激しく発光していた。

「ダァーッ!!」

雷の少年は、ハープーンを竜巻の根元目がけて放り投げた。

ドドゥッ! ビカァーン!

放たれた力が、兵士と子供の五感を埋め尽くした……

すべてが止んだ時、もうそこに竜巻は存在していなかった。

「一丁あがり、っと!」

雷の少年は着地をしていた。バチッ! 小さな雷が二、三発、彼の周囲ではじけてすぐに消えた。

「す、すっげぇ……」

「き、君は、一体……いや、まさか……!?」

まだ立ち上がってすらいない二人だが、雷の少年は近づいてきて挨拶をした。

「俺は直樹。瀬田直樹だ。オルタナリア、もういっちょ助けにきたぜ」

「直樹……そうか! 君がヴァスアか!」

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「アァ…… ……!」

ガレキのムカデが線路を喰らいながら遠く離れていくのをネリーはもはや見ていることしかできなかった。

フォーシアズ・カピタルに攻め込まれるのを、止められない―――

だがその時、ゴウッ! 上空から何かが飛来した。影がネリーの身体を覆って、通り過ぎた。

「へっ……!?」

見上げると、大きな鳥と肉食獣が合わさったようなシルエットが高速で移動していた。

上空にいたのは、四つ脚の雌竜……アノーヴァ・ピーヴァルであった。氷のような甲殻があり、その身は全体に青白い。翼を羽ばたかせることはせず、どこか高所から滑空してきたらしい。

「私が爆撃するが、それで駄目ならば任せる!」

氷竜の背には、バンダナをした緑髪の少年……宇津見孝明が乗っていた。

「飛び降りて異能力を使えってンでしょ!? やりますよ!」

「その意気や良しだ! いくぞ!」

ドッ! ドドッ!

地上のネリーは、氷の塊で爆撃がなされるのを見た。ガレキのムカデに何発か突き刺さり、侵食をする。

動きを鈍らせたようだが、止まるには至らない。

「やらいでかッ!」

アノーヴァの背から、孝明少年が飛び降りた。

大地が近づくと彼の目は緑色に輝き、放たれた光芒が大地を打った。

応えるように、ドゥッ! ドーッ! 地面を破って木の根が現れた。それらは互いに絡みつき、十数倍もの太さとなってしなる。

「ウィリデ・スラッパーなら、やってみせろぉーッ!」

孝明少年の叫びと共に、焦げ茶色の大蛇が大地を薙いだ……ガァーン!! ガレキのムカデは押し倒され、転覆した。

目の前でこんなことをされていては、ネリーも動かないわけにはいかない。

「ハッ……!」

呼吸を整え直し、再び四つ脚で駆けだす。あんなに遠くにいた怪物がみるみるうちに近づいてくる。

頃合いを見て、ネリーは跳躍した。

「なんだとて!? ネリーか!?」

空中で、余っていた木の根に受け止められた孝明少年はそれを見届ける……かつての仲間が近くで戦ってくれていることは、勇気の支えになった。

「グゥアァーッ!!」

シャコガイハンマーを構え、縦に回転しながらネリーは飛び込んでいく。

ガレキムカデの横っ腹に、ドォーッ! ハンマーを叩きつければ、つぎはぎの身体は大きく砕ける。

だが、そこに中枢のウニモドキは見えない。

「ここじゃない……!?」

シュルル! 怪物の体内から触手が放たれ、ネリーを襲った。あるものは締め付けようとし、またあるものは柔肌を刺し貫こうと迫る。

「ガウッ!」

一本をすぐさま噛み千切るが、二本三本と来れば囲まれる。対処しきれなくなるのも、時間の問題だ。

だが、後方には孝明がいた。

「ネリーッ!」

ドッ! 大地の中から、今度は膨れた実のついた小さな植物が現れた。

「てぇ!」

孝明の声に応え、植物たちは動いた。

細い体をくねらせ、実の先端を怪物の方に向けると、ドッ! 弾け飛んだ実から、人の頭ほどもある種が発射された。

その狙いは精密であった。ネリーを突き刺そうとしていた触手たちは半ばから断ち切られ、吹っ飛んでいく。

「孝明っ!」

ネリーは一旦怪物から飛びのき、彼を出迎える。コアが見つからないままやり合うのは、不利であった。

「お久しぶりだね、ネリー! ヤツをどうにかするぞ、アノーヴァさんもじきに戻ってくるはずだ!」

横っ腹から触手を動かす怪物を前に、二人は身構えた。

<その39>

フォーシアズ沿岸の駅にあった列車と同化し、走り続けていたガレキの怪物は転倒をしたが、むき出しになった体内から触手を放って戦いを続けるつもりでいた。

「ええい、今のうちに!」

ボッ! 孝明少年の念に応え、再び大地から木の根が飛び出す。それらは弧を描いて怪物に飛びかかり、巨人を捕らえようとする小人達の縄のように、長い身体をがんじがらめにしていく。

「わぁ、すごいすごいっ!」

「トドメは君に頼むさ―――ンッ!?」

怪物の身体の中で、ガチャガチャと金属が音を立てていた。

チュイーンッ! 甲高い音と共に、締め付けていた根が断ち切られ、跳ね飛ばされていった。怪物の体内から、丸ノコギリが顔を出していた。さらにはナイフや尖った金属片を絡めとった触手たちも現れ、次々と根を切り刻んでいく。

自由を取り戻しつつ、怪物は一瞬だけその身体を膨らませた。直後、接地していた側面が爆ぜ、煙と土塊が飛散する。

その勢いで起き上がった怪物は、ネリーたちが何かをする前に、後方でさらにボウボウと爆発を繰り返して走り出した。強引に加速をつけたのだ。

「爆薬でも奪ったのか!?」

「と、止めなきゃっ!」

ネリーは四つん這いになって走り出した。役割の分担は明白である。

「グアゥーッ!!」

馬くらいなら軽く引き離してしまいそうなほどの勢いを見せるネリーは、たちまち、ガレキの怪物の前方に躍り出る。

取り残された孝明少年は、ネリーがどうするつもりであるにしろ、電車と相撲をとろうとするようなものだと思った。彼の側でも、怪物の勢いをどうにか殺してやらなくてはならない。

ネリーが傷つけば、瀬田直樹が悲しむという考えもあった。

「だが、追いつけなければ……!」

その時突然、孝明少年の足元から太い根が現れて、彼を跳ね上げた。異能力の行使でミスを犯した、と彼は思った。だが、着地したのは堅い地面ではなく、線路沿いに直進していく別な根っこの上であった。

脇を見ると、自分を突き上げてくれた根っこが弧を描いて地中に戻っていく。直後、彼はまた吹っ飛ばされ、今度は第三の根っこの上に落ちるのだった。

怪物に追いすがらねばならないという意志が、樹木たちにリレーをさせていたのである。孝明少年は、ただしがみつくことだけを考えていればよい。自分も便利になったものだと、彼はぼんやり思った。

「ガルルゥッ!」

咆哮が聞こえた。ネリーはもう怪物の上に飛び乗っていて、敵の体内から次々現れる金属部品たちと殴り合っている。

弱点の位置がわからないのでは、埒が明かない。このガレキの怪物が無秩序に自分を肥大化させていったのではないなら、先ほどのように爆発しないポイントには中枢があるだろうとも考えられるが、それも確かではない。

「足を狙え!」

木の根は、孝明少年に応えた。

彼を下ろした根っこが、尖った先端を叩きつけることで車輪の接合部を破壊しようとする。だが、金属の強度に勝てず、上手くいかない。

焦る根っこ達に、孝明少年は深緑色の毛深い膜がくっついているのを見た。引きずられてきた地衣類であった。」

「役に立つかも……!」

孝明少年はそこに、懐から取り出した栄養剤の薬瓶を放り投げる。ガチャーン!

「がんばってくれ!」

浴びた薬液と声援に応え、藻と菌たちのコロニーはみるみるうちに膨れ上がり、饅頭のようなすがたとなった……エネルギーの辻褄合わせさえすれば、生命を爆発的に増殖させることもできるのが孝明少年の異能力である。

この深緑の塊はモコモコとうごめいて、敵の体内に潜り込んだ。細い菌糸が中枢を捉えてくれれば僥倖であるが、それだけに期待するわけにはいかない。

今度は植物の砲台を出して、ネリーの援護射撃をしなくてはならない。だが、その思考は、妙な浮遊感で途切れた。

「アッ……!?」

怪物の尻の上から銃身がいくつも現れ、燃える矢を放ったのだ。それらには、孝明少年の乗った木の根を一撃で断ち切るだけの力があった。

代わりの根っこが来て孝明少年を受け止めるのだが、それも容赦なく破壊された。彼は強かに地面に叩きつけられ、小さくバウンドしながら後方に消えていく。

「た、孝明っ……!?」

まだ冷静さを残していたネリーには、仲間が離脱したことがわかっていた。

触手が操る草刈鎌が、動揺するネリーの左腕を襲った。

「アウッ!」

深手ではないが、血は流れ、痛みも出る。

隙を晒したネリーに、さらに刃や鉄塊が、猛然と飛びかかってきた。

「ぐえっ……」

柔らかな腹に、杭を打つためのハンマーが叩きつけられた。体勢を崩したネリーはすぐに怪物の加速度に負けて、側面へふらりと落下する。

なかば無意識のうちに、ネリーは右手を伸ばした。その先に、指が嵌った。粘着性をもった深緑の塊が、怪物の脇腹の穴から生えていたのだ。忙しく戦闘していたネリーは、それが孝明少年がこの場に残したものであるのを見てはいないが、異質さゆえに理解することはできた。

どうにか左手も穴に引っ掛けて中を覗くと、緑が蠢いていた。何かをしようとしてくれている。孝明少年が操った物ならば、彼の思念をまだ宿しているのかもしれない。

塊は前方に向かおうとしているらしい。穴は中に潜り込むには狭すぎたので、ネリーは代わりに怪物の側面に張り付いて少しずつ前進していった。むろん、ここでも刃物やガラクタを振るわれたが、全て徒手で追い払っていく。

進むにつれてだんだんと抵抗が激しくなっていくので、ネリーは確信を得た。

怪物が取り込んだ列車において、前から二番目の客車であったと思われる部分に接近した頃、上からの触手がネリーの眼を目がけて飛んできた。

「ハッ!」

首を横に向けてかわし、そのままネリーは触手を掴む。勢いよく宙に浮いた身体は、怪物の上部に着地した。

大ぶりの剣や斧、銃―――オルタナリアにおける先進技術を扱うフォーシアズでなら、だんだんと珍しくもなくなってきているのだ―――を構えた触手たちが、鎌首をもたげていた。

「や、やっば……!」

その場で、四つん這いになる。この状態で銃撃をかわせるとしたら、これしかなかった。

まず、大きな出刃包丁が振り下ろされた。最小限の横っ飛びでかわせば、怪物の屋根に深々と突き刺さった。この中にあのウニモドキがあるのは確からしいから、脆くしてくれるのは助かる。

ついで、槍が突いてくる。奥には銃が控えてきた。ジグザグに後ろへ飛び、さらに後方から出た触手を尻尾で薙ぎ払い、今度は前へと跳躍し……

が、ネリーの身体は空中で横へ流された。左カーブに差し掛かったのだ。無傷の右手をどこかしらの出っ張りにひっかけようとするが、そこにあったのは触手の一本だった。

「アァ……!」

ネリーは、宙に投げ出された。ならばと左手に集中力をこめて、簡単な攻撃の魔法を使おうとする。だがそこに、ガァン! と銃が撃たれる。当たりこそしなかったが、精神の平衡を乱すには十分である。

風と遠心力と、続く攻撃がネリーに襲い掛かった。

だが、それ以上の衝撃をもたらしたのは、怪物の力ではなかった。変転する景色の中で、青白い光が飛来するのをネリーは見届け、そのまま空中高く放り上げられたのである。

「ネリー・イクタ!」

アノーヴァ・ピーヴァルが、地上を走って戻ってきていた。孝明が頭の角にしがみついている。

ガレキの怪物は、派手に脱線している。ネリーは重力の助けを借りることにした。

「ダァーッ!」

シャコガイ・ハンマーを抜き、闘志を漲らせる。貝のあぎとが開いて、鋭さを増した。弾けるようにネリーは高速の縦回転を始め、怪物目がけて落下していった……

ギャギャギャギャッ!

怪物の横っ腹を、ハンマーが深々と抉った。その奥に、中枢のウニモドキが見える。

「ガウッ!」

ネリーの咆哮と共に貝は勢いよく口を閉じ、ウニモドキを食い千切った。

刹那の後、異形の列車は内側から小さくはじけ、ガラガラガラッ。崩壊した。

「大丈夫なのか……?」

孝明少年は気遣うが、直後にネリーはガレキの山の中から勢いよく右手を突き上げ、健在をアピールしてみせた。

「よく知っているだろう、強い子だって?」

「そりゃ、そうですけどね」

こうして、フォーシアズ・カピタルの危機はとりあえず去った。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

テリメインの側でも数日が経過した。

ドクター・アッチが自分たちが見てきた以上のことを知らず、あのウニモドキのサンプルを追加で手に入れない事には調査も進まないから、クリエとシールゥは毎日海に出ているのだが、進捗はあまりない。

疲れが出た二人は、船着き場に腰かけて水平線を眺めていた。

「ネリーは上手くやってるかな。渦の発生件数が増えてないってンだから、そうだと思いたいけど」

「……信じ、る、しか、ない?」

「そうだけどさ……」

ふと、遠くの方が騒がしくなった。

「ンッ、事件か?」

男どもが喚き立てているようだった。

揚がった、人だ、と聞こえてきたから、二人はすっ飛んでいった。

騒動の現場に辿りつくと、船乗りたちが一所に寄り集まっていた。クリエは、自分がこの地に来た時のことを何となく想起した。

「医者ンとこへだ! 急げ!」

担架を持った船乗りたちが、揚がったという者を運んでいく。

クリエとシールゥは、その顔と着衣をちらと見て、驚かなくてはならなかった。

黒い髪、空色のシャツ……

今運ばれているのは、かつてオルタナリアを救うべく直樹や孝明、そしてネリーやシールゥとも旅をした少年……萩原広幸であった。

<その40>

萩原広幸は、普通に朝起きて、学校に行くはずだった。

だが、普段通る道から外れたところに目をやると、そこには異界が紛れ込んでいるのである……彼のよく知る異界、オルタナリアである。

鳥でもないのに空を飛ぶ小動物やら、魔法の光やら、日本語でもアルファベットでもないような文字で書かれた看板―――旅をしていた頃の広幸たちは、何故か問題なく読めたのだが―――などが、アスファルトとコンクリートの世界にオーバーラップしている。

救世主ヴァスアとしての使命を終えてなお、オルタナリアとの縁は切れないらしい……広幸は、つい半年ほど前の自分がこのことを知ったなら、もっと無邪気に喜んでみせただろうかと思う。

しかし、その光景に渦のようなものが割り込み、何もかもを呑み込んでいくのを見たとき、彼の思考は断ち切られた。

危機感が使命感に変じる前に、身体が幻影の中へ吸い寄せられていく。

海の匂いと、嵐の音がする。水が、降ってくる……

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「ン……ンンー……」

その広幸は、何故だか行ったこともないテリメインの海で拾われ、病院のベッドに寝かされていたが、たった今目を開けた。気付いた若い看護師が声をかけてくる。軽く返事をして、意識が鮮明になっていることを示してあげると、慌ただしく出ていった。

すぐに、自分の担当のお医者さんでも連れて、戻ってくるのだろう……果たして、その通りではあったのだが、やってきた看護師は医者以外に、広幸の知り合いを二人も連れてきていたのだった。

「広幸っ! 助かったんだねっ!」

クリエ・リューアの帽子に止まっていたシールゥ・ノウィクが元気よく飛翔した。

「んぇ……シールゥ、クリエさん? ここ、オルタナリア、なの?」

「違うよ、テリメイン! もしかして、広幸も、何がなんだかわかんないうちに来ちゃった、て感じ……?」

彼はまだ、その異界のことを知らない。

「あ、うん、そう……多分、ね……で、テリメイン、て?」

そこで、連れてこられた初老の医師が、口をはさんだ。

「お姉さん達、説明したいんでしょうが、後にしてもらいますわ。とりあえず診てあげなきゃならなンで」

「……はい」

クリエとシールゥは素直に引き下がり、病室の外へ出た。

もちろん、広幸に聞きたいことはいくつもある……そのためには、他に必要なことはさっさと済ませてもらったほうがいいのだ。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

一方、オルタナリアでは……

中央大陸西方の、人があまり住んでいないとある山の中に、周期的に鈍く強い音が響いていた。音源は、一方向に動いているようだ。

谷間を見下ろす木の上にいた鳥たちは、その接近を悟り、揃って飛び立つ。もしも彼らが、後ろを振り向くことを知っていたなら、怯えたかもしれない。

「ハッ、ハッ……!」

翼を持たないはずの人間が、空にいたためである。その脚は鈍色に輝く塊をまとい、上半身とは不釣り合いに膨れている。

いったん落ちては、すぐに鳥たちと同じ高さにまで跳び、また落ちては跳び……尋常ならざる跳躍力によって、彼はこの山を越えようとしていた。

金属と電磁力を操る異能使い、瀬田直樹である。落ちては、跳び、また落ちて、跳び、そして、

「ホッ! ホッ……っと! アレか!」

ほんの数秒間であったが、山の裾野の向こうに彼は水平線を見た。その手前には、灯台らしき塔もかすかに見える。

気力と使命感を漲らせる直樹は、広い斜面を蹴って、直角に跳んだ。

オークロフ港で名もなき警備兵と子供を救い、そのまま首都セントラス・カピタルに立ち寄った彼は、広幸と孝明がそこにいるかどうかを真っ先に確認した。自分がこうして再びオルタナリアに呼ばれたからには、彼らもどこかに来ているはずだと思うのは当然であるし、今やオルタナリアの英雄であるヴァスアに誰も気づかぬなど、そうはないだろうとも考えていた。

果たして二人とも、そこには来ていないらしいとわかった。ここで待っていてもよかったのだが、その間にも沿岸の街や港が渦に襲われるだろう。異能力で救えるものがあるのなら、救いたいと思って、直樹は動いているのだった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

クリエとシールゥには日を改めてもらう、と、診察の後で医師は広幸に言った。

彼としてはすぐにでも話がしたかったのだが―――なにしろ、何がどうなってこんな見知らぬ世界に来てしまったのかまだわからないのだし―――、頭がいまいち回らなくなってきているのもわかる。体力がまだ戻らないのだ。

栄養を与えられた彼は、すぐに目をつむり、睡魔が連れていってくれるのを待つ。

あの通学路での一件から、ずっと夢の中にいるような気もする……もしも夢の中で夢を見るとしたら、それは一体どんなものになるのだろうか?

ヴァスアをやっていた頃は、現実で眠って見る夢がオルタナリアの冒険に置き換えられ、逆に向こうで寝たら現実に戻ってくるということになっていたのだが―――

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ふと気がつけば、広幸はテリメインのベッドを離れ、巨大な女の手のひらの上で胎児のように丸まっていた。

女の顔を見上げてみると、どうしようもなく懐かしさがこみ上げてくる。それは、女が広幸の母親によく似た顔をしていたから、というだけのことではない。

大きな女は広幸を乗せたまま、空を自由に飛んでいた。初めは雲の上から、地表の景色が見える高さにまで降りていく。

そうして見えたのは、天を衝く塔、巨大な城、豊かな大地、混ざり合って共に暮らすいくつもの生命……

こんな夢を、広幸はずっと前にも見たことがあった。


オルタナリアに来る前の広幸は、大人たちに翻弄された子供であった。

七歳の頃、父の浮気で家庭に亀裂が入った。彼は謝るでもなく、母を詰った。間もなく両親は離婚し、広幸とその母は親族のもとを頼ることとなった。入ってまだ間もない小学校からも、去らなくてはならなかった。

実家の中での母の立場も、元々良くはなかったらしい……彼女が自活を再開すべく職を探し続ける中、広幸はいつでもどこか息のつまる生活を続けていた。

幼くして理不尽を知った広幸が、それでもなにかを信じずにいられなかったのは、物語があったからだった……それは、童話の世界であったり、ヒーローの戦いであったり、自分とそんなに変わらない子供が活躍する話であったりした。正義や愛、夢を願い続けていれば、いつかはそれが手に入るのだと、思っていた。

やっと古いアパートに移り住んでしばらく経ち、母が再婚の話をしているのをこっそりと聞いた夜、眠りについた広幸は前触れを見たのだった。


巨大な女は広幸と共に、形あるもの全てをすり抜けて飛行した。

ふたりは、氷の山の狭間で翼を休める白い竜の姿を見た。砂漠の中に建つ巨大な墳墓を見た。火の精霊が住まうという火山を見た。そして、南の海の真ん中に浮かぶ、小さくも美しい島も……

ここは、夢の国だ。彼女はそこを見守る女神なのだ。

彼女は一言も喋ることはなかったが、疑問を抱くこともなく、広幸はすべてを理解した。

初めてこの夢を見た後、目覚めた広幸はすぐに思い出せる限りのことを自由帳に書き留めたものだった。

世界の名前はわからないが、適当に思いついた『オルタナリア』という名で呼ぶことにした。

あの女と見た全てを書き終えてしまっても、今度は広幸自身が想像をして、自由帳の中に『オルタナリア』を広げていく。

そんな行為が、現実のつらさを忘れさせてくれた。

またあの女が夢に出てきて『オルタナリア』に連れていってくれたら……いや、いっそ自分の足で旅することができたなら、どんなにいいかと広幸は思った。


その願いは、しばらく後に叶うこととなった。新たにできた友人、孝明や直樹と共にオルタナリアに呼びだされ、救世主ヴァスアとなるための冒険が始まった。

けれど旅の過程で、オルタナリアは都合のいい場所ではないのだとも、彼は知る。

多くの種族が共に生きる世界では、ときに差別も陰湿なものがあったし、広幸が申し訳なさを感じるほどに、苦しい暮らしを強いられている子供たちもいた。

心の弱さに屈して誤ちを犯してしまう者も、己が不幸を嘆いて死のうとすらする者も、オルタナリアにはいた。そして、そうした人々を取り込み、利用しようとする悪逆の徒も。

不思議の国とて、一つの世界として存在するからには、不条理や理不尽と無縁でいられるわけがないのである。

こんな世界など、壊してしまおう。そして地球すらも焼きつくしてしまおう……そういう、悪い囁きを受けたこともあった。ヴァスアの力があれば、確かに可能なことであるかもしれなかった。

広幸はそういう誘いに乗らず、勇気と強さをオルタナリアから持ち帰ってこれた。

けれど、人の成長などというものは、結局は巡り合わせに左右されるものであるのかもしれない。幸福と不幸が分かたれぬものなら、いっそ両方とも隠滅し、ゼロにしてしまうことこそが、真に救われる道である……そんな思考だって、広幸には生じ得たのだから。


女神の手の中から見るオルタナリアの光景は、今では少し違って見える。

これが単なる夢ではないことはもうわかっている。だからこそ、尊かった。願わくば、いつまでも、この世界が続いてゆけますように……

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

静かな港町で、穏やかに暮らしていたはずの市民が、一目散にどこかへ逃げていく。

彼らの後ろには、ヒトの十倍以上の背丈をもった竜巻が迫ってきていた。船やら家やらを飲み込み、それは進行する。

だが、前を向いているものは、町の外から少年がひとり、飛来するのも見た……

「……来やがったなァー!」

ヴァスア、瀬田直樹!

港の中に着地した彼はすぐに再び跳躍し、竜巻の上をとった。そのままハープーンを背中から抜き、渦の中心目がけて放り投げる。

突き刺されば、閃光が膨れ上がっていく。竜巻はそれにかき消されてなくなった。

「一丁あがりだ!」

吹っ飛んできたハープーンをキャッチしつつ、直樹は地上に降り立つ。

「ヴぁ、ヴァスアだ、ヴァスアが来てくれたぞ!」

「帰ってしまったはずなのに! と、とにかく、これでもう安心だ……!」

称賛の声が、直樹を包む……ただ、今の直樹にはそれよりも欲しいものがあるので、得意げにはならず、市民に質問をした。

「おい、他のヴァスアは来てねえか? ほら、黒い髪のと、緑のヤツ」

「ンン、見てないな。この大陸に来てるなら、騒ぎにならないはずはないだろうけど」

「フゥム……」

直樹は、今日一日ここに留まって、荒らされた港の片づけを手伝うことにした。

人的被害があまりないのは救いだったが、船をいくつも持っていかれてしまっていた。もっともあの渦がある限り、例え船が無事だろうと、そうそう海に出れはしないのだが……

ふと、船乗りの呼ぶ声がした。

「おおい、何か浮いてるぞ! この町のモンじゃない……」

「ン……?」

手を止めて、見に行く。

船乗りたちが、人が入れそうなほど大きな、灰色の球を網で引っ張り上げようとしていた。

長く海中にあったものなのか、固着動物の類がたっぷりとくっついている。その間に、M.Mというイニシャルに相当する文字が刻まれているのが見えた。

上に揚げると、穴がひとつ開いているのもわかった……何かから引きちぎられたようでもある。

「マシン、なのか……? ドクター・アッチのじゃねえよな、だとすると……」

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

広幸はテリメインの病室で目覚め、今感じているものが現実であることを認めた。

ここで心配しすぎずとも、クリエとシールゥが事情を一通り教えてくれるのだろう……彼女らは、このテリメインとやらにより長くいたようだから。

その二人がドアを開けて入ってくる。

「や、広幸、元気かい?」

昨日と同じように、その翅でシールゥは空中に出て、横になった広幸に目線を合わせてくれる。

「あっ、おはよ……」

挨拶をするが、この二人の他にも誰かいるらしい。

お医者さんか看護師さんか、と思ったら、あまりこういう時には会いたくない相手だった。

「久々ッチねえ、ヴァスア君?」

「へっ?」

ドクター・アッチその人であった。

がたいがいい男が、傍についてはいる。この人が暴力を振るうような事態にならなければ良いのだが、と、広幸は内心願っていた。