ゼロ城日記
6~11
<その6>
アイオーナ・リアーナはベッドの中で身を捩っていた。
血流が、心拍が、神経が、無秩序に興奮と抑制を繰り返している。
見えるものに、聞こえるものに、触れるものに、嗅ぐものに、味わうものに、全てに対して乱雑なノイズがかかっているようだ。例えるならば、百人のやんちゃ坊主に楽器をもたせて好き勝手に弾き鳴らさせているような狂騒の中に彼女は巻き込まれてしまっていたのだ。
アイオーナを知能ある生き物たらしめる脳の働きは、この調和の崩壊の中でその役目を放棄してしまっていた。当然考え事などできようはずもない。
竜巻に呑み込まれた小鳥のように、アイオーナはただただ振り回されるしかなかった。ケイは小さなテーブルの上でとぐろを巻き、何もできずに彼女を見守っていた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「えっと、魔王様なんだけど、今―――」
アイオーナの配下たちに話しかけようとしたエッショの太ももをサッコが右肘で小突いた。
「そうそう、今作戦の立案中ってところだ。お前たちも追って報せがあるまでしっかり休んどけ。オイラもそうするからよ」
半ばエッショを押しこくるようにしてサッコは歩き出した。
「姉ちゃん、てめェなー……ホント馬鹿かよオイ」
少し行ったところで、サッコは確かな苛立ちと怒りを込めてささやく。
「みんなアイオーナの姉ちゃんの『魔王領域』でしたがってンだぜ。それがぶっ倒れてんだってわかりゃどうなるか、そンくらい考えねーのかよ」
「ウウン……でも、魔王さまがダウンして、じゃああたしら自由だーっつって逃げちゃうもんですかね。あたしはそんなことしないけど……」
「あんたが良くても他はわかんねーだろうが。まさか聞くわけにもいくまいし」
大樹の上の方を目指して早歩きをはじめるサッコに、エッショが声を投げかけた。
「……サッコくん、休むってったケド、ホントにそうするつもりっすか?」
「まさか」
「魔王様のお仕事の代わりをするんすね。でも、ほとんどずーと働きっぱなしじゃないすか」
その言葉に振り向いたサッコは眉をひそめていた。
「だからなんだ。ちゃんと勇者を追い返してカネふんだくらねーとヒドいところに落っことされるし、最悪アイオーナの姉ちゃんも殺されちまうんだぜ。いい加減マジになれよ、馬鹿が」
「サッコくん!」
大きな声が出た。予想を外れて声帯が強く震え、エッショは一瞬制止しなくてはならなかった。
けれど、数秒何もしなかった程度ではおさまらない勢いが自分の中にあるのに気づく。火山のマグマだまりのように。
「さっきから聞いてれば、馬鹿、馬鹿って。なんでそんな、傷つけるようなことばっかり言うんですか」
サッコ・ベノの目は、軽く見開かれていた。しかし彼も彼で、すぐに反撃をしてくる。
「ンなの……姉ちゃんが足りねーからだよ、色々と! 知恵とか危機感とか、今要るもん全部さ!」
「じゃあ、ほかの魔王様もこんな風にやってるんすか。配下のモンスターがちょっと頭が回らなかったってくらいで、がなりつけたりするんすか」
エッショは怒りきれないとサッコにはみえた。怒るのに慣れていないのかもしれない。アイオーナも同じだから、それはよくわかる。けれど……
「サッコくんは『魔王領域』がなくなったらいつでも誰かが裏切るだろうって思ってるみたいっすけど、それって、こんなののしってばっかりじゃ、当たり前じゃないっすか」
サッコは、何も言えなかった。
「頭冷やしてくださいよ……そりゃ、あたしが馬鹿なのはよくわかってるっすけど、だからってこれから毎度毎度こんなことになるってんじゃ……やってられないって」
さっきまでの熱はなんとやら、すでに口角も眉尻も下がってしまったエッショから、サッコは目を背けた。
それでそのまま何も言わずに歩き去ってしまう。
結局、少しは休もうとサッコは思ったのだが、それは実際エッショが意図したところとはやや異なる。
作戦の立案など、実のところいつも半分以上は自分がやっていることだった。アイオーナが病んでいることさえ隠し通せれば大きな問題にはなるまい。少なくともそのことでイライラしすぎる必要はないはずだ。
なら、ほんのしばらくくらいは。
サッコは大樹の下に座り込み、根も張らずに頭を垂れた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「調子どうだい、姉ちゃん」
大樹の上、アイオーナの部屋に入ってきたサッコはお盆を持っていた。冷たい水の入った水差しとコップ、それと何切れかの果物を乗せた皿がその上にある。
「サッ、コ……」
ベッドの上からアイオーナが火照った顔を向けてくる。これでも、前に見た時よりかは落ち着いたようだった。ケイは相変わらずテーブルの上だ。蛇の身に発熱はきつかったのかもしれない。
「ったく茹でガエルみたいになっちまってからに……飲みな、これ」
コップを直接口元に差し出す。清涼さを感じ取ったアイオーナは貪欲にそれを求め、翼の制御を取り戻し、自ら水のコップを掴み取ってみせる……いささか傾いた姿勢なので、いくらかベッドの上にこぼれてしまうのだが。
「慌てんなよ。欲しけりゃまたついできてやるから」
「ありが、と……」
起き上がろうとしているのを察すれば、サッコはベッドの上にまで乗ってアイオーナの体を優しく支えてやるし、コップの中身を飲み干したとわかれば水差しからつぎたしてやりもする。
少し余裕が出てきたところで、サッコは静かに話を始めた。
「エッショの姉ちゃんと喧嘩しちまったよ、オイラ。うるさかったかい」
「ううん。でも、どうしたの」
「アイオーナの姉ちゃんがぶっ倒れてるってこと、他の用心棒の連中に言おうとしやがってさ、あいつ。そんなことわかっちまったら、逃げちまうかもしれねえだろ……」
「そんなこと……きっと、大丈夫よ。私なんかについてきてくれるのだから、簡単に、裏切ったりする人たちじゃないはずよ」
果物を噛みちぎる音が、静かに部屋に響く。
「エッショの姉ちゃんも、同じこと言ってたよ。オイラ、それでイラついちまったんだ……なんでそう、気軽に大丈夫だって言えるんだよ。名前と、あとは何ができるかくらいしか知らねえ相手だぜ。それとも一人ずつ話したことあるのか。オイラやエッショの姉ちゃんにするみたいに、やってみた試しがあるのかよ」
無論、そんなのはどだい無理な話だ。自分たちはあまりにも忙しすぎるのだから。
「ン……」
果物を飲み下すまで、アイオーナは考えてみた。
「そうね……エッショのはわかんないけど、私のは……願いみたいなもの、かな」
「願い?」
「そう。今の時代は、勇者も私たちモンスターも、心が荒んでいる人が多いわ。誰かを殺したり騙したりするのが一番うまいやり方だって、いろんな人が言ってる。生き物なんて、元々みんなそういうもんなんだって……でも、私はそうじゃないって信じたいの。お互いに優しくして、信じあって生きていくこともできるんだって……そうなれるんだって、思っていたいの」
サッコはアイオーナの、追い詰められたようでも、絞り出したようでもない声に触れた……甘ったれめ、とは言う気になれない。
「五百年前さ、クアンの姉ちゃんといた時はそうだったのか?」
「今よりは、ね。十五週間経ったら世界が滅びちゃうんだって言って、みんな向こう見ずだったけど……それでも今よりは、楽しかった。またいつか、あんなふうになれるかなって。もちろん、滅んだりするのはなしで、さ」
確かに、願いだと、サッコは思った。
その思想の良し悪しはさておき、アイオーナは自分が考えていたほど芯のない人ではなかったのかもしれないと、今なら認められる。勇者と和解する路線でいくのを決めたのだって、元々は彼女なのだ。
「ふうん……ま、思い出話の詳しいトコは、また今度でいいさ。そろそろ行くよ」
お盆に空になった食器を乗せ直し、サッコはベッドを降りて歩き出した。
「勇者が来たらすぐに知らせるから、それまでは寝てろ。場合によっちゃ戦いの指揮もオイラがやってやる」
「ありがとう……でも、きっと大丈夫よ、サッコ。すごく熱っぽくて苦しいけど、力が湧いてくるような感じもするの。わたしがわたしに大丈夫って言うのは、信じられない?」
「ンなこたァねーが……休んでろよ、ちゃんと?」
サッコは静かにドアを開け閉めして、出ていった。
そして数十分後、彼らはいつも通りに戻った勇者の群れを迎え撃ちにいくのだった。
<その7>
事態は大きく動き始めているといえた。
レガリアが覚醒したという報せを受け、サッコはアイオーナの変調がなんとなく理解できたような気がした。恐らくは魔王全員が、多かれ少なかれ、慌ただしくなっていることだろう。
ただ、あのいけすかない天球使たちも、まだ本気でかかってきてはいないのかもしれなかった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
サッコ・ベノは相変わらず慌ただしく大樹の外と中とを駆け巡り、戦いの準備をしていた。
アイオーナには今回のインターバルまでは昼寝していてもらうことになっていた。まだ倒れるほど疲れてはいないし、慣れてきたエッショがサブリーダーを買って出てくれたので負担は減っている。
もちろんここで力を使い尽くすつもりもない。故郷アル=ゼヴィンに帰る術を探しに行きたいが、そこら中に暴力の嵐が吹き荒れ、二時間おきに戦いをさせられる今の状況ではとてもではないが無理なことだった。誰かが『ゼロのレガリア』を手に入れて魔王の復権を果たせば、少なくとも安全は確保されるだろうとサッコは思ったのだ。
アルラウネたちが芳香を孕んだつぼみをスタンバイし、サキュバスたちが化粧直しを済ませ、その他備品類も正しい位置に戻されたところでサッコは大樹の枝に腰掛けた。
「ン、ウゥ……」
両腕を掲げて、伸びをする。それから腰につけた水筒の中身をコップに出す。大樹から染み出した雫を蓄えたものだ。爽やかな味がするし、栄養が溜まっているらしく飲めば元気も出てくる。
下から来る光も今日はいつもより暖かく思えた。考えてみれば、地面の下に太陽があるようなものなのに、なんでこの樹は普通に天に向かって伸びているのだろう。
まさかとは思うが、『ゼロのレガリア』の光を浴びてみたい、なんてことは?
「……だとしたら、住ませる相手を間違えてンな、コイツ」
声に出てしまった。サッコは戸惑いがちにあたりを見回したけれど、ちょっとした虫けらがいる程度だった。
戦いの準備が終わってから迫りくる勇者の姿が見えてくるまでの僅かな時間は、一人で過ごすにはあまりにも静かすぎた。遊び相手になるはずのケイも今はアイオーナのベッドの上でとぐろを巻き、万が一何者かが危害を加えにきたならすぐ迎撃できるよう備えている……
ケイの深い青の鱗が頭に浮かぶと、それはまた別な相手の像に変わっていく。
「元気かねえ、クアンの姉ちゃんと、トトテティアの姉ちゃん……ッとそうだ、オイラあいつに金貸してンだ。とんでもねー量バカ食いしてうっかり足りなくなったつって……こっちに来てる間に忘れられてちゃたまんねェ。あ、でも……」
クアン・マイサがこの世界で魔王をやったのは五百年前のことだが、サッコの知るその後のクアンは数歳ほどしか年をとっていない。要は時間の流れが違うのだろう……けれど他にも、同じ世界の五百年後をめがけて送り込まれたとも考えられる。
何しろ、まったくもって未知の力でこのダンジョンの中に来てしまった。何があってもおかしくはないのだ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
その日、サッコは灰色の肋骨のようなもので形作られたトンネルの中を歩いていた。
目の前を、角の生えた赤黒い肌の大男がランタンを掲げて歩いている。後ろには錫杖を手にし、肩に耳の垂れたウサギを乗せた亀の獣人が続いている。
《第三十の島》は奇っ怪な島で、巨大な生き物が中に埋め込まれていた。はるか昔、まだアル=ゼヴィンに生きていた人類が移り住んだ時にはもう既にそうなっていたという―――あるいは島そのものが一個の生き物であったとも言える。なにしろその巨大生物は島中に血管を張り巡らせていて、その周りに植物が根を張り、養分を分け合っていたらしかったのだ。
ただ、化石となって残った骨から全体を想像してみると、サッコの知るどんな生き物にも似ていない。もちろんこの島もまた天から地上へと堕ちたものなのだから、その衝撃で形が崩れてしまった可能性はある。けれどそれにしたって、巨大さと比較して針のように細い接合部だとか、板のような形に丸い穴が列をなして開いている骨だったり、どう見ても歯車の類にしか見えないような部位があったりするのは不思議なものだった。
長い年月と戦火の中で巨大生物の命が尽きた後、どこかに紛れ込んでいたカビたちがその身体を食い荒らして増殖を始めたらしい。巨大生物の肉体が消費されるにつれてカビの勢いも失われたが、島中に広がったコロニーは今でも残っている。そのおかげで、サッコはこの島を探索しようという二人の冒険者に雇われたのだ。
真菌類の『声』を聞き取れるというサッコは、カビの道筋を追って島の奥深くに続く道を見つけ出した。
お目当ては、巨大生物の心臓部があった場所。魔力が大きく集中していたであろうポイントだ。きっと、何かがある。
「分かれ道だ」
前を歩いていた大男が立ち止まる。
「サッコ、次はどうする?」
問われたサッコは前に出て、前方に続く三つの道を見た。
口元に指を当て、少し静かにするよう促す。程なくして答えは出た。
「……もうちょい下ればでけえ部屋があると見た。真ん中の坂、下りっぞ」
大男は、聞いた途端にサッコを追い越して歩き出す。
ふと、重々しい足音とは別に、何かが鼓動する音が聞こえてくるようだった。
果たしてその先には空洞が広がっていた、ようだった。
ランタン一つではあたりの様子はどうにもわからないが、ずっと遠くの方にか細い光のようなものが見える気がする。大男は後ろを向いた。
「ウム、あっしの出番ですな。《ライト・アップ》!」
亀の獣人が錫杖を掲げながら、呪文を叫ぶ。念を受けた錫杖の先端にウサギが飛び乗り、まるごと白く染まったかと思うと、たちまち新星のごとく光り輝いて闇のなかに隠されていたものを暴いた―――この空洞は中心が大きくくぼんでおり、サッコたちはその縁にいた。くぼみの中はどこもかしこもでこぼこで、なにか大きな管のようなものが埋まっていたようにも見える。
先ほどの光はくぼみの中心にあるようだった。
「調べてみなくてはな」
大男は大股で歩き出し、サッコらもそれに続く。
「ねえ、なんだか音がしませんかね。こう、リズミカルな感じの、何か……」
「やっぱそうか?」
サッコと亀の獣人はトップ・ダウン的注意の力を引き出し、大男の体重と強化ブーツがたてる音をなんとか無視してみようと努めた。
もう存在しないはずの巨大生物の心臓が脈打っているかのようにそれは聞こえてきた。しかも、あの光に近づくにつれて大きくなってくる。
あそこには一体、何があるというのか?
考えている間に、三人は光の漏れ出す処に着いた。ひび割れた地面から淡い緑の光が覗いている。
うかつに上に乗ると崩してしまいそうで、やや遠巻きに見ざるを得ない。
「この下がどうなっているかはわからんか、サッコ?」
「……駄目だ。カビ生えてねえわ」
「フゥム……」
割れた顎に手を当ててしばらく考えてみた大男は、亀の獣人の方に声をかけた。
「離れたところからあのヒビ割れを砕けるような手段は?」
「あっしの魔法で岩を切り出して、あなたが放り投げるってのはどうでしょ」
「やってみよう」
二人がさっそく作業を進める間、サッコはすることがなくてただ眺めていた。
けれど、今から思い返すと、後悔せずにはいられないのだ―――笠の裏に生えた共生カビのいくらかが不自然に引っ張られていることに、気づけていたならと。
掛け声とともに投げ飛ばされた大岩は見事にひび割れを砕き、その下にあったものを解放した。
光の噴水が、吹き上がった……暗闇に慣れた眼にはあまりにも眩しすぎ、三人はしばし動きを止めた―――その間に、亀の獣人の錫杖にしがみついていたウサギが穴の方をめがけて跳び出した。
「ちょっ!?」
手を伸ばすも届かない。代わりに前方にいた大男がウサギを捕まえたが、手の中で哀れにもバタバタともがき続けている。何かに引き寄せられているかのように。
「ウム、これは距離を置くべきかもしれん―――」
冷静に判断した時にはもう遅かった。ビシッ、ガンガラガラガラッ! もろくなった地面がさらに崩落し、光の出入り口を広げてしまう。それに比例するかのように引力は強まり、ウサギの次に軽いサッコの身体が宙に浮いた。
「うわぁあァ!?」
「サッコゥ!」
大男は空いている方の手でサッコも掴んだ。
「うぁあ! も、もげる……ッ!!」
「諦めるな!」
ガラ、ガラガラッ! 強まった引力は地面をへし折って崩し、そうするとまた引力が強まって、さらに穴が広がるのだ。
もはや誰にも止めることはできない。ウサギとサッコの身体が引きちぎられる前に、大男が踏ん張り損なって転倒した。
「アァーッ!!」
凄まじい加速度の中で、サッコの視界が白く染まっていく。
ガキのまま死んでしまうのか、とか、そういうことを考える余地はあるわけがなかった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
過去を顧みるのをやめた途端、ボトム・アップ的注意が大樹の下に迫ってくるものを受け取った。勇者の接近だった……もう少し遅れていたら、困ったことになるところだった。
「やれやれ……ま、今は目の前のことを精一杯やるっきゃねえ、か」
水筒の中身をもう一杯飲んでからサッコは枝を降り、アイオーナを起こしに行った。
<その8>
アイオーナがあまり喋らなくなった。
声をかければ反応はするのだが、少し前までは戦いの合間に気を紛らすような話をしていたし、そこにケイが乱入してきて遊んであげたりしたこともあった。それが全部ないのだ。
何が変わったのか、サッコにはわかっていた。レガリアの覚醒が進んだことで魔王の感覚が拡大したらしい。空間も、時間すらも支配しようとばかりに意識が広がっていくようだった。それがアイオーナを戸惑わせていたのだ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「よお、元気か」
冷たくしたお茶二杯をお盆に載せて、サッコはアイオーナの部屋に入った。
「サッコ……ありがとう。そうよね、しっかり、しなくちゃ……ね」
「ああ。優しい世の中にするんだろ?」
「うん……」
言いつつも、アイオーナの目はどこかうつろで、覇気に欠ける。
「ヨソの魔王は、未来が見えるっつってた。この戦いももうすぐ終わるかもしれねえって。姉ちゃんはどうなんだ?」
自分の分のお茶を手に、サッコはアイオーナのベッドに遠慮なく腰掛ける。笠のせいで、寄り添うのはちょっとむずかしい。
お茶を口にし、一息ついてからアイオーナは話を続ける。
「悪いことばかり考えてしまうわ。魔王が復権すれば暴力がなくなるのかわからない。暴力がなくなっても、違う形でひとは争うかもしれない」
と、アイオーナはうつむいてしまう。病に侵され、しなびていく草のようにも見えた。
「……えっとさ」
さっさとお茶を飲み終えてしまったサッコは、コップを手放して股に挟む。
「結果はとりあえず置いといてさ、姉ちゃんはどうしたいんだ? 姉ちゃんは何になれりゃ……何ができりゃ幸せなんだ?」
リヴァリエとかいう天球使がしたのと、同じ問いだった……しばらく、アイオーナは自分の頭の中を遡ってみた。
何が、幸せか。何をして、喜ぶか。
「幸せって、あんまりちゃんと、考えたことないや」
脳が返してきたのは、これといったものがない、ということだけだった。アイオーナは寂しさを覚えた。
ただ、事実だけは語ることができる。
「私ね、お父さんもお母さんも生まれてすぐにいなくなっちゃって、施設で育てられたの。将来、魔王の部下になれるようなモンスターを育てるためのところ。魔王のためによく働いて、お金をたくさん稼げるモンスターに育てようって、先生たちはみんな頑張ってた。私たちも、そうすればきっと幸せになれるんだって思ってた。だけど実際にクアンに雇われて、勇者と向き合ってみたら、そうじゃなかった。怖さと疲れで、自分がどんどん削れていってしまうような気がしたわ。私、本当は争うことなんてできないって思った」
放り投げられたものをサッコは受け止めて、考えてみる。
「だったら、姉ちゃんはなんで戦ってたンだ? 逃げるチャンスとかなかったか?」
投げ返した言葉を、アイオーナもまたキャッチする。
一人では思いつけそうにないことを、サッコが共に考えてくれているのがわかる、けれど。
「クアンのために尽くしていたから、かもね。あの人は……本当に寂しそうで、どうにかして支えてあげたいって思ったの……それが幸せっていうのなら、そうなのかもしれない。だけどクアンはもうここにはいないし、戻ってもこないわ」
あの五百年前の商戦の日々は、きっともう痕跡さえも残っていない。ただ、アイオーナが覚えているだけだ。
「結局、自分で自分を幸せにしてあげなきゃ、駄目なのよ。私は、それができなかったってだけ……」
残酷で、しかし当たり前の結論を吐き出して、アイオーナはまたサッコから目をそらしてうつむく。
またしばらく、沈黙があった……サッコは考えて、思い出して、再び口を開いた。
「……そりゃまあ、確かにそうだけどさ。ただ、それを駄目だってハッキリ言っちまうと、世の中の連中の半分くらいは駄目な奴ってことになるだろうな……」
アイオーナは、軽く目を見開いた……これがまず、彼女にとっては予想外の返答だったのだ。
「て、オイラが世話になったヒトが言ってたよ」
サッコは深刻さが消えた、けれど軽薄でもない顔で答えてきた。
「姉ちゃんさ、いっそのことアル=ゼヴィンに来りゃあどうだ? そうすりゃクアンの姉ちゃんにだってまた会えるじゃんか。レガリアが覚醒して戦いが終わったら、そのまま魔王なんか辞めちまって、オイラと帰り道を探しに行こうよ」
アイオーナはまた驚き……それから、不思議な高揚感に満たされた。
このダンジョンで産まれた自分が、異世界アル=ゼヴィンの住人になる。思いつかなかったわけではないけれど、心のどこかでそれはできないと決めつけていたことだった。特に具体的な理由もなく。
「いいの……?」
「いいも何も、アル=ゼヴィンは魔族の世界だぜ。姉ちゃんみたいなヤツだっていくらでもいる。馴染めるだろうさ」
そうしてサッコは微笑んでいたのだけど、すぐにいたずらっぽい感じに変わっていく。
「クアンの姉ちゃんももうお偉いさんじゃねえから、またあの人の下で働くってのは無理かもしんねえケド。それに、トトテティアの姉ちゃんとももういっしょに寝るくらいには仲良くなっちまってっからなー……へっへへ、ま、そっから先の苦労は知らねえよ」
ずいぶんと勝手なことを言うものだ、とアイオーナは思った。クアンに好意を抱いているのは事実だが、彼女にはそれ以前から大事な人がいたのだということもちゃんと知っている。
それでも、顔に出して怒りはしなかった。先のことを考えさせてくれるのが、今はただありがたかったから。
「っと、もうこんな時間か、そろそろ勇者来ちまうぞ。行けるよな?」
「うん」
サッコは飛び跳ねるようにベッドから降りると、お盆にコップを乗せてさっさと部屋を出ていった。アイオーナも続いた。
大樹の枝の上から、豆粒のような勇者たちが蠢くのを見下ろすことができた。
その後は、いつも通りの戦いだった。
サービス尽くしでひたすら和解を目指す。アイオーナが望み、サッコが仕組んだとおりに城は稼働した。
笑顔で帰っていく勇者とすれ違うようにして何かが入り込んだことに、すぐに気付けた者はいなかった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
あたりが静けさを取り戻していく。
最後の勇者が去ったところでアイオーナは大樹の枝に腰掛け、短い安全の時間が戻ってくるのを感じ取っていた。戦いのエネルギーを吸い込み熱気と怒号とをまとった風が安らいで、また二時間後にある戦いまで休息をとる。
ケイもアイオーナの膝の上でとぐろを巻いて、うとうとしていた。
アイオーナには、だいぶ元気が戻ってきた。
レガリアの力が見せるのとは異なる未来が、今ならわかる。かつての主―――クアン・マイサに再び会いに行くこと。そんな未来を選ぶことが、許されている……いや、『許される』までもなく、選ぶことが『できる』のだ。
アイオーナ・リアーナは幸せへと踏み出せる。サッコ・ベノが、示してくれた。
だから、戦いが終わる日が来るまでは、優しい世界への願いを迷うことなく追いかけていよう。魔王を辞めた後、アル=ゼヴィンの地で、一人の魔族として生きていけるように。
尊敬するクアンの前で、自分自身を誇れるように。
「ま、魔王様……!」
声がする。エッショの声だ。
「エッショ……!?」
ふらふらと飛び上がってきた彼女は、ひどく傷つけられていた。全身のあちこちから血を流している。
「こっちへ! 今、手当てするわ!」
そのついでに事情を聞ければよかったが、エッショは思うよりも焦っていたようだった。
「あ、あたしは大丈夫……そ、それより……お、落ち着いて、聞いて下さい、っす!」
あなたこそ落ち着いて、と言う暇はなかった。
「サッコ君が……サッコ君が、さらわれちゃった、っす……! ごめんっ……あ、あたし、どうにも、で、できなくて……っ……」
エッショの目から涙が溢れ、顔についた血を巻き込みながら垂れていく。
アイオーナは、声が出なかった。
<その9>
厭な臭いがしてきた。物が焼けている臭いらしい。
そもそも、何かが焼けるというのがあまり好きではない。例えばパンを焦がしたりした日なんか思わず渋い顔になってしまうし、たっぷり脂ののった魚を炭火で炙った時の匂いもプラスマイナスでほぼゼロといったところだ。
ましてや、村が焼ける臭いなど―――
―――しない。
こんな平穏な世界のどこで村など焼けているというのだ。厭な臭いなんてしない。
大丈夫だ。ずっとねむっていればいい。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
その男はひどく咳き込んでいた。
慣れ親しんだベッドから転がり落ちて―――というより、床ごと崩壊したのだ―――なんとか家が潰れる前に這い出てこれた。けれどとっさに掴み取った枕元の薬瓶は取り落としてしまい、周囲で輪になって踊り狂う猛火の中に消えた。
呼吸器はもはや仕事をしなくなりつつある。もともと病で弱っていたのだ。炎の中では長くはもつまい。
後はもう、流れ行く走馬灯に身を任すだけだ。
本当にろくでもない人生だった。特に人より優れた才能があるわけでもなく、汗水垂らして働くだけが全てだった彼は、しかし若くして肺病に冒されると途端に厄介者扱いされはじめた。薬だって、そう多くはない貯金を削って買っていたものだ。
どうせ、近いうちに逝っちまうはずだったんだ……そう思って、彼は自分を慰めようとする。
だけど……ところで、人間は死んだら終わりなんだろうか。
あるいは、ゴーストという種のモンスターが居るが、あれに人の霊魂も含まれるのだとして……自分はこれからゴーストになって、どこぞの魔王に雇われるのだろうか。
だからって特に希望は感じない。魔王の下で生きることだってろくでもないはずなのだ。なにせ、こんな風に村を焼くような連中なのだから。
どうなるにしろ、せめて次に目が覚めた時には自分が自分でなくなっていてほしい、と彼は願う。
名前も外見も性格も記憶も、何もかも跡形もなく差し替えられてしまって、かつてはうだつが上がらない一人の男だったことなど天地がひっくり返っても思い出せぬようになってしまえばいいのに。
そうすれば少なくとも、今の苦しみからは永遠に逃げられるのに……
ふと、そこへ、流動する虹色の膜が漂ってきた。
男の切なる願いを叶えに。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
アイオーナ・リアーナは赫々たる村々を見下ろしながら飛行していた。
できれば見たくはなかった光景だった。それでも見つめなくてはならぬのは、サッコ・ベノがあのどこかにいるのかもしれないと思ってしまうからだ。
「魔王さまぁーッ!」
コウモリのような翼を広げたエッショ・ベーベが後方から現れた。そのほとんど裸に近い身体のあちこちに、包帯を乱暴に巻きつけてある。
「戻って下さい! 気持ちはわかりまっすが、ここはもう危険っす!」
「駄目よ!」
アイオーナは振り向きもしない。飛ぶ者同士の会話など、元からそういうものではあるが。
「魔王さまになんかあっちゃ、サッコくん戻ってきたって意味ないっすよ!?」
「それでも! それでも、あの子がいなくなっちゃいけないのよ!!」
「いなくなっちゃいけないのは魔王さまのほうっす!」
エッショは危うく、アイオーナに掴みかかるところだった……そんなことをした日には二人仲良く大炎上の中に真っ逆さまだ。
「魔王さまは、助け合える世界がいいって言うっすよね!? サッコくんが教えてくれたっすよ! それ、一緒に叶えたいんすよ……!」
顔が近づき、エッショの瞳が潤んでいるのが確かにわかった。けれど、
「……あの子がいなきゃ!」
勢いのなせる業か、アイオーナは咄嗟に言葉を紡ぎ出してしまう。
「アル=ゼヴィンに行けないのッ! …… ッ……」
眼の前で、エッショの目に溜まった涙がすみやかに流れ落ちていくようだった。
「……魔王、さま?」
しまった、とアイオーナは思った……願う先と、あるべき姿に、矛盾がある。
どうしてあの時、サッコに向けてそれを言えなかったのだろう。自分に言い聞かせられなかったのだろう。
「このダンジョンから暴力がなくなって、安心して生きてけるようになったら、話すつもりでいたの。みんなの新しい働き先だって見つけてからにする。私は最後に自由になるわ」
そこまで言うのが精一杯だった。
エッショはただ、どこかすがるような目で見つめてくるばかりだ。
そのせいなのか、アイオーナは炎の中から飛び出してくる虹色の膜に気づくことができなかった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
エッショ・ベーベは深い悪意や痛みを知らなかった人だった。五百年前……あるいはもっとこの地がおおらかだった時代からタイムスリップしてきたんじゃないか、と言われるほどに。
あるいは実際、そうだったのかもしれない。
彼女はまさにその、なぜだか忘れかけていた故郷のど真ん中に立っていた。
巨大ダンジョンの片隅の村落。水脈のおかげで作物を十分に育てることができ、生活は比較的安定している。仕事はいくらでもあるが、今ほど
エッショは、太りすぎとしてしまうと言い過ぎだが、まあまあふくよかなボディ・ラインを持っていた。母親じみているとさえ形容できる肉体と、先を急ぎすぎない人柄は、それだけで男を甘やかして、ノスタルジアの混じった精気を提供させる。ぽろぽろ見せる不注意も、誰も気に留めなければむしろ親しみを強める要素になる。
が、それは勇者との戦いにおいてはむしろ劣った特性といえた―――どんな手を使ってでも相手を骨抜きにして、より多く金を奪い取った者が優秀なのだ。エッショ・べーべという人が仕立て上げられたのは、この牧歌的な世界が粘り強く続いたためだ。
懐かしい、誰かに会いに行ってみたい。普通はそう思うだろうし、エッショも同じだったのだが、行動に移す前に場面が切り替わった。
冷たい夜。柱にかけられたランプから溢れる魔導の光で映る噴水の姿は、霧でぼんやりとしている。
その傍らに、『いつかのエッショ』は男がひとり座っているのを見つけて、自分も腰掛けた。相手は知り合いだった。
肌が湿るばかりで温もりは感じない、そんな距離に二人はあった。
「……母さん、駄目だったよ」
ふと、男はぽつりとつぶやいた。
「僕もだ。もう一年修行してこないと、駄目だろうって」
彼の手には、『マーケット期限切れ』と記された紙があった。
ずっと自分を売りに出し、誰にも買われることなく、親の危篤の報せを受け、彼は帰ってきた。
「……ジョシュは、頑張ったっすよ。お母様もきっとわかってたはず……」
「でも駄目だった」
叩き返すような声だった。
「頑張った、って。これ以上はなかったって。もう話もできない母さんのことを勝手に想像して……それで自分を慰めて済むなんて、思えないんだよ」
そんなの、と言葉を続けることはできたかもしれなかった。けど、エッショはもう何も言えない。
「ごめん、エッショ」
顔を見せてくれないまま、ジョシュという男は立ち上がる。
「だけど、もう一生、自分で背負ってくしかないんだよ」
この翌朝にはジョシュはもうどこかに去ってしまっていたはずだ。エッショもこの後程なくして、魔王に仕えるべく村を出ている。
だけどジョシュは一体どうなったんだろう。今も自分を愛せないまま、どこかで生き続けているんだろうか?
―――また、場面が変わった。
凍りついた人形のようなものがエッショの前に横たわっている。
見えない手が担ぎ上げて、なにか入れ物の中に放り込もうとしている。
よく見えない。覗き込む。
「……ヒッ!?」
エッショには、わかってしまった。
喉が固まり、肺が震え上がり、体温が消えていく……そうさせるほどの、ものが、見えた。
入れ物は粗末な棺だ。そして入れられようとしているのはやつれ果てたジョシュだった。
「答えさ」
見てしまったものを消せなくて、動けぬままのエッショにどこからか声が聞こえてきた。
「お前さんが心配していたものの答えだよ」
どこからの声だ。エッショはさすがに友の亡骸から目をそらし、あちらこちらを向いてみる。
が、声の主は顔を見せぬまま言葉を続けてみせた。
「そいつは誰がどう見ても無能な魔王に身売りしてね、クスリに頼ってまで働き続けるはめになったのさ。ああ、ひどいねえ?」
「そいつみたいな人はみんな同じ目にあうのさ。お前さんだってそうだよ?」
声が一人のものでないかのように重なり合っていく。
「ち、ちがう、っす。わたしは、わた、しは……」
「ああ、この人に頼るってかい?」
声とともに、何かのシルエットが現れる。
ハーピィだ。桃色の髪に、赤い羽毛……
「ごめんね、エッショ。やっぱり、みんなが優しくしあうなんてありえないと思うの。だから居心地のいいアル=ゼヴィンに行くわ」
嘘だ。こんなのは見せかけの偽物だ。
「嘘じゃないとも」
じゃあ、さっきからあたりが虹色に染まっているのは何だ。
「虹は幸せの色なんだよ。どんなものでも入ってくることを許してくれる……それから真っ白にして、なーんにもわからなくしちゃうんだからねえ」
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
世界を焦土に変えていく炎が大樹に燃え移った。
用心棒たちは早々に逃げ出したが、ケイだけはアイオーナの帰りを待っている。
もう、ここにはケイしかいなかった。
<その10>
虹色の膜の中で浮かんでいる。
体を丸め、ひざをたたんで、両手で半ば顔を隠すようにして。
母親の腹の中で育つ生き物は、こうしているんだろうか。
―――まあ、自分は違うけど。
途端に膜は大きく蠕動を始め、体を外へと押し出した。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
タオルの上に投げ出された。
それも、誰かに抱えられているらしい。すぐに体を包まれ、拭われる。
「大丈夫か?」
見上げる。声の主は虫の頭を持っていた。
どうだったかと問われると……自分の体は粘液のようなものに覆われてしまっているようだが、気持ちが悪い感じはしない。何があったのかと思うと、大きな生き物の顔が目に入る。どっしりとした体つきのカエルだった。それも自分の、そしてこの虫の男よりも巨大な。自分はあれの胃袋の中にいたらしい。
「まったく器用なもんだよ。こいつは腹の中で溶かすものと溶かさんものを選べるようになったんだ。使い魔ってのはどう育つかわからないものだ」
使い魔、である。この巨大なカエルは虫の男に飼われているのだ……否、飼うなんて程度のものではなく、パートナーとして扱われている。使い魔というのは、それほどのものなのだ……自分たちにとっては。
「けど僕としちゃあ、たまに呑み込んでもらうと気持ちがい……いや、これはあんまり世間には言いふらしてほしくはないかな。割と変わった趣味ってやつだしね。まあ、君がよければ、またやってもらってもいいさ」
男は親しげに語りかけ、優しく体を拭いてくれる。
―――恥ずかしいものだ。自分だっていつまでも子供じゃない。
ここはちょうど湖のほとりらしいから、男の腕から抜け出して飛び込んでみる。
水を体中にまといながら、ゴシゴシと粘液を取っ払う。
脚から腰、腕、胸、それから笠の裏なんかは特に念入りに。
「元気がいいな。でもそろそろ日も暮れるし、今日はここいらにテントを張ろうか」
頭から少し離れて水が滴るから、自分の周りにだけ雨が降っているようだ。その向こうで虫の男がキャンプの支度をしている。
生えていた木の近くに、紫色の寝袋が敷かれる。これはちょっと変わった構造になっている。地面に敷く部分の目が部分的に粗くなっていて、冷たい空気から身を守りつつも、土に根を張ることを許してもくれるのだ。
巨大ガエルも口を開ける。こっちがよかったのなら、どうぞこちらへ。今日はごちそうは我慢しておこう。君のためなら。
この人は、親などはじめからいないものであるはずの自分にとって、親の代わりでいてくれた人だ。
ここはどうしようもなく懐かしい。願わくば、ずっとここにいたい。
―――だけど。
「なあ、おっちゃん」
「うん?」
「悪いけど、オイラ、行かなきゃ」
サッコ・ベノは紫色の瞳に光を灯し、育ての親に告げた。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
火の粉が踊り、煙がもうもうとあがる中で、なおもケイは動かなかった。
翼はあるのだから逃げようと思えば逃げられるはずだ。だけど悪い空気を吸いすぎて、力が入らない。
もう、動けそうになかった。
メキ……メキッ。いよいよ、大樹が傾き出した。
が、そこに、炎の向こうからやってくるものがあった。
力強い羽ばたきの音がする。まるで、ここに来ることを自明としているかのように。
アイオーナ・リアーナが上空から現れ、ケイの巻き付いていた枝に降り立った。
「生きてたわね、ケイ。よかったわ。怖かったでしょう」
翼が伸びてくる。温かい羽毛。感触は変わらない……変わらないはずなのに、なぜだか、よそよそしい。
「さあ、行きましょう。もっともっといいところに。私たちの夢を叶えるために」
アイオーナはケイを手に取り、首にかける。
抵抗は、なかった。
そのまま、彼女は大きく羽ばたき、飛んでいった。どこかずっと遠い場所へ。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
それ以上の情を押し付けられる前に、サッコは得物の鞭、オーディアス・ルーツを取り出した。
「あぁ、わかるよ。また夢だろ。同じ手を二度も食らってたまるかっての」
一度はやられていたことのはずであるのに、さっきまでほとんど気づけずにいた。
それが、サッコには恐ろしかったのだ。
三度目はない。ならばここで徹底的にぶち壊し、この裏にあるものを暴き立て、無力にするしか。
「君は勘違いをしてるんだよ、サッ―――」
ヒュバッ! 虫の男の頭を、紫の筋がしたたかに打ってはね飛ばす。枝分かれした鞭は、同時に伸ばされかけた巨大ガエルの舌にも打撃を加えてみせた。
命中した点から麻痺毒が注ぎ込まれ、相手は動けなくなる。
直近の危機は去った。次は……
「確かにこれは夢だとも」
どこからか、サッコを目がけて声が投げかけられた。
尖った耳を澄ます。左からか、右からか、上からか……周囲の真菌類も動き出す。相手がどこかに隠れているというのなら引きずり出してみせる。
「けれど、夢にすがらない理由があるかい?」
どこからでもない。だがどこからでも聞こえる。サッコの神経系はそうとしか判断できなかった。
自分は超常的存在を敵に回そうとしているらしい……だが、夢なのだから、そのくらいはある意味当然だ。そう自分に言い聞かせ、サッコは反論をする。
「このおっちゃん……メーク・マークにはな、オイラがちゃあんとカッコイー大人になって、会いに行くって決めたんだよ。こんなんで満足できッかよ!」
「だが、お前さんが大人になった時、この人はもういないのではないかな?」
その言葉に、サッコの情動は急ブレーキをかけ、同時にカビやキノコたちも停止する。
「現実とは、夢よりも不確かなものだよ。大抵の願いは叶わない。叶っても願ったそのままの形じゃない」
湖が、空が、地面が、どんどん虹色に染まっていく。輪郭さえもぼんやりとしてしまうようだった。
「ほら、恐ろしいかい? 恐ろしさを前に、自分の心を殺してみるかい。それだって嫌だろう?」
木の枝を一つずつ刈り取っていくように、思考が単純にされていく。目前にあるものに、最大の報酬が与えられようとしている。
「さあ来なさい。おれは、お前さんを、救いたいんだよ」
虹色の手が、甘い光を伴って、延べられた。
だけど、その手は取らない。
気に入らぬことにむやみやたらに反抗するのが大人ではない。
だが、何も変えられない大人になど……現実を正しく認識することすらできない者に成るなど、サッコ・ベノの望むところではない。
だから―――『ここにいてはならなかった』。
「それでも、なンだッ!」
オーディアス・ルーツを振るい、虹の手を弾き飛ばす。
相手の顔はどこにも見えないが、その手の動きにサッコは驚愕をみた。
だが、ここで止めてやりなどしない。
「てめェなンざに、甘えてたまッかよォ!」
樹木をなぎ倒し、枯らしていく。
「オイラを、舐めンなァ!!」
湖の水面を打ち、毒々しい色に染め上げる。
「ッの、クソッタレがァ!!!」
大地を菌糸で埋め尽くし、空さえも穿つかのように菌体を伸ばす。
「ッあああああ―――ァッ!!」
ありったけの意地と暴力性を込めて、最後の一撃を放つ。
この世界そのものを、自分の毒で犯し、腐らせていくように。
だが、オーディアス・ルーツが何を引き裂いたのか理解した時、サッコの瞳は縮こまった。
むっちりとした体の女。コウモリの翼。
それらが斜めに割れて、ずれて、泡立ちはじめる。
虚ろな目をした、エッショ・ベーベと思しきものがそこにいた。
重油のような涙を絶え間なく流し、肌を鈍く虹色に光らせながら。
「……は?」
直後、サッコの視界は暗転した。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
激しい戦いがあった。
炎に焼かれた大地の中で、なおも篝火たちが駆け巡り、火花を散らしているようだった。
皆、死にものぐるいだったのだろう。多かれ少なかれ。
その末に、ともかく篝火は去った。炎は消えた。
魔王たちの物語が、新しい局面に移っていく。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
気づけば、サッコは燃え尽きた村の中に横たわっていた。
『ゼロのレガリア』がどうなったのか。
魔王という存在は、今どんな意味を持っているのか。
そんなことは、サッコにはどうでもよかった。
「姉、ちゃん……」
ずっと眠っていたはずなのに、体は疲れ切っている。それでも。
「絶対、帰るから。生きてろよ」
サッコ・ベノは立ち上がり、歩き出す。
あてもなく、しかし世話を焼いたたった一人の相手を探して。
<その11>
薄っすらと開いた目に、懐中時計の盤面が映る。傷だらけで読みにくいが、夜明けの時だということくらいはわかる。
石壁にもたれかかって眠っていた旅人が、布団代わりにしていたマントをそのまままとって立ち上がると、地の底からあふれてきた光が彼の目を軽く焼く。
ここにはもう、壁しか残っていなかった。
宝を求めて競いあう魔王どもが大暴れしたせいで、あらゆる村は焼きはらわれた。流れ者だった自分は守るものも失うものもないので遠慮なく逃げ回り、なんとか生き延びて、だが焦土となった大地を見せつけられた。
死のうとは思えぬから生き続け、立ち止まる気にもなれぬから旅を続けていた。けどそれもいつまで続けられよう。虫や野草を食らってもちこたえるのも限度がある。
たまに兎などを見つけ、にわかにやれ嬉しやと思えども、よくよく見れば痩せこけて死にかけていたりする。なのに、まだ生きている。光が消えつつある眼で、捕食者が来ることを理解し、最後の力で逃げようとする―――その時、旅人は迷うことなくナイフを振りおろし、兎の生命を断った。兎はもう動かない。もう苦しまない。
旅人は兎を喰らった。ナイフを自分に向ける根性がないことを呪いながら。いや、そんなこと、思っただろうか。意識のテーブルに一番よく表れていたのは、ほんの少しでも飢えが遠ざかっていく感覚だろう。マクロの視点で希望がなくとも、ミクロの喜びに酔ってしまう。それは生き物の性で、何も特別なことはない。
何を願っているのかもわからぬまま歩き続けた旅人は、しかしある時、煙が立ち上る町並みを見た。
大地を焼く炎ならとうに消えているはずである。あれは文明の火だ。人がいる。
なぜ? 魔王の攻撃を免れた村だというのか。あれほどしっかりと残っているなんて。
本当に現実のものなのだろうか。幻ではあるまいか。
だが、だとしても知ったことか。
あの町が蜃気楼だとしても、確かに存在していたとして実は人を食う魔物の棲みかだったとしても、あるいは山のように大きな幻影の怪物の腹の中なのだとしても、知ったことか。何も変わらず、何も変えられず、すり減っていくだけの日々などもうたくさんだ。
あそこに待つのが救いだろうと死だろうと、あるいは死よりも恐ろしい何かだろうと、知ったことか。
旅人は迷いなく走った。あんなに疲れ果てていたのに、今では翼を授かったかのように体が軽い。血を全て抜き取って新鮮なものに入れ替えたかのような感覚さえ覚える。
走れば走るほど、世界は薄っすらと虹色に染まっていく。風の音の代わりに立ち上ってくるのは、心地よい鈴の音。どこの言語かもわからぬ、奇妙で、しかし優しい子守唄。
とうとう町の入口にたどり着いた旅人を、天使が出迎えた。
彼女は翼を広げ、百里を駆け抜けた使者を労るかのように、旅人を包み込んだ。
桃色の柔らかな羽毛が、顔を、胸を覆う。死して久しい母の与えてくれたそれと同じ温もりがあった。
旅人は滂沱の涙を流した。自分のすべてをこの人に捧げようと誓った。
幸福と不幸、喜びと悲しみ、全てはもはや彼のものではない。それらは湯に落とされた角砂糖のように溶け果て、周囲と同化するのみ。
旅人は、二度と再び、その足で不毛の荒野を旅することはなかった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
「とまァ、あちらこちらで人が消えているらしいってワケだ」
ボマーの男は、紅紫色に光るワインをあおりながら語った。
「ウッソでぇ」
「いーや、わからんでェ。ワシもちょい前に、蜃気楼の中に人がぽッと呑まれちまうンを見たんや」
勝手気ままな声が返ってくる。実際どう受け取られようが、盛り上がりさえすればどうでもいい。酒の席でする話なんてそんなものだ。
魔物たちが宴を楽しんでいるのは、垂直方向に半分こになった奇妙な城の中だ。
さきの勇者との戦いで、主である魔王の戦略ミスによりこの城は見事にぶっ壊された……それにしたっていくらなんでも線対称の軸の部分を境に綺麗に消失するだなんて奇跡というか呪いというか偶然にしたってほどがあるだろうというもので、あらかじめこうなる風に造られていたと考えるのが一番無理がないのだが、そうだとするとここの魔王は建物の欠陥を隠した悪人か長いこと住んでいたのにまったく気づかなかった大馬鹿者ということになり、どっちにしても最悪だ。
とりあえず彼らにとって不幸中の幸いだったのは、崩壊をきっかけに地下にあったワインセラーが露出したことだった。こうなるともう貯蔵を続けることはできないので消費してしまうほかなく、それで宴会など開いているわけである。
「っていうくぁおぉ、しとが消えうとは、消えひゃいとは、おーれもいいォ。どぶぜびびばぴゃふひはぴぴぺっぱびんべっばばぁぱぱぼぼぼぼ」
スライムが不明瞭な声、というか、お湯を沸騰させたような音を発した。
「何いってんだ?」
「あー、気にすんな。コイツ性格悪いんだよ。いっつも水差すようなことばっか言いやがるくせに人とつるみたがるんだ」
ボマーの男は、明らかに忌々しげに溶けたスライムを見つめていた。
「なるほど、ンでさっさとたらふく呑ましたってワケね。考えたな、スライムって酔っ払うとカラダの形保てなくなるもんな」
「ぷぴゃぴぺ、ぴ、ぴ……」
どろり、と床に拡がっていくスライム。粘性も次第に失われてきているように見える。
「っかしさあ、なんか『ゼロのレガリア』絡みでなんか新しい動きがあったって噂も出てるよな」
「マジかー、ウチの魔王様の具合がおかしゅうなってんのもそのせいかいな?」
「まあ、ここの魔王が手に入れるってことは天地がひっくり返ってもあり得ねえだろうが」
「転職考えようかなあ」
「それができたら苦労しねェ……ておいッ!?」
酒飲みの一人が右脚をヒョイッと上げて、眉をしかめている。
「あんのスライム野郎、足につきやがった!」
気がつくと先程のスライムはテーブルの下にまでとろけてきていた。
わけのわからないことを呟いていてくれる分には問題ないのだが、これでは気持ちが悪い。皆、テーブルと椅子とを持ち上げ、離そうとする。が、それに追いつくかのようにスライムもうっすらと広がってくる。
「くっそコイツ、ドロドロしすぎだろ!」
「このまま床に染み込んでってまうんとちゃう!?」
自分のはあまりいい思いつきでもなかったかもしれないな、とボマーの男が悔やみはじめたところで、彼は気づいた。
シャボンの膜のようなものが、スライムの表面でうねっている。なんだかんだでこいつとは腐れ縁が続いているが、こんなものを見せられたことはない……
「おい、なんかおかしいぞ―――」
異変を訴えかけ、テーブルから手を離す。ドッ、ガチャガチャン! ショックで倒れたワインボトルが連鎖的に皿を叩き落とし、二つ三つと割れていく。が、周囲の連中はスライムを、もはやそれが同化しつつある床を見つめるばかりだ。
「畜生、やべェかも!?」
ボマーの男は椅子に、それからテーブルに飛び乗った。これ以上の逃げ場はない。爆弾で床を吹き飛ばすしか。
が、虹色の膜はそれよりも先に偽足を伸ばし、ボマーの男を捕らえた。
「ウアッ……!」
締め付けられる。
なのに、不思議と苦しくはない。スライムから現れたそれは、しかし綿のような触り心地でボマーの男を包む。
視界が虹に染まっていく。周りの奴らがもはや何をしているのかもわからない。
睡魔が、急速に、迫った。
だが……ヒュバンッ! 酒場の入り口から飛来した何かが、虹の偽腕を斬り飛ばした。
「ボマーかッ、アンタ!」
甲高い声が聞こえて、ボマーの男の意識を蘇らせる。
応えるかのように、神経系に刻み込まれた魔術のシーケンスで爆弾を生成し、なるだけ遠くへ放り投げる。ボウッ! 開いた穴から、虹色の膜が流れ出ていく。だめ押しに穴の中へともう一、二、三発! ドゥッ、バゥッ、ボゥッ!!
ボマーの男はとうとう魔力を使い尽くし、膝をつく。この城の下、水源にしている地下水脈にまで、あの虹の怪物を叩き落としたはずだ……今後が心配だが、直近の危機は避けられただろう。だが、さっきまで居たはずの皆の姿は、ない。
酒場の入り口には、大きなキノコの笠を被った少年が、樹木のように枝分かれした紫色のムチを手にして立っていた。
「随分派手にやるねえ、アンタ」
少年は、こんな事態だというのに全く怖がる様子も見せない。
「き、君は……」
「……オイラのことは、まァ、どうでもいいだろ。それより、アイオーナ・リアーナって魔王がどこにいるか、知ってるか?」
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
この広大無辺なるできそこないの世界の中では、一つ二つの事件など結局は大したことではないはずである。
たとえ何があろうと、多くの魔王たちは気にもとめずに『ゼロのレガリア』を求めて戦い続けるだろう。魔物たちはそれを補佐するだろう。同じように勇者たちは魔王に挑みかかり、天球の者たちは秩序を、あるいは絶望を見つめながら行動し続けるだろう。
これは、そんな局地的な事件の一つの、当事者になった者たちの物語である。