Seven Seas潜航日誌

16~20

<その16>

「ねえ、おとーさん」

過去のネリー・イクタは、父ネプテスと向き合っていた。

「なんだい、ネリー」

ネプテスは応える。娘を確かに見据え、しかし緊張させることのない目つきをして。

「おとーさん……わたしは、マモノの子、なの?」

ネプテスは、すぐには答えられなかった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

あの日、ネリーが初めて一人で狩に出かけたあとのこと。

「ふぅ……ふぅ、っ……」

広がっていく血煙のなかに、ネリーはいた。

獲物の肉を小さな身体に詰め込み、腹が膨れると、次第に意識が元通りになっていった。

「ぅぅ……」

いつもの自分ではないようだった。それでいてどこか、本当はこれこそが、ありのままなんだとも思えた。

とにかく、帰らないといけない。ネリーはマールレーナへ向かい、泳ぎ出した。

遠くから、何かが迫ってきていることに、気づかないまま……

「……?」

すこし進んだところで、振り返る。

近づいてきていたのは、魚の魔物の群れだった。ネリーが食べ残した獲物にまとわりついて、喰らっていた。

ネリーは、父の言葉を思い出す。狩った獲物の血の臭いは、魔物を引き寄せる。そう言っていた。

手元を見るが、銛がない。あの時のゴタゴタの中で、置いてきてしまっていた。

「……こない、で……」

それでも、何もしない訳にはいかなかった―――このままじゃ、マールレーナに魔物が入ってきてしまう。自分のせいで。

「こっちに、こないでえええぇっ!!」

ネリーは後方へ取って返し、徒手空拳で魔物たちに挑みかかった。拳と尻尾を振るい、噛みつきかかる。

だが、敵の動きは未熟なネリーよりも速く、巧みだった。魔物の群れは食事を中断し、あたりに散らばったかと思うと、すぐに反転して四方八方からネリーに突っ込んでいった。

「ぎや゛っ……! い゛あぁああっ!!」

体当たりをされ、そのまま何匹かに牙を突き立てられる。かろうじて急所は避けていたが、痛みは激しい。

ネリーは、生きたまま喰われようとしていた。

「やだあ゛ぁぁっ! やぁあああっ!! だれかあっ! たすけてええっ!!」

叫びながら、必死に暴れる。噛みつかれたまま逃げ続ける。めちゃくちゃに振るった尻尾は魔物の一匹を弾き飛ばすが、そんなものももはや何にもならない。

「たすけて! たすけてよっ! たすけて―――おとー、さん……っ……!」

果たして、来るべきものは来た。

声も無く、音もまたほぼ無く。水だけが一瞬、激しく揺れた……魔物たちは、気づかぬうちにその身を穿たれていた。一匹、また一匹と、ネリーの体からこぼれ落ちていく。

ぼやけていく視界のなかで、ネリーは父の、たくましい肉体を見た。

「ネリー! ネリー! しっかりしろ!」

声が聞こえる。傷口の痛みが引いていく気もする。応急処置の魔法をかけてくれているらしい。

「おとー……さん……。」

ネリーは、気を失った。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「起きたら、ちゃんと話をせねばならんだろうな」

年老いた水棲人の癒し手が、ネリーの両親に声をかける。大きな二枚貝の中に横たえられた、彼らの娘を見つめたまま。

ネリーは貝の中で、泡のようなものに包まれていた。あのときの傷は消えてはいないものの、顔からは苦しさが抜けていた。

ここはマールレーナの、病院にあたる場所だった。

「この子が一生抱えて生きていくことじゃ。辛いことじゃが、向き合わねばならん。お前さんが、そうしたように」

ネプテスを見て、癒し手はそう言った。

「わかっていますとも」

ネプテスもまた、娘を見つめたままで口を動かしていた。

「ネリー……。」

ネリーの母は、ネプテスよりもずっと華奢な水棲人の女性だった。彼のとなりで、悲しそうにうつむいている。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「おとーさん……わたしは、マモノの子、なの? わたしは……ニンゲン、じゃ、ないの?」

ネリーは、すがるような目をネプテスに向けてきていた。

「マモノは……血のニオイにひかれて、くるんだよね。わたし……エモノを刺して、血まみれになって……なんだか、わかんなくなっちゃったんだよっ……そんなのって……おかしい、よね……。」

ネプテスは何も言わず、ネリーを見つめ返す。

「わたし、マモノ、なの……っ? みんなといっしょに、くらせないの……っ……!?」

ぽろぽろと涙をこぼし始めるネリー。

「ネリー……」

ネプテスは決心がついたらしく、そこからの言葉はスムーズに出ていった。

「今から、おまえのおじいちゃんと、おばあちゃんと……父さんの話をしてやろう……聞いてくれないか」

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「おじいちゃんとおばあちゃんは、マールレーナから北の方の海にある街に住んでいたんだ。おじいちゃんは、父さんのように狩りをしていた。おばあちゃんは腕のいい魔法使いで、人の病気やケガを治してあげていた」

「おじいちゃんは若いころ、結構なあばれものだったらしい。他の狩人だったら相手にしないようなデカい獲物に挑んで、やられちまっては、おばあちゃんの世話になっていたんだそうだ。おばあちゃんは、そんなおじいちゃんを放っておけなかったんだろう。二人は、気がつけばいつでも一緒にいるようになっていて……それなら、一緒に暮らそうってなって、結婚したんだ」

「たくさんの人たちがお祝いしてくれたらしい。とってもお似合いの二人だ、って……」

「だけど、それからしばらく経ったある日のことだった。邪神の教団……知ってるだろ。あれ、父さんが産まれる前からあったんだよ。教団のやつらが、街を乗っ取ろうとしてきたんだ」

「おじいちゃんが強かったから、追い返すのは簡単だったらしい。だけど、やつらはおじいちゃんに直接勝つつもりはなかった。代わりに、おばあちゃんに、呪いを撃ち込んで逃げていったんだ。おばあちゃんの力でも、どうしようもないくらい強い呪いを……」

「呪いのせいでおばあちゃんは、デカくて恐ろしい魚の魔物に変わっちまった。もっと腕のいい魔法使いなら助けられたのかもしれないけれど……呼びに行く暇なんてありゃしない。このままじゃ、街は全滅。殺してしまうほかなかったんだ」

「おじいちゃんは、せめて自分の手で、って、おばあちゃんにトドメを刺して……だけど、その時、おばあちゃんのお腹の中で、何か動いてるのに気づいたんだ」

「それが、父さんだ。おばあちゃんのお腹の中には、もう父さんがいたんだ。そして、おばあちゃんが死んでも生き続けていた……」

そこでいったん切る。傍らのネリーはただ見つめてくるだけだったから、話を続ける。

「父さんは何とか生き延びて、おじいちゃんに育てられた。

「だけど、町の人たちには父さんを気味悪がる人たちもいた。魔物の腹の中にいた子供なんて、どうなるかわかったもんじゃないってね。その人たちの考えが、まったく間違いじゃなかったってことが、ある日わかっちまったんだ」

「父さんは、そこらの悪ガキどもにいじめられてた。いつもだったら、取り囲まれてからかわれたり、のけものにされるくらいだったんだが、その日はちょっとやつらの機嫌がよくなかったらしくてな。体つきのいいやつの前に引きずり出されて、殴られたり蹴られたりした」

「思い切りぶたれて、口の中が血まみれになったとき、父さんは、何がなんだかわからなくなった。気がついたら、父さんは牢屋のなかにいて、縄で縛りあげられて、口をふさがれてた。周り見たら、狩人に取り囲まれてて、その向こうから大人たちが怖い顔して見つめてた。父さんは、殴ってきたやつを、危うく殺しかけたんだそうだ……」

「父さんはそのまま、牢屋にひとりで残された。この後、どうなるんだろうって、考えた。処刑でもされるのか。あるいは、飢え死にするまで閉じ込められるのか。気がついたら、口をふさいでたものも、縄も、檻も、なにもかも食いちぎって、逃げてた。そういうことができるだけの力があったんだって、その時初めてわかった」

「家に帰ったらおじいちゃんは寝ていた。もう迷惑はかけないって手紙を残して、どうしても大事なものだけ持って、父さんは街を出ていった。それからおじいちゃんがどうなったのかは、今もわからない……」

ネリーはこの時まで、自分に祖父母がいたことすら知らなかった。

「父さんはずっと、一人であてもなく、世界中の海を旅した」

「魔物みたいになるのは嫌だったから、自分で道具を作って狩りをした。それでもなかなか獲れなくて、飢え死にしそうになってくると、どうにもならなくなって……気がついたら何か食い殺してたってことがある。だけど、ニンゲンだけは絶対に襲わないようにって、十分気をつけてた」

「そんな風に暮らしてるうちに、少しずつだけど、魔物の心をうまく操れるときがあるようになってきたんだ。生きていく術も学んだし、教えてくれる人もいた。父さんに親切にしてくれる人たちが、町の外にはいたんだよ。事情を知ってもそのままでいてくれたかどうかは、人によってちがったけれどね……」

「そうして旅を続けていると、ある時父さんは、巨大な怪物がマールレーナの街を襲っているって話を聞いた……そう。あのデカいヤドカリのバケモノさ。父さんたちの家になってるあの貝殻の、元の持ち主だ」

そこはネリーも、何度も聞いてきた話である。

「ここからはもう、ネリーも知ってるだろうけど……父さんはすぐにマールレーナに向かって、バケモノを斃した。その時の怪我を治してくれたのが母さんだ。母さんの腕は確かで、父さんの傷は速くよくなっていった……おじいちゃんも、おばあちゃんによくこんな風にしてもらっていたのかなって、思った」

「父さんは、母さんに事情を話した。みんなは父さんを英雄だって言っているけれど、父さんは英雄になんてなれないし、ここにいることだってできない。だから傷が治ったらすぐ出ていく、って」

「だけど、母さんは首を振って……それから言ったんだ。あなたは立派に英雄をやりました。それに、そういうことだったんなら、なおさら放っておけないってね」

「母さんは、父さんのことをありのまま受け入れてくれた。おばあちゃんが、たぶん、おじいちゃんにそうしてくれたように。そんな母さんとだからこそ、一緒に生きていけると思ったのかもしれない」

「そして、ネリー。お前を……おれの子どもを母さんに産んでもらって、育てていけるとも……」

「……ネリー。父さんのこと、勝手だって思うか?」

ネプテスは、少しうつむきがちに言った。

「そんなこと……ないよっ! おとーさんは、おかーさんが好きだったんでしょ? 好きになったから、コドモもほしいって、おもったんでしょ?」

気がつけば、ネリーの目からは哀しみが消えている。

「それに……わたし……うまれてきて、ヤだったなんて、思ってないよっ……おとーさんと、おかーさんがいて、いっしょにくらせて、よかったって、思ってるよっ!」

「ネリー……。」

「おとーさんは、しゅぎょーして、マモノになっちゃわないようにできたんでしょ!? だったら、わたしもがんばるよっ! これからも、みんなといっしょに、生きてけるように、がんばるよっ!」

「…… ああ。そうだね、ネリー。一緒に、頑張ろう」

ネプテスは、愛娘を抱き寄せた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

そして時は現在に戻る。あたりはもう暗くなっていた。テリメインの海を、月が優しく照らす。

あれからネリーは退院し、クリエと共に入り江のほら穴に帰っていった。今はぐっすりと眠り、クリエがその寝顔を見つめている。

クリエもまた、ネリーの抱える事情を知っていた。ある時、彼女の父ネプテスが語ってくれたのだ。

クリエは、自分じゃどうにもならないことで苦労しなくちゃならない人間なんて、少ない方が良いと思っていた。そういう苦労をした人間が最後までまともであれた例を、あまり知らない。

彼女自身だって、そうだった。人に語って聞かせたことはないが、育ちは悲惨だったし―――今も辛うじて、学だけでどうにか生きているようなものだ。遠くない未来に、きっとしょうもない理由で死ぬんだろう……そんな風にすら、思っていた。

自分のことは初めから諦めていても、ネリーが甲斐のない人生を送るとしたら、耐えられない気がした。

「きみは、私が……守る、から。何が、あっても……」

彼女自身にしか聞こえないほど、クリエは小さくつぶやいた。

<その17>

いつものように朝は来て、入り江の洞穴を明るく照らす。

「おはよー、クリエさんっ」

「……ン。おはよ」

起き出してきたネリー・イクタを、クリエ・リューアが座ったままに出迎える。

彼女の前には焚火と、それで温められている鍋が一つ。串で焼かれた魚と、パンもいくらかあった。

クリエは、鍋から野菜スープをよそい、パンを一つ手に取ると、残る食料のほぼ全てをネリーに与えた。

「食べて。魚、そんなに、釣れなかった、けど」

「うゃ……クリエさん、それだけじゃ、おなかすいちゃうよっ」

「いいから。……探索協会の食堂で、食べてくる」

あれから、ネリーはだいぶ元気を取り戻してきたようだった。

クリエもネリーが自分のことを受け入れられないとは思っていなかった。ネリーはかつてオルタナリアでした冒険を通じて、自らの抱えるものに一応のけじめをつけたはずなのだ―――そういうことも、クリエは知っていた。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

一度、クリエはネプテスに会う機会があった。彼がマールレーナの代表グループの一人として、クリエのいるセントラス・カピタル・アカデミーでの講演に招かれたことがあったのだ。

「すみません、アカデミーの学生さんでしょうか?」

疲れ気味に、ぼうっと空を眺めていたクリエにネプテスが声をかけてきた。

彼は暗い青色のマントを羽織り、下半身を布で隠していた。海で暮らす水棲人が、地上に出かけるときの格好の一つだ。

「……なん、でしょうか」

「今日ここで、講演をやることになっていまして。ランディ・クリストフ記念講堂って、どちらに?」

「ああ、ご案内、します」

クリエは、ネプテスをその場所へ案内した。そのまま講演が始まり、恙なく終了した。

その夜、懇親会として、立食パーティーが開かれた。食べるだけ食べて、後は静かにたたずんでいようと、クリエは思っていた。

「おや、あなたは、昼間の……」

というところに、またネプテスが話しかけてきた。

「……ン。おつかれ、さま、です」

むろん、無下にはしない。

「あの時は、ありがとう。助かりましたよ……そういえば、あなた……。」

クリエのメガネと、葡萄鼠の色をした外套。それらに視線を向けてから、そう言った。

「失礼ですが、もしかして……あなたは、娘が……ネリーがお世話になったっていう……?」

「……あぁ。はい。クリエ……リュー、ア、です」

「そうでしたか! いや、前にネリーが里帰りをしてくれた時に、あなたらしい人のことを話していたんですよ」

「……ああ」

コルムを去って別れた後、ネリーは元いた街に帰れて、親にも会えたようだ。クリエは、ほんの少しの胸のつかえが取れたような気がした。

それからいくらか、たわいもない話をした。

クリエは言葉を発することは不得意だったので、できれば一対一で話すことは避けたかった。だが、ネリーの父はそういうことも察してくれたのか、自分から話を振っていくようにしてくれていた。彼は、肉食獣の群れの長のように大きくたくましい体をしていながら、心優しく、礼儀正しい男でもあった。

その話の中に、ネリーの過去のことも出てきた。

「……それが、あの子、の……」

「ええ……それでも、帰ってきてくれた時には……かなり、自分を抑えて戦えるようになっていた。それに……あの子は、魔物の力が、私の半分で済んでいるはずなんです。だから、私ほどの苦労をする必要はない」

ネプテスは、憂いと希望とをないまぜにしたように言った。

「あの子にはきっと、明るい未来が待っている。そう、信じたい……」

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

思い出している隙に―――恐らくネリーの父が最初に自分に話しかけてくるあたりで―――ネリーは食事を終えていた。

「ごちそーさまっ。クリエさん、ほんとにそれだけでいいの……?」

「……食ってから、言わん、でも。ま、だいじょう、ぶ。……探索、いけるね?」

「うん。いけるよ。だいじょうぶ。わたしは、げんきー、だよっ!」

「わかった。いって、らっしゃい」

ネリーを送り出し、自らも食事の後片付けと仕事に出かける準備をしながら、クリエは考える。

確かに、ネリーはしっかりしているとは思う。思うのだが、少々不安でもある。

彼女自身も同じだろう。抑え込んだと思った魔物の力が、誰も自分を知らない世界で出てしまったのだ……きちんと事情の説明はしたとはいえ、人々のネリーを見る目は、これから変わってしまうかもしれない。

「あの子が…… 喜び、そうな、こと……」

とりあえず飯を何十人前も用意してやれば、それだけで割と幸せになってしまいそうな気はする。まあ、経済的に無理な話だが。

「……ま、のんびり……やる、しか……」

クリエは鞄を手に、街へと出ていった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

恙なくその日の探索を終えたネリー・イクタは、海のなかをすいすいと泳ぎ、街を目指していた。

拠点へ帰るだけならスキルストーンの機能でひとっとびなのだが、それだとネリーは物足りない。それに、帰りがけに魚や海藻を採って、クリエに持ち帰ってやることもできるのだ。

時々、イルカのように飛び跳ねてみると、きれいな夕暮れの空と、遠くのほうに街が見える。

今日はこのまま平和に終わるのだろう。そう思っていた時だった。

「……アッ!?」

揺れを感じる。だが海の中なのだ、地震ではない。震えているのは、水だった。あるいは空間そのものが揺さぶられている、とでも言うべきか……

「……これ……!」

揺れははじめ、不規則であるように思えたが、時間が経つにつれてどんどん強くなり、揺らされているというよりは、ある方向に力を掛けられ続けている、と感じられるものに変わってきた。

ネリーは身体に勢いをつけ、その場から離れた。

「や、やっぱり……っ!」

それは、あたりにおびただしい量の泡を撒き散らしている。ネリーほど力の強くない魚達が、哀れにも巻き込まれ、容赦なくかき回されてもいる。

彼女は、この一帯を騒がしているあの原因不明の渦が、今まさに出現しようとしているのを目撃したのだった。渦の中からなにかシルエットが見えてくる。ネリーはハンマーを構えた。

巨大な何かが、やってくる―――果たして出てきたものは、船の残骸であった。

ネリーも知っている船……豪華客船『ブルー・アイス号』だった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ある地球人によってオルタナリアにもたらされた機械技術は、多くの変化を引き起こした。海運の世界も、例外ではなかった。

従来の船は、帆を張って進むものだった。上手いこと風が吹いてくれるか、魔法使いを何人もこき使って無理やり風を起こさなければ、役に立たない。それが、機械の力によって、燃料を使って海を走る船を作ることができるようになったのだ。

それから時は流れ、機械船の一つの到達点であるブルー・アイス号が完成した。

新開発の動力機関『スペリオール・フレア・エンジン』を搭載したこの船は、それまでのどんな船よりも速く、力強く、巨大であった。人々は、その威容にただただ驚愕した。

千人以上の乗客を乗せることができるといわれたブルー・アイス号だが、処女航海に参加するには極めて高い倍率の抽選をくぐり抜けなくてはならなかった。当選した人々は、港に集った野次馬たちの羨望の目を浴びながら、喜び勇んで船に乗り込んでいった。

だが彼らは、この船の動力に欠陥があったことなど、知る由もなかった。ブルー・アイス号の動力機関は、よりによって海のど真ん中で火を噴き、爆発したのだ。

幸いにして、その近くに海中の街があった……水棲人をはじめとする海の種族の者たちが乗客の救助を行い、被害は大幅に抑えられた。そしてその後のサルベージ作業を行ったのも、彼らであった。

今となっては、ブルー・アイス号の存在も過去のものである。

一般市民にとっては、機械技術に不安の影を落とすものとして。技術者たちにとっては、忘れてはならない教訓として。陰謀論者にとっては、活動のネタとして。

そして、水棲人たちにとっては、広大なオルタナリアの海の中の遺跡の一つとして、記憶に残っているのだった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

ネリーの目の前に現れたのは、そのブルー・アイス号の残骸であった。

ブルー・アイス号の事件は、ネリーが生まれるのよりもずっと前の話だった。この残骸を自分の目で見たことは一度だけあるけれど、中に入ったことはない。

沈没の際、二つに割れた部分から、ネリーはそっと侵入する。

入った先の部屋はぼろぼろだった。貴重な品なども残ってはいないが、ただひたすら広い。なんのための部屋だったのだろう。

ふと床を見ると、オルタナリアの海を守るという精霊の姿が見えた……無論、精霊が世界の壁を飛び越えて、わざわざネリーに会いに来た、ということはない。ステンドグラスが壁にあって、外からの光を受けて精霊のかたちを映しているのだ。

ステンドグラスは他にもあって、いろいろな場面を映している。オルタナリアに住まうものなら誰でも知っている、女神ミーミアと、それを守る守護天使。伝承に語られる英雄。そして、海を拓いてゆく、水棲の種族たち……

海の民は、陸と海とをつなぐものだと、ネリーは教えられてきた。陸に住まうものたちは、海の民に導かれて、共に海を旅し、オルタナリアの三つの大陸を結びつけてきたのだと。

だったら、もしも自分たちがいなかったら、陸の人々は海を渡ろうという気を起こさず、この船が造られることもなかったのだろうか―――そんなことは、ないだろう。

ニンゲンは、知らないことを知ろうとせずにはいられない。例え海の民の導きがなかったとしても、陸の者たちは海に出ていっただろう。どんな困難に遭ったとしても、決して諦めず、それをあらかじめ恐れる事だってしないで、ひたむきに未知を求めたのだろう。

自分だって、きっとそうだ。どんなことがあったって、結局冒険をせずにはいられない。そう思う。

再び、揺れが起こる。ステンドグラスの投げかける光が、ぼやけはじめる。ネリーはその場を後にし、船を出て、再び乱れ始めた水の流れの中を突き進み、離れていった。

振り向くと再び渦が起こり、ブルー・アイス号の残骸を包んでいた。渦が止んだ時、そこにはもう何もなかった。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「ただーいまっ」

ほら穴に戻った時には、もうあたりは暗くなっていた。

「や、おかえり」

出迎えるクリエ。彼女は、いつもより量が多めの食事を用意していた。

「うゃ! なんだか、きょうの晩ごはん、ゴーカかもっ」

「……仕事、終わった後……釣り、してきた。もっと……釣れれば、よかった……けど……」

「んーんっ。じゅーぶんだよっ。ありがとー!」

クリエだったら食べきれないほどの量だったけれど、ネリーはあっという間に平らげる。

「ごちそーさまっ!」

「ン。おそまつ、さま……早めに、寝ると、いい。疲れてる……はず……」

「うんっ。明日もいっぱい、ボウケンしなくちゃ、だよっ。今日はしっかり、おやすみするよっ!」

「……うん。おやすみ」

いつも通りに、夜は更けていく。

<その18>

ある朝、クリエ・リューアはメガネの調子が良くないことに気付いた。

「どーしたの、クリエさん?」

「……メガネ。曲がって、しまって……」

「うゃ……! それは、たいへんだよっ。ご飯、きょうは買ってこなくてだいじょうぶだよ、そのへんで獲ってくるよっ! だから、どっかでなおしてもらってきてっ!」

メガネなしでまともに生活ができるほど、視力が残っているわけではないのは事実だ。早めに修理してもらわなくては。

まあ、直してもらったからといって、食費がなくなるほどのことではないのだが。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

クリエはネリーを探索に送り出した後、メガネ屋を探して街を歩いていた。多分どこかにあるんだろう、と歩き続ける。

いい匂いが漂ってきて、そちらを向けば、パンを焼く店があった。新しくできた店らしく、元気そうな若い男がチラシらしいものを配っていた。うっかりと、一枚受け取った。

また横を見れば、今度は店頭にせいろを並べ、何かを蒸して売っているところがあった。あれは多分、饅頭だろう。オルタナリアでも、東方大陸の北を治めるエイレンの国で作られていたし、一度食べてみたこともある。

そして今度はどこかでピザでも焼いているのか、焼けたチーズの香りが……

と、さっきから飯のことばっかり。ネリーじゃあるまいし。実際、連れてきていたら、はたして今頃どうなっていたやら。

どうも、飯屋が並ぶ通りに出ていたらしい。適当なところで角を曲がり、また歩く。

今度は、本屋を見つけた。

多くの世界から人が来るテリメインでは、言語も当然多様になる。普通に考えれば本を売るのも困難なのだろうが、考えてみればここに来て以来、文字のことで困った記憶がない。協会の講習でもらったテキストだって、問題なく読んで理解できた……まあ、スキルストーンの為せる業、といったところなのだろう。そういうことにして、クリエは自分を納得させる。

店頭には雑誌の類もあった。テリメイン探索の最新情報やら、この間あったらしい海底杯の記事、探索者へのインタビュー記事やらがあるという。

ひょっとして、ネリーもこの中に載ってるだろうか……いや、それは無いか。取材を受けるなんてことがあったら、すぐにでも話してくるだろうし。

本屋を後にして、また歩いていく。色んな店や、人を見かける……散髪をしてくれる店だったり、日常生活にあれば役立つというレベルのちょっとした魔法の品を扱っている店だったり。画材などを売っているところもあった。

少し奥まった辺りには、ジャンク屋なんぞもあった気がする。故郷にも機械の類はあった。クリエは専門とはしなかったのだが。

広いところに出て、くるりと周りを見回す。

テリメインの探索が始まり、それなりの時間が経ったのはわかっていた……それでもこの街は、こんなにも賑やかになっていたのか。

以前、ネリーに服でも買ってやろうかと思った時にも、協会の仕事仲間からよさげな店の話を聞いただけで、実際に自分で歩いて探すということはしなかった。だから、この街のことを、きちんとは知らないままでいたのだ。

そうこうしている間に、昼飯時も過ぎつつあった……

「やべ……」

さっさとメガネ屋を探さねば。ネリーが帰ってきてしまう。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

「おぉー……なんだか、きらきらしてるよっ!」

探索から帰ってきたネリーは、クリエの眼鏡をじーっと見つめて、そう言った。

「……そう」

単に整備してもらっただけなんだから、別にさほど変わってもいない。でもまあ、そう思ってくれているならば、そういうことにしておこう。

それより気になるのは、ネリーが先ほどから抱えている一尾の魚だった。その体長は、彼女の背丈と同じくらいもある。

「……それ、捕まえて、きたの?」

「そーだよっ! これで、今日もばんごはんがあるよっ! もうおなかぺこぺこだよっ、はやく帰ろー!!」

それ、二人で喰うようなもんじゃないだろうが。新鮮なうちに魚屋に持ってって金にしないと……

と、言おうとしたときには、ネリーは魚を抱えたまま、入り江の棲家に向かって全力疾走していた。周囲の視線を力いっぱい集めつつ。

☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆

数時間後、セルリアンの街近くの入り江のほら穴には、骨と頭だけになった先ほどの魚と、ネリー・イクタが転がっていた。

「げぇえええええっふ……うー…… ぅー……。」

両腕で抱えるサイズにまで膨れたお腹を愛おしげに撫でているネリー。

当然、腰蓑は外して床に置いてある。幸せそうでこそあれ、全く苦しそうな様子はなかった。

「…… ……満足、した?」

「まんぞくー…… げえっふう。ぅー。まんぞく……」

「……今日は、そのまま、お休み。私は、もう少し、すること、あるから……」

ランプを手にして立ちあがろうとするクリエ。

すると、彼女の外套から昼間のパン屋のチラシがさらりと落ちた。それがネリーの目にも入って。

「……う、うゃっ! なにこれ! すっごいおいしそーだよっ! クリエさんっ! こんど、ここ行ってみよーよっ!」

全然満足なんかしてないじゃないか。

街に連れてくことにならなくて正解だった……そうクリエは思った。自分がテリメインにくるまで、こいつは一体どうやって自制心を働かせていたというのだろう。

「……どっかで、買ってきて、あげるから。今日は、お休み」

「うゃ……おやすみぃ……。」

クリエは改めて、ランプを手に洞穴の奥へ移動し、ちょっとしたデスクワークを始めるのだった。

<その19>

【ある日のネリーちゃん】


「クリエさーんっ」

「……なに」

浜辺に大きな葉っぱを敷いて休んでいたクリエ・リューアに、海に浸かったままのネリー・イクタが声をかける。

「こんなんとれたっ!」

と、見せてきたのはクラゲが一匹。

「……戻しといで」

「うゃー……おいしいよ? クラゲさんも……」

「毒、あるんじゃ、ないの」

「なければ食べれるんだよっ! クリエさんがいらないなら、食べちゃうよっ!」

と、口に放り込み、そのまま海のなかに戻っていくネリー。

また、しばらくして……

「クリエさーんっ! また獲ってきたっ!」

今度は、網に入ったウニを見せてくるネリー。

「……ウニだ。OK。売って、お金に……」

「うゃ、たべないの?」

「……君、質より、量、でしょ……。」

「むむう。クリエさん。わたしが、おいしくなくても、いっぱい食べれればいいだけー、って、思ってるでしょ……っ!」

「……ごめん」

「……うゃ。まあいーや。もっとおっきいの捕まえてくるねっ」

ネリーは網をその場に残し、再び海の中へ潜っていった。

だいぶ経つが、ネリーは戻ってこない。どこまで行ったのだろうか。

そう思いながらぼうっと海を見つめていると、不意に水平線が騒がしくなる。双眼鏡を取り出し、見つめてみるクリエ。

「うがぁああ! ぐらぁああーーーッ!!」

遠くの方で、ネリーが鮫と格闘しているのが見えた。とても熾烈な戦いだが、勝ちそうなので、心配はしない。

心の中で、いつか見かけたネリーの父親のことを思う……あなたの娘さんは、立派な狩人になりました。きっとこれからも強くあり続けるでしょう。

そんなことを思っていると、ネリーがぶちのめした鮫を抱えて戻ってくるのが見えた。

アレは売らずに、喰わせてやることにしよう。

<その20>

【触りたい】


「……んひぅぅう。くぅぅ……」

クリエ・リューアの目の前で、ネリー・イクタが素っ裸で寝転がっている。リズムを保って、膨れたり凹んだりする、ネリーの腹。

ちょっと触ってみたくなった。幸いネリーはぐっすり眠っている。ちょっといたずらしたくらいで、起きはすまい。

そっと右の人さし指を伸ばし、触れる。ぷに、と食い込んだ。今度はつまんでみる。柔らかいのだが、弾力がある感じだ。あまり強く掴むわけにはいかないが。

「……ンゥゥ……ぐぅ……。」

ネリーが目覚めないことを確認しつつ、ゆっくりと引っ張る。と、伸びる。引っ張ったら引っ張っただけ、伸びるのだ。

「……なるほど」

わたしのお腹にはいくらでもご飯が入る、と普段からネリーは言うし、実際いくらでも入ってしまう。

もしかして、自分を丸ごと呑み込んだりもできやするんじゃないだろうかと、クリエは思う。

そんなことは、ネリーはしないだろうが―――例えばもし、どこかに二人で閉じ込められて、飢え死にしかけるようなことでもあったら?

そんなことを思っていたクリエは、ネリーのお腹の皮を、数十センチほども引き伸ばしていたのに気づかなかった。

「……ンーゥ……?」

ネリーのお腹の皮は、弾力によって急激に戻り―――びたんっ。

「う、うゃあああ! いたいよっ!!」

「…… ……ご、ごめん」

「もうっ。クリエさんっ。わたしのお腹が気になったからって、ひどいよっ!」

「……ごめん」

「んぅ……ゆるすよ……でも、そんなに気になるんなら、ちょっとみせたいのがあるよっ」

と、ネリーはクリエから二歩ほど下がり。

「すぅぅぅぅぅぅー……」

腕を後ろに回し、息を吸い込み始めた。

みるみるうちにネリーの腹が空気で膨れ、大きく丸くなる。やがて、スイカを呑み込んだくらいのサイズになったところで止まった。

触ってみて、と言わんばかりに、お腹をぼふ、と右手で叩くネリー。

「……ン」

応じるクリエ。

同じく、右手で触ってみる。空気がたっぷり入っている感触こそあるものの、指はやはり食い込むし、皮もつまめる。

まだ何か詰めようと思えば詰められるのだろう―――

「ぷはーーーーっ!!」

その時、唐突に空気を吐き出し始めるネリー。

クリエはそれをモロに浴びる。髪があおられ、メガネがずれ、帽子は吹っ飛んだ。

「……うゃあ! きまったぞーっ」

「…… ……まいった」

ある昼下がりのことであった。