キシェタトルの森に風が吹く。速く。したたかに、それでいてしなやかに。草木も揺れる。どうにかしゃんと立とうとしては、また押され。
木々の合間を、すいと飛んでいくものがあった。鳥やムササビなどではない。人だ。それも耳と尻尾を生やし、毛で覆われた、雌の獣人である。
彼女の目は、いくつもの木が迫っては過ぎ去ってゆくのを見ていたし、ぴんと立った大きな耳も、風のうなりになかば埋め尽くされている。高速の飛行であるから、とにかく前に気を配り続けなくてはならない。どこかにぶつかりでもしたら命取りだ。
飛行を続けていると、やがて森は終わる。視界が開けた先には、港街が見えていた。
雌獣人は姿勢を垂直に近づけながら減速し、草の上に降り立つ。少々バランスを崩してたたらを踏みはしたものの、転ぶことはなかった。
風術士トトテティア・ミリヴェ―――彼女は、自らをそう呼んでいた。
集まった者同士で組み、獣を退け、ジジイに出会って護衛を頼まれた。これまでのあらすじというモノを語るならば、そんな感じになるだろうか。
成り行きで動いている集団なので、これからどうなるかはわからない。いずれにせよ、次の行動に向けて準備をしなくては。
風術士のする準備といえば、風の声を聞くことだ。トトテティアは耳を立て、鼻をひくひくと動かし、大気を読む。集中して―――
ぐぅ。
―――お腹が鳴ったので、先に食事にすることにした。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
獣から肉を剥ぎ取り損ねたトトテティアは、その辺の虫を片っ端からとっつかまえることになった。
彼女とて旅人のはしくれであるから、食べられる虫は知っている。全てトドメを刺した上でカゴに放り込み、持ち帰る。
火を焚いて、その上に網を乗せ、つかまえてきた虫を軽く炙る。同時にお湯も作る。干飯を持っているので、これを戻すのだ。程なくして、食事の準備は整った。トトテティアは焼いた虫をおかずに、ちょっぴり堅いご飯を平らげていく。
彼女だって、別にいつもこんなものばかり食べているわけじゃない。そうだったらもうちょっとスリムなはずである。
街についたら、食欲旺盛な冒険者向けの飯屋にでも入ろう。そのためにも、今のうちにしっかり稼いでおこう……そんなことを思いつつ、もぐもぐと口を動かすトトテティアであった。
じいさん―――ルドマと言ったか―――の護衛をした。薬草採りなんざやっているだけあって、頑健な老人であった。魔物さえいなければ別に一人でも十分だっただろう。
道中襲ってきたのは亜人と小悪魔の群れであり、またも肉は手に入らなかった。仕方が無いので、トトテティアはルドマが採取やら調合やらを行っている間に食用になる果物を摘むことにした。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
風術士は風を操り、自分のカラダを浮かばせる術も持っている。それを使えば、高いところの実だろうが採ることができた。とはいえ、それには技術が求められる―――ルマの街へ行く際、森の中を木にぶつかることなく駆け抜けていったのとはまた別な技術が、である。あの時は、風が通っていく道に自分も乗せてもらって、障害物を避けるためだけに動けばよかった。けれど今度は、自ら風を御する必要がある。
トトテティアは木の下に立って、念じた。見えざる脚立が足元から伸びていく。あの枝にたわわに実った果実の元へ。
あと少し―――と、手を伸ばしたところで、トトテティアは少し集中を欠いた。風が途切れ、引力が一気に体勢を崩しにかかる。
それでも危ういところでツメが枝を捉えた。ついでに、大きな尻尾が幹に巻きつく。空いている方の手で果物を摘み、大きな胸の上に抱える。片手に収めるには少々多いが、両手では余る、という程度の収穫だった。
今度は最後まで気を抜かずに風を制御し、地上に降り立った。
仲間たちのところに持ち帰る前に果物を一齧りして、トトテティアは顔をしかめる。だけど、酸っぱいブドウだろうが、腹に入れておかないといざという時体が動かない。冒険者は貪欲でなくては。
煮詰めれば、まあ食べられるようにはなるだろう。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
さて、西の方から熱と匂いが流れてくる。人の気配だ。
次の目的地はあちらだろうか。
プラインカルドの国、ソリティアの町に手紙を届けるよう頼まれた。ついでにウォルニエト行路に魔王軍がいる―――かもしれない―――という噂も聞いた。ウォルニエト行路、といえばちょうどこの先である。さてどうしたものか。
ここいらで、皆で相談でもすべきなのかもしれないと思いつつも、トトテティアは結局一人で考えている。答えも出ず、やがてぶらりと歩きに出かけた。
ジノイセは、それなりに活気があるように思えた。店もあった。魔物から剥ぎ取った物がそんなに金にならなかったので、見て回るだけなのだが。
一通り歩いたトトテティアは、風が湿った香りを運んでくるのを感じ取る。雨がきそうだ。足早に、今日の宿へと向かう。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
宿でヒマになったトトテティアは、地図を開く。無事にウォルニエト行路を越えればその先にはロフテネクという村があり、そこから北へ行けば首都レンジュだという。
首都についたら菓子屋でも探そうと思うトトテティアなのだった。
はたして、ウォルニエト行路に魔族は居た。だが敵も素人だったらしく、兵士一人―――それも極めて情けないやつ―――にのされた。
まあ、楽に済んだのだから、それを喜ぶまでである。
次の目的地は、森の町ロフテネク。いつものように食べられそうな果物やキノコの採取を試み、キャンプに戻る。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
その晩、トトテティアは夢を見た。少女の日の夢だった。
幼いころから、トトテティアは風術士を志していた。父親がそうだったから。風を自在に操り、青空の中をしなやかに泳ぐ姿が好きだったから。
当時のトトテティアは、風術士どころか、まだ魔力の扱いを習ったばかりの頃。それでも、きっと飛べると、父のようにやれると信じ、彼女は斜面から跳び上がった。その先が断崖であることに気づかずに。
トトテティアはなすすべもなく転がり落ちていき、やがて宙に投げ出された。だけど彼女を迎えたのは、堅く冷たい地面ではなく、形のないやさしい手だった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
そこでトトテティアは目覚める。テントの外に出てみれば、外は明け方だった。
一陣の風が吹く。垂らした髪飾り―――風珠(かぜたま)が揺れて、トトテティアにその流れを伝えた。
会いに行きたい風があって、だから彼女は旅をしていた。
ロフテネクへの旅路はおおむね順調なものだった。あれから、魔族がまた襲ってくるようなこともない。出てくるのは野獣だけだ。
このまま到着できればいいと思う、なんて見通しはやはり通らないのだろうか―――悪い予感は胸にしまう。ロフテネクについて、あわよくば何か甘いものにありつければ最高なのだ。そうなってほしい。
そんなことを思いながら眠りについた晩、またトトテティアは夢を見た。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
まえの夢から、恐らくは数年ほど後。トトテティアが本格的に風術士の訓練を始めた頃の話だった。
風術士の初期の訓練メニューとして、風に関わる精霊に指導してもらうというものがあった。言葉を持たぬ風を自在に操るのが風術士だが、いきなりそれをやるのは難しい。それよりは精霊を介して風とコミュニケーションをとり、実際に術を使いこなしてみる方が、上達も早いのだった。
それで先輩の風術士に連れられて向かった場所は、意外と故郷に近いところだった。トトテティアは期待していた。あの日、自分を助けてくれた者に出会えるのかもしれないと―――
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
ここで目が覚めた。辺りはまだ暗い。
トトテティアはしばし、空を見上げて立ち、明け方の風を楽しむのだった。
トトテティアらは無事、森の町ロフテネクに到着した。
彼女は、ちょっとだけあの泣き虫兵士の今後を案じる。実力は確かにあるのだから、あとは精神面を鍛えれば立派になれるのだが。
この先、タッシ行路にもまた魔族が出たと聞くが、自分たちが行くかどうかは話し合いの結果次第である。
とりあえず、個人的にやることがある。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
町の市場で果物を見繕うトトテティア。工面したお金で買えるだけ買って、パーティーの皆におすそ分けして、残りで甘いモノ欲を満たすつもりでいた。
そんな中、彼女は気になる話を耳にした。休息をとっていた旅人らしき者たちが、森の中で不思議な風を感じたというのだ。
野獣に襲われて傷を負い、薬のストックも使い切ってしまって困っていたところ、突然後ろから風が優しく吹いてきて、傷口を撫でた。するとなぜだか痛みが引いたのだ。
そのまま、風を追うように歩いて行ったら、人の居る場所まで出てこれた、という。
優しい風。トトテティアをかつて救ってくれたそれと、同じものかはわからない。
ただ、会えるのならば、ぜひ会ってみたい。そう思わせる話だった。
結局、タッシ行路の方へ行くことになった。
野獣にすら手を焼いているのに、大丈夫だろうか……成り行きで進んでいるのでものは言えないトトテティアなのだった。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
旅を始めて日は浅いが、色々な風に触れた。港町に吹く、磯の香りを含んだ風。草木や花の匂いを運んでくる森の風。戦いの中でかき乱され、血なまぐさくされる風……どれも、ふるさとではあまり感じない風だった。
トトテティアのふるさとは山の中腹、開けたところにあった。良い風が吹き、宙を舞うのに適した場所がある、風術士が育つには良い環境だった。本格的に風術士の修行を始めたトトテティアも、ここで風に乗り、飛び回ることを学んだ。
初めて空に出たときの風を、今も彼女は覚えている。どこか荒々しくも、自由で軽やかで。勇気をもってかかれば、応えてくれるもので。
最後はバランスを崩し、地面に当たって転がっていってしまったのだが。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
今の風は、森の中の風。だけどどこか、ナニカに怯えているようにも思える。この先には何が待つのだろうか。成り行きに任せるばかりだけど、それでいいのだろうか。
トトテティアは歩き続ける。
今度の敵は壁を展開する魔族だった。だが、マヌケにも防壁の内側にいたようで、自分からも攻撃することができずにいた。
あいつは、実験というものをしなかったのだろうか。新しい術を編み出す時は必ずやるものなのだが―――
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
トトテティア、十五歳の秋。
この頃には風術士としての訓練もだいぶ進んでいて、彼女はムササビか何かのように林の中を飛び回ったり、崖から空へ駆け出したりする日々を送っている。
そうなると、ぶつかったり落っこちたりの危険も増えてくる。そこでトトテティアは、ひとつ考えてみるのだった。
尻尾をお腹の前にもっていくトトテティア。それから自分で書き換えた呪文を唱えると、風の流れが変わって、尻尾に空気が流れ込んでいく。大きく膨らんだ尻尾は抱き心地抜群だった。クッションにすればよく眠れそうだ。非常時に膨らませれば、衝撃から身を守ってもくれるだろう。というかそれが本来の目的だが。
もふもふでパンパンな尻尾にほおずりしていると、この頃からすでに豊満になりつつあったバストが目に入った。これもサイズアップできないものか。
改変しなおした術を唱えると、風が口の中に流れ込んできた。みるみるうちに膨らんでいく―――胸に先立ち、ふっくらしていたお腹周りが。
これはこれで悪くない、とトトテティアは思った。同時に、なにやってるんだろう、とも。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
次に会う時はあの魔族も、防壁の欠点を克服してくることだろう。でなきゃ、あいつはただのバカということになる。それはそれで助かるし、別にどうでもいいのだが。
旅は続く。
ようやく大きめの街に着いた。ここはレンジュ。城下町のようだ。
次の旅に向けた準備をする。
☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆ ○ ☆
買ってきた木の実をかじりつつ、風の噂に耳を傾ける。
街道の方には魔王軍が出たという。そいつを倒しに行くということになるかもしれない。先日の壁使いのようなマヌケなら助かるのだが。
城がやはり目立つし、見物をしておきたいが、そちらに行くことになるかどうかはまだわからない。
もし魔王軍と戦うことになったら、また何か金目のものを奪えやしないか。それでもって、美味しい果物をたらふく―――
と、自分の思考が良からぬ方向に進みつつあるのに気づいて、トトテティアは我に返った。自分は冒険者であって、賊ではない。