秋田県立金足農業高等学校・道徳講演会 笑いの効用~笑う力は生きる力~
2009年12月1日
皆さん、人間は何のために生きているのか。考えたことがありますか。
あるいは、自分が生きていることにどんな意味があるのだろうか。
私も皆さんと同じ年代の頃、考え悩んだ時期がありました。
ソクラテス、プラトン、デカルト、ニーチェなどの難しい哲学書を読みふけりました。
でも、なかなかわからなかったです。
ある時、テレビの青春番組で生きる意味を考える番組がありました。
「人生なんてつまらない、生きる意味をみつけることができない。ふと自殺が頭をよぎったときは、とにかく30歳まで生きてみることだよ。」とゲストの先生が言いました。
それが、ずっと頭にありました。
まあそうだね。どんなに偉い人だって誰もが納得する回答など出せない。このとき思いました。
若気の至りで正解を求めたいものですが、人生にはわからないことがいっぱいあります。
わからないことはわからないままで、生きるしかないのではないでしょうか。
30歳前後になると、社会人となり、家庭を持つ人もいる、会社では仕事ばりばりで皆から期待されている。子どもが生まれた、子どもが可愛い、この子を立派に育てよう。
こういう状態になると、もう誰も「人生とは何か、生きる目的とは何か」などと考えなくなります。
毎日が充実していて、家庭で地域で会社で、自分の役割がしっかりとある。
仕事が終わり仲間とわいわいがやがや言いながらビールを飲む、生きている喜びを実感できる。
人間って、自分が誰かに必要とされている。と感じる時が一番幸せですね。
もっと、簡単な例をだしましょう。
あこがれの女子高生とデイトができた。嬉しい。
公園を彼女と手をつないで会話しながら歩いている。とても幸せな気分。
こんな状態の時に「俺は何のために生きているのだろう。生きる目的は何か」
などと考える人はいないでしょう。
人間は幸せや喜びや楽しみを求めて生きている。
皆さんの年代では、とりあえず、このように考えていいのではないでしょうか。
種の起源を発表した生物学者ダーウインに言わせると、「種の保存のために人間は生きている」のだそうです。
でもこの回答に対しては、次のような質問がありますね。
「人間という種が保存されたとして、それがどういう意味を持つのですか」
これには答えられないですね。
別の視点から人生を見つめましょう。
皆さん、パソコンを使っていますよね。
パソコンにはウインドウズのような基本ソフトとワードやエクセル、パワーポイントのようなアプリケーションソフトがあります。
パソコンはアプリケーションソフトがないと意味がないのです。
と言うよりもアプリケーションソフトを動作させるためにパソコンは存在するのです。
ここをしっかりと頭に入れておいてくださいね。
人生を考えましょう。
人間の身体はパソコン本体です。
衣食住はパソコンで言えばウインドーズのような基本ソフトです。
生きていくために洋服、食べ物、住む家は絶対に必要ですからね。
それなのに、基本ソフトを立派にするためだけで一生を終わる人がけっこう多いのです。
サラリーマンは家を建てるために一生懸命働いている。女性は着るものにお金をいっぱいかけている。グルメ思考とかで、美味しいものを求めてあっちこっちに行っては食べ歩いて喜んでいる人もいる。
基本ソフトの充実だけを求めるのだったら、動物の生き方とたいして変わらないです。
衣食住は生きられる程度に確保すればいいのです。
茶道の千利休の言葉
「家は洩らぬ程、食事は飢えぬ程にて足る事なり」
家という物は、雨が漏らない程度で充分である。
食事は飢え死にしない程度で充分である。
それ以外の精神の充実、充足を求めて生きなさい。
基本ソフトはパソコンが動く程度であればよい。問題はアプリケーションソフトが大切ですよ。
ということを今から500年も前に利休は言っています。
「太った豚になるよりも、やせたソクラテスになれ」
こんなことを言った有名大学の学長もいました。
人生におけるアプリケーションソフトって何でしょう。
ボランティア、趣味、芸術文化活動、新しい物をつくる喜び、自己実現、他人の幸せ、愛、優しさなどです。
これこそが自分を自分たらしめるものなのです。
人星亭喜楽駄朗のアプリケーションソフトは
フラワーアレンジメント、手打ちそば、木工、カヌー、ガーデニング、短歌、囲碁、
講演・漫談、笑い学会活動、旅行、ブログ、料理などです。
テレビは見ません。テレビに搾取される時間がもったいないのです。
クラーク博士の有名な言葉
「少年よ、大志を抱け」これは誰でも知っています。
でもこの続きがあるのです。
名誉(名声)のためでも、おカネのためでも、権勢のためでもなく、自己完成のために
自分がこの世に生まれてきた。その使命、ミッションは何か。
自分という命をしっかりと燃焼させて命を噛みしめながら、楽しみながら生きていく。
自分のミッションは自分で決めればいいのです。自分が楽しいとするもの。
スポーツ、音楽、ボランティア、趣味、創作活動、何でもいいのです。
就職や仕事も大切ですよ。これは生きていくため、生活基盤をつくるために必要ですからね。
それをしっかりつくった上に、自分というものを花開かせてもらいたいのです。
だいぶ前から、学校現場で「生きる力」が取り上げられています。
それを話す前に皆さんに質問します。
なぜ、勉強するのでしょう。
こんな疑問を持ったことはないですか。
微分、積分、サイン、コサインなど私も一生懸命勉強しました。
こんなことは社会に出てしまえば、一部の技術者を除いては、まずつかうことはありません。
それなのに、なぜ、勉強するのか。
それは、考える力をつけるためにです。いいですか、考える力ですよ。
社会に出て、いろいろな問題が起こった。そのときにどのように対処すれば問題が解決するのか、それはまさしくこれまでの勉強で培った考える力が問われるのです。
問題を多面的に捉えて、問題の本質を見抜き、何が原因なのか、何が不足したのか、何が多すぎたのか、一つ一つチェックしていく。
これは考える能力がないとできません。
それから、もう一つ、考える仕方を勉強する。こういうことも言えますね。
解決しなければならない問題に突き当たったときに、どのような方法で考えていくか。
それを学校で知らず知らずに学んでいると思います。
考えると言えばね、私は人間の脳についてこんな計算をするのです。
1日に5時間 毎日、本を読むことにしてですね
1分間に500文字読む
1年間365日
5歳から85歳まで80年間 休まずに読書するとして(こんなことは不可能ですが、仮にできたとして)
一生で読む文字数は 43億8千万文字
500文字×60分×5時間×365日×80年=4、380、000、000文字
1文字は2バイト 8.76GB(ギガバイト)
一生かかって、読み続けても時間的な制約から、文字情報としては、およそ8.8ギガバイト程度の情報しか頭には入らないということです。
皆さんが家庭でもっているパソコンのハードデスクの容量はどれくらいでしょうか、
今でしたら、100ギガバイト前後はあるのではないでしょうか。
そうすれば、自分の頭に入る文字情報は一生読書し続けても、容量は8.8ギガバイト、
およそ家庭用パソコンの11分の1程度だということですね。
人間の脳の容量は約100兆ビットといわれております。
8ビット=1バイト
100兆ビット÷8=12.5兆バイト=12,500,000,000,000バイト
=12,500GB
脳の容量は12,500ギガバイト 一生の読書容量は約8.8ギガバイト
12,500÷8.8=1,420倍
脳の容量はこれほどもあるのに、それを殆ど使わないで、余したまんま、人間はあの世に行っているということですね。
20世紀最大の頭脳と云われたあのアインシュタインですら、せいぜい脳の全容量の5パーセントくらいしか使っていなかったという脳生理学者もおります。
人間が一生かかって処理できる文字情報量がせいぜい8.8ギガバイトしかないとしたら、
いかに自分に役立つ情報にすばやくアクセスできるか、という情報選択能力がこれからの社会では、重要になってくるのではないか。
インターネットはまさしく情報の洪水です。
世界中の国立国会図書館を手にいれたようなものです。
何かを知りたいという欲求、知的好奇心がなければ、全くの宝の持ち腐れです。
もう一つ、こんな疑問はないですか。
なぜ学校に行かねばならないのか。
小学校、中学校、高等学校と学校に通いますね。
勉強だけなら、優秀な親がいれば、子どもに教えればすむことです。
でも、それではだめなのです。
学校や学級をミニ社会と考えてください。
学級の中には、優しい生徒もいる、乱暴な生徒もいる、優秀な生徒もいる、優秀でない生徒もいる。
そういう学級の中で、自分がどのように行動すれば、どのように対処すれば、自分の居場所をつくってクラス内で仲良く過ごすことができるか。
担任の先生はさしずめ会社の社長とでも思ってください。
生徒同士で口論することもあるでしょう。意見の対立もあるでしょう。意地悪されることもあるでしょう。何があってもいいのです。
それらはすべて社会に出てからもあることなのですから。
教室とは、人間関係を実践的に学ぶ場でもあるのです。
心の弱い子どもが多いですね。
ちょっと太っている女生徒が男の子に「豚!」と馬鹿にされた。
もうそれだけで心に深い傷を負ってしまい、学校に行けなくなる。
こういう時にその女生徒がユーモアのセンスがあるといいのですよ。
「豚」と言われたら、こう切り返せばいいのです。
「ハイ、私は豚でございます。でもあなたよりは成績がいいわよ。
ということは、あなたは豚以下なのですね。おほほ」
こういわれたら男の子は反論できません。次の日から絶対に「豚」とはいえなくなりますよ。
教室でおならしてしまった。
恥ずかしいことだ、みんなから非難された。あああ、もう明日から学校に行けない。
こんな時もユーモアで乗り切れるのです。こういえばいいのです。
「今、おならしてしまいました。申し訳ございません。
でもね、僕は毎晩ジャスミンティーを飲んでいるのです。ですから僕のおならは
ジャスミンの香りがするのですよ」
そうすると、みんな、ゲラゲラ笑ってしまい、それで一件落着なのです。
ここで皆さんに声を大にして言いたいことがあります。
他人ってね。自分が思うほど人の失敗に興味がないのです。
そのときはちょっと気にはとめますが、すぐに忘れます。
他人の失敗を心にとどめておいたって何のメリットもないですからね。
もう一度言います。他人は自分が思うほど人の失敗には興味がない。
精神科医であるビクトール・フランクルの「夜と霧」という本を、読んだのですが、笑いについて、とても興味深いことが書いてあったのです。
この本は、ナチス強制収容所の実態を自分が強制収容された立場から書いたものです。
よく強制収容所へ送られたらすぐに殺されると思っている人が多いと思いますが、
そうではなくて、強制労働させられるのです。
過酷な労働、短い睡眠時間、粗末な食事、極端にせまいベッド、暖房すらもほとんどない、
こんな生活状態のなかで体が弱ってきて労働ができなくなると、ガス室に送り込まれて殺されるのです。
このような想像を絶するような絶望的な状態の中で、「生き延びる」ということは非常に困難で多くの人が死んでいくわけです。
「夜と霧」の第四章「非情の世界に抗して」という中に次のようなことが書かれていたのです。
このような悲惨な状況のなかで、フランクルは次のようなことを考えました。
「強制労働から自分たちの部屋に帰ってきたら、必ず一回冗談をいうことにしよう」
こう部屋の人々に提案したのです。
「失敗でもいい、感じたことでもいい、くだらないこともいい、とにかくみんな一つ冗談を言って、お互いに笑いあおうよ」
彼の提案に対して、「明日死ぬかもしれない悲惨な状況のなかで、冗談など言えるか」と反発した人もいたでしょう。
でも、彼はこれをやり続けた。
そして彼の提案に参加したメンバーは生き延びたというのです。
一日に一回冗談を言うのはくだらないことかもしれないけれど、
「今日受けなかったら明日は受けることをしゃべろう」と思いますね。
「明日こそは絶対みんなを笑わせてやろう」と思えば、明日一日生きる希望がわいてくるのです。
これを繰り返すことにより、生きる目標ができて生きようとするエネルギーが体に満ちてくるのです。
このことから思うに、笑いを失ったら人間はだめになる。
どんな惨めな、悲惨な状況のなかでも、とにかく笑うことを忘れないようにしようよ。
いや、悲惨な状況であればあるほど、笑いが絶対に必要なのです。
そして、これは、皆さんにも是非実行してもらいたいのですが、、、
長い人生においては、辛いこと、惨めなこと、悲しいこと、悔しいことなどが、ときどき起こります。
そんなときには、今日私が話したことを思い出してほしいのです。
冗談を言い合う、ふざけて笑う、笑わせる、こんなことを意識して実行してみてください。
笑う力、笑える力は「生きる力」ではないかと私は思っているのです。
楽しいから笑う、これも一理ありますが、
笑うから楽しい気分になる、ということも言えるのではないでしょうか。
私は、こんな事を実行しているのです。
日常生活の中で嫌なこと、気が滅入ること、悲しいこと、惨めなことなどがあったとします。
そんなときは、私は意識的にですね。
胸を張って、大空をしっかりと見つめて、大股で堂々と歩くようにするのです。
そして、家庭では陽気に明るく、わざと笑顔で話をするんです。
そうすると、惨めな気持ちがどんどん心から消えていくのです。
これとは反対に、落ち込んでしまって、首を垂れて、下をみて、とぼとぼと歩いてごらんなさい。そして、家庭内では愚痴をいったり、暗い話ばっかりだったら、いつまでたっても惨めなやりきれない気持ちだけが残ります。
皆さんには、是非とも、今日の私のメッセージを心のポケットにしまって欲しいと思います。
現代においてもう一つの生きる力とは、コミュニケーション能力のことです。
南海の孤島で生きるのならいざ知らず、私たちはどこに行っても人間の集団から逃げることはできないです。
就職すると会社という集団、結婚すると家族親戚という集団、地域に住むと町内会、趣味活動をしようとすればサークルという集団。
ですから、対人関係をうまく処理する能力、つまりコミュニケーション能力のある人は、快適な人生をおくることができると思います。
人星亭喜楽駄朗のやり方を話します。
まず他人に興味を持つことでしょうね。
他人に興味を持つと話しかけることができます。
自分の引き出しを多くすることも大切です。様々なジャンルのことに関心を持って頭の中に入れておく。
私はブログを持っています。ジャンルは90個もあります。ほとんど毎日更新しています。
お笑い情報、人生哲学、趣味、地域情報などでいっぱいです。
お時間がありましたらアクセスしてみてください。
それから、人間を好きになることでしょうね。
そして、自分をさらけ出す。そうすると相手も心を開いてくれます。
私は初対面で名刺を交換するでしょう。そうすると、すぐに相手の名前をなるべく多く言うようにします。
人間ってね、何が心地よいかと言うと自分の名前を言われることですよ。
ですから、相手の名前を多く言うようにすると、相手から好印象を持たれます。
コミュニケーション能力を高めるときに、ユーモアのセンスが生きてくるのです。
ここで、ちょっとお笑い漫談をしましょう。
山手線御徒町駅で切符販売機の前の行列に並びました。
ところが私の行列だけなかなか前に進まないのですよ。時間ないのに何やってんのや。
前に行ってみました。おばあちゃんが顔をこすっているのですよ。
時間ないのに何やってんの。切符販売機みました。
しわを 伸ばしてから 入れて ください。
千円札しわくちゃだと自動販売機読み取れないのよ。だからシワをのばしてから入れてください。と書いてあるのに、おばあちゃん勘違いして自分のシワを伸ばしているのよ。80年かかって出来たシワ1分で伸びないっていうの、御徒町駅でしょう。わあ、おがっち。
秋田駅前にアルスおしゃれ館というデパートがあります。
歩いていたら、おばあちゃんが壁にむかって
「わだしだ。よしだトメです。こんにちは」と大きな声をだしているのです。
あんまり大きな声なので「おばあちゃんどうしたの」ってききました。
「だってここさ書いてあるんだもの」
「お客様の声をおきかせください」
デパートに対する苦情クレームを入れる穴っこに向かって「わだしだ、吉田トメだ」
その声じゃないのよ。
おばあちゃんとお医者さんとの会話。
「おばあちゃん、この薬は座薬と言ってね、お尻にいれるんですよ。わかりましたか」
「はい、わかりましたよ」と言って、おばあちゃん、家に帰ってみそ汁おしるに入れて飲んじゃった。
医者も悪い。秋田弁で訛るもの。おしりとおしる。
これを聴いた長男が怒りました。「私の大切なおばあちゃんに座薬を飲ませるとは何事だ」
と医者に怒鳴り込みました。
医者はひとこと「しりません」
このまえ四国で連続放火犯の若い女性が逮捕されました。職業はなんだと思いますか。
家事手伝い。
私落語が好きでよく寄席にいくのですが、落語に手遅れ医者という話があります。
患者さんが来ると、最初に手遅れだ。と言う医者
そういっておけば、治らなくて、もともとだし、治れば「先生腕がいいですね」と褒められる。
「先生、大変だ、大変だ、こいつが屋根から落ちたんです。診てやっておくんなさい」
「あぁ、おまえがたの前だが、これは、手遅れだな」
「手遅れっていったて、落っこってすぐに連れてきたんですよ。
それでも手遅れですか」
「ああ、手遅れだとも。屋根から落ちる前に連れて来なさい」
せっかくの機会ですので、皆さんに他人を笑わせるコツを教えます。
その前に顔が怖そうな表情で冗談を言っても誰も笑ってくれません。
自分の顔がにこにこ顔であってこそ他人は笑ってくれます。笑顔の作り方を教えます。
割り箸を用意します。噛みます。そしてゆっくりと離します。この顔ですよ。
人間の顔って、唇のカタチによって全然ちがったものになります。
1 人間以外のものを人間と思って会話する。
これで笑いが取れます。
例えば、この体育館に虫が一匹入ってきたとします。
普通は虫か、で終わりです。
でもこの一匹に虫で笑わせようとすれば私ならこう言います。
「あっ、虫が入ってきたよ、人星亭喜楽駄朗は虫からも好かれるようないい男なんだ。
嬉しいなあ、虫さん、虫さん、あなたはメス、それともオス、
あれっ、返事ないよ。無視されちゃった。」
テーブルにぶつかって「痛い」当たり前ですよ。
当たり前では人は笑ってくれない。
テーブルにぶつかったら、「痛かったでしょう。痛いの痛いの飛んでいけ」
テーブルを人間と思う、心があると思って会話する。
2 予想がはずれると人は笑うのです。
あああ、のどが渇いた。お茶を飲みたい。
今、皆さんはなぜ笑ったのでしょう。
こちらにコップがあります。こちらにペットボトルがあります。注ぎます。
誰が考えたって、こっちを飲むだろう。その予想を外したから笑ったのです。
冷蔵庫を開けるとスイカがあった。当たり前ですよ。
冷蔵庫を開けたらバスケットボールが出てきた。なんだこりゃ。
3 人聞きの悪い言葉を都合のいい言葉に置き換える。
例題 警官と泥棒の会話
「今、おまえ盗んだろう」
「盗んでなんかいませんよ。ただ、誰も見ていないところでポケットに入れただけですよ」
先生と生徒の会話
「こら、授業中居眠りしてはいかん」
「先生、僕居眠りなんかしていません。ただ、上の瞼と下の瞼をくっつけているだけ
なんですよ。こうしていると眠気がとれちゃうんです。」
夫婦の会話
「あなた、毎晩ビール飲んでいるわよ、今日はビールやめなさい」
「うん、ビールやめます。そのかわり、麦でできた黄色い泡のあるジュース飲ませて」
「あなたってああいえばじょうゆうね。一本だけよ」
と言ってビール一本飲める。
ストレートな会話はこうなりますよ。
「あなた、今日はビールやめなさい」
「おれはどの乾いてビール飲みたいんだよ」
「あなたの健康を考えているのに、もう知らない、ぷん」
こうやって飲むビールって全然おいしくないです。
だって、すぐそばで妻がぷりぷり怒っているのだから、、、
ユーモアや笑いは、日常生活において意見の対立などでギスギスする人間関係を
スムーズにさせる効果があるのです。
サスペンションやスプリングのない車って乗り心地悪いです。 がだんがだんして、、、
サスペンションがあるから悪路でもスムーズに走行ができるのです。
職場、家庭、地域、サークルなど私たちはどこでも人間のつながりの中にいるのです。
相手の立場を理解し自分の意見を主張する。そのときにユーモアのセンスがあると
いいのですよ。
私は県職員として福祉事務所、児童相談所、児童福祉課などの福祉行政に25年間かかわってきました。
今日は、皆さんに「豊かな心」あるいは「心豊かに生きる」ことについてもお話したいと思います。
日本は、戦後、豊かさを求めて、がむしゃらに突っ走ってきました。
そして、私たちはこんにち、豊かさを手に入れました。
家庭内にあふれる電化製品、一家に2台もある車、快適なキッチン、豪華なインテリア、、、
でも、なぜか、幸福感とか満足感を感じない人々が多いような気がします。
10数年前、日本を訪問したマザーテレサが日本を去る前の晩、テレビに出演しました。
その時のメッセージを私は今でも鮮明に覚えています。
「愛は家庭から始まるのです。家庭で愛を教えられ、愛を育てた子どもは、他に愛を与えるようになるのです。その愛が隣人へ隣人へと広がり、やがて世界の平和にいたるのです。
日本は大変豊かな国になったと聞きました。
しかし、愛に飢えている人が、いっぱいいることを知りました。
愛に飢えている人の多いこの国は、私は貧しい国だと思います。
日本のみなさんさようなら」
マザーテレサからの指摘を待つまでもなく、
21世紀の日本は、物の豊かさから心の豊かさにギアチェンジする必要があるのではないかと私は痛切に感じております。
競争から共生(共に生きる社会)へ、取り合いから分かち合いへ、たくましさからやさしさへ、自分のしあわせから他人とのしあわせへ、、、そんなキーワードが浮かんできます。
平成6年、山本福祉事務所に在職していたいました。
そのとき、関西地方にある施設で 目がみえない、耳が聞こえない、話すことができない、という三つの障害をもった女性と面会しました。
コミュニケーションの手段はお互いの手の平にカタカナで文字を書いて意思疎通を図るというものでした。彼女のふるさとは山本郡でしたので、出身町のことを説明すると懐かしそうに
にこっと笑みを浮かべます。
手のひらを通じての会話、それが彼女にとって、とても楽しいもののようでした。
彼女との会話を通じてもっとも印象に残っている言葉
それは「神様に生かされていて、私は本当に幸せです」と言ったことです。
三つの障害をもった女性にそういう言葉を言われて、私は当時、とてもショックを受けました。
私は、五体満足で、何不自由なく生活しているのに、ちっとも幸福感はありませんでした。
それどころか、日常生活での思い通りにならない不平不満でもんもんとしていました。
彼女のひとことで、深く、深く、自分の生き方を反省いたしました。
人間の身体には60兆もの細胞があると言われています。
その細胞が全部機能を果たさなければ私たちは生きていくことができません。
夜になると眠ります。でも心臓も肺もその他の臓器も休むことなく活動しています。
ですから私たちは毎日生きることができるのです。
心臓が動くのはあなた方の意思でしょうか。あなた方の意思とは何にも関係ないのです。
それでは誰の意思で心臓は動くのでしょうか。
目に見えない大いなる意思、大いなる力によって私たちは生かされている。
ある人はそれを神といい、ある人は大自然の摂理という。
生きているのではない。生かされている。これが分かったとき、人間はとても謙虚になります。
生かされているこの命は大切に扱わないといけない。
そのような思いが自然に沸き上がってくるのです。
のどが渇くと水を飲みたくなります。このコップ一杯の水について考えてみましょう。
水はどこから来るのでしょう。大きな川から取水されてきれいな水に浄化されます。
そこから配管されてきます。
水を浄化する建物をつくる人、毎日浄化する人、配管をつくる人、配管を設置する人、
多くの人々の支えがないと、一杯の水も飲むことはできないのです。
このことが分かったら、今度は自分も世のため人のために何かをしてほしいのです。
そして「豊かに生きる」とは、大自然と花鳥風月、さらには人間の心と行動など美しいものを美しいと感じて感動できることではないでしょうか。
野に咲く一輪の花、小鳥のさえずり、雲間に浮かぶ満月、そよ風の音に耳を傾ける。
人とのふれあいの中で感じる優しさや思いやり、そして、それらに感謝する心。
自分の幸せだけを追い求める人生には、あまり感動はありません。喜びが小さいのです。
他人の幸せを考える人生にこそ大きな感動があると思います。
豪邸に住んで豪華な車を乗り回したからって、それがどうしたというのでしょう。
それよりも、他人に喜びを与えて、感謝された方の幸せが人間の心を豊かにします。
野球の試合にたとえるとよくわかるでしょう。
1:0で負けている最終回、ツーアウト2,3塁、打席に自分が立っている。
ヒットを打ちたい、打てば勝てる。打った2塁打で2点入った。
逆転サヨナラ勝ち。監督が喜んでいる、選手がベンチで飛び上がっている。スタンドでは応援団が大騒ぎになっている。
自分のヒットがこんなにも多くの人々に喜びや幸せを与えた。
自分のヒットを自分が喜ぶよりも、大勢の他人が喜んでくれた。これが最高の幸せではないでしょうか。そして、この喜び幸せがあるから野球を続けるのでしょう。
このように劇的なことでなくてもいいのです。
ほんの少しでも他人が喜んでくれたら、それを自分の幸せと感じましょう。
バスに乗っていたら高齢者が入ってきた。席を譲ったら高齢者が喜んでくれた。
障害者が道路で困っていた、ちょっと声をかけてあげる。こんなことでもいいでしょう。
人間の価値は、生まれてから死ぬまでの間に、自分と関わった他人にどれだけ幸せや喜びを与えたかにかかっている。と私は思っています。
就職する生徒さんも多いとのことですので、働くことの意義について私の所見を述べます。
高校でも大学でも卒業するとたいていは就職して働いて給料をもらいます。
給料で生活して、人生をエンジョイしますね。
「働くのは給料をもらうため」と思っている生徒が多いでしょうが、それだけではないのです。
会社で自分の仕事を一生懸命やる。上司から認められる、感謝される。評価される。
これが嬉しいのです。
人間って誰かに必要とされてこそ幸せを感じるものなのです。
もう一つあります。
職場でいろいろな仕事をやっていく中で、人間的に成長していくのです。
今まで出来なかったことが出来るようになる。自分という人間がどんどん大きくなっていくのを実感できます。
給料日を指折り数えて待つような社会人にはならないでください。
仕事に一生懸命打ち込んでいたら今日が給料日だったよ。こんな社会人になって欲しいです。
それから「若い頃の苦労は買ってでもせよ」と言い古された言葉があります。
これはまさしくその通りです。苦労ほど人間をたくましく成長させるものはないです。
私の経験談を話します。
私は児童相談所で児童福祉司をしていました。
児童福祉司とは問題を抱えた児童の家庭を訪問しまして、児童や両親と面接し問題行動を改善していかせる仕事です。
児童相談所には、「児童相談の現状について」あるいは「児童虐待について」という講演依頼が外部の機関からたまに来ます。
職員は多忙ですので、こういう講演があると皆さん嫌がります。
研修会で1時間講演することは、事前準備がすごく必要なのです。
質疑応答もありますので、児童相談所の業務と組織全体を把握していないと質問に答えられなくて
恥をかくのです。講演する人が決まらず時間ばかりが経過して、総務担当が悩んでいる。
こんな状態の時、私は「私がやりましょう」と自分から手を挙げます。これは自分を磨くチャンスなのです。
講演まで一ヶ月あるとしたら、所長になったつもりで心理判定業務、一時保護業務、電話相談業務、児童福祉司業務、年間相談の状況、児童虐待の内容などすべてについて勉強しレジメを作成する。
児童相談所のことは、私が一番熟知している。と自分が思うまでとことんやるのです。
1時間の講演が終わって一件落着ですが、
自分には児童相談所のあらゆることが完璧に頭に入っていることになる。これが大きいです。
次に別のテーマで依頼があったときにも、そのテーマに沿った資料収集をして勉強すればいいのです。
こういうことをやると、もう他の職員からも「講演は人星亭さんにまかせようよ」となります。
今、私が県内外で講演しているのは児童相談所で自分を磨いたからだと思います。
私の体験から、皆さんも「嫌な仕事は自分を磨くチャンスだ」と思って手を挙げるくらいの積極性を身につけて欲しいですね。
高名なお坊さんがこんなことを言っていますよ。
「人間の命は白駒の隙を過ぎるがごとし」
人間の一生なんて長いようだけど、白い馬が塀の隙間をすうーっと過ぎていくようなものだよ。
宇宙が誕生して約150億年、それを一年とすると、人間の一生は約0.2秒です。
宇宙的スケールで人間の命をみたらあっと言う間の出来事です。
たった0,2秒の人生を自覚せよ。と自分に言い聞かせて生きています。
こんな短い人生ですから、悩むなんて馬鹿らしいのです。
悩む暇があったら、明るく楽しく愉快に有意義に生きましょう。と自分に言い聞かせています。
私の名前は人星亭喜楽駄朗です。
これは「人生を気楽に生きましょう」という自分の哲学を名前にしたものです。
人間の幸せを計る物差しとは何でしょうか。私は思います。
それは、一生涯に何回笑ったか。これにつきるのではないでしょうか。
お金持ちで毎日おいしいものを食べて電化製品に囲まれて、リッチに暮らしたとしても、笑いがない家庭だったら幸せでしょうか。
たとえ6畳一間のアパートでも笑い声の絶えない家庭こそが幸せといえるのではないでしょうか。
最後に皆さんに送る言葉です。
人は決して幸せを避けて通ることはできない
花を見ないで道を通ることができないように、、、 室生犀星
人生は幸せに満ちあふれています。
それなのに自分の不幸を嘆くのは、道ばたの花を見ないで目隠しをして、道を歩いているようなものです。
皆さんのこれからの長くもあり短くもある人生が幸せに満ちあふれることを記念しまして
講演を終わります。ご静聴ありがとうございました。