ノースアジア大学文学賞エッセーの部 2011年、2012年、2013年、2014年、2015年、2016年、2018年、2020年、2021年、2022年、2023年の応募原稿です。
ユーモア話術コンサルタント 人星亭喜楽駄朗
2011年
自殺率ナンバーワン
人星亭喜楽駄朗は2006年8月20日、日本笑い学会に入会した。会員は全国で1,100人、東北で50人、秋田県で15人である。会長は関西大学人間健康学部の森下伸也教授、本部は大阪市北区西天満にある。何と言っても笑いの中心は大阪だから。毎年7月に日本笑い学会総会・研究発表会が開催されており、私は2007年静岡文化芸術大学、2008年京都外国語大学、2009年東北大学、2010年関西大学千里山キャンパス、2011年関西大学堺キャンパスでアカデミック漫談という研究論文を5年連続で発表した。アカデミック漫談とは、幸せ、健康、夫婦、老い、病気、生死などという根元的な問題を笑いというコロモに包んで話す学術的哲学的な漫談である。私のキャッチフレーズは「ソクラテスの脳みそとチャップリンの舌を持つ男」。全国の会員にすっかり顔なじみとなったので私が登壇すると「いよう!待ってました!」と会場からいっせいに声がかかる。笑いやユーモアについて深く広く研究したことが認められて平成21年10月2日、秋田市南部地区市民憲章連絡協議会から笑学博士号が授与された。
秋田県は16年連続自殺率ナンバーワンの県である。2位は青森県、3位は岩手県。北東北3県がベストスリーだ。全く嫌になってしまう。秋田県はお米は美味しい、お酒も美味しい、空気まで美味しい。女性はきれい、自然は豊か、人情は厚い。人星亭喜楽駄朗はこの世の天国ではないかと思っている。それなのになぜか死に急ぐ人が多い。秋田県人はプライドが高い、恥ずかしい思いはしたくない、見栄っ張り。倒産、病気、生活苦でこれまでのレベルを維持できなくなった。そんな姿を他人に見られるなんて耐えられない。いっそのこと、、、「人生は山あり谷あり、いい時もあるさ、良くない時もあるさ」と思えばいい。倒産したら一からやり直せばいい。病気になって介護が必要になったら堂々と介護されていればいい。収入が減少したらその範囲で生活を楽しめばいい。
人星亭喜楽駄朗は秋田県健康福祉部が実施している「こころの人材バンク・講師派遣事業(自殺予防)」の登録講師である。これまで十数回県内各地の研修会で「笑う力は生きる力」という演題で講演してきた。
ナチス収容所に強制収容された精神科医ヴィクトール・フランクルの著書「夜と霧」を読んだら次のことが書かれていた。過酷な労働、粗末な食事、狭くて固いベッド、劣悪な環境なので病気になり死亡する人も多かった。このような状態でフランクルは仲間に提案した。「一日一回冗談を言おう。ふざけてみんなで笑おうよ」「明日死ぬかわからない時に冗談など言えるか」と反発した人も大勢いた。でも彼は賛同する仲間とこれをやり通した。一日一回冗談を言う。今日受けなかったら明日は受けるようなことを考える。面白いネタにはみんなが笑った。これを繰り返すことにより生きる力が体の底から出てきたように思う。
長い人生には、つらいこと、惨めなこと、とても悲しいことが時々起こる。そんな時こそ、冗談を言う、駄洒落をいう、ふざけて笑う、笑わせる。こんなことを実行して欲しい。「ユーモアとはにもかかわらず笑うことである」これがドイツのユーモアの定義だ。フランクルは極限状態の時にこれを実行した。
私は自分の身のうえに悲惨な事態が起こると、胸を張って太陽を見つめて大股でふんぞり返って歩く。家庭では妻と明るく楽しく会話することにしている。
普通はどうでしょうか。「あああ、大変なことになってしまった。明日からどうしよう。とほほ」と言ってうなだれてとぼとぼと歩きがちだ。起きてしまったことを100回嘆いても元には戻らない。すぐに心を切り替えて笑うことにより心身を明るくする。そうすると普通は3ヶ月で回復するところが3日で回復する。事後の適切な対応策も次々と思い浮かんでくる。
ついでだが、病気になったら笑う。「病気になっちゃった。わっはっは、わっはっは。病気になっちゃった、わっはっは、わっはっは」と笑えばいい。
健康のためにジョギングする人は多い。笑いは内臓のジョギングだ。笑うことにより肺、心臓、腎臓、胃などのジョギングになるから健康にいい。
笑うことによって免疫力がアップした。笑うことによりリウマチに膝の痛みが軽くなった。笑うことにより糖尿病の血糖値が下がったなどという研究事例がいっぱいある。
人間は生まれ落ちた瞬間から病気になるように遺伝子にプログラムされている。病気になるのは当たり前。だから闘病などと言って病気と闘うのではなくて、病気君の頭を撫でながら病気君と肩を組みながら一緒に人生を歩むという姿勢が大切だ。
散歩の好きな人は春夏秋冬散歩する。でも秋田県での冬の散歩は危険である。除雪したあとはテカテカに凍っている。それに雪が降ると見えないので滑って転ぶ人が多い。
一番いいのは病院廊下の散歩だ。病院の廊下は長い、8階までもある。何かあっても医者がいっぱいいるから安心だ。もっといいのは帽子を被って散歩するといい。老化防止(廊下帽子)になる。
自殺の原因は金銭関係もかなり多いが、お金のことで自殺するなんて本当に悲しいことだ。「うまい物を食べて、うまいお酒を飲んで、借金はおそく返すのが健康のコツ」
スペインのことわざ「十度破産しても、一度死ぬよりはまし」ユダヤの格言。
だから、1億円の借金があってもびくびくすることはない。借金取りが来たら、ふんぞり返って言おうよ「今日は一円返そう。明日も来てくれ一円返そう。1億日かかってのんびり返すよ。ワッハッハ」借金は借りた方も貸した方も立場は五分五分だ。一方的におどおどすることはない。あまりにも相手がひどい取り立てだったら警察に通報すれば、脅迫という罪で相手が逮捕される。
私が講演する研修会には町内会役員、民生児童委員、保健関係者、ボランティア、元気高齢者などがメインで「明日自殺したい」と思っている人は殆ど来ない。私と一晩寝ないで語り合ったら人生がいかに素晴らしいものか、わかるはずなのに残念なことだ。
杉良太郎さんが歌った「すきま風」は自殺予防の応援歌みたいだ。
「人を愛して人は心ひらき、傷ついてすきま風知るだろう。いいさそれでも生きてさえいば、
いつか優しさにめぐりあえる。その朝おまえは小鳥のように胸に抱かれて眠ればいい」
人間の一生の幸せって何で測ることができるでしょうか。それは一生涯にどれだけ多く笑っ
たかという回数で測ることができる。
100歳まで生きても全然笑わなかった人って幸せでしょうか。50歳まで生きたとしても
毎日笑いの絶えない生活を送っていた人の方がトータルとして幸せな人生だと思う。
人生は多く笑った方の勝ちだ。「笑う門には福来たる」とはよく言われている。私はちょっ
と変えたい「笑う顔には福来たる」明るい笑顔こそが幸せな人生につながる。
室生犀星の言葉で結びとしよう。「人は決して幸せを避けて通ることはできない。花を見な
いで道を通ることができないように、、、」
2012年
姫踊子草との出会い
平成14年4月1日、私は秋田県中央児童相談所から潟上市の秋田中央健康福祉センターに異動した。4月8日は会議後に懇親会となったので、車を置いて秋田市の自宅に帰宅し、翌朝は列車に乗りJR大久保駅に降りた。駅にはタクシーが待機していなかったので職場まで2.5キロくらいあるがやむなく歩くことにした。
道路端には春の日を浴びて土筆がいっぱい咲いていた。初めは土筆しか目に入らなかったが、歩くにつれ土筆の隣に小さな紫色の花があるのに気がついた。その花が目にとまったので、その花を探すようにして歩いていると、土筆のそばには至る所にその花が咲いていた。そして、ある土手に来たら私は思わず立ち尽くしてしまった。広さ10畳もある土手一面がその花で覆われていた。あまりにも見事に咲き乱れていたので、その中の1本に話しかけた。
「あなたの清楚な姿に感動しました。是非、私の机の上で一緒の時間を過ごしましょう」すると、その1本の花は、風にたなびきながら頷いてくれた。摘んで職場に持ち帰り、女性職員からコップを借りて水を入れその1本の花をさした。
土手に咲いていた野の花でしたが、机の上において眺めていると、とても風情があり花屋さんの花に負けないくらいの存在感があった。たまたま、書類を持ってきた課長が机の上の花を見て「これは姫踊子草ですね」とさりげなく言った。私が摘んだ野の花は姫踊子草という素敵な名前の花とわかりとても嬉しくなった。
普段、机の上に花など置いたこともない私が花を置くものだから、女性職員がもの珍しそうに近づいてきては「この花の名前は何というのですか」と質問する。私は課長からの受け売りで名前を告げると「うわああ、素敵な花ですね」と言ってくれる。急に花博士になったような気分で楽しかった。
次の日も夜は懇親会があったので、車を置いて秋田市に帰った。また明日は列車通勤になるが、全然苦にならないどころか、明日が待ち遠しくてしかたがなかった。あの道端の土手で咲いている姫踊子草に会えると思ったからです。
翌朝、大久保駅からゆっくりと土手の姫踊子草を眺めながら歩いたが、道端の土手には、心ないドライバーが捨てたであろう空き缶やビニール袋などが散乱していた。でも私は姫踊子草だけを見つめようとして歩いていたので、そういうゴミはあまり気にならなかった。私にとってこの土手は、姫踊子草が咲き乱れる素晴らしい土手なのだから。
4月13日土曜日の朝、秋田市手形住吉町にある県職員公舎付近を散歩した私はがく然とした。
なんと、そこにも姫踊子草がいっぱい咲いていたのです。私はこの公舎に住んで12年にもなります。こんな近くに姫踊子草がいっぱい咲いているのに、これまで全く気がつかないでいた。「姫踊子草に申し訳ない」という気持ちでいっぱいになった。
男鹿市の実家には母が一人暮らしをしているので、毎月2、3回夫婦で訪れます。4月27日(土)実家に行った時、私は唖然としました。なんと実家の玄関前にも姫踊子草が咲いていたのです。
平成14年4月の人事異動で潟上市に行かなかったら、そして飲んだ次の日、職場まで歩いて行かなかったら、私は一生「姫踊子草」の存在すら知らずにあの世に行っていたことでしょう。
このことがあってから、私は野の花を求めて毎朝、自宅付近を散歩するようになった。姫踊子草が咲いているのはわかる。しかし、それ以外の花もきっと見つかるはずだ。そう思って道端を見つめながら歩いていると、次々といろんな草花が見えてきます。
十二単、白詰め草、菜の花、タンポポ、鈴蘭、春紫苑、マーガレット、名前のわからない花、、、名前の分からない花を見つけると、その名前が知りたいので、その花を3分間凝視し脳細胞に焼き付ける。そして週末に図書館に行き、花図鑑でその花を探す。 名前が分からないので、花図鑑全部のページを見なくてはならないが、そうして苦労して名前を知ると、その花は完全に「心の庭に咲く花」となる。心の庭にいっぱい花を咲かせたくて、目を皿のようにして道端を見つめながら、毎朝散歩していた。
姫踊子草を発見した土手と私との関係を人間関係に置き換えてみた。夫婦、嫁姑、親と子、上司と部下、同僚同士などです。「この人には必ず長所、美点、良いところがあるはずだ」そう思って接すると必ずそれが見えてきます。反対に欠点、短所、良くないところ、それだけを見つめようとすれば必ずそれが目につく。
大久保駅から職場までの道端土手の空き缶、ビニール袋などばかりに目を取られていたら、なんて汚い土手だとなる。しかし、野の花を発見することに喜びを感じていたら、姫踊子草、土筆、野の花が咲き乱れる素晴らしい土手となる。同じ土手です。見る人の心の持ちようによって土手はどのようにでもなる。人間関係も同じような気がする。
今から30年くらい前一世を風靡したテレビ番組に日曜洋画劇場があった。番組の最後に必ず「さよなら、さよなら、さよなら」というので有名な淀川長治さんは次のように言っていた。
「私はいまだかつて嫌いな人に会ったことがない」
人間関係の原則は「嫌がるから嫌われる、好きになるから好かれる」です。
ある時、彼は旅先の旅館で一人のんびりと風呂に入っていたら、入れ墨をしたやーさんが入って来た。一瞬嫌だなと思ったが、そこをぐっとこらえて「あなたのデザインは素晴らしいですね」と言った。そしたら、さすがのやーさんもにっこり笑って「体が暖まるいい湯だね」と答えたそうだ。 いずれ、一度しかない人生を楽しいものにするには、自分の回りに好きな人をいっぱいつくることではないかと私は思う。
2013年
50年後の恩返し
私は定年退職して4年になりますが、未だに心に残っている保育所の思い出があります。
男鹿市で生まれて5歳で船越保育所に入りました。人見知りする引っ込み思案の子どもだったので、母親はとても心配していました。私の家は保育所の玄関から150メートルくらいの近くにありました。保育所に行っても、集団に入れず嫌になって途中で帰ってくるのではないかと母は思っていたようです。
でも、その保育所には串本先生という女性の所長がいました。5歳で漢字は分からなかったのですが、簡単な漢字ですので5歳の子どもでも理解し読むことも書くこともできました。串本先生はどういう訳か、私をみるとよく声をかけてくれるのです。もしかしたら、保育所のなかで私が一番坊ちゃんらしくて可愛いかったからかな?
「おはよう、保育所楽しいでしょう」とか「今日は何して遊んだの」とかそんな他愛のないものでした。でも私にしてみれば、それが嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。だって、この保育所で一番偉い先生が私に話しかけてくれるわけですから。
帰る時にまた、先生に話しかけてもらいたくてわざと所長室の付近を通って窓越しに先生を見ていた時もありました。先生は私の姿に気づくと席を立ってきて「あら、ひろおちゃんどうしたの。明日も来てね、先生、待ってるわ。さよなら」その声を聴くと一目散に走り出して家に帰りました。串本先生と何かのイベントで手をつないで話ながら歩いたことがあります。優しい先生の手のぬくもり感触は今でも忘れないです。先生はいつも紺色のスーツをきて、銀縁のメガネをかけて、にこにこと微笑みをたやさない人でした。
私64歳になったのですが、今でもその顔と姿をはっきりと覚えています。ついでにですが、担任の先生の顔も名前も全然覚えていません。
でも今、冷静に思うと串本先生は私だけをえこひいきして声がけをしたのじゃない。多分、ちょっとひ弱そうな子どもには、誰にでも声をかけていたのではないか。だって先生のように立派な人がえこひいきするとも思えないからです。
と言うことは、先生が船越保育所に在任した年数を私はわかりませんが、先生の行為を心に刻んでいる人が大勢いるということです。
私は串本先生に恩返しはできないです。もうこの世にはたぶんいないでしょうから、、、でも先生の他人を思う心、優しさはしっかりと受け継ぎました。だから、私としてはその優しさを今度は、誰かにすればいいと思いました。
偶然というか必然というか、秋田県職員時代に地域の保育所を監査する職務担当となり、保育所を訪問したことがありました。当時は全国で子どもが被害にあう事件が続発しており、危機管理や不審者対策などを保育所関係者と話し合いになりました。
「たまに職員会議で話し合うことはありますが、いざ、自分の保育所がそのような状態になったらパニックになるでしょうね」などと所長は話していました。不審者が入ってくればすぐに警察に電話したとしても、警察官が保育所にかけつけるまで最低10分前後はかかります。その間は所長、主任保育士等が不審者に立ち向かわねばならない。
その10分間腕力の弱い女性の強力な助っ人として刺股があればいいとふと思いました。私、木工が趣味ですので刺股の試作品をつくって一番近くの保育所に持っていったら所長から大変喜ばれました。長さが2メートルありますから、不審者が刃物をもっていても届かない。木で作ってありますから軽い。約1キログラムですから、腕力の弱い女性でも楽に持てるのです。その町には他に二つ保育所があったので、次の日曜日にまたつくって持っていきました。
こうやって管内の保育所全部に刺股を贈呈しました。所長に手渡す時「この刺股は絶対に使用する機会がないことを祈っております。保育所の守り神として事務室の見やすい場所に置いてください」と言いました。保育所では一年に数回の避難訓練などに刺股を使用しているようです。
趣味の木工で刺股を作って保育所長に贈呈すると、とても喜んでくれるので嬉しいです。
趣味の木工で棚、本箱、椅子など自分のものばかり作っても喜びは自分だけでたかが知れています。、他人が喜ぶようなものを作れば、自分のものを作っているよりはるかに喜びは大きくなります。
私の住んでいる町男鹿市船越には新築なった船越保育園があります。いつの間にか慣れ親しんだ保育所という名称はなくなり保育園となっていました。そして船越児童福祉センターも併設されていました。通りかかると子どもたちの歓声を聞くことがあります。
その度に50数年前優しく声をかけてもらった串本先生の笑顔が思い出されます。私の好きな言葉は「人生の終わりに残るものは、集めたものではなく与えたものである」です。串本先生が子どもたちに与えた行為は私たちの心に永遠に残っています。その先生の行為を50年後、私が引き継いで保育所に刺股を残した。そしてさらにまた50年後にその刺股を見て誰かが保育所に何かを残すような行為をしてくれると嬉しいです。
串本先生の優しい行為が時間空間を飛び越えていついつまでも残っていくのです。
2014年
運命的な出会い
忘れもしない。2006年8月20日の日曜日。その日の朝、魁新聞を見たら情報欄に「笑学校インあきた」という小さな記事があった。「笑いの学校って何をするのかな、おもしろそうだね」
ママチャリで会場のアルヴェに行った。日本笑い学会東北支部の会員数名が秋田に来た。最初は東北支部長のあいさつ。マイクの前でいきなり「わっはっは、わっはっは、わっはっは」の大笑いだった。
おもしろい支部長だなあと思ってニコニコしていたら、出席していた私たちにも「立ち上がって大笑いしなさい」と言った。出席者30名くらいが立ち上がり恥ずかしいから小さな声で「わっはっは、わっはっは」と笑った。そしたらカミナリ「声が小さい!もっと大きな声で全身で大笑いするのです」もう逃げることはできない。
覚悟を決めた。半分やけくそ気味にこれまでの人生で最大級の全身大笑いをした。そしたらすごくすっきりさわやか。それはこれまで無意識のうちに閉じ込められていたモヤモヤしたモノが一気に放出されたような気分だった。
その後はお笑い芸人たちが演技した。こんなにおもしろい支部長ならきっとおもしろい会に違いないと私は直感した。イベントが終了したら直ちに日本笑い学会への入会手続きをした。数日後、支部長から手紙が届いた。
それには支部長撮影の私の写真が同封されていた。これには感動してしまった。つい最近入会したばかりの一会員に支部長直々の手紙と写真まで郵送されるなんて。この時から私は支部長を絶対的に尊敬信頼するようになった。東北支部では会員になると芸名をつくるルールがあった。
支部長から「おもしろおかしい芸名をつくってね」と言われた。芸名を書いては消して書いては消していろいろ考えた。ふと一度の人生泣いたり悩んでもしようがない、人生を気楽に生きたいね。人生って気楽だろう。これがいいね。漢字を適当に当てはめていった。
こうして人星亭喜楽駄朗が誕生した。
日本笑い学会に入会してからの活動は全て人星亭喜楽駄朗でやっている。本名米谷裕夫は60年近くも使用したからお役御免。これからの人生は人星亭喜楽駄朗一筋で行こうと心に決めた。日本笑い学会に入会したからには笑いについて研究しないといけない。
図書館に通っては外国のジョークやユーモア、江戸時代の小噺、笑い話などを乱読した。そうしたら笑いのパターンが見えてきた。そうか、こういう風に話すと人は笑うんだ。笑い学研修と称して年2回は東京で4泊5日の寄席三昧、浅草演芸ホール、新宿末広亭、池袋演芸場では昼の部と夜の部通しでプロ芸人の話術をじっくりと聴いた。
私がつくった漫談原稿を支部長に送り読んでもらったら支部長から電話が入った。「これは秋田にとどめておくのはもったいない。日本笑い学会研究発表会で発表した方がいい」と背中を押された。2007年7月、日本笑い学会総会研究発表会が静岡文化芸術大学で開催された。
私はアカデミック漫談というタイトルで全国の笑い学会会員を前に発表した。どのような反応があるのか一抹の不安はあったが20分の発表を終えたら私の前に名刺交換の行列ができた。予想以上の反応があり自分の漫談に多いに自信を持つことができた。
その後は毎年の学会で発表しており人星亭喜楽駄朗は研究発表会の常連となった。仙台市では東北支部大会が毎年開催されており、私も参加しお笑い演芸を支部長からみてもらってはアドバイスを受けてきた。
支部長のネタとして、焼きごてで黒く笑いと刻印した木製マスを参加者一名に贈呈する場面があった。このネタは支部長の許可を得てパクることにした。ただ私は焼きごてで黒い笑いを付けるのではなくて削った消しゴム印で赤い「笑」をマスに描いた。黒よりも赤い笑がはなやかに見えたのだ。講演日が誕生日の人に贈呈することにしている。その日に該当者がいなければ今週、今月と言う風に範囲を広げていく。
「患者さんこそ笑いが必要である。病院こそ笑いが必要である」これが私の持論だ。これを実現するために私は仲間を引き連れて総合病院ホールでお笑いイベント・笑学校イン○○○病院をこれまで25回開催した。
開会する時には拍子木を叩いて高らかに「笑学校イン○○○病院のはじまり、はじまり!」と宣言する。拍子木を叩くとざわついていた会場が静かになるという効果もある。拍子木を叩いての開会も支部長からのパクリだ。
患者さんから「何か月ぶりで大笑いしました。楽しかったです。また来てください」と言われるのが一番嬉しい。笑うと病気に対する免疫力がアップする。笑うと糖尿病の血糖値が下がる、笑うとリウマチの膝の痛みが軽くなる。いいことがいっぱいあるのです。
だから病気になっても落ち込まないで笑ってほしい。あの日アルヴェに行かなかったら支部長に会えなかった。たまたま行ったので支部長に会えた。そして日本笑い学会にも入会した。この出来事は私の人生において、偶然のようでもあり必然のようでもあった。一つの行動一つの出会いが正しく私の人生を変えたのだ。運命的な出会いに感謝感謝である。
2015年
ヨネヤンとヨネヤ
4年前全く無知状態でフェイスブックを始めた。最初の頃はいろいろな人のコンテンツを眺めているだけだった。1か月も眺めていたら自然にやり方を覚えた。コンテンツが良かったら「いいね」を押せばいい。いいねを押された相手は嬉しい。好感の残るコンテンツには何かコメント書きたくなる。書くと相手からコメント返しがくる。コメント交換を繰り返していると自然に親しみが増していく。
「友達申請してよろしいですか」とメッセージを入れる。「是非ともリクエストしてください」これでフェイスブック友達になる。このようにして友達が増えていく。私も日常生活でのおもしろいことや楽しいことをアップする。いいねやコメントが入るととても嬉しい。
たまたま研修会、異業種交流会などで名刺交換すると「私たちフェイスブック友達同士ですよね」と言うことがよくある。リアル社会友達に切り替わる瞬間だ。
名古屋市在住の名物アナウンサーNさんとは3年前フェイスブック友達になった。彼は私が日本笑い学会秋田県人会長としていろいろな社会活動を展開していることをコンテンツで知っていた。アナウンサーとしてユーモアセンスの重要性を感じていたらしくて日本笑い学会にも入会した。
2014年8月関西大学堺キャンパスで開催された日本笑い学会研究発表会で私は「アカデミック漫談~人生60歳からがおもしろい~」というタイトルで研究発表した。
エレベーター前で彼とばったり出会った。「おおおお!師匠!」「うわあああ!Nさん」初対面だがそんな雰囲気ではなかった。十年来の友達が再会したという気分だった。学会での懇親会終了後は2次会として南海電鉄堺東駅前のラーメン店に入って懇談した。
全く面識のない秋田の男と名古屋の男が堺東駅前でラーメンをすすっているという信じられない風景が現実に起こるのだ。
今年の8月は三重大学医学部で日本笑い学会が開催され私は「笑いの基本定石ベスト5~これであなたもユーモア名人~」というタイトルで研究発表した。自分のユーチューブ番組を持っているNさんから人星亭喜楽駄朗特集をやりたいので学会を終えたら名古屋のスタジオに来てほしいとの誘いがあった。
学会終了そして岐阜市観光を終えてから8月5日スタジオを訪問した。スタジオの廊下で30歳代の男性と対面しあいさつ名刺交換した。「秋田から来ました人星亭喜楽駄朗です。本名は米谷です。よろしく」彼は驚いたような表情を浮かべ目が輝き始めた。
「私、名古屋では友達からヨネヤンと呼ばれているのです。米本です。よろしくお願いします」「本当ですか。でらびっくりだがね」と思わずにわか名古屋弁が出てしまった。名古屋のヨネヤンと秋田のヨネヤ。どんぴしゃり。こんな偶然ってあるだろうか。
神様がこの二人の男を巡り合わせるとどんな化学反応が起こるのか、天井からニコニコしながら見ているみたいだ。番組はNさんとヨネヤンの二人が私にインタビューするという形式だった。私がステージで演じている爆笑モノのお笑いネタもいっぱい演技した。1番組20分のユーチューブを3日分収録した。
番組終了間際にヨネヤンが突然「私、師匠のかばん持ちしたいです。弟子にしてください」と収録中に言った。「いいですよ。笑いをまじめに学びたい人は大歓迎です」「うわああ、ありがとうございます。これから笑いを一生懸命勉強します。よろしくお願いします」「弟子名は人星亭喜楽駄朗の朗という漢字を自分の好きな漢字であてはめてください」「名古屋弁がいいですね。漢字ではないですが、人星亭喜楽駄がねはどうでしょうか。名古屋弁で~がねとよく言うんです」「オーケーです」かくして名古屋市に19番弟子「人星亭喜楽駄がね」がめでたく誕生した。
「10月31日午後2時から秋田市の遊学舎で人星亭一門演芸発表大会を開催します。よろしかったら秋田在住の弟子たちの演芸を見に来ませんか。シンセサイザー漫談、マジック漫談、お笑い漫談など弟子には面白い人たちが大勢います。特に8番弟子・男鹿の松田せい子さんはおもしろいです。喜楽駄がねさんも演芸したいというのであればプログラムに入れますよ」
「秋田は未体験ゾーンです。行きたいです」神様が望んでいた通りにいやそれ以上に化学反応が進んでしまったようです。今になって振り返ってみるとこの出会いは偶然ではなくて必然のように思えてならないです。
Nさんと人星亭喜楽駄がねさんという二人の協力を得ることができれば名古屋進出も視野に入ってくる。ヨネヤン繫がりで名古屋周辺の人から友達リクエストが来るようになった。フェイスブックがなかったら絶対に会うことがないNさん、ヨネヤンと簡単に友達になった。そしてその輪がどんどん広がっていく。
見よう見まねで始めたフェイスブックが自分の人生を大きく変えようとしている。フェイスブック等SNSの功罪が問題になる時もあるがフェイスブック知らないよりは知っていた方が良いと私は思う。今の私にとってフェイスブックのない生活は考えられない。フェイスブックで日本中のいや世界中のリアルな情報が瞬時に手に入るのだから。
2016年
人星亭一門演芸発表大会
二〇〇六年八月二十日、日本笑い学会東北支部主催「笑学校イン秋田」がアルヴェで開催された。当時県職員の私はヒマな日曜日だったのでふらりと参加した。
東北支部長はあいさつで全身大笑い「わっはっは」を三回やった。思わず苦笑してしまった。これが笑い学会のあいさつなんだ。ところがそれで終わらなかった。参加者を立ち上がらせて「私のような大笑いをやりなさい」と言うではないか。皆さん恥ずかしいから小さな声で「わっはっは」そしたらカミナリが落ちた。「声が低い、もっと大きな声で全身を使って大笑いするのです」もはや逃れられない。覚悟を決めてやけくそ気味にこれまでの人生でやったことのないような最大級の大笑いをした。
そしたらとてもいい心持ちになった。それは無意識のうちに閉じ込められていた何かが一気に放出されたようなものでした。「この会には私に欠けている何かがある。入会しよう」その場で入会手続きをした。この瞬間的な意思決定が私の人生を百八十度変えていくことになるとは想像もしていなかった。
「笑い学会に入ったら面白おかしい芸名を考えてね」と支部長に言われた。いろいろ考えた末「たった一度の人生はリラックスして気楽にいきたいね。じんせいていきらくだろう」が思い浮かんだので漢字を当てはめて人星亭喜楽駄朗が誕生した。六〇歳以降の人生では本名の米谷裕夫はお役御免で社会活動はすべて人星亭喜楽駄朗一筋でやっている。
笑い学会に入ったからには笑いを研究して地域の人々に笑いを提供しないといけない。真面目人間の私はそれから猛烈に笑いを勉強した。図書館から大量のユーモア関係本を借りての読書三昧と並行して東京での寄席三昧。日本笑い学会研究発表会では翌年二〇〇七年から毎年「お笑い悩み解消法」「お笑いプラス思考法」「笑いは人間関係のサスペンション」「笑う力は生きる力」等の研究論文を発表した。
フェイスブックや笑い学会友達の協力を得て新宿、渋谷、横浜市、さいたま市、盛岡市でライブショーを開いた。秋田では無料の各種ワークショップやセミナーを数多く主催した。病院ホールで患者さんや市民を笑わせるイベント「笑学校イン○○病院」も県内各地の総合病院で開催した。
こんなことをしていたら三年前から弟子入り希望者が出てきた。弟子入りは簡単「人星亭さん、弟子にしてください」「いいですよ」これで師匠と弟子の関係になれる。弟子になると人星亭喜楽駄朗の最後の文字「朗」を自分の好きな文字に変えて弟子名とさせている。弟子は私のネタを自由自在に使用できる。ユーチューブ、ユーストリームに動画もいっぱいあるのでそれを見たり私の本でお笑いの勉強すればいい。弟子は名古屋市、浜松市、小田原市、鎌倉市、青梅市、横浜市、東京二十三区、秋田県に二七名となった。単にダジャレを楽しむ弟子、演芸やりたい弟子等いろいろな弟子がいる。
お笑い演芸やりたい弟子には指導するが稽古だけでは身が入らない。弟子たちに発表の場をつくるのが師匠の役割だと思って二〇一五年一〇月三一日午後二時から遊学舎会議棟で「人星亭一門演芸発表大会」を主催した。人星亭一門の旗揚げ興業でもあった。未熟な弟子たちの発表会だから無料とした。
私が一門会をやると言ったら、フェイスブックで知り合い日本笑い学会でリアル友達になった名古屋で二番目にいい声のアナウンサー中野敬裕さんがノーギャラ飛行機代自己負担で駆けつけてくれた。その年の八月、日本笑い学会研究発表会が三重大学医学部で開催され私は研究論文「笑いの基本定石ベスト5~これであなたもユーモア名人~」発表の後、名古屋のスタジオで彼のユーチューブ番組「きんちゃんネル」三日分の収録に出演した。これへの感謝の気持ちがあったかもしれない。
六人の弟子が集まりました。一、シンセサイザー漫談の人星亭喜楽駄嬢八番弟子。男鹿の松田せい子と名乗り普段はスーパー玄関で佃煮とガッコを売っている熟年女性だが普通の売り子とはわけが違う。絶対音感の持ち主で一度曲を聴くと絶対に忘れない、だから楽譜なしでガッコ売りながらシンセサイザー演奏している。二、マジック漫談の人星亭喜楽駄天一七番弟子。スーパー経営の青年実業家から中年マジシャンに華麗(加齢?)なる変身。三、一人芝居の人星亭喜楽駄和二〇番弟子。派手派手な衣装で植木等のスーダラ節が得意。四、健幸漫談の人星亭喜楽駄素一三番弟子。秋田県ナンバーワンのダジャレ名人。師匠の私もかなわない。五、むかし話の人星亭喜楽駄えぇ二一番弟子。男鹿弁でのおもしろい昔話のプロ。六、人生漫談の人星亭喜楽駄朗師匠。そしてビデオ撮影とDVD作製は人星亭喜楽駄音一五番弟子。県南役場の税務課長。
出席者は約一〇〇人、大笑いあり小笑いありで初回としては大成功だった。インパクトあり過ぎる派手なポスターを作成した。「人星亭一門の旗揚げ興業!秋田から全国に向けてお笑いを発信していきます」
私は一門会を秋田のお笑い小集団に終わらせたくはない。夢はでっかく希望は大きく。「弟子たちの演芸レベルが向上すれば花の都東京、笑いの本場大阪にも進出したい」とどこでもしゃべっている。「田舎の秋田で適当に笑いが取れればいいや」と弟子たちが思ったら芸は伸びない。私は高い目標を設定して弟子たちの演芸へのモチベーションを高めている。ほら吹き男と思われようがかまわない。
大勢の聴衆に話すということは聴衆に聞こえると同時に自分の脳細胞にガンガン響いている。これは自分に対する気合でもある。言葉が人を押し上げていく。第一回の人星亭一門演芸発表大会が好評だったので第二回を二〇一六年三月二六日大館市の北部男女共同参画センター、第三回を六月一一日湯沢市の湯沢生涯学習センターで開催した。
これからも県内各地で人星亭一門演芸発表大会を開催して地域活性化と弟子たちのレベルアップをはかっていきたい。
2018年
松前の海
長男の私は幼少時、祖父母の部屋で寝ていた。2歳下の次男は父母の部屋で寝ていた。私はいわゆるおばあちゃん子だった。祖父は農業の傍ら男鹿半島の若勢を連れて松前にニシン漁出稼ぎに行っていた。祖父母が今は懐かしい蚊帳の中で出稼ぎの話をしていた。
その会話の中に「まつまえ」という言葉がよく出てくるのだ。知らず知らずのうちに「まつまえ」が脳細胞にインプットされていた。5歳の頃だろうか。祖父が松前土産に青い三輪車を買ってきてくれた。当時は貧しくておもちゃなんか買ってもらえない時代だ。嬉しくて嬉しくていつも乗り回して遊んでいた。
叉、小さい頃は甘いお菓子を食べることがなかなかできなかったので結婚式などで出される引き出物のお菓子は家中で分け合って食べていた。祖父は自分では食べないで祖父母部屋に持ってきて「これ食べれ」と私にくれた。だから私は自分のお菓子の他に祖父のお菓子まで食べていた。近くの中学校非常階段で遊んでいて足を踏み外して転げ落ちて頭から血を出して泣いたことがあった。祖父がリヤカーでかけつけて病院まで連れて行ったことは今でも鮮明に覚えている。お正月には子どもへのお年玉である「やせまんこ」をもらった。
50円か100円程度だったと思う。語源は痩せ馬らしい。弟もいたけど祖父は長男、昔の言葉でいえば「あととり」の私に深い愛情を注いていた。外で遊んで家に帰るとお腹が空いている。「おばあちゃん、何か食べたい」と言うと祖母は竈で炊いた鍋底にこびりついたお焦げを塩でまぶして握り飯にしてくれた。その美味しかったことは今でも忘れない。
「誰も見ていないと思ってもな、神様と亡くなった大おじいさんはちゃんと見ているんだからな。悪いことしちゃだめだよ」とよく言われた。男鹿はなまはげの故郷だ。大晦日は普段は食べられないようなご馳走がいっぱい食卓を飾るので嬉しいのだが、夕方には各家々に荒々しいなまはげが来るのでいつもびくびくしていた。「泣ぐ子いねが、悪いごとする子はいねが」とナタを振りかざしながら家中を歩き回る。
そんな時は祖父母の間に逃げ込む。「なはまげさん、家の子どもは親の言うことを聞いてお手伝いもするいい子だからそたにごしゃがねでけれ」と祖母は私をかばってくれた。祖母には感謝感謝だ。怖いなまはげのおかげで家族同士の絆が深まるのだ。おばあちゃん子は我儘だというけどそんなことはない。私は逆に厳しく育てられた。
私をこよなく愛した祖父は病気で働けなくなった。その当時の社会風潮は働くことが善で遊びは悪という雰囲気だった。働けなくなった祖父は何もすることがなく家でボーっと過ごしていた。
今の高齢者は幸せな時代にいる。退職後の膨大な時間をカルチュア、スポーツ、趣味など遊びで思う存分楽しんでいる。祖父の楽しみは農業収穫とニシン漁そしてお酒飲むくらいの人生だったかもしれない。そういう祖父は69歳で他界した。
69歳の祖父は老人そのものだった。私は今69歳。祖父とは全く違う69歳だと思っている。厚生労働省の括りでは私は前期高齢者だが自分では元気高齢者と思って講演、ワークショップ、なまはげ寄席、人星亭一門演芸発表大会等の社会活動を展開している。
幼少時の「まつまえ」を心の片隅に置き去りにし、すっかり忘れて私は68歳になった。秋田県庁定年退職後8年経過したら妻から「古希祝に背広でも買いましょうか」と言われた。その時ふと思った。日本海軍の軍人だった父が青春時代を軍港横須賀で過ごしたので数年前横須賀を訪問した。今度は祖父が一生懸命働き家族を養ってくれた松前に行きたいと強く思った。
「夫婦で松前に行こうよ。祖父がニシンを獲った松前の海をこの目でしっかりと見たい」2017年8月下旬、青森からフェリーで函館に入り湯の川温泉で一泊。翌日国道228号線を西にひた走った。地元の老舗温泉旅館に入りその夜は夫婦で海の幸いっぱいのご馳走を食べながらこれまでの人生を語り合った。箸袋の裏側には松前弁が書かれていた。ほとんど秋田弁と同じだ。んだべ(そうでしょう)、もちょこい(くすぐったい)、け(食べて)、いいふりこぎ(格好つける)、こんつける(いじける)、あんべみる(加減を見る)。
ここは昔から出稼ぎで秋田県や青森県と交流があった名残かもしれない。翌日早朝、旅館から海岸まで200メートルくらい歩いた。振り返ると松前城天守閣が青空に映えていた。
真っ青な広々とした海。ここでおじいさんはニシン漁していたんだね。白い海鳥が悠然と舞っていた。古い岩石で出来た堤防が一直線で海に向かっていた。海岸にはごつごつした岩がいっぱい。国道の標識をみたら函館から92キロとの掲示だった。今はもうニシンは獲れないのだろうなあ。「おじいさん、ひろおは松前の海に来たよ。おじいさんが家族のために働いた海を見つめているよ。ありがとう。三輪車買ってくれてありがとう。なまはげから守ってくれてありがとう、甘いお菓子いっぱいありがとう」海に向かって叫んだ。
祖父の顔を思い浮かべながらただひたすら海を眺めていた。
出稼ぎで ニシン獲りせし 松前の 海に佇み 祖父想う
ユーモア話術コンサルタント 人星亭喜楽駄朗
2020年
ユーチューブ動画発信に挑戦
元日の新聞を見たら今年はネズミ年だった。私の干支だ。ぼーっと過ごすのではなくて何かに挑戦したい気分になった。時代は5G(第5世代移動通信システム)に突入しようとしている。これからは動画の時代になるだろう。ユーチューブから自分の動画を発信しようではないか。古稀過ぎ高齢者だけど新しいことにチャレンジすると脳細胞がフル活用されるのでボケるヒマはない。まったく何もわからない、ゼロからのスタートだ。まずはビデオカメラの購入だ。大型家電店で機種を見比べてリーズナブルなビデオカメラを買った。撮影ボタンを押せば動画は撮れる。でも再生してみると画像が揺れたり早く風景が変わったりして非常に見ずらい。何回も失敗しているうちに徐々に動画撮影のコツがわかってきた。カメラはゆっくり移動すること、動画だからといってやたら動きのあるモノを撮るのではなくて伝えたいシーンの時は静止画のようにややしばらく固定する。ズームレンズを使いメリハリをつける。誰かに教えてもらうのではなくてやっているうちに自然に体得した。次はビデオカメラの動画をパソコンに移動しないといけない。これも悪戦苦闘したがどうにか移動に成功した。説明書はあるのだが用語の意味がイマイチわからない。ネットで検索して意味を理解し次のステップに進んでいった。さて次はユーチューブに自分のチャンネルをつくる作業だがこれは割とスムーズにできた。チャンネル名をどうしようかなあ。考えあぐねた末「大笑い喜楽駄朗チャンネル」とした。動画を撮影するスタジオをつくろう。亡き父が建てた作業小屋をリフォームして手作りスタジオ完成だ。秋田県庁定年退職後は芸名人星亭喜楽駄朗として東北六県を中心に1,000回以上お笑い系講演をした。演題は「笑いは健康と幸せへのかけ橋」「笑う力は生きる力」「人生60歳からがおもしろい」「笑いは内臓のジョギング、笑って健康になりましょう」「数式で考える幸せ論」「笑いの基本定石ベスト5」などだ。これらの講演で出席者を笑わせたネタを10分程度に細切れにして動画をつくった。現代人は忙しいので長過ぎると見てくれない。10分程度がいいだろう。週一ペースならそんなに負担にはならないので毎週土曜日に投稿することにした。自分のネタをチェックし記録として残すためにも動画撮影は有意義である。ユーチューブ初心者なので殆ど見てくれる人はいないけど100本以上は投稿しようと思っている。自分動画をユーチューブにストックするという意識だ。ユーチューブに動画をアップすればいつでも誰でもアクセスできる状態となる。講演依頼が来た時には「私の動画はユーチューブの大笑い喜楽駄朗チャンネルにいっぱいあるので見てください」と言うこともできる。依頼者は講師がどのような話をするのか知りたいものである。そんな時ユーチューブが役に立つ。ユーチューブにチャンネルを持つということは自分のテレビスタジオを手に入れたも同然である。ナマハゲの故郷男鹿半島から全世界に向けて人星亭喜楽駄朗情報を発信するぜ。ホラ吹きのような大げさな表現かもしれないが実際そうなのです。秋田弁を理解しユーモアセンスのあるニューヨークの辣腕プロデューサーが私の動画を見たらもしかして講演オファーがあるかもしれない。ニューヨークに行くのに英会話学習など必要ない。今はAI・人工知能が急速に発達していますからAIロボット君が秋田弁を英語に同時通訳します。やじゃげね「ノー」がっこ「ピクルス」へばな「グッドバイ」ままけ「プリーズヒャブアミール」んだんだ「イエス、イエス」ほんじねえ「ラッキングコモンセンス」まんずねまれ「プリーズヒャブアシート」あんべいいなと言ったら「プライムミニスターアベイズベリーグッド」AI君、それは誤訳だよ。あんべわりであ。スタジオで動画撮影しながらこんな夢のようなことを考えるのも楽しいものである。たまにはゲストを呼んでスタジオで演芸してもらうのもいい。そうなるとトップバッターは8番弟子の男鹿の松田せい子さんだ。男鹿市内のスーパーで佃煮とガッコを売っている熟年女性だが単なる売り子とはわけが違う。シンセサイザー演奏が得意で絶対音感の持ち主、一度曲を聴くと忘れないのでいつも楽譜なしで演奏している。定期的に開催する人星亭一門演芸発表大会で何十回と共演してきた。新聞テレビに何度も出ている男鹿のスーパースター?だ。ユーチューブ動画投稿での私の自慢は知識ゼロの古稀過ぎ高齢者がその道の専門家の指導を受けないで、ビデオカメラ購入、ユーチューブチャンネルづくり、スタジオでネタを実演しビデオ撮影、そのネタをユーチューブに投稿することを全部一人でやり遂げたことだ。意味のわからない言葉があるとネット検索して作業を進める。この繰り返しでやり遂げた。人間やろうという強い意志があれば殆どのことはできる。人間が作ったツールやソフトを同じ人間の私ができないわけがない。今回の挑戦を契機に更なる挑戦のネタを探したい。ボケるヒマがないくらいに脳を最大限活用しようと思っている。
2021年
男鹿の松田せい子さん 人星亭喜楽駄朗
私は秋田県庁を定年退職したので2009年3月秋田市の県職員公舎から男鹿市船越の実家に戻った。友人から「今何していますか」と問われると「サンデー毎日男鹿支局に勤務しています」と答えていた。冗談を解せない人は「それは良かったですね」と話す。毎日がサンデー、つまり無職ということです。
そんなおふざけしていたある日「ふなおこし土曜市」というイベントが船越のどんどこ広場で開催された。「男鹿の松田せい子」と書かれた旗のそばで熟年女性が佃煮とガッコを売っていた。「えっ、松田せい子、どこにいるの」ときょろきょろたら「私、私が男鹿の松田せい子でございます」本物とは似ても似つかないしかなり太目なのだ。これが私とせい子さんとの運命的な出会いだった。彼女は地元スーパー玄関でシンセサイザーを演奏しながら商売している。モノを売るというよりもシンセサイザー演奏を楽しんでその合間に売り子もやっているみたいな感じだ。絶対音感の持ち主、一度曲を聴くと忘れないので楽譜なしでの演奏だ。演歌だけではない、映画音楽、クラシック、ポピュラー、民謡、大いなる秋田と何でも演奏できる。父親が尺八と琵琶を趣味としていたので幼少時から音楽的環境で育ち小学生の頃はクラシックピアノを習っていた。NHKテレビのど自慢本番に出演したのが自慢でその時出演した八代亜紀さんとのツーショットを宝物のようにしている。
自宅近くのスーパーなのでいつも彼女との会話を楽しんでいた。スーパーに入っていくと私の好きな曲・いい日旅立ち、ブランデーグラス、ブーベの恋人などを演奏してくれる。ある日「人星亭さんのテーマ曲はこれじゃないですか」と言って演奏し始めた。それはなんと私が小学生の頃テレビで夢中になっていた快傑ハリマオだった。「うわああ懐かしいなあ」これで決まりですね。彼女は5歳下の男鹿市立船越中学校後輩だから目の中に入れると痛いほどかわいい。男鹿の松田せい子の由来を聞いてみた「友人に用事があり電話したら母親が出たので本名を言いにくくて「せい子です」「どこのせい子だ」「男鹿の松田せい子です」それ以来これが愛称になりました」
私はお笑い芸人として人星亭喜楽駄朗ライブショーや男鹿市船越出身落語家三遊亭たん丈さん(2020年3月真打に昇進三遊亭丈助師匠となった)を応援するためなまはげ寄席を開催していた。ある時ふと思った。「明るいキャラでお客さん扱いが上手なうえにシンセサイザー演奏できるせい子さんをステージに上げたら絶対に受ける。芸人に育てよう」スカウトし弟子にした。
なまはげ寄席の開演前は皆さんヒマだ。その時にステージ前フロアでシンセサイザーを演奏させた。青い山脈、高校三年生、北国の春等の懐メロ演奏するからお客さんは大喜び。一緒に歌い始める高齢者もいた。中入り休憩の10分間も彼女の出番だ。開演前も休憩時間もお客さんは退屈しない。何でも演奏できるからお客さんからのリクエストは殆どオーケー。スーパーでお客さんの前で演奏しているからイベントでの演奏も堂々としていた。
私はフェイスブックとブログとユーチューブでしばしばせい子さん記事をアップしたり、私の講演会ではポスターを見せながらせい子さんを出席者にPRした。ネーミングが素晴らしい「男鹿の松田せい子」と名乗れば誰だって注目し心に残る。私だって最初の出会いの時「男鹿の松田せい子」と書かれた旗が無かったらスルーして何も始まらなかったと思う。
2015年10月からは県内の弟子たちを集めて人星亭一門演芸発表大会を各地で開催した。せい子さんはレギュラーメンバーとして毎回出演、タイトルはシンセサイザー漫談、曲に絡めたトークが得意だ。大きな垂れ幕には「音楽と笑いは地球を救う」と書かれていた。お笑い芸人はこれくらいの大きいスケールで自己発信するのがちょうどいい。「髪の毛の少ない人のため演奏します」と言って愛染かつらの主題歌旅の夜風を演奏する。禿げた人にはかつらをどうぞと言うオチだ。最後は千昌夫の大ヒット曲「星影のワルツ」を演奏してお客さんに歌わせて「皆さんこの曲名は何でしょうか」と聞く。お客さん「星影のワルツ」と答えると「残念でした。腰掛のワルツです」というオチ。自分は椅子に座ってペットボトルお茶飲んでいるのだ。商売するためにつくった「がっこの歌」や男鹿半島をイメージした「永遠に」などのオリジナル曲もありシンガーソングライターでもあるのです。
そんな松田せい子さんをマスコミが注目し始めた。テレビ、新聞に取り上げられることも多く、せい子さん会いたさにスーパーを訪れる人もいる。数年前からは公演オファーが入るようになり、1時間のステージショーをこなしている。
そんなせい子さんだが通常はスーパーの売り子としてお客さんに愛想を振りまき、誰にでも声掛けするからファンも多い。ハーモニカの男性が合奏したり曲に合わせて踊りだす子どももいる。これはもはや押しも押されもせぬ男鹿のスーパーアイドルです。
2022年
インスタグラムデビュー 人星亭喜楽駄朗
インスタ映えとはスマホ画面できれいに見える写真らしい。若い人とりわけ女性は殆どがインスタグラムをやっているようだ。写真と動画に特化したアプリで素敵な写真を撮りあい見せ合って楽しんでいる。古稀過ぎ高齢者にはあまり興味はないが気にはなっていた。そんな折昨年12月18日、秋田拠点センター・アルヴェで「市民活動団体のためのSNS活用術・インスタグラム編」が開催された。自分にできるかどうか分からないが講座を受講すれば少しは理解できると思い参加した。最初はスマホにアプリをインストールする作業とアカウント作成だ。講師の指示通りやるのだがうまくいかない。困惑顔で操作していたらスタッフの声掛けがあり、渡りに船とばかりに丁寧な助言を受けてどうにか第一ステップはクリアした。次はスマホで写真を撮って投稿したりスマホ内に保存されている写真を投稿する作業だ。言われた通りにやると簡単にできた。最初の投稿は記念になるので心に残る写真にしよう。保存写真を過去に遡ったら缶ビール詰め合わせを抱えてのにこにこ顔があった。首都圏在住の娘から「美味しいビール飲んで長生きしてね」の添え書き入りで送られたものだ。「この写真を誰かが見てくれるんだ」と思うと嬉しくなった。次は動画の投稿だ。動画は難しいだろうと思っていたが意外や意外簡単にアップできた。次はフォローしたりフォローされることを学んだ。
講座でこれだけ理解できれば後は自分で投稿してフォロワーを増やせばいい。
インスタグラム入門レジメには初心者向けの操作方法が懇切丁寧に書かれていたので後日大変役に立った。とても有意義な講座であり出席して良かったとつくづく思った。
次の日から過去の写真を選び楽しそうな写真を投稿した。そのうちふと思った。パソコンには膨大な写真がある。パソコンからインスタグラムに投稿はできないのだろうか。ネット検索したら「パソコンからインスタグラムに
投稿する方法」がいっぱいあった。スマホからの文字入力は苦手だが、パソコンだと文字入力も簡単。この方法を覚えてからはパソコン投稿一筋となった。ところが、投稿はしてもフォロワーが少ないから殆ど誰も見てくれなくて「いいね」もない。自分で投稿した写真を自分で眺めているだけのインスタグラムとなった。これではつまらない。講座で講師が言ったことを思い出した「フォローされると嬉しいからフォロー返しと言って自分もフォローされる確率が高いです」ちょっとでも良さそうな写真投稿者はフォローした。そしたら講師の言われた通りにフォロワーが少しずつん増えていった。
インスタグラムではどんな有名人をフォローしても自由とのことだ。有名人にとってはフォロワー数の多さが
自分の勲章となるから嬉しいのだろう。フォローが自由とのことでフォローしていたら外国人をフォローしてしまった。すぐにメッセージが入り「私をフォローしてくれて嬉しいです。私は数年前に夫に先立たれ一人寂しく暮らしています。あなたとお友達になりいっぱい会話したいです」みたいなことが書かれていた。これは怖いのですぐにフォローを外した。インスタグラムの仕組みがよくわからないけど、どういう訳か古稀過ぎ高齢者なのに外国人の若い女性がいっぱいフォローしてくる。
自分のプロフィール画面には投稿した写真が蓄積されていく。プロフィール画面がきれいだとフォローされやすいとのこと。これまで何の方針もなく適当にアップしていた写真をきれいに並べてアップすると見栄えがいい。縦一列は同じジャンルにしよう。3つのジャンルを順番にアップすればいつも縦一列は同系統の写真となる。一つ目はお笑い1分以内動画で背景を緑色、二つ目はお笑いネタシリーズで背景を水色、3つ目は自由投稿で背景をピンク色とした。お笑い動画は過去の講演や自分主催セミナーで撮影した動画がパソコンに入っているので、それを1分以内動画に編集してフォルダーにストックした。お笑いネタシリーズも思わず笑える小話をストックした。自由投稿シリーズはその時の気分により様々な写真を自由自在にアップした。
例えばおもしろい看板、お寺の山門言葉、気の利いたフレーズなどだ。
プロフィールに自分情報をいっぱい書き込むと好感を持たれてフォローされやすいとのネット情報もあったので
制限文字数の範囲内で多くの情報を詰め込んだ。この人どんな人間なのか全然わからないよりは人間像が浮かび上がった方が安心してフォローできる。インスタグラムは反応が早い。アップするとすぐに「いいね」が入るので投稿意欲が湧く。一度私の投稿を見ると定連みたいになりいつも「いいね」をくれる人が出てきた。
インスタグラムに投稿していると何かと便利だ。初対面の人と懇談した時にユーザーネームを教えるとすぐにアクセスできるのでお互いにフォローしあう仲になれる。相手の投稿写真を見ると趣味や好みや人間像がほぼ思い浮かんでくる。相手もまた私のプロフィール画面や写真を見ると私がどういう人間なのかすぐにわかる。
高齢者がインスタグラムを始めると孤独感の解消になるのではないかと思っている。
昨年12月ちょっとした好奇心から始めたインスタグラムが今では私の日常の一部となった。いつの日か孫たちとインスタ映えする写真を見せ合うのを今から楽しみにしている。
2023年
男鹿半島原住民 人星亭喜楽駄朗
私は男鹿半島原住民と自称している。英語風に言えばネイティブオガジン。
私は男鹿半島で生まれた。両親も男鹿半島生まれだ。そのまた両親、祖父母4人とも男鹿半島生まれ。このように三世代にわたって男鹿半島生まれを私は男鹿半島原住民と呼んでいる。
曾祖父母まではさすがに知らないが明治時代なので多分男鹿半島生まれだと思う。
原住民なので男鹿の気候風土風習文化そして男鹿の人々が好きだ。
男鹿半島と言えばなんといっても全国区人気の「なまはげ」である。なまはげの風習と文化をしっかり理解し説明する責任があると思って2015年にはナマハゲ伝導士資格を取った。
当日はなまはげ館視察、男鹿真山伝承館でなまはげ体験の後は「真山のナマハゲ行事・その所作と保存伝承について」「ナマハゲをもっと深く探ろう、ナマハゲの由来・諸説について」「ナマハゲの面と行事の現状について」の講義を受けた。その後に資格認定試験があり無事に合格して喜びもひとしおだった。
でも小学生の頃のなまはげはとても怖い存在だった。大晦日は普段食べることのできない美味しいごちそうがいっぱい食卓に並ぶ。待ち遠しいはずなのだがあまり嬉しい気分になれない。夕食時になると「うおおお、泣ぐ子いねが、親の言うごときがね子どもはいねが、うおおお」大きな包丁を振り回しながら家の中に勢いよく上がり込んでくる。祖父がしっかり抱きしめてかばってくれたり、祖母が「うちの子どもはいい子だ。ナマハゲさん、怒らねでけれ」と言ってなまはげをなだめたりする。いっぱい暴れてからおとなしくなったなまはげをお膳の前に座らせてお酒をごちそうする。なまはげはいい気分になって家から出て行く。帰り際に「また来年も来るからな。わがったが。親のいうことをきげよ」と必ず言う。なまはげは怖い。でも怖いなまはげを祖父母等が守ってくれるから家族の絆が深まっていく。
このような伝統的な風習は是非とも後世に残したいものである。
男鹿市では男鹿市らしさをアピールするため何でも「なまはげ」を名称につけたがる。
私もその一人だ。男鹿市船越出身落語家三遊亭たん丈さんを応援するため2010年から「なまはげ寄席」を県内各市で21回開催した。秋田市内の落語会で初めてたん丈さんの落語を聞いた後、懇談したら私と同じ男鹿市船越出身とわかった。落語家はとにかく落語やる場が欲しい。実行委員会も何もない「なまはげ寄席」という手作り落語会を自分一人で開催し続けた。2020年3月たん丈さんは晴れて真打昇進し三遊亭丈助師匠となった。なまはげの故郷男鹿市から真打誕生はすごいことだ。
なまはげに次いで有名なのはハタハタだろう。男鹿市民にとってハタハタは特別の魚である。幼少時には毎日のようにハタハタを食べて育った。大漁になると浜値が一箱50円とか100円で取引されていた。ハタハタよりも箱代が高かったかもしれない。だからどの家庭でも大量にハタハタを買ってはいろいろ工夫して保存食にしていた。毎日の食卓はハタハタで大にぎわいとなる。
子どもの頃はしっかり焼いたハタハタでないと嫌だった。だから母に「ちゃんと焼いてね」とよく言ったものだった。それを聞くと祖父に「ハタハタはな、馬の息を吹きかけると食べられるものだ」とよく言われた。
長男の私をこよなく可愛がりそしてナマハゲから守ってくれた祖父は69歳で他界した。
私は74歳だが還暦過ぎた祖父は完全に老人そのものだった。祖父と今の私を比較すると全然違う。祖父の時代は仕事は善で遊びは悪だった。だから元気な頃は毎日のようの働いていた。病気になって働けなくなるとやることは何もない。家の中でボーッとしているだけだ。今の高齢者はいい時代を生きていると思う。グランドゴルフ、500歳野球、公民館のサークル、趣味の会など遊びや趣味は絶対善なのだから。
私は男鹿市の入り口・船越地区の郊外に住んでいる。船越は秋田市から来ると男鹿半島の入り口、寒風山が眼前に広がる。寒風山は全山芝生の稜線のきれいな山。講演旅行で東北各地を訪問してから男鹿大橋を渡ると懐かしの山寒風山が私を迎えてくれる。自宅から頂上までは車で20分程度、頂上からの360度パノラマ風景は何度見ても飽きない。県外から来客がある時は寒風山に案内することが多い。
自宅敷地隣の竹林には雉のつがいが住み着いており鳴き声で目覚め接近遭遇を楽しめる。メスは臆病ですぐに逃げるけどオスは私が近づいても人畜無害な好老人と思っているのか悠然と歩いている。なのでオスの写真はいっぱい撮ってはネットにアップしているがメスはなかなか写真撮れないのが悔しい。
春はワラビ、タラの芽、タケノコが徒歩1~2分の場所で採れる。採れたてのタラの芽を妻は天ぷらにして夕食に並べる。ビールとの相性が良くてつい飲み過ぎてしまう。秋田県ではタケノコシーズンになると遭難や熊との遭遇がニュースとなるがここではタケノコ場所まで近すぎて遭難しようがない。秋にはナツメ、栗、クルミが採れる。
敷地面積は1,200平米、都会の孫たちが遊びにくると50メートル競走ができるくらい広い。男鹿半島原住民として最高のロケーションに住んでいる。田舎暮らしバンザイ。