男鹿市校長会「課題研究会」
演題 人としてよりよく生きる
日 時 2013年1月7日(月)午後1時半~
場 所 男鹿市・セイコーグランドホテル
講 師 日本笑い学会秋田県会長 人星亭喜楽駄朗
中高生はパソコンに詳しい。 人生をパソコンライフに例えて話す。
パソコンは「パソコン本体」と「ウインドーズのような基本ソフト」と「アプリケーションソフト」で構成されている。パソコン本体は人間の体です。
基本ソフトは衣食住です。衣食住がないと人は生活できないです。
アプリケーションソフトは生き甲斐、趣味、自己実現、社会貢献などです。
パソコンはパソコン本体と基本ソフトだけでは単なる箱です。意味がないのです。
アプリケーションソフトが動いてこそパソコンは本来の能力を発揮する。
ここをしっかりと把握してくださいね。翻って現代社会の人々の生活を見てみます。
基本ソフトの充実ばかりにとらわれている人が多いです。
住 豪華な家を建てた。そのローンに追われて人生を過ごしている。
食 グルメ指向とかでおいしいものを食べるのが生き甲斐である。
衣 素敵なお洋服に身をつつんだり、ブランド品を持っては
自己満足にひたっている。これらはいくらエネルギーを注いでもお金をかけても所詮基本ソフトに過ぎないのです。中高生の皆さん、基本ソフトの充実は必要最小限でいいのです。
家は洩らぬ程、食事は飢えぬ程にて足る事なり 千利休
アプリケーションソフトの多さ、充実こそがあなたの人生にとって必要なのです。
何でもいいです。高校中学時代にこれだ。と思うことに出会えたならそれをやればいい。
スポーツ、趣味、生きがいを感じること、ボランティア、社会貢献おもしろいこ、やりたいこと、、、、
クラーク博士の言葉 「少年よ大志を抱け」
その次に続く言葉を日本人は忘れている。
「お金でも権勢でもなく名誉でもなく、自己完成のために」
Boys be ambitious
not for fame, not for money, not for self-aggrandizement,
but for self-fulfillment.
山麓で肥えた豚として生きるよりも山頂で死ぬ豹になりたい。
アフリカ最高峰キリマンジャロの頂上には豹の死骸があるという。
平々凡々な人生を歩むよりも、崇高な理想に向かって生きようではないか。
青雲の志を持つ青少年向けの言葉ではあるが、私はむしろシニア世代をも意識してフェイスブックにアップした。
麓で肥えた豚として生きるよりも、頂きで死ぬ豹になりたい
私のとても好きな言葉です。
東大総長が卒業式で言った言葉も有名ですね。
太った豚になるよりもやせたソクラテスになれ。
太った豚とはまさしく衣食住の充実のみに追われている人間を指している。
それが人間の人生の目的ではないはずだ。
それだけだったらやっていることは高度ですが、基本的には動物とたいして変わらないです。
動物だって毛皮、ネグラ、エサで生きていますからね。
動物とはちがう精神世界の充実、世のため人のため、社会貢献活動などこそが人間を
人間たらしめるのではないでしょうか。
精神世界の充実と言いましたが人間と動物の大きな違いは脳の大きさなんです。考える力の差です。
脳について、私こんな計算するんですよ。
1日に5時間 毎日、本を読むことにしてですね
1分間に500文字読む
1年間365日
5歳から85歳まで80年間 休まずに読書するとして(こんなことは不可能ですが、仮にできたとして)
一生で読む文字数は 43億8千万文字
500文字×60分×5時間×365日×80年=4、380、000、000文字
1文字は2バイト 8.76GB(ギガバイト)
一生かかって、読み続けても時間的な制約から、文字情報としては、およそ8.8ギガバイト程度の情報しか頭には入らないということです。
皆さんが家庭でもっているパソコンのハードデスクの容量はどれくらいでしょうか、
今でしたら、700ギガバイト前後はあるのではないでしょうか。
そうすれば、自分の頭に入る文字情報は一生読書し続けても、容量は8.8ギガバイト、
およそ家庭用パソコンの80分の1程度だということですね。
人間の脳の容量は約100兆ビットといわれております。
8ビット=1バイト
100兆ビット÷8=12.5兆バイト=12,500,000,000,000バイト
=12,500GB
脳の容量は12,500ギガバイト 一生の読書容量は約8.8ギガバイト
12,500÷8.8=1,420倍
脳の容量はこれほどもあるのに、それを殆ど使わないで、余したまんま、人間はあの世に行っているということですね。
20世紀最大の頭脳と云われたあのアインシュタインですら、せいぜい脳の全容量の5パーセントくらいしか使っていなかったという脳生理学者もおります。
人間が一生かかって処理できる文字情報量がせいぜい8.8ギガバイトしかないとしたら、
いかに自分に役立つ情報にすばやくアクセスできるか、という情報選択能力がこれからの社会では、重要になってくるのではないか。
インターネットはまさしく情報の洪水です。世界中の国立国会図書館を手にいれたようなものです。
何かを知りたいという欲求、知的好奇心がなければ、全くの宝の持ち腐れです。
おのれを灯火とせよ。
釈迦の死がせまったとき、弟子の一人が言った。
「お釈迦様がいなくなれば、私たちは、何をよりどころとして生きていけばよいのでしょうか」
釈迦は静かに言った。
「おのれを灯火とし、おのれを拠りどころとせよ。他のものを拠りどころとするな」 これが釈迦の遺言となった。現代風に訳せば、「主体的に生きよ」ということ。
人生の主人公は自分自身であるのに、他人を頼ったり、他人に言われて行動したりする。そういう人間が多い。
なぜか、自分で考える必要がないから、、、楽だし、不都合が生じると他人のせいにできるから、、
何事が起こっても、即座に判断ができるように、自分自身を日頃からしっかりと磨きそして鍛えておきなさい。星亭喜楽駄朗はこう解釈している。依存する心が人間を小粒にする。
よりよく生きるとは、自分が思った通りに生きることだ。
人生に正解はない。神様から与えられた命を自由自在に思う存分に味わって生きたらいい。
とは言ってもやはり答えがほしいものである。
なんのために 生まれて 、なにをして生きるのか。
これがアンパンマンのテーマであり、やなせ先生のテーマでもある。
「人生の楽しみの中で最高のものはやはり人を喜ばせることでしょう」
何のために生まれたのか。決まっているじゃないか。
他人を喜ばせるためにあなたは生まれて来たんだよ。
何をして生きるか。決まっているじゃないか。
自分の身の回りにいる人々を喜ばせることだよ。
会社員も公務員も教員も主婦も社会活動家もボランティアもその他すべての人々は他人を喜ばせるために活動するんだよ。非常にわかりやすい。シンプルイズベスト
日本中の人々すべてがやなせ先生と心が一緒だったら、この世は地上の天国となることでしょう。
よし、人星亭喜楽駄朗は今夜から眠る前に指折り数えてみよう。
私は今日、何人の人を喜ばせたかと、、、、、 あまりハッスルすることはないのだ。
ドライブしていて脇道から本線に入ろうとしている人がいたら、にっこり笑って割り込ませてやればそれで相手はちょっと喜ぶだろう。 それで1とカウントされるからね。
寒い冬、雪の降っているときに郵便物を配達してくれる人に 「ありがとう、寒い中大変ですね」と言葉をかけよう。それだって嬉しいにちがいない。
生きる意味がわからない。 2008年8月30日の私のブログ
午前10時からのNHKスペシャル「涙と笑いのハッピークラス」・教育現場で大切なもの・
が放送されていた。
不登校の中学生が恩師に「生きる意味がわからないのですが、、、、」と質問していた。
中学生にこんな質問されたら私はどう答えようか。そんなことを考えながら恩師の回答を聴いた。
「生きていたら素敵な人に巡り会えるかもしれない。生きていたら、すごく嬉しい感動的なことに出会うかもしれない。そんなことじゃないかな。
先生は、いつも電車で学校にいくけど、今日の電車は、いつもと違っていた。君に会えるから、、、
先生は確実に君よりも先に死ぬけど、君の心のなかに先生の記憶が少しでも残ってくれたら
先生の人生には意味があったと思う。」
不登校児童の深刻な質問に堂々と答えることのできる先生なんて少ないと思う。
この先生は、NHKが取り上げるだけあってさすがです。
「生きる意味」こんな大それたことを日常生活で話し合う大人はいないだろう。
あまりにも、大きすぎる命題で結論も出そうもないから、馬鹿らしくてだれも口にしないのだ。
秋田県は16年連続自殺率全国ナンバーワンという不名誉な県である。
生きる意味とは何か、酒でも飲みながら、気軽に話し合う場が必要かもしれない。
私は秋田県健康福祉部健康推進課が主管しているこころの人材バンク講師派遣事業の登録講師だ。精神科医師、大学教授、臨床心理士、弁護士など15名が登録されている。
この中に日本笑い学会会員の人星亭喜楽駄朗がいるのです。けっこう私人気があってお呼ばれがありますよ。私のテーマは「笑う力は生きる力」です。
要綱にあうような研修会を企画すれば講師謝礼も交通費も全部県からでます。主催者負担ゼロです。
これを知らない人が多いですね。自殺予防でなくても心の健康づくりとかいうテーマでもいいです。
盲亀浮木 もうきふぼく という仏教用語があります。
大海中に棲み、百年に一度だけ水面に浮かび上がる目の見えない亀が、海面に漂っている浮木のたった一つの穴(亀の首が入るくらいの大きさ)に首がすぽんと入ること。
私たちがこの世に生を受けるのはそれほど難しい。多くの多く多くの偶然が重なって今の命がある。
だから命は大切にしないといけない。自分の命も他人の命も、、、
この話は自殺予防といじめ防止に使える話です。
「生きる」とは「傷つく」ことです。
ジャングルに生まれた猿が生きていれば必ず傷がつきます。ブッシュを通ろうとしたらトゲが刺さって皮膚が痛んだ。友達とじゃれいあいっこして足に傷ができた。
それはそれとして人生じゃないな猿の人生 猿生というのかな、歩んで行く。
人間も同じです。生まれてから80年も生きるわけですから傷つくのは当たり前です。
そんなことにイチイチくよくよしていたらだめです。傷つきながらもわっはっはと笑いながら生きていく。この姿勢が大切ですよ。
キズつくことを恐れていては人生の美酒を味わうことはできない。
校長先生が小学3年生に質問された。 人間はなんのために生きているんですか。
このときに口ごもらないで小学三年生の目をしっかりと見つめて彼がわかる言葉と意味を込めて話せないといけないと思います。
渥美清さん主演の名作シリーズ「男はつらいよ」
受験勉強で悩んでいる甥子が寅さんに聞く
「おじさん、人間って、なぜ生きてんだ」
寅さん即座に「生きているうちには、2度や3度は生きててよかったと思うようなことが
あるはずなんだ。そのために人間は生きているんじゃねえかな」
過去にいいことがあった、というのではなく
「これからいいことがきっとあるさ、それに出会うために生きるんだよ」
要するに誰もが納得する正解なんてないのだから、その場で質問した人が「そうなんだ。わかった。ありがとう」と言えればそれでいいのです。
小学3年生に対する回答と中学3年生に対する回答は違ってもかまわないし、いや違わないとおかしいのです。
人生というのは生きてみないとわからない、、、一寸先は闇です。
でも、わからないからこそ、生きてみる値打ちがあると思います。
私、子どもの頃、チャンバラが好きで、織田信長とか、上杉謙信、武田信玄などにあこがれていました。彼らは、みんな50歳前後で死んでいるんですね。
織田信長
「人間50年、下天のうちに比ぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび、生をうけ滅せぬものの
あるべきや」
上杉謙信「人生49年、一睡の夢」
武田信玄「俺の死を3年隠せ」 天下統一の野望途中
だから、幼心(おさなごころ)に、人間は50までしか、生きられないんだと思っていました。
今、私は64歳です。14年も得した気分です。
50歳過ぎたら、いつ、お呼ばれがきても、おかしくない、文句は言えない、と思って毎日
生活しています。
私は講演旅行で東日本各地に行きます。ホテルや講演会場付近を散策するとよく神社があります。
必ず参拝しますね。私が手を合わせて祈ることはいつも同じです。
「この歳まで生かしていただきましてありがとうございます」これを心で三回言います。
命ある。これ以上の富はないです。
生かしていただいたことへの感謝だけです。
神社でいろいろなお願いする人が大勢のようですが、私はそんなことは一切しないです。
「生かしてやっているのにまだそれ以上をあなたは望むのか」と神様に叱られそうだからです。
幸せだなあ。僕は生きているときが一番幸せなんだ。
、加山雄三さんの歌詞を思い浮かべた。が、ちょっと歌詞を変えた。
これは人星亭喜楽駄朗のいつわらざる心境です。
「何が幸せですか」と問われたら躊躇することなく答えるだろう。「生きていることが最高に幸せです」
病気になっても、貧乏になっても、一人ぼっちになっても生かしてもらえれば幸せです。
生きていれば五感を働かせて楽しむことができます。
生かしてもらっていて、そのうえに不平不満を言う人の気持ちがさっぱりわかりません。
皆さん、出産予定日ってありますよね。
この世に誕生する予定日(出産予定日)があるとしたら、この世を去る予定日があってもいいのではないかと私は思うんです。名付けて去世予定日。どうやって、だれが決めるか。
毎年厚生労働省が発表する日本人の平均余命表から、この歳だとあと何年生きられるかというのがわかりますから、それを元に、自分で計算して、自分で決めればいいのです。
こうやって、自分のを計算したら、2030年11月17日午前11時17分が私の去世予定日となったのです。
でも、これはあくまでも平均ですから、その前に事故とか急病とかでお呼ばれがくるかもしれませんし、達者に暮らして、それ以上に長生きするかもしれませんよ。
それは、それとして、でも明確に区切りの日、この世とおさらばする日があるということがわかればですね。
一日一日がいとおしくなります。無駄な一日を過ごしたくない、充実した一日としたいという意識が強烈になりますよ。「一日生きるとは、確実に一日命を削る」ということですからね。
時は金なりという諺がありますが、私に言わせればそんなもんじゃないです。
「時は命なり」です。誤解を恐れずに端的に言うならば、「人生とは時間である」とも言えます。
仮に去世予定日がきてもお呼ばれがなかったとします。そうするとどういう心境になるでしょうか。
予定日が過ぎても生かしてもらえる、嬉しい嬉しいと言って感謝感激で一日一日を暮らしていくことでしょう。
だから、去世予定日の前も後も生きている喜び、感謝の心が湧いてくるのです。自然に、、、
よく、末期ガンの患者で余命あと3ヶ月などと医者から言われる人を、私たちは同情のまなざしで見ますけども、私に言わせれば末期ガンの患者と自分とどこが違うのか、一緒じゃないかと思うんですよ。違いは、その日を宣告されたか、されないかの違いだけでしょう。
私は、自分でその日を宣告したから、ガン患者と一緒ですよ。ちょっと期間が長いですけどね。
だから、このように夫婦で会話しながら楽しい夕食することができるのは、あと何回かな。
と私は考えてしまうのです。それは無限ではなくて、数えることができる回数なんですね。
ちなみに私の夕食の回数は、あとわずか 6,523回(2013年1月7日現在)しかできないのです。
そう思うと、妻への感謝の気持ちと、このひとときは二度と帰ってこない、機嫌良く楽しく過ごそうという気持ちが自然にわいてきます。ついでに言いますとですね。
仮にその日、いろいろな場や人間関係とかで嫌なことがあったとします。でもね、私は玄関を開けた瞬間に、妻との楽しい夕食モードに心のスイッチを切り替えるのです。
嫌なことがあればあるほど、食卓では明るく陽気にふるまいます。
「ああ、今日のビールはとってもおいしいね。仕事をした後のビールは最高だよ」
「今日はお刺身なの、嬉しいな。お刺身大好きなんだ」
「この漬け物おいしいね、どこで買ったの」
こうしていると、妻が楽しそうに受けこたえてくれますし、自分も愉快になりますから、外での嫌なことを忘れてしまうのです。精神衛生に非常にいいですよ。
それとは、反対に外であった嫌なことを家庭にまで、持ち込むとどうなるか、苦虫をかみつぶした顔でビール飲みながら、愚痴などをねちねちと妻にしゃべったら、妻だって、大変なことがあったのね、嫌な思いをしたのね、どうやってなぐさめようかしら、とか思ったりして、その夕食がとても暗くなりますよね。
妻との夕食の回数には限りがある、私の頭には常にそのような意識がありますから、たとえ、一回といえどもそのような暗い不機嫌な夕食は嫌です。
もったいないのです。楽しいひとときを壊してしまうようなことは絶対にしたくない。
だから、私の夕食はいつもにこにこ最高に上機嫌でたべるようにしています。
あまりにも重々しい話が続いたので話を変えましょう。校長先生のちょっといい話です。
52歳で初めて校長になり、農村地域の小学校に赴任した。春の運動会での閉会のあいさつ
原稿通り話そうと演台に上がったが、児童たちが胸にいっぱいリボンを付けていた。
1等は青、2等は黄色、3等は赤のリボンを付ける伝統だった。
3回競技するので、多い子は3個、2個、1つの子もいる。
そこで原稿のあいさつをやめてこう言った。
リボンを3つ胸に付けている人は手を挙げなさい。その人たちは大変がんばった人です。
その場にしゃがんでください。
リボンを二つ付けている人は手を挙げなさい。その人たちは次にがんばった人たちです。
しゃがんでください。
ここでグランドにいた父母たちが大変心配したそうです。
こうしていくとリボンのない人たちだけが残るからです。
次にリボンを1つ付けている人は手を挙げなさい。この人たちもがんばりました。
立っているのは、リボンのない人たちだけです。
「今残った人は一生懸命がんばったけれども、もうちょっとのところでリボンがもらえなかった
人たちですね。がんばったことを誉めて、校長先生が心のリボンをあげます。
さあリボンを投げますから空中で受け取って、胸につけてください。」
そう言ってみんなの方にリボンを投げるまねをしました。
立っている子どもたちは空中でそれを受け取るまねをして、胸につけました。
父母の間から大きな拍手が起こりました。
演台を降りながら、ちょっとキザだったかなと思いました。
一年たってまた運動会がやってきました。
今度はちゃんとした閉会の言葉を述べようと思っていたら、あるお父さんの訪問を受けました。
「校長先生、今年も心のリボンをくれるんでしょうね」
校長「あれはキザだからもうやめます」そしたら、そのお父さん
「やめないでください、うちの子は太っていて走るのが遅く今まで一度もリボンをもらった
ことがないのです。去年の心のリボンが小学校でもらった初めてのリボンです。
どうか今年もやってください」と言いました。他にも電話をもらい
「子どもたちが喜んでいるので、やめないでほしい」と言われて次の年もやりました。
今の子どもたちは豊かな物のなかで暮らしていますので品物にこだわる気持ちが強いと
思っておりましたが、こうした形のない気持ちだけの心のリボンを喜んでくれたことは
私の大きな発見でした 2005,1,7
この話から私が思うのは、式典などがあると校長先生は立派なことを言おうと思って
原稿をかきますよね。
それは児童生徒に聞かせるのですが、他の先生や保護者も聞いています。
やはり格調高くさすが校長先生とおもわれたいですよね。
そういうあいさつはその場限りです。校長先生の卒業式や入学式のあいさつを末永く覚えている人はいないです。
その場にあったアドリブのようなあいさつこそが児童生徒そして保護者の心に永遠に残るのではないでしょうか。
小泉首相が横綱貴乃花がケガをものともせずに優勝したときに優勝カップを渡してから言ったことば「感動した。おめでとう」国民全員が小泉首相の言葉に拍手した。その場に一番ふさわしい言葉だったからです。部下が用意したであろう原稿を長々と読むあいさつはききたくないですね。小泉首相が人気あるのは借り物の言葉ではなくていつも自分の思いを率直に表現するすがすがしさやわかりやすさからではないでしょうか。
あいさつと言えばね。
私は2006年8月20日に日本笑い学会会員となった。なぜか。
日本笑い学会東北支部長のあいさつ。わっはっは、わっはっは、わっはっは でおしまい。
その場で即入会です。
学校現場で生きる力と言う言葉が言われて久しいですね。
現代社会における生きる力とは コミュニケーション能力 だと思います。
生きる力とは他人といかにうまくつきあえるかという能力だ。
私たちは、職場、家庭、地域、サークル、学校など常に集団の中で生きている。
集団の中でいかに他人と良好な人間関係を築いていけるか。
人生とは他人とうまくコミュニケーションを取りながら、様々なところで自分の居場所を見つけて生きていくことだと思います。そして人生では新しい集団に入ることも多いですね。
コミュニケーション能力のある人はすんなりと集団に溶け込んでいけます。
私、県庁生活36年のうち26年間が福祉行政でした。中央児童相談所では児童福祉司という
仕事を7年やりました。
児童福祉司とは問題ある子どもを正しい方向に導いていく。
お母さんと面接して「お母さん、あなたのそのような言葉が良くないのでこのように話したらどうでしょうか」
お父さんと面談して「お父さん、あなたのそのような態度行動が子育てには具合が悪いのでこのようにしたらどうでしょうか」
現代の子どもたちを簡単に単純明快に説明するとこうなります。
子ども、木です。
子どもを立派に成長させようとしてお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんが
木の根っこに栄養分をいっぱい与える。そうすると根っこは伸びないです。木のそばに栄養がいっぱいあるから、、、強い風が吹きます。倒れちゃいます。
私が言いたい子育てはそうではなくて、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんがあまり木の根っこに栄養分を与えない。そうすると木はどうするか。
成長するために自然に根っこが伸びます。
強い風が吹きます。しなります。倒れないです。復元します。こうなります。
小学3年のクラス40人、ちょっと太り気味の女の子がいた。ちょっと乱暴な男の子がいた。
「ブタ!」とバカにしてしまった。もう学校に行けなくなる。「お母さん、あの子私をブタと言った。もう行かない」お母さんは頭にくる「私のかわいい娘をブタとは何事か」学校に怒鳴り込む。先生は厳しく男の子を指導する「だめです。この子をブタと言っちゃ、わかりましたか」
「はあい、わかりました」先生がいなくなると「イノシシ」
先生「ブタのイノシシもだめです」「はあい、わかりました」先生がいなくなると「カバ」
きりがないのです。
子ども同士のトラブルに親が入って行ってもいいことは一つもない。子ども自身が解決できるように親がしむければいいのです。自分が出ていかないで、、、、
私が太った女の子の父親であればこういいます。
「あのね、明日ね、学校に行ってブタと言われたら、こう言いなさい「はい、私ブタです。ブタでございます。でもね、私あなたよりも成績がいいのよ。ということはあなたはブタ以下ですね。おほほ」と笑いなさい」
多分男の子はその日から絶対にブタと言えないし言わないですよ。言った瞬間こっちがブタ以下になるんだから、、、
クラス40人はミニ社会です。そこには優しい子、乱暴な子、頭のいい子、よくない子などがいます。そこに自分の居場所をしっかりと見つけて小学6年、中学3年卒業する。
学校は、国語算数理科社会だけではない。コミュニケーション能力勉強する場でもある。
普段から家庭内で夫婦がユーモアある会話をしていればいいのです。そうすれば子どもがそれを聞いて利口になるのです。
バカと言われたら泣いて家に帰ってこないで、バカと言われたらアホと切り返してやるたくましさがほしいのです。
大阪の人二人が会話すると本当に面白いですよ。
大阪の人って必ずオチを言うのですね。たとえばです。駅で10時待ち合わせした。
一人が遅くなった。「ごめんなさん、遅くなってしまって」これではだめなのです。
何か言わないといけない「ごめんね。遅れちゃいけないと思って電車の中を走ったけどさ、遅れちゃったよ」「宇宙人のユーホーに追いかけられて逃げ回ったので遅くなったよ」
なんどもいいのです。とにかく何かいう。これが小さいころからやられているのですね。
自殺率ってありますね。他殺率ってあるのご存知ですか。他人から殺される割合。
これが一番なのが大阪です。
秋田県人は何かあると全部自分が悪い自分が悪いといって自分を責めて自殺する。
大阪人って何があっても自分は何にもわるくない。社会が悪い、政治が悪い、地域が悪い、あいつが悪い、といって他人を責めるのです。自殺するわけがない。
ここに大阪出身いますか。いたら何事も例外がありますと言うしかないですね。
小さい頃、悪さをすれば必ず祖母に言われた言葉がある。
「誰も見ていないと思っても、神様はいつも見ているんだよ。死んだ大おじいさんがいつもお前をみているんだよ。だから悪いことしちゃだめだよ」
幼心にそんなことあるもんかと思いつつも、その言葉が心のすみっこに残っており、歯止めになっていた。そんな時に悪仲間が「おい、スイカ盗みにいこうよ」と誘う。スイカよりも野球しようよ。と言って拒否した。
スイカ盗むことがいいことか悪いことか、なんて5歳の子どもでもわかりますよ。
農家の人々が汗水流して一生懸命育てたスイカをこっちは何もしないで持ってくるのだから、、
それからよく言われた言葉。夕方遅くまで遊んでいると「サーカスにさらわれるよ。早く帰ってこないと」祖母が生きた明治のころは悪い人間がいてそこいらの子どもを誘拐してサーカスに売ってお金を得ていたのでしょうね。
私64歳です。祖母が亡くなってからもう20年以上なりますけど、祖母から言われた言葉、祖母が怒った時の怖い顔、普段接するときの優しい顔が今でもはっきりと思い浮かべることができます。
今のおばあさんやおじいさんはどうでしょうか。孫にお金やモノをいっぱい与えて孫が嬉しがる顔を見て喜んでいます。私に言わせれば非常に薄っぺらな愛情です。お金やモノで結ばれた関係ならそれらが無くなると消え失せちゃいます。
おばあちゃんが亡くなると孫は「いいおばあちゃんだったね」で1か月もすれば忘れられます。
おじいちゃんおばあちゃんはお金やモノではなくて、生き方、人の道をしっかりと孫に教えればいいのです。
英語でおばあちゃんはグランドマザー、おじいちゃんはグランドファザーです。
グランドとは偉大な、すごい、素晴らしいという意味です。
こんなことを老人クラブの研修会でよく話しますけどね。
ここからは人生をより良くより楽しくより快適に生きることについて話したいと思います。
物事にはすべて時効というものがある。嫌なことは三日で時効としよう。
嫌なことは引きずらないこと。心の健康を保つため脳細胞をリセットして楽しいことのみを
インプットしよう。
心の無駄遣いをやめよう。
あの人のこと、この人のこと、過去への後悔、未来への不安
今、自分のやるべきこと、考えるべきことに心を集中させよう。
人は人によって磨かれる。人をえり好みしてはいけない。
あの人はいや。この人がいい。あの人は嫌、そう思っていればあの人からは嫌われる。
この人が好き、そう思っていればこの人からは好かれるよ。当たり前のことだけど、、、、
日常生活で腹の立つことがあったら畳の上にゴロ寝しよう。立った腹が横になる。
そして大の字になって三回大笑いしよう。わっはっは わっはっは わっはっは
「バカらしい」「アホみたい」などと思わないことです。形から入るのです。そうすると心が従います。三回「わっはっは」でもすっきりしなかったら10回もやったらいい。こんなことでイライラ、もやもやが吹き飛び心身の健康を保てるのならやってみる価値があります。
諸行無常
お釈迦様が、悟りを開いてひと言 「諸行無常」と言われた。
この世において、変わらぬものはひとつもない。 すべてのものは、変わるのだ。
言われてみると、誰もがその通りだと思う。納得する。
ところが、諸行無常が自分の身に降りかかるとなると、人はとたんにうろたえ悩み苦しむ。
給料が下がった。上がることもあるさ、下がることもあるさ。
恋人に振られた。好きになったり、嫌いになったりで人の心は 変わるもの。
病気になってしまった。健康なときもあれば、病気になるときもあるさ。
子どもが親元を離れて寂しい。こどもだって成長するし 自分のやりたいことがあれば
家をでていくよ。
年老いて、若いころの元気がなくなった。白髪も増えたしハゲも目立ってきた。
変わることを悩んでいたら、人は一生悩み続けないといけない。
変わることを「楽しむ心」をもっていたら、人生はバラ色に輝いてくる。
人生とは臨終までのヒマつぶしみたいなもの どういう訳か、気がついたらこの世に放り出されていた。人の命がつきるまではとてもとても長い時間がある。神様は、そういう人間どもを退屈させないためにいろいろと辛いことやおもしろいこと好きな人との出会い、嫌な人との出会いなどを適当に散りばめておいてくださった。そんな神様の優しさを心に思い浮かべることができれば辛いこと、嫌な人との出会い、そして悩みもどうってことないと思いませんか。
人生をこのように考えることができる人は人生の達人になれるでしょう。
境遇が変わったら自分を変える。
退職した。給料がなくなり年金暮らしになった。境遇が変わったら、自分の生活様式を変えたらいい。ただそれだけのこと。
2,000㏄の車を持っていたら、さっさと大衆車や軽自動車に乗り換える。毎日、刺身、ステーキを食べていたら、納豆、野菜、がっこに切り替える。プレミアムビールを飲んでいたら発泡酒に切り替える。ブランドものを愛用していたら、ユニクロやしまむらに切り替える。境遇が変わったのに、プライドとか見栄とか格式とか言って、自分を変えようとしないからどこかに無理がくるのです。カニは自分の甲羅に合わせて穴を掘る。自分の収入にあった生活をすればよいのである。プライドなどという訳のわからない代物はさっさとゴミ箱に捨てよう。 次ぎのゴミ収集日にはゴミ処理場で煙となって消えるよ。あああ、すっきりさわやかいい気分。わっはっっは。
いい人と思われなくてもいいじゃないか。
日本人は「皆にいい人と思われたい」と言う意識があまり にも強すぎる。開きなおったらどうだろうか。別に、あの人、この人から嫌われたってかまわないさ。皆にいい人と思われたいと背伸びすると疲れるのです。 そしてそんなことは不可能です。敵対的な気持ちを持つ人には何を言っても何を行動してもだめ。最初から嫌われているのですから、、 嫌われたっていいじゃないの。 どうどうと嫌われていようじゃないか。Everybody's friend is nobody's friend.
皆の友だちはだれの友でもない 八方美人に友人なし
世の中には自分に好意的な人が2割、どうでもいい人が6割、悪意を持つ人が2割という
2-6-2の法則というものがある。
「あの人が、この人が、、、」ではない。大切なのは「自分がどう行動するのか、自分がどう生きるのか」なのです。
他人のこと、他人と比較すること、他人の目を気にすることなどのヒマがあったら自分の生き方、自分のこの世におけるミッションを真剣に考えた方がいい。
而立の30歳不惑の40歳そして50歳は知命だ。その意味は50歳にして天から与えられた
ミッション(使命)を知るということ。
50年も生きてきたら、飲んで食べて寝て起きて馬齢を重ねるのではなくて自分がこの世で何をすべきなのかを知る歳になったのです。お金を稼ぐこともいいです。でもお金を稼ぐことがこの世のミッションなのでしょうか。お金は手段、ツールに過ぎないです。
ガーベイジイン、ガーベイジアウト
ガーベイジとは生ゴミという意味。
脳みその中に生ゴミレベルの知識を入れれば、いくら考えても出てくるのは 生ゴミレベルのアイデアしか出てこない。 だから、普段から価値の高い情報に多く接するようにすれば」すごいアイデアが 出てくる。
漫画家の手塚治虫さんは生前よく若手漫画家に言っていた。 「マンガの技術を上げることを考える前に一流のものに触れなさい。 一流の演劇、音楽、絵画、小説、、、そして、一流の人の話を聴くことです」 まず、脳細胞に良質の情報をいっぱい詰め込め、と言うのだ。
そうすれば、良いマンガをかける。
「ガーベイジイン、ガーベイジアウト」 この言葉は心の片隅にしまって置きたい言葉ですね。
参考 ガーベイジイン、ガーベイジアウトは 元々はコンピューター技術者の用語であった。 いくらパソコンハード、ソフトシステムが完璧でもガラクタみたいな情報をインプットすれば、アウトプットはガラクタみたいなものしか出てこない。
人は誰かに何かに必要とされることを必要とする。
自分が会社から必要とされている。自分が家族から必要とされている。自分が地域社会から必要とされている。自分がサークル仲間から必要とされている。人以外でもいい、何かに必要とされている。だから人は生き甲斐をもって生きていける。誰からも何からも必要とされなくなったとき人は何を心の支えとして生きていけるのでしょうか。
ノーボディズパーフェクト
カナダでは子育て中の親向けに「ノーボディズパーフェクト」という合い言葉がある。意味するところは「世の中に完全な人間なんていない。だから多少のミスはあってもいいんだよ。リラックスして子育てを楽しみましょう」ということだ。子育てに限らないですね。夫婦関係、老親の介護、親戚つき合い、サークル活動、友達関係、、、波風のない100パーセント完全な関係なんてありはしない。そう思えば、日常生活が楽になります。うまくいかないからと言って悩むことはない。
うまくいかないことってよくあることです。人生とは不充分な前提から充分な結論を引き出すという技術である。心の傷、体の病、悩みなどを抱えながらも自分の人生を充実した価値豊かなものにしないといけない。心の傷、体の病、悩みなどばかりにとらわれて肝心の人生を豊かにすることを忘れている人が多い。生きるとは傷つくこと。そして傷つくことを恐れていては人生の醍醐味を味わうことはできない。傷つきながらも明るく朗らかに笑いながら自分の人生を果敢に切り開いていきたいですね。
T=N/MC T 悩み Trouble
N 嫌な事 Nastiness
MC 腹の大きさ Mental Capacity
腹を大きくする訓練をすれば、この世から悩みはなくなります。腹を大きくする訓練方法はですね。
ものごとにこだわらない
くよくよしない
他人の評価を気にしない
なるようになるさ、なるようにしかならない
損得計算をしない
こんなことを意識してやれれば、腹はどんどん大きくなりますよ。
悩み解消法宇宙療法 150億年を一年とすると人間の一生100年はわずか0.2秒
落ち込み解消法
落ち込んでいるときは、大股で歩くこと
そうすれば、自然と背筋が伸びて、少なくとも歩いている間は、落ち込んでいることを
忘れる。
人の幸福のバロメーター その人が生涯にどれだけ笑ったか
他人にあまり期待しないクールさが欲しいね。
期待するから期待どおりに動かない他人にいらいらすることになる。
初めからあまり期待していなければいらいらすることもない。心身の健康にとても良い。
絆の大切さをしっかりと認識したうえでのことだよ。他人とは、夫、妻、上司、部下、同僚、親、子ども、、、、
人間は称賛を渇望しながら生きている動物である。3歳のこどもから100歳の高齢者まで、、、、
子どもとの対話 相手の言葉をそのままオウム返しにしてやる。
ジェラール・シャンドリーという人が、「人の一生の終わりに残るものは、われわれが集めたものではなく、与えたものである。」という言葉を遺(のこ)されているそうです。
ソロモン王の時代から人々はユーモアの癒しの力に気づき、それを利用してきた。
聖書の箴言17-22にも
「心のたのしみは良き薬なり」とある。
喜びを抱く心はからだを養うが、霊魂が沈み込んでいると骨まで枯れる。
Cheerful heart is a good medicine , but downcast sprit dries up the bone.
人間の心はパラシュートのようなものだ。開かなければ使えない。
アインシュタインの有名なエネルギーと質量の関係式 これをヒントにしまして、
E = m C2 E エネルギー
m 質量
C 光速
H = b O2 H 人生の幸せ総量 Happiness
第6の数式 b 行動量 behaviour
O 他人の幸せ総量 Others` happiness
つまり、自分の幸せの大きさというのは、他人をいかに幸せにしたか、自分の行動量と他人の幸せ総量の2乗できいてくると思うのです。
年老いて、余命幾ばくもない体となり、ベッドに横たわったとき、「もっと金を稼いで財産を残せば良かった」と思う人はいないと思うのです。その時、考えることは、「自分は、生まれてからこの歳になるまで、いったい何をしてきたのだろうか、私の人生において、自分と関わった人々に幸せや喜びをいくらかでも与えたのだろうか」多分、私だったら、そんなことを考えると思うのです。
そのとき、ベッドの脇で妻が「あなたは、家族をはじめ、回りの人々にいっぱい幸せや、喜びをあたえたのよ」と言ってくれれば、「自分の人生には意味があった」と実感できますし、この世を去るに当たって何の後悔も憂いもないですね。