下記の通り、第53回研究例会がハイフレックスにて開催されましたのでご報告いたします。今回の例会では、沼田千恵氏による研究発表と竹本研史氏の近著『サルトル「特異的普遍」の哲学 —個人の実践と全体化の論理』(法政大学出版局、2024年)をめぐる合評会が行われました。(以下、敬称略)
第53回研究例会
日時:2024年7月6日(土) 14: 30 - 18 :40
場所: ハイフレックス開催
立教大学池袋キャンパス 本館 1204 教室およびZoom
14 : 30:開会挨拶
14 : 35 - 15 : 30 研究発表
沼田千恵(同志社大学)「後期サルトルとフェミニズム ― ボーヴォワール思想との関係をめぐって」
15 : 30 - 15 : 45 司会者によるコメントと他の参加者も含めた質疑応答
司会・コメント 澤田直(立教大学)
15 : 55 - 18 : 30 竹本研史『サルトル「特異的普遍」の哲学 — 個人の実践と全体化の論理』(法政大学出版局、2024年)合評会
15 : 55 - 16 : 05 著作の紹介・応答 竹本研史(法政大学)
16 : 05 - 18 :15 討論 関大聡(日本学術振興会/立教大学)
北見秀司(津田塾大学)
永野潤(東京都立大学)
18 :15 - 18 : 30 他の参加者も含めた質疑応答
司会・コメント 生方淳子(国士舘大学)
18 : 30-18 : 40 総会 新規会員紹介
以下に、登壇者および司会者による報告文を掲載いたします。
【研究発表】
後期サルトルとフェミニズム -ボーヴォワール思想との関係をめぐって 沼田千恵
本発表では、ボーヴォワールが『両義性のモラル』や『第二の性』を中心に展開する女性性についての問題意識と、トリル・モイ(Toril Moi)、アイリス・マリオン・ヤング(Iris Marion Young)、ジョアン・トロント(Joan C. Tronto,)ら現代を代表するフェミニズム思想家との関連性について検討し、さらにこれらの考察から導き出されるフェミニズム思想の問題点と、後期サルトルの集団論との関連性及びその有効性とその意義について考察した。
第1の論点は、モイがボーヴォワールの女性論において最も重要な問題意識として指摘する、女性の「周縁性(marginality)」という概念である。男性と女性の存在論的な関係が、単なる対等な対概念としては理解されないこと、さらに言えば、<中心的存在=男性>との関係において、<周縁的存在=他者>として、女性が位置付けられているという主張が、『第二の性』の核心をなす問題意識である。この構図において、男性と女性の関係を考察することの重要性、そして他ならぬボーヴォワール自身が自らの周縁性の囚われとなっていたことを、モイはボーヴォワールの実体験も同時にテクスト化して解読している。第2の論点は、この女性の周縁性という概念を、より社会的・政治的次元において問題化したトロントの視点である。女性性に関する命題を純粋に道徳的な文脈に囲い込むことこそが、女性の置かれた周縁的地位を隠蔽し、それを強化する要因となっている。道徳的領域の囲い込みは、<公的=政治的領域>と<私的=道徳的領域>という区分に基づいて、男性と女性の活動領域を分断し、女性の活動を公的・政治的領域外に位置づけることを意味する。道徳的領域の境界を解放することこそが、女性の周縁化という問題解決のための重要な糸口になると考えられる。第3の論点は、ヤングが指摘する、後期サルトルにおける集団論と女性論との関係である。女性の身体的経験は、未知のメカニズムにおいて進行していく恐怖と疎外の経験であるが、そこには、集団の特性から強い影響を受ける強固な帰属関係だけが存在するのではない。ジェンダーとしての女性性の定義が「規範」としての力を持つ場合、それは個々の身体や実践の価値を過少評価することへとつながってしまう。ヤングはここで「家政(homemaking)」と言う概念を用い、外部から受動的に女性の役割が集団に帰属させられることに意義を唱えている。「家政」は「内在」や「疎外」と言う形で語られるような状況を意味するのではなく、我々のアイデンティティの確立のプロセスとして、主体への帰属を基礎付けるものである。この場合の各人は、お互いに交換可能な存在として位置付けられながらも、「集列性を発生させる社会的実践や対象」という観点からは同一視されない。すなわち、集列性としてのジェンダーは、その成員の同一性が、集団の成員の意味やその社会的産物を理解する3
ために機能するのではない。ここで見られる他者との相互性は、各人が実践において見出す他者との関わりによる。この関係は「体験的現実」としてわれわれに知られ、「歴史的全体化」によって、自己の実践のあり方を他者の行動のうちに見出すことを可能にする契機として理解される。
本発表に関しては、会場から主として以下の2点のご指摘をいただいた。まず一つは、女性性として形成される集列的集団から、成員間が強固な帰属関係を有するような誓約的集団への発展可能性という問題である。発表者からは、女性性の名の下に形成される集団のあり方自体が極めて受動的な外部からの規定によって成立するものである以上、それは個々人が明確な帰属意識と意図を持った集団とは性質を異にするものであると回答させていただいた。しかしながら、一個人がある集団に帰属することが、個々人の実践とどのように関係づけられるのかは、この特殊な集団のあり方において、さらに詳細に検討される必要があろう。この点は今後の課題としたい。
二つ目は、モラルと権力(=政治性)との関係についてである。道徳的な命題が含意する権力こそが、道徳的領域に政治的なものを介在させているという本発表での言及について、「権力の介在からの解放を課題として掲げていたが、その先はどうなるのか」とのご質問をいただいた。発表者の方からは「権力的なものからの解放は本来の道徳的命題のあるべき姿に戻る」と回答させていただいたが、現実社会では権力の介在が皆無であるということは、実現不可能であると言える。トロントもこの点については慎重で、権力からの解放以上に「パワーバランス」が重要であると述べている。以上の点については、会場での回答に反映できなかったので補足させていただく。
最後になりましたが、当日ご清聴並びに貴重なご指摘をいただきました会員の皆様及び関係者の皆様にこの場をかりてお礼申し上げます。
後期サルトルとフェミニズム−ボーヴォワール思想との関係をめぐって 澤田直
沼田千恵氏の発表は、近年のボーヴォワール研究の成果を確認しながら、その思想の核心が後期サルトルの集団論とどのように繋がっているのかを明らかにしようとする野心的かつ刺激的な発表であった。まず、カナダ人研究者トリル・モイの『ボーヴォワール ― 女性知識人の誕生』に拠り、『第二の性』が出版された年の終わりごろには、その思想が確立されたことが確認された。さらに、ボーヴォワール思想が、思弁的なものではなく、むしろ個人の経験と密接に結びついたものであり、事実を出発点としつつ虚構化する彼女の小説のあり方にも通じ、具体的なものの普遍化の試みが、その思想的プロセスにも見て取れることが指摘された。だが、それは直線的に進行する伝記とは異なる系譜学的な試みである。つづいて、沼田氏は、ボーヴォワールにおける神話化と周縁性に着目し、『第二の性』における女性の他者性4
が、レヴィナス的な他者の考えに通じることを指摘した。それと併せて、異質な差異性において語られるべきものを、可知的領域へと囲い込むことの問題点についても、ニーチェを参照しつつ提示された。
以上を踏まえた上で、発表の後半では、フェミニズムとケアについて刺激的な思想を展開するアメリカ人倫理学者ジョアン・トロントの思想が、ボーヴォワールの延長線上に位置するという仮説から展開された。トロントによれば、女性の解放は、女性性の問題が中心へと位置付けられることに他ならないが、それは同時に、女性性の問題を私的領域の問題としてではなく、政治的次元において論じることへの変換を要求する。そこに女性の周縁性とジレンマの問題があるのだが、この問題の解決の糸口を、沼田氏はアメリカの政治学者アイリス・マリオン・ヤングを補助線として探る。『女性の身体的経験について』(2005)においてヤングが、女性が外部からの規定によって集団化される過程を、女性が自らの身体性あるいは物質性と関わる仕方として取り上げながら考察する点に着目した沼田氏は、このボーヴォワール的問題構成をサルトルの『弁証法的理性批判』で示された規範としての集列性へと接続し、分析する。ただし、女性性を問題とする場合、その集合体の特殊性をも考慮すべきことにも注意を促す。かくして、この発表は、「女性性」と女性との関係が集列体としての集合態という観点から考察されるべきであるという確認で結ばれた。盛りだくさんの内容で、時間が限られていたことが惜しまれる、充実した発表であった。
【合評会】
竹本研史 著『サルトル「特異的普遍」の哲学 —個人の実践と全体化の論理』について
評価と質問
1,関大聡より
最初の討論者の関は、まず未読者への本書の紹介も兼ねて形式的特徴を四点指摘した(コーパスの広さ、可読性〈リーダビリティ〉の高さ、先行研究への目配せ、注解書的な性格)。ついで、本書全体についての三つの質問を投げかけた(実際には九の質問を用意したが、第四章に焦点をあてた残り六つの質問は、時間の都合から資料として配布するに留めた)。
質問1:本書は先行研究に対してどのような物足りなさを見て、批判を行っているのか。そして先行研究では扱われてこなかった、どのような点に光をあてようとしているのか。
質問2:本書の結論として、「人間学の構築」という文脈で『批判』は読まれねばならないとあるが、この人間学という語自体は序章と終章で用いられるのみで、本論では直接的には用いられていない。人間学の文脈とはいかなるもので、そのような文脈に位置づけたとき、何が見えてきたと著者は考えるか。
質問3:「特異的普遍」の概念に関して、「特異性」の優位を本書は繰り返して強調しているが、この概念が両者の分かち難い循環性を強調したものであるかぎり、一方の他方に対する「優位」を論じることにはいかなる意義があるのか。
第一の質問に対して、著者からは、アディ・リズク、竹内芳郎、北見秀司に絞った簡潔な先行研究整理の言葉を受け取った。また人間学の定義をめぐる第二の問いについては、本書では概念的に掘り下げきれなかったものの、人類学者のレヴィ=ストロースとの対決においてサルトルが掲げたものとして、今後重視していくつもりとのことであった。そして特異性の「優位」に関する第三の問いについては、やはりヘーゲル(普遍性)とキルケゴール(特異性)に対するサルトルの対峙の仕方として、ヘーゲル批判の側面を重視しているという。
以上のように、著者の竹本氏からは評者の拙劣な問いに対する適切な返答をいただき、質疑として非常に噛み合った印象を受けた。もちろん、議論自体はもっと深めることが可能だろう。たとえば特異と普遍を、どちらかが優位というのではなく、両立の方向で考えていくとき、本書におけるカントの奇妙な不在が気になってくる。特異的存在が同時に普遍的でありうるという「自律」の問題系は、実際サルトルにおいてもひとつの「理念」として存続しているのではあるまいか。本書が掘り当てた「特異的普遍」という鉱脈については、本書を出発点として今後もさらなる議論が展開されていくことだろう。
2,北見秀司より
北見は、まず、竹本氏のこの著作が以下の点で高く評価されるべきであると述べた。
1.「特異的普遍」という観念はサルトル思想の重要な観念のひとつであるにもかかわらず、この観念を主要な哲学著作のみならず、様々な論文・著作に言及し、総合的に論じた研究書や論文は世界的に見ても存在していなかったように思われる。その意味で竹本氏の本著作は世界的に見ても重要である。
2.「特異的普遍」という観念は様々なテクストであまりに多様に使われているため、一貫性のある意味を見出すことが難しい観念のひとつでもあるが、竹本氏は一貫性のあることを、説得力を持って浮き彫りにした。その一貫性は個人的実践に絶えず立ち戻ることで見えてくる。特異性は自由な個人的実践に由来する。それは、たとえ人を疎外するような社会関係においてさえ現れる。「ポール・ヴァレリーはたしかにプチブル・インテリであるが、すべてのプチブル・インテリがポール・ヴァレリーではない。」という『方法の問題』にある有名な言葉が物語っているように、一般的社会条件に対して、それをどう受け止めるかに関しては、個人の自由によって違いが生じ、特異性が生まれるのである。このことは、竹本氏が直接扱ってはいないフローベール論においても同じことが言えるだろう、と北見は付言した。 6
3.『弁証法的理性批判:第1巻』に関しては、竹本氏は、「集列性」においては個人が交換可能になるのに対し、 疎外を乗り越えた「集団」では個人の特異性が肯定されること、このことを分かりやすく描き出している。「集団」が共同的なものであるにもかかわらず、そこでは特異性が肯定されており、「特異的普遍」がもっとも実現できる社会関係であること、このことの指摘も重要であるが、さらに集列性−交換可能性 対 集団−特異性のコントラストをあざやかに描き出している点は、他に類がないと思われる。
以上のようなコメントの後、
1.「共産主義と平和」においてサルトルが自分自身の原理と見なしたものはなんであると考えられるか。関連して、レーニン・ルカーチの階級意識論との違い、たとえばプロレタリアが社会的・歴史的主体になる過程に関する考えの両者の相違はどこにあるのか。
2. ヘーゲルとサルトルの弁証法の違いは結局どこにあるのか。
3. 現在サルトルを読む積極的な意味がどこにあると考えるか。
といった質問が北見からなされ、活発な議論が行われた。
3.永野潤より
「サルトル的知識人」は「普遍的知の番人」などと言われて批判されてきたが、ここには「エリート批判」のニュアンスがある。一方で、現代日本では、政権批判的な人々が、安倍支持者を「反知性主義」と名指すような言説が流通している。しかし実際は、酒井隆史が『賢人と奴隷とバカ』で言うように、現代の排外主義やレイシズムの言説は、知識人、エリート、メディアの複合体によって「上から主導されてきたもの」である。酒井によると、現在の日本を特徴づけるのはむしろ「知性の氾濫」なのであり、同時に「知の戦略化」である。酒井は、反原発を唱え始めた保守政治家に候補者を絞り、他候補の出馬辞退を迫るような「戦略的」言説が現れた2014年の都知事選の例を上げている。しかし、この例から私が思い出すのは、1965年のサルトルの一連のインタビューだ。サルトルは、共産党を排除した中道派大統領候補ドフェールへの投票を「実効性」「現実主義」の名の下に左翼に対し呼びかけるキャンペーンを、「左翼の死」と痛烈に批判している。酒井は、「反戦略的」な知識人としてのフーコーを紹介しているが、それはサルトルにも当てはまるだろう。
酒井の著作のタイトルは、魯迅の寓話からとられている。竹内好は「中国の近代と日本の近代」でこの寓話を紹介しながら中国と日本の近代化の違いを論じた。竹内好の言う中国型の「回心」の文化は、「自己に固執するがゆえに」自己を変えていくものだ。「私が私であるためには、私は私以外のものにならなければならぬ時機というものは、かならずあるだろう」。それが個人に現れるとき「回心」になり、社会に現れれば「革命」となる。しかし、日本には、この固執する自己がそもそもない。だからポストモダン7
といわれる思潮がとりわけ日本の「優等生的」風土(竹内芳郎が「日本的現実」と呼んだもの)に相性抜群だったのではないか、と酒井は言う。
竹本研史氏は、サルトルの「特異的普遍」が、加藤周一の知識人論を考えるうえで非常に重要であると言う。加藤の竹内好論を通じても、そのことは言えるのではないか。加藤は、竹内好の「中国の近代と日本の近代」を評価しながら、そこでは「ヨーロッパ文化の普遍性が同時にヨーロッパ社会の特殊性の表現である、という構造が明瞭に分析されていない」と批判する。加藤によると(竹内芳郎も同様のことを言っていたが)アジアの解放は「ヨーロッパ」的なるものの全面的な拒否においてではなく、「アジアがヨーロッパの文化の普遍的な面を、ヨーロッパ社会に固有の特殊な面から、引きはがすことによってのみ、成り立つ」のである。ここで加藤は、サルトルのことを念頭においていたはずである。
酒井が紹介する、魯迅の寓話のパロディでは、「主人の側の賢人」と「奴隷の側の賢人」という二種類の賢人が登場する。両者は一見対立するように見えながら「バカを憎む」という点で共通していると酒井は指摘する。「奴隷の側の賢人」は、実は、主人以上にバカを憎んでいる。では、「バカ」とは何か。寓話ではバカは、「部屋に窓がない」と訴えるドレイの家に行って、いきなり壁をぶち壊して窓を作ろうとする。酒井は、魯迅や竹内好が、賢人を憎んでバカを愛していたと言う。だが彼らは、バカがドレイを救うと考えていたわけではない。酒井によると、バカとはひとつの人間の集団ではなく、万人にひそんでいる部分(バカ的部分)なのだ。
サルトルフォビアにおいて、サルトルは「エリート」として批判される一方で、「哲学者としては二流」などと「バカ」にされる。しかし、そこで「サルトルはバカではない」と反論するならば、バカを憎む「賢人」たち、つまり、「転向型」の日本的現実に絡め取られてしまうだろう。サルトルも賢人を憎みバカを愛していたはずだ。サルトルの中の「バカ的部分」にこそ、サルトルの可能性の中心がある。
司会者(生方)による総括
以上、合評会は三人の登壇者がそれぞれの視点から評価し、著者への質問を発し、著者がこれに答える形で進められた。まず関が、本人の報告にあるように全般的かつピンポイントの質問を向けた。時間をかけてじっくりと読み、正確に理解し評価した上でなおも残る疑問を率直にぶつけたという印象で、これに対し、著者も真正面から噛み合った説得的な答を返していた。今後の研究の進展に大いに資する建設的な質疑応答であった。
次に北見は、この著書の重要性を高く評価した上で、細部の読解に立ち入った質問を投げかけた。読みの多様な可能性に気づかされるやり取りとなった。共に『弁証法的理性批判』を重視し、その意義を探り8
続けてきた両者だけあって、共通の理解と深い共感性を基盤としつつも相違点を率直にぶつけ合う高度な対話となり、聴きごたえがあった。
永野は、学術的な枠からはみ出さないこの禁欲的な研究書に対して、いわばアンチテーゼを突きつけたと言えるだろう。別人の別の著作を取り上げてそれに対する反応を逆質問するという展開になったが、竹本はそれを謙虚に受け止め、数日前に知らされたその著作を購入して読んだという。やり取りは竹内好や加藤周一とサルトルとの関係にも及び、知識人論へと発展した。
会場からの反応としては、まず澤田直からいくつかの根本的な質問が出された。サルトル哲学の現代的意味は何か、普遍性という哲学の基本概念をサルトルは単独性との関係のもとでしか語れないと考えたがそれを思想史的にどう捉えるか、共産党との関係は国ごとに区別して捉えるべきでないか、「革命の魔力」と言うと時代遅れの感があるが、どう考えるか、などである。パリよりオンラインで参加した根木昭英からは、普遍と特異という対立する概念がどういったロジックでつながっているのか、会場に向けても問いが投げかけられた。それに答える形で、京都からは南コニーよりこのテーマでの研究実績に基づいた見解が寄せられた。目下起きているガザの悲劇とそれに対するアメリカの学生の抗議運動にも触れられ、どのように関連しているかが示された。
サルトル哲学と現代世界の課題との関連について、竹本は「私はあくまでアクチュアリテは封印した」と述べたが、それは決してサルトル哲学をアカデミズムに閉じ込めようという意味ではないと司会者は理解した。今回の著書では学術的なレベルに限定されたが、著者は次の段階として自ら今取り組んでいる社会学的フィールドワークの地盤から考えていくとの見通しも示しており、今後が一層期待される。
*著作
田中彰吾『身体と魂の精神史――「大きな理性」の行方』講談社選書メチエ、2024年(第3章がサルトルを扱っている)。
*論文
細貝健司「非反省的意識はなぜ自我を産み出さなければならないのか? ―― 1934年のサルトルの著作に於ける“自己意識”と“自己”」『立命館経済学』立命館大学経済学会、第73巻第1号、2024年、1-15頁。
東浦弘樹「サルトルの『アルトナの幽閉者』と大島渚の『儀式』」、『人文論究』関西学院大学人文学会、第74巻第1号、2024年、59-81頁。
高根英博「マンガ思想の発掘:第11回――ロランとサルトル」、『進歩と改革』進歩と改革研究会、第872号、2024年、48-49頁。 9
立教大学河野哲也研究室と本学会との共催にて、以下のとおり合評会を開催します。
申し込み不要、ZOOMでどなたでもご参加できますので、ふるってご参加ください。
合評会『サルトル 風通しのよい哲学』(赤阪辰太郎著、大阪大学出版会、2024年)
主催:立教大学 河野哲也研究室
共催:日本サルトル学会
日時:2024年9月21日14時~16時
評者:張乃烽(立教大学)、関大聡(日本学術振興会/立教大学)
コメント・司会:河野哲也(立教大学)
著者:赤阪辰太郎(日本学術振興会/立教大学)
開催方法:当日、下記のリンクよりご参加ください。
https://us06web.zoom.us/j/88289847509?pwd=qeSkK0aRURfNzqIwm2CHQY5RklsMV0.1
ミーティング ID: 882 8984 7509 パスコード: 5J5Rqk
連絡先:shintaro_akasaka<at>hotmail.com ※ @に置換してください
・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。