日本サルトル学会会報 第75号 2023年 6月
Bulletin de l'Association Japonaise d’Études Sartriennes No 76 octobre 2023
日本サルトル学会会報 第76号 2023年10月
研究例会報告
2023年7月8日(土)に下記の通り、対面ハイフレックス(=ハイブリッド)方式により、第51回研究例会を開催しましたのでご報告いたします。今回の研究例会では、澤田哲生氏による研究発表とジル・アニュス氏による講演がおこなわれました。以下、報告文を掲載いたします。
第51回研究例会
日時:2023年7月8日(土) 14 : 30 - 18: 30
場所: 対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催
立教大学池袋キャンパス14号館4階 D 402教室
【プログラム】
14: 30:開会挨拶
14: 35-15:30:研究発表
発表:澤田 哲生 氏(東北大学)
「空想・イメージ・情動性――ジャン=ポール・サルトル『イマジネール』における現象学的なもの」
司会:水野 浩二 氏(札幌国際大学)
15:30-16:30:質疑応答
16:30-17:00:総会
17:00-17:30:講演(ズーム形式)
講演:Gilles Hanus (Directeur des Cahiers d'études lévinassiennes)
« Sartre et Benny Lévy : un dialogue méconnu mais essentiel ».
司会:澤田 直 氏(立教大学)
17:30-18:30:質疑応答
【研究発表報告】
澤田哲生「空想・イメージ・情動性 ジャン=ポール・サルトル『イマジネール』における現象学的なもの」
澤田哲生氏の発表の目的は、フッサールの遺稿を援用してサルトルの『イマジネール』の意義と独自性を再検討することにある。フッサールは、「像(Bild)」や「空想(Phantasie)」に関する膨大な草稿を遺した(フッサール全集第23巻(Hua.ⅩⅩⅢ)1980年――『空想・像意識・想起 直観的準現在の現象学に向けて:遺稿(1898-1925年)』)。以下において、澤田氏の精緻な論証を辿ってみよう。
さて、フッサールは、「像(像意識)」・「空想」・「想起(Erinnerung)」といった非実在的な現象を「準現在(化)(Vergegenwärtigung)」の体験と呼んだ。ただし、それらの現象のなかで、「像意識(Bildbewusstsein)」への言及は次第に影を潜め、「空想」についての言及が増えていき、ついには、像の現出を現実についての「模像(Abbildung)」と見なす見方を放棄し、代わって、「空想」の重要性を強調するようになる。
次いで、ブレンターノが「空想」という現象を知覚の派生的かつ非本来的な現象であると指摘したのに対して、フッサールは、空想には知覚とは独立した別の「統握」の様式があるとして、「空想統握」というものを提示した。さらには、意識の側からの統握の作業そのものが「空想」に変容してしまうがゆえに、「空想」の特殊性が明るみに出されるようになる。
『イデーン』第1巻では、「本質直観」におけるエイドスの抽出と「中立性変容」をつうじた意識の定立的な態度の解除において、「空想」の非定立的(「中立的」)な性質が、強調されるようになる。また、『間主観性の現象学』第1巻の「第10草稿」においては、他者への私の感情移入に際し「空想」という現象の自由な現象性が起動的な役割を担うことが示される。
ここからいよいよ発表者は本題に入る。まず、発表者は、準現在の現象学で提示されたフッサールの「像意識」(デューラーの版画のケース)との対比でサルトルの「想像的意識」を描き出す。サルトルの「想像的意識」において第一段階に置かれるのは、「物理像」の知覚ではない。最初に来るのは、絵に備わる「促し」の作用(「アナロゴン」)である。鑑賞者は「促し」の作用により絵のなかの人物(例えばピエール)を「知覚」するように誘われるが、その人物が不在であるために(「知覚」不可能なので)、「知覚的総合」が「イメージ化された総合」へと変容し、ピエールのイメージが成立する。
次に、発表者は、「空想」を取り扱う。サルトルにおいて「空想」は、「対象は実在しないものとして定立される」として表現される。例えば、「ケンタウロス」は架空の世界にあるものであり、現実の世界で知覚されることはない。サルトルは、フッサールのように、「像意識」か「空想」かの二者択一を行わない。むしろ、「実在するものとして定立されない」対象(デューラーの銅版画)と「実在しないものとして定立される」対象(ケンタウロス)、換言するなら、存在の不在と不在の存在の交叉した状況を描き出している。サルトルは、「像意識」と「空想」という二つの現象が交叉する地点に、「想像的意識」の志向を定位している。そして、この「志向」が向かう対象に応じて、意識の関わる想像的な現象は「像意識」と「空想」のどちらかに配分される。
『イマジネール』第4部に至り、「空想」に備わる独自の機能と役割がさらに詳しく論じられる。空想の対象(「ケンタウロス」)は「非現実的対象(objet irréel)」と呼ばれ、この対象に固有の場は「想像的世界」と命名される。サルトルは、「想像的世界」のなかにある対象(「非現実的対象」)の非時間的な性格を明らかにする。さらには、「空想」において、イメージの現出と想像的世界への没入を「否定」もしくは「反世界」として記述する。もっとも、世界が否定されるということは、同時に、否定された世界が新たに構成し直されるということでもある。
そして、発表者によれば、サルトルにおいて、想像力による「構成」という問題は、「情動性(affectivité)」という観点から考察される。想像主体は、現実の世界を否定するだけでなく、友人ピエールのいない現実の世界を、もはや意味を失った「空虚な世界」に編成し直す。それが「情動的な把握」である。「憑依(possession)」とも表現される。この時、主体(「想像的意識」)と対象(友人ピエール)を隔てる距離は解消されている。そうした事態を「魔術」(「魔術的行為」)と呼んでもよい。
発表者は、最後に、「情動性」、「憑依」、「魔術」を、フッサールの遺稿『空想・像意識・想起』と対比して検討する。フッサールは、「像意識」や「空想」に関して、「あたかも~のような」、「~の気分となる」、「~を感じる」といった表現を使っている。「気分(Stimmung)」と総称されもする。この「気分」に取り巻かれた主体の意識の対象に対する関係は、「擬似定立(quasi-Setzung)」と呼ばれる。
以上、発表者の結論によれば、フッサールはサルトルに先駆けて、現実の世界の変容、さらにはそこで生じる主体の行為の変容とその情動的な在り方を提示した。
●発表後の質疑応答をかいつまんで報告する(【 】は発表者)。①【情動性は不在のものを出現させるきっかけとなるものである】。②『情緒(情動)論粗描』と『イマジネール』は繋がっているようで違う、との見方が会場から出された。③« Vergegenwärtigung »の訳し方(「準現在」)および、« Repräsentation »(再現前化)との違いについて、【現にない対象を想い浮かべるという意味で『現象学事典』(弘文堂)でもそのように訳されている。また、« Vergegenwärtigung »と« Repräsentation »とは基本的には同義である。さらには、« Repräsentation »には、「代表像」、「代理」といった意味もある】。④フッサールにおいて、議論の重点が「像意識」から「空想」へと移っていったことに関して、【フッサールの立場における心理学と現象学との関係、空想における「知」や「情動性」の役割】について語られた。⑤舞台を観ている観客の意識が知覚から空想へと変容することの意味についての質問があった。⑥サルトルにとって、現象学的心理学とは何か、心理学なのか、現象学なのか、という質問に対して、【現象学である。そもそも現象学は心理学を否定的には捉えていない】との回答。⑦時間性に関連して、観客は俳優を観ているのか、人物(登場人物)を観ているのかについて、【フッサールの「像意識」にはタイムラグがあるが、「空想」そのものは非時間的である】。⑧【サルトルの「想像的意識」は物質的対象としては現れないこと、また、フッサールにおいても「像意識」への言及は次第に消えていく】。⑨【フッサールの像理論をサルトルが受け継いで発展させた。また、『イデーン』では、知覚的意識とイマージュ・記号の意識の間には差異があったが、「知覚的な空想の世界」といった表現も遺稿では使っている】。(報告者:水野浩二)
【特別講演】
ジル・アニュスGilles Hanus
「サルトルとベニー・レヴィ----ある知られざる重要な対話(Sartre et Benny Lévy : un dialogue méconnu mais essentiel」
レヴィナス研究者として知られるジル・アニュス氏はベニー・レヴィの弟子であり、彼の遺稿の編者でもある。その彼が著作権の関係で未発表に留まる資料にも依拠しつつ、サルトルとベニー・レヴィの交流について2時間近く熱弁を振るった。
ベニー・レヴィの存在はサルトル研究においてはよく知られているが、ボーヴォワールの証言などによって、晩年のサルトルを誑かしたいかがわしい人物として否定的に語られることが多い。だが、アニュス氏は1970年代の二人の交流はきわめて重要で、かつ実り豊かなものだったとして、その重要性を強調する。
氏はまず、1970年、当時ピエール・ヴィクトルと名乗っていたレヴィの『人民の大義』時代から始まり、72−74年のフィリップ・ガヴィを交えた鼎談『反逆は正しい』の時代を経て、失明し、自分では本を読むことができず、書くこともできなかったサルトルの秘書となった時代までの二人の交流を概観し、とりわけ「権力と自由」という書を共同で執筆する計画をもつに至った経緯を紹介した。
つづいて、二人の対話が、知的実践の問い直しの試みであり、とりわけ世界に君臨する老いた知識人サルトルを問い直すことだったと指摘、日本での講演「知識人の擁護」の流れのうちにあるとした。サルトル自身、1968年5月以降、知識人のあり方を再検討しようとしていたことが、毛沢東主義者レヴィとの真剣勝負の対話につながった。そして、サルトルが変節してしまったと言われる最後の対談である悪名高き対話『いまこそ、希望を』において、サルトルはむしろ新たな変化を見せたのだ、と評価した。それは『文学とは何か』で提唱された作者と読者の間のジェネロジテ契約の新たな形式なのであり、それに基づいて二人は著作を準備していたと分析した。
その後、アニュス氏は、レヴィが残した準備ノートの重要な部分を紹介。1975年のノートから、サルトル哲学における「自己(Soi)」の問題を再構築する形で作業は進んでいた。自己が権力とどのように関係するのかが問題にされ、それゆえフランス革命、さらには革命一般の問題が俎上に載せられたという(それゆえ、ナポレオンの形象に関心が向けられ、『セント・ヘレナ覚書』が参照されたという部分はきわめて興味深かった)。そして、自己の批判は、作者の問題、chefとしての自己の解任に向かい、まさに思考のあり方そのものが改革されるべきだとされた。他方で、権力批判はソクラテス的問答法と無知の知の再評価につながる。権力空間の外部で革命を再考することと、無知の知は通底するというのだ。「あらゆる革命はそのうちに非―知を含んでいる」という引用によって、以上の点は補強された。
サルトル自身に関して言えば、この考察はそれまでの一人で構想し、みずからの権力の行使としての思考とは違う思考法、孤独なエクリチュールの放棄につながる、とアニュス氏は分析した。こうして、ここで問題になっている権力は政治の問題にとどまらず、むしろ思考そのものの問題だと言えるし、逆から言えば、すべてが政治的なのだと言うこともできるだろう。以上の背景には「書物の危機」と「知識人の死」というフランスの新左翼が提起した問題がある、とアニュス氏は指摘する。ただし、そこには負の側面もあり、ニヒリズムやファシズムに近づきかねないのみならず、愚かさ(bêtise)にも通じかねない。このような文脈で、レヴィは『パイドロス』での議論を参照しながら、écritureではなくparoleを称揚し、それがサルトルとの対話の基本にあったという指摘は、たいへん興味深かった。その意味で、二人の対話はサルトル哲学に新たな要素をもたらしたが、それはまさに思考の主体の問題という根源的な問いかけと結びついている。
さらにベニー・レヴィとの交流によってサルトルには「西洋哲学からの脱出」の可能性も見えた、とアニュス氏は展開した。それはレヴィナスが『全体性と無限』で提示した、「独白的」なヨーロッパ思想からの脱出に通じる。対話はまさにこの他なる思考への道筋とされる。対話は一致を目指すが、それは予定調和的なものとは異なり、不一致にいたるリスクも含んでいる。サルトルとレヴィはしばしば「我々の思考pensée du nous」と表現しているが、これはきわめて急進的なあり方だというのがアニュス氏の見解だ。じっさい、この表現は1976年1月に『リベラション』紙に掲載された対話でも、また『いまこそ、希望を』でも見られるが、「我々の思考」とは他者によって変容された個人の考えであり、異なる者の遭遇と言える。もちろん、このような対話は必ずしも成功するわけでなく、両者の個人的なこだわりや欠点という障碍があることも指摘された。
結論として、この対話の意義がまとめられた。サルトルに関して言えば、「自分自身に同意しない(désaccordé de lui-même)」サルトルの姿が改めて明らかになった。レヴィ、そして我々読者からすれば、サルトルのテクストを改めて違う仕方で読む可能性ということになる。正統的で教条的なサルトル解釈ではなく、より自由にサルトルを再読し、再活性化させることを、レヴィとサルトルの対話の経験から学ぶことができる。他方、レヴィという思想家にとってもサルトルとの対話の経験はきわめて重要であった。レヴィの書物の根底には、この出会いから受け取ったものが、主題として、さらにはまず基本的な態度として出発点となっているからである。
以上のように、アニュス氏は未公表の資料なども用いて、膨大な引用をしながら、サルトルとレヴィの共同体験について、多くのことを教えてくれた。質疑応答では、未発表資料のことや、ドゥルーズ=ガタリにも見られる哲学における共同作業の意味などについて活発な議論が交わされた。多くの貴重な情報が得られただけでなく、常に誠実に答えるアニュス氏の態度も聴衆の共感を誘った。(報告者:澤田直)
催し物のお知らせ
来たる2023年11月25日(土)に、鈴木道彦・海老坂武監修、池上聡一編『竹内芳郎 その思想と時代』(閏月社、2023年)刊行を記念して、特別企画として日本サルトル学会主催、討論塾・閏月社後援で合評会シンポジウムが開催されます。当学会の会員も多数登壇します。対面とズームによるハイフレックス(=ハイブリッド)方式です。開催概要の詳細については別途ご連絡いたします。なお、刊行中の『竹内芳郎著作集』については閏月社の下記リンクからご覧ください。
http://jungetsusha.com/image/takeuchi_chirashi.jpg
「『竹内芳郎 その思想と時代』合評会シンポジウム」
日時:2023年11月25日(土) 15 : 00 - 18 : 00(開場:14:00)
場所:立教大学池袋キャンパス本館1階1104 教室(対面とオンライン( zoomミーティング)による開催)
参加費:無料
第一部 「戦後日本でサルトルはいかに受容されたか」
登壇者:永野潤、小林成彬、澤田直 司会・コメンテーター:竹本研史
第二部 「竹内芳郎とともにマルクス(主義)を再考する」
登壇者:北見秀司、清眞人、佐々木隆治 司会・コメンテーター:田崎英明
サルトル関連の催しのお知らせ
国際シンポジウム「レトリックとテロル:ジロドゥ/サルトル/ブランショ」
日本フランス語フランス文学会主催
日時:2023年10月14日(土) 14 :00〜17 :40 15日(日) 10 :00〜18 :30
場所:日仏会館ホール。参加費:無料。
発表:間瀬幸江(宮城学院女子大学)、中村典子(甲南大学)、田ノ口誠悟(国際基督教大学)、ヴァンサン・ブランクール(慶應義塾大学)、アンドレ・ジョブ(グランゼコール準備学級名誉教師)、澤田直(立教大学)、ジル・フィリップ(ローザンヌ大学)、渡辺惟央(慶應義塾大学)、市川崇(慶應義塾大学)、郷原佳以(東京大学)、築山和也(慶應義塾大学)、クリストフ ・ビダン(ピカルディー大学 )
詳細は日仏会館ホームページ:https://www.mfjtokyo.or.jp/events/co-sponsored/20231014.html
サルトル関連文献
*論文・MISC
・常石登志子「三田のサルトル」、『三田評論』、第1279号、 2023年、5-7頁。
・小林成彬「遅れてきた大江健三郎:サルトルにみちびかれて」、『ユリイカ――総特集=大江健三郎』、2023年7月臨時増刊号、518-529頁。
・南コニー「サルトルの状況演劇におけるキルケゴールの「反復」について」、『新キェルケゴール研究』、 第21号、2023年、14-29頁(https://www.jstage.jst.go.jp/article/kierkegaard/2023/21/2023_14/_article/-char/ja/)。
理事会からのお知らせ
・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。
・次回例会は、2023年12月9日(土)に立教大学池袋キャンパスにて、「サルトル演劇の現在」というテーマで開催予定です。ハイフレックス(=ハイブリッド)方式で行います。
以上
日本サルトル学会 AJES Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 Tel : 03-3985-4790
c/o Sawada, Rikkyo University, 3-34-1 Nishiikebukuro Toshima-ku, Tokyo, 171-8501
E-Mail:ajes.office@gmail.com Website : https://sites.google.com/view/ajes1905/