日本サルトル学会会報 第43 2015年 2

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°43 février 2015

日本サルトル学会会報              第43号 2015年 2月


研究例会報告


第34回研究例会が脱構築研究会との共同で、以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時:2014年12月6日(土) 13:00~18:00

会場:立教大学キャンパス5号館5501教室

主催:日本サルトル学会、脱構築研究会、立教大学文学部フランス文学専修


第1部 特別講演 フランソワ・ヌーデルマン(パリ第8大学教授)

« Sartre et Derrida entre chien et chat. Pensées de l'animal »(通訳あり)

司会:澤田直(立教大学)


 ヌーデルマン氏は、フランスではあいかわらずデリダ世代の思想とサルトル思想の間には断絶が色濃く残っており、今回のような試み、すなわちサルトル×デリダを学術的に対峙させようという試みは想像すらできない状態だというコメントから始めた。この機会に、デリダとサルトルを動物という切り口から語ることができるのは日本という場所のお陰であるという氏の前口上は、多少のリップサービスはあるとしても、偽らざる気持ちであろう。

 晩年に動物の主題をきわめて重要な問題として論じたデリダとは異なり、一般にサルトルは動物にほとんど関心がなかったと思われているが、ヌーデルマン氏は、『倫理学ノート』や『家の馬鹿息子』に潜む犬の姿を焙り出しながら、まずは聴衆を驚かせた。両者に共通する「まなざし」というきわめてサルトル的な主題から、さらに考察を続けつつ、一見すると、猫に見られる自分を語るデリダは動物と親密的であり、他方、飼い主に向けられた犬の視線によって偽りの主観性を語るサルトルは動物に対して疎遠な思想家のようにも見えるが、はたしてそうであろうか、と氏は問い、両者のテクストをつぶさに検討すれば、じつはサルトルもまた旧来の人間と動物の区別という形而上学を別の角度から崩していることが見てとれると指摘する。たしかに、人間以外のものを排除するanimalという語をanimotsという語に置き換えたデリダが、より明示的に、この区別の意味を問い直していることは確かだとしても、『家の馬鹿息子』で、犬の倦怠について語るとき、サルトルもまたきわめてラディカルな仕方で、人間/動物という区別に疑問を突きつけているというのだ。

 このように人間/動物の形而上学的境界がぼやけてくれば、必然的に人間が動物との関係でもつ倫理的/政治的な問題が問われざるをえなくなるだろう、とヌーデルマン氏は述べた上で、とはいえ、フランスにおいては、70年代から動物の権利が顕在化したアングロサクソン系の思想と比べると、必ずしも倫理・政治的なアプローチとはならず、サルトルもデリダもその例外ではないとする。それでもサルトルがすでに47年執筆の『真理と実存』において、ステーキと屠殺の問題に触れていたことは特筆すべきことだと述べた。いずれにせよ、デリダもサルトルも菜食主義者にまではならなかった、というユーモアに溢れた指摘で氏は発表を締めくくった。

 質疑の際に、デリダを語るのに、主体といった従来の哲学的語彙を用いるのは不適切ではないか、という質問もあったが、ヌーデルマン氏は、デリダを語るからといって、デリダ派的な語法にこだわる必要はなく、むしろより広い文脈からアプローチすることが重要であると説いたのが印象的であった。(澤田直)


第2部 サルトル×デリダ

西山雄二(首都大学東京)「ポスト実存主義者としてのジャック・デリダ」

北見秀司(津田塾大学)「ポスト脱構築的なものとしてのサルトル弁証法」

藤本一勇(早稲田大学)「デリダの「他者」はいかにして「複数的」か?」

澤田 直(立教大学)「哲学と文学の分有:サルトルとデリダの文学論」

第3部 全体討論「サルトルとデリダ」


 本ワークショップ「サルトル×デリダ」は、サルトル学会の二名と脱構築研究会の二名の発表で進められた。

 はじめに西山雄二氏による発表が行われたが、デリダのサルトルへの言及を準網羅的に汲み上げるものとして幕開けに相応しいものであった。改めて驚かされるのは、あまり強調されていないながらもデリダが青年期以来サルトルに対して一貫した言及を続けているという事実である。その関係には「ある種の距離」が留保されてはいるものの、ユダヤ性、現象学、人間主義とハイデガー、文学とアンガジュマン等、両者の関心がつねに近傍をなぞっており、単に「乗り越えられたもの」としてサルトルのデリダへの影響を斥けるにはあまりに惜しい。とりわけ69年の『嘔吐』に関する講演は「私の講演の中で一度も出版しようと思わなかった唯一のもの」として今日に至るまで公開されていないが、この拒絶の身振りにこそ注目する必要があるだろう。発表後半ではエドワード・ベアリングのThe Young Derrida and French Philosophy, 1945-1968 (Cambridge University Press, 2011)という最新の研究に即して、青年期のデリダを「ポスト実存主義者」と捉える試みがなされた。教師からたしなめられるほどサルトルに傾倒していたデリダが、それでも彼と分かたれていたのは、キリスト教実存主義というもう一つの軸によるものだという。まだ参照できないテクストも多いが、両者の関係を執念深く問うてゆくことは、戦後フランスの知的動向の見方をも変革しうるきわめて意義の高い試みだと確信できる発表であった。

 『サルトルとマルクス』(春風社、2010-2011年)でサルトルにおける「ポスト脱構築的なもの」に注目していた北見秀司氏の発表は、繊細な議論としては同書を参照されたいが、脱構築への「挑戦状」といった趣があり、固唾を飲んでその展開を見守った。北見氏はまず、サルトルとマルクスの論における非現前的なものとしての他者性を指摘する。サルトルにとっては対他存在と言語の規定によって、マルクスにとっては市場の交換価値に由来して、<他者>=「疎遠な力」が社会関係において支配的なものとなる。これを否定するのがコミュニズムの理念であったわけだが、『マルクスの亡霊』のデリダはこれを他者性を否定する「脱構築以前」的なものと見做す。しかし北見氏によれば、「疎遠な力」とは他者性そのものではなく、それが乗り越えられることで初めて個々の他者の自由と特異性を肯定しうるものである。逆にデリダは、他者の非現前的な現前性を擁護するにしても、それと複数の具体的な他者を区別・記述できるのか。これが北見氏の問いかけであり、「来るべき民主主義」をさらに推進するために有効な議論として『弁証法的理性批判』の<同等者>概念が提示された。全体討論では藤本氏から、脱構築だけでは不十分だということはデリダも述べており、「ポスト脱構築」は双方に共通する課題であることが示された。「挑戦状」は友愛的な雰囲気に雪崩れていったわけだが、さらに議論を尽したいという欲望も残る。たとえば北見氏は前著に引き続き『近代世界システムと新自由主義グローバリズム』(共著、作品社、2014年)でもフランスの社会運動ATTACに関心を示されているが、デリダも晩年に同団体の動きに「新しいインターナショナル」の可能性を見ていた。両者の理論が実践運動と取り結ぶ関係の検討を通じて、その有効性を問うことも期待できそうである。

 藤本一勇氏の発表は表題の示すとおり両者における視覚の問題を取り上げたものである。まず、サルトルにおける対自と即自の関係が視覚的な構成を伴うものであることが指摘される。対自同士の関係も同じ構成において把握されるのだが、ここで藤本氏は「遠隔操作性」という概念を導入し、視覚が「触れずに触れる」幻想を与えるものだと論じたうえで、眼差し論における「石化」をそこに位置付ける。対自の石化はこうした対象操作の位相で捉えられるのか、その是非は全体討論の議題の一つとなったが、視覚の問いが隣接する様々な諸感覚と響きあい、出席者もそれに引き込まれてゆくという意味で、まさしく「触発」的な問いとなったように思う。一方、現前の形而上学の批判者であるデリダにとって視覚的現前性は痕跡に向けた絶えざるずらしの対象となる。眼が描き出す線traitは退引/引き直しretraitによって立体化され、そのretraitの痕跡として他者との出会いがある。また石のテーマが「墓石」のそれとして変奏されることも興味深い。そして、ある種連想的な議論の流れのなかで一貫していたのは「視覚と他者」への関心であるだろう。最後にふたたびサルトルの他者論に立ち返った藤本氏は、サルトルにおける対他関係の葛藤について、まず自己の自由があって次いで他者の自由があり両者が葛藤する、というのではなく、まず他者性との視覚的・トラウマ的な出会いがあり、それが反照的に自己の自由の意識を芽生えさせるのではないか、と提起することで発表を結ばれた。討論ではこの提起がサルトルについての読解なのかそれとも藤本氏自身の立場なのかが問われたほか、遠隔操作性と窃視との関係が取り沙汰されるなど、活発な議論が展開されたことを報告しておく。

 最後に澤田直氏の発表では、デリダとサルトルによるフランシス・ポンジュ論(『シニェポンジュ』と『シチュアシオンⅠ』所収の「人と物」)が検討された。二つのテクストは両者の哲学観・文学観を露わにしている。サルトルが非人間的な物(事象)そのものに接近するポンジュを「自然の現象学」者として評価すれば、デリダは署名、法、固有性=清潔さといった観点からアプローチする。一見したところ交差するところのない両者の議論に、澤田氏は細やかな読解を行うことで争点を探ってゆく。たとえば「命名」への関心は彼らに共通するものに見える。しかし、ポンジュ自身が名付けを通じての「物の本性について」の探究に意欲的であり、サルトルもそれを現象学的観点から受け入れているのに対して、デリダは、問題は事物の本性ではなく、他者としての事物が我々に命ずる法なのだと反駁する。ここに浮き彫りにされているのは、現象学をめぐる両者の(間接的な)対峙であり、それが命名という言語の問いを介在することで、「言語が指示しているものは物なのか、それとも物の観念なのか」と要約されうるような言葉-物-観念の三項関係を湧出させる。そしてこの三項関係は、サルトルの『家の馬鹿息子』やデリダの最初の博士論文のタイトル(『文学的対象のイデア性』)にまで延べ拡げて論じられるべきだろう、という展望が明らかにされた。時間の都合で展開されない項目も残ったが、明言しないながらもデリダがサルトルに挑む仕草がスリリングに論じられた。澤田氏はその戦略を、サルトルの署名に対抗し、それを消し去ろうとしながら、かつ副署する、という意味で、contresigneと名付けられたが、これを読解一般の方法論にまで高めることもできよう。密度の高い発表であった。

 最後に少し感想を。報告者にとって本ワークショップは寝耳に水というべきものであり、いったいどのような発表が聞けるのかと当日まで只々受け身に待ち構えていたが、いずれもこれまでにない仕方でサルトルとデリダを結び合わせるものであった。これまでほとんど顧みられなかった関係性がこのように問い直されたことの背景としては、思想の世界の地盤変化を指摘することもできよう。つまりいま、生きていける思想とそうでない思想とが厳しく選別される過程にあるのであって、それぞれのポテンシャルが試されている。そしてそれが災難となるかそうでなくなるかは、研究者の手に委ねられていると言っても言い過ぎではあるまい。ワークショップを聞く者としては、デリダ研究もサルトル研究もすぐれた研究者に恵まれたものだと感嘆することができた。しかし私(私たち)はたんなる傍観者ではありえないので、この場のなかで自分に何ができるか、おおいに考えるよう刺激された思いである。(関大聡)



サルトル関連出版物


・ジャン=ポール・サルトル『家の馬鹿息子』第四巻、鈴木道彦・海老坂武監訳、黒川学・坂井由加里・澤田直訳、人文書院、2015年2月刊行予定

・ 『サルトル読本』澤田直編、法政大学出版局、2015年2月刊行予定

・松葉類「「自由」の哲学者たち:レヴィナスとサルトル」、『宗教学研究室紀要』vol.11、京都大学、2014年


退会者


朝西柾氏が退会されました。なお、朝西氏からは退会時に1万円の寄付を頂きました。ここにご厚意に感謝の意を表するとともに、ご報告いたします。


逝去者


 会員の片山洋之介氏(茨城大学名誉教授)が2014年12月に亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。


今後の研究例会予定のお知らせ

 次回の研究例会は、7月11日(土)を予定しています。会場は立教大学の予定です。