サルトル研究会会報 第17 1999年 12

Bulletin du Cercle d'Etudes Sartriennes no.17 decembre 1999


 サ ル ト ル 研 究 会 会 報 第17号 1999年 12月


サルトル研究会第9回例会の報告


11月27日(土)、第9回例会が法政大学において約20名の参加のもとに開催されましたのでご報告いたします。


「サルトルのティントレット論にみるヴェネチア」

 発表者:稲村真実氏(立教大学大学院)    司会者 北見秀司氏


 今まであまり論じられることのなかった、サルトルのティントレット論「聖ゲオルギウスと龍」を稲村氏は取り上げ、画家の同名の作品における時間と空間の扱い方の特異性、とサルトルが考えるものを、予め会場に配られた、ティントレットの問題の作品およびカルパッチオの同名の作品のコピーを参照しつつ、論じた。

 この作品の時間・空間の分析を通してサルトルが見い出すのは次の点である。「聖ゲオルギウスと龍」という主題は、ティントレット以前にもよく描かれたが、それらの絵、とりわけカルパッチオの絵では、画面全体が、聖ゲオルギウスの槍を龍に突き刺す行為に収斂している。それに対し、ティントレットにおいては、複数の行為が列置され、それらの行為が伴う「外部の惰性的外観」のみが強調され、この物質性によってのみ、それぞれの行為が結びついている、中心のない画面をなしている。時間的には、各行為が「生きながらにして過去の中に流れ込む」がままになり、空間的には、中心も支柱もない「曲がった空間」となっている。このようにすることの意味は、サルトルによれば、「最も厳密なつながりのただ中に、計算された不確定な部分を残しておくこと」「行為をひとつの秘密にすること」にある。

 この絵の世界は、中心を支配する本物の「太陽」を欠いた、「偽の光」が存在を希薄にし、「幻」を現出する場所であるという点で、「ヴェネチア、私の窓から」に描かれているサルトルにとってのヴェネチアと、共通点がある。更に、問題の絵の特徴となっている「瞬間」の列置の方法は、『自由への道』第二巻『猶予』にも通じているとの指摘があった。後者においては、「瞬間」の列置される次元が、中心のない見えない出来事としての戦争にあり、これによってそれぞれの行為の意味が宙吊りにされている。

 今回の発表は、稲村氏自身、最初に断わったように、何かの結論に導くというよりは、問題を提起する傾向のものであった。発表後、様々な質問が出た。例えば、ティントレット論における「瞬間」の観念は、カミュ論でサルトルが展開しているものと同じものであるかどうか。また、『文学とは何か』における芸術論によれば、芸術は存在を充実させることにあるが、この場合と、この発表で問題になった存在の希薄化は、対立しているのかどうか。イタリア美術史にも造詣の深い武田昭彦氏は、美術史の常識として、ティントレットは「渦」の画家であると言われており、この「聖ゲオルギウスと龍」という作品においてもそれは見て取れる、と指摘された。

 私としては、稲村氏が問題にしたものが、後期サルトルが哲学の分野で「実践的惰性態」と呼んだ、社会的次元としての「他者」に深く関係しているように思えてならなかった。そこでは、様々な行為の物質に刻まれた結果が、行為から独立して相互に作用し、独自の社会的領域を作り、行為者を逆に支配するに至る。万人から逃れると同時に、万人を結びつけ、現在を過去に、生を死に従属させる。そこにある意味は物質を支えとするが、それ自身は物質でなく、「想像的なもの」として、知覚とは別のレヴェルにある。『猶予』における戦争、「ヴェネチア、私の窓から」におけるヴェネチア、問題の絵における、行為の結果としての物質が作り上げている統一性、それらは皆、このような「他者」を指しているのではなかろうか。そして、「最も厳密なつながりのただなかにある不確定な部分」「秘密」としての行為とは、「実践的惰性態」に深く条件付けられながらも、完全に決定されているのではない「自由」そのものを指していないだろうか。

稲村氏が喚起した空気は、中心のない流れとなって、小さな会場を包む、しかし存在は濃密な、心地よい一時だった。(北見秀司)



「欲望される『現実存在』-『嘔吐』における言語以前的なものの意味と無意味について-」  

発表者:柴崎秀穂氏(東海大学)  司会者:鈴木正道氏


柴崎氏によると、『嘔吐』においてサルトルは、主人公の体験を通して、一切の言語表現を超えた「現実存在」を提示するのに対して、『存在と無』においては、いかなる存在も人間の与える意味を伴って現れると論じる。小説作品において露にされた言語以前的なものはその後のサルトルの思想においてどうなってしまったのか、というのが柴崎氏の問題提起である。氏によれば、『存在と無』において分析される性的欲望は、意識存在が肉体に埋もれようとすることにあるという点で、言語以前的なものを垣間見せる可能性を含んでいる。しかし言語以前的なものを言語によって表すのは『嘔吐』という小説の技法によってこそ可能である。また主人公の日記の書かれたノートそのものが偶然発見された「現実存在」として設定されている。しかし実は主人公の見たマロニエの根も含めて、人間に対して全ての存在が、言語の意味付けをされてのみ現前するのである。それゆえサルトルはあえて言語以前的なものを追求せずに、『存在と無』以降の著作を通じて自由としての人間存在を考察の対象としたのではないか、と柴崎氏は結ぶ。

これを受けて出席者からは、『存在と無』においても即自存在は言語以前のものとして示されており、『嘔吐』とその思想的組み立ては変っていないのではないか、そもそも「言語以前的なもの」とは即自存在のみを指すのか、『存在と無』において性的欲望は、他者との関係を分析するための題材であり、『嘔吐』における、一切の人間的意味の剥げ落ちた体験とは繋がりにくいのではないか、などの指摘がなされた。柴崎氏は、『存在と無』では、言語以前のものはサルトルの関心の主な対象とはなっておらず、また性的欲望は結局、他者の排除に向うように記述されていると答える。サルトルの作品の中で最も高く評価される小説の要となるテーマと、彼の初期の思想の根本的テーマをつつき合わせた発表は非常に刺激的で、我々の研究会の本来の趣旨である、活発で率直な意見交換が大いに盛り上がった。(鈴木正道)



研究発表後、澤田直氏より、サルトル没後20年を迎える来年にフランス大使館文化部の協力のもと、GESのミシェル・コンタ氏(CRS)の招聘が実現する見通しとの発表がありました。サルトル研究会主催の講演、シンポジウムなどが予想されます。ただし詳細は未定です。ご意見ご要望をお寄せ下さい。大学などの協賛機関も募っております。皆さまのご協力をお願いいたします。お問い合せは事務局まで。


サルトル研究会のホームページの開設(http://www05.u-page.so-net.ne.jp/fb3/sartre/)に続き、今後GESのホームページも永野潤氏の手で運営される予定との報告がありました。


例会のあと懇親会が開かれました。今回、初めて例会にご参加いただけた方も多く、研究発表、懇親会ともいつもにまして盛会となりました。


☆出版情報 フレデリック・ジェイムスン『サルトル-回帰する唯物論』(論創社)       末次弘『表現としての身体-メルロ=ポンティ哲学研究』(春秋社)

(今回の担当:黒川学)