日本サルトル学会会報 第36 2013年 6


Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°36  juin 2013

日本サルトル学会会報              第36   2013年 6


研究例会の報告

 

 第31回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

 

日時 : 7月6日(土) 14:00~17:00

会場 : 立教大学(池袋キャンパス)5号館 5210教室

 

 

研究発表1

「サルトル/ファノン試論」

発表者:中村隆之(大東文化大学)

司会:鈴木正道(法政大学)

 

研究発表2

「サルトルの思想と生における「遊戯」について

発表者:関 大聡(東京大学)

司会:翠川博之(東北大学)

 

研究発表3

「サルトルとバタイユ ―不可能な交わりをめぐってー」

発表者:岩野卓司(明治大学)

司会:澤田直(立教大学)

 

総会:17:30

懇親会 18:00

 

本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

 

 

 

サルトル関連近刊論文紹介

 

・       石崎晴己「サルトルという問題」『青山総合文化政策学』 Vol.4 no.2 page.43-68

・       石崎晴己「いわゆる「サルトル・カミュ論争」再検討 : テクストとしての「アルベール・カミュへの回答」 」『青山総合文化政策学』 Vol.3 no.1 page.67-112

・       生方淳子「サルトルにおける可知性の追求 : 「絶対精神」でもなく「ビッグブラザー」でもなく」『青山総合文化政策学』 Vol.4 no.2 page.69-97

・       黒川学「交差する文学と造形芸術 : ジャコメッティとラプージャードについてのサルトル美学」『青山総合文化政策学』 Vol.4 no.2 page.121-138

・       澤田直「作家・哲学者にとってスタイルとは : ジャン=ポール・サルトルの文体論をめぐって」『青山総合文化政策学』 Vol.4 no.2 page.99-120

・       澤田直「サルトルにおけるセクシュアリティ——同性愛の問題を中心に」『別冊水声通信 セクシュアリティ』水声社、2012

・       柴田健志「身体と声: サルトルの想像力理論と映画の歴史」『鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集』 Vol. 762012

・       永野潤「怪物と眩暈 : サルトルの怪物的ヒューマニズム」『青山総合文化政策学』 Vol.4 no.2 page.139-160

・       丸山真幸「裏切るアンガジュマンのために——サルトルにおける語る(性的)マイノリティのスキャンダル」『別冊水声通信 セクシュアリティ』水声社、2012

 

『青山総合文化政策学』のVol. 4 no.2, 2012年、がサルトル特集号となっております。青山学院大学の機関リポジトリAURORA-IRhttp://www.agulin.aoyama.ac.jp/repo/)からダウンロードも可能ですので、ぜひご覧ください。 

 

 

理事会より

 

当学会では、夏(例年7月)、冬(12月)例会の発表者を随時募集しております。

発表を希望される方は、理事会までお申し込み下さい。


 


発表要旨

 

中村隆之 「サルトル/ファノン試論」

この発表では、最初に、サルトルの状況論を手がかりに、サルトルの反植民地主義の戦いを、主にカリブ・アフリカの文脈から振り返る。そのうえで、今度はファノンに注目する。マルティニックに生まれてアルジェリア解放闘争をFLN側の人間として闘うファノンは、サルトルの思想と行動をどう見たのか。反対にサルトルはファノンをどう評価したのか。脱植民地化運動を背景にした両者の関係性を考えてみたい。

 

関 大聡「サルトルの思想と生における「遊戯」について」

必ずしも思想として彫琢されていないように思えるが、しかし、サルトルの生を理解するために重要なキーフレーズとして「遊戯」を提示すること、それが今発表の本旨である。

サルトルの思想のなかで「遊戯」とはどのような役割を果たしているだろう。代表的な例としては『存在と無』における記述がある。スポーツを例に挙げての印象的な記述に沿って、それが「為す」ことのうちでもきわめて脱我有化的傾向が強いことを確認しつつも、「やはり、根本的に」それが我有化的傾向から免れえない、という曖昧な結論を下す。そしてそれ以後「遊戯」というものが俎上に載せられる機会はなくなるように思われる。そのため「遊戯」とはサルトルの現象学的分析の一例にすぎず、特権的なものたりえないようにも思われるが、果たしてそうだろうか。

当時の思索、とりわけ『奇妙な戦争日記』を読み進めるうちに、「遊戯」とは当時の、そしてそれまでのサルトルの思索において決定的に重要な役割を果たしており、きわめて倫理的な問題系のなかで問い直されるべきものだということが露わになる。そこには、ボーヴォワールの「かつての我々の関心は、遊戯やごまかしや嘘によって、状況と距離をとることにあったからだ」(『事物の力』)という回想にみられる自己欺瞞や虚偽意識への反省対象としてではなく、むしろ「くそ真面目」に対峙するための決定的な装置としての「遊戯」の新たな層がうかがえるはずである。

また、『存在と無』及び『奇妙な戦争日記』において「遊戯」に属するあるいは類似するものとされた属性は、創作行為や始原性、それに若さといったものであるが、それらの諸属性はサルトルの後の思索においても再度現れることが確認できる(『文学とは何か』『弁証法的理性批判』及び多くの伝記的作品群)。それはつまり、遊戯がすがたを変えながらも、常にサルトルにとって一つの軸でありつづけた、ということを証立てるものに他ならない。

これまでサルトルにおいてjeu,jouerといえば「演技」「賭け」を意味することがもっぱらであって、それがまた「遊び」をも意味するという側面が看過されてきたように思われる。本発表はそれを補うものだが、他方、それら三つのjeuは相互に如何なる関係を持つのか、という問いかけもさらに生じてこよう。この問いに全面的に応答することは、まとまった一つ発表のかたちでは難しく、今後の課題としてすすめていきたいと思うが、そのための予備的考察も念頭に置いている。

これらの検討は、サルトルを思想史における「遊戯」の系譜に組み込むことを可能にしてくれる。そのための準備作業として、サルトルが言及しているフリードリヒ・シラーの『人間の美的教育について』や、いくつかの箇所にサルトルへの言及が見られる西村清和の『遊びの現象学』に依拠しつつ、広い展望のもとでサルトルの論を捉えることを目指す。

 

岩野卓司 「サルトルとバタイユ ―不可能な交わりをめぐってー」

サルトルとバタイユ。彼らはある種の近さを持った同時代の二人であるが、その近さにはすでに遠さが孕まれている。後者は、極点に向けて問いを徹底するし、前者は、究極までは行かずに知の間を絶えず移動する者である。彼らの近さには本質的にお互いを遠ざけてしまうような何かがあるのだ。それでは、バタイユの徹底とサルトルの多様さ――これを現代のわれわれはどう捉えていけばよいのであろうか。サルトルとバタイユの不可能な交わり、あるいは交わりの不可能性がもたらしてくれる可能性をどう探っていけばいいのであろうか。

 

※ 岩野卓司さんからはここに掲載しているものよりも長文の要旨を頂いております。全文は、後日ホームページにアップ致します。(http://ajes.blog.so-net.ne.jp/