日本サルトル学会会報 第45 2015年 11

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°45 novembre 2015

日本サルトル学会会報              第45号     2015年 11月


次回例会のお知らせ

第36回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。次回は竹本研史さんの企画により、『弁証法的理性批判』刊行55週年を記念したワークショップを開催いたします。多数の皆様のご参加をお待ちしております。


ワークショップ「『弁証法的理性批判』刊行55周年――その多面的可能性を切り拓く」 日時:2015年12月5日(土) 場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)

   受付開始:13:30

   開始:14:00


オーガナイザー・登壇者:竹本研史(南山大学ほか非常勤講師)

登壇者:澤田哲生(富山大学准教授、現象学研究)

     角田延之氏(愛知県立芸術大学他非常勤講師、フランス革命史研究)

司会:北見秀司(津田塾大学)


懇親会:18:30


※各発表者の発表タイトル等の詳細は、学会のブログで告知する予定です。

本会は非会員の方の聴講を歓迎いたします。事前の申込等は一切不要です。当日会場へお越しください。聴講は無料です。


研究例会報告

第35回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。今回は『サルトル読本』の刊行記念として合評会を兼ねたシンポジウムとして開催されました。

日時:2015年7月18日(土) 10:00~18:15

会場:立教大学キャンパス7号館7301教室

第1部 10 :00~12:00 サルトルの全体像 (『サルトル読本』第I部、VI部)

第2部 13 :30~15:30 サルトルの哲学 (『サルトル読本』II部、III部)

第3部 16 :00~18 :00 サルトルと哲学者たち (『サルトル読本』IV,V部)

総会 18 :00~18:15

懇親会 19:00


第1部 サルトルの全体像 10 :00~12:00

登壇者:永野潤、永井敦子、翠川博之、黒川学、澤田直(『サルトル読本』第I部、VI部執筆者)

   特定質問者:関大聡

   司会:森功次


第2部 サルトルの哲学 13 :30~15:30

登壇者:谷口佳津宏、清眞人、水野浩二、竹本研史、生方淳子、森功次(『サルトル読本』第II部、III部執筆者)

特定質問者:赤阪辰太郎

司会:永野潤


第3部 サルトルと哲学者たち 16 :00~18 :00

登壇者:加國尚志、鈴木正道、松葉祥一、岩野卓司、合田正人(『サルトル読本』第IV部、V部執筆者)

特定質問者:栗脇永翔

司会:澤田直


以下、各特定質問者による報告文を掲載します。


第1部 サルトルの全体像

シンポジウムの第一部「サルトルの全体像」では、『サルトル読本』の主に第I部(「サルトルの可能性をめぐって」)と第VI部(「作家サルトル──文学論・芸術論」)の論考を中心に議論が行われた。各部で問題になっているのは、大まかに言って、一つの時代を代表した知識人としてのサルトルと、作家・芸術家としてのサルトルであり、石崎晴己氏も述べているように、両者の結び付きは不可分なものである(自己という独自な存在を通じて普遍的なものを描くことを職分とする作家は、「本質的に」知識人である)。戦後世界を席巻した「サルトル現象」もこの知的覇権の産物であるが、知の細分化が進む今日では、それと同じ規模での成功を望むことは難しい、また逆に言えば、サルトルの成功も時代的要請の後押しがなければ考えられなかったはずである。

しかしだからと言って、サルトルの全体的参加の在りようが意義を失うということはない。むしろ、知識人が来るべき普遍性としての「我々」の姿を模索することを自らの使命としていたとするならば、知が細分化したと同時に広く普及したがゆえに誰もが知の担い手になりうるようになった今日においても、独自性を見失わぬままに普遍的なものを考えるという課題は一人ひとりにそのまま残されているのではないか。そしてサルトルを読むことはこうした問いについて――もちろんそこに収まりきらない様々に新鮮な発見とあわせて――今日の読者たちにも多くの示唆を与えうるはずである。このような確信を、登壇された先生方と、若輩ながら質問者も共有できるものと考えており、先達を仰ぐつもりで、今日サルトルを読むことの可能性について質問させていただいた。

まず澤田直氏が、ヨーロッパの知識人モデルには宗教的起源、すなわち神なき世俗社会において人々を結び合わせる役割が要請されていたことを指摘し、質問者の問いの全体像に明快な見取り図を与えてくれた。この近代的文脈のなかでのサルトルの立ち位置を正確に把握しながら、同時にアクチュアルな問題に直面する現代の読者としてそのテクストを読むためにはどうすればよいのか。この問いに関して、論文「小説家サルトル」のなかで論じられていた「廃墟」という概念が再説された。第二次世界大戦の最中で予期しえない出来事の連鎖に翻弄されながら苦闘する『自由への道』の登場人物たちを待ち構えているものを、後世の読者である私たちは既に知ってしまっており、そこに必然的な破局を重ね見ざるをえない。しかしそこに見出されているのは、歴史の進行に対して盲目な私たち自身の命運でもあり、その意味で、「廃墟として読む」という行為は、審美主義的な読書ではありえず、現代に刺激を与えうるものであることが強調された。こうした読み方を、『自由への道』だけでなくサルトルとその作品全体に適用することは、極めて魅力的なものと思われる。

永野潤氏の論文「サルトルの知識人論と日本社会」は、しばしば「既に乗り越えられた」ものとして論じられる「サルトル的知識人」というラベリングの不適切さを、サルトル自身の知識人論でもって反駁し、実践において本当の意味でサルトルを「乗り越える」ことこそが必要だと指摘したものである。質問者からは、実践におけるサルトルの乗り越えとは正確に言ってどのような事態を意味しているのか、どのような実践がそれを可能にするのか、について問いを投げかけた。これについては、学術的舞台と街頭でのデモを分けるような外挿的区別に甘んじることなく、各人が自らの持ち場での実践のかたちを発見することが重要であるという応答を得た。また、本論では「古典的知識人」と「新しい知識人」というサルトルの区別が紹介され、後者の例として、工場労働者とともにあることで、自己批判を通じて「知識人としての自己を抹消」する青年が挙げられているが、それは今日でも有効なモデルたりうるのかという点についての議論がなされ、現代の政治参加の問題にも接続してゆくなど、刺激的な展開があった。

翠川博之氏の論文(「サルトルの演劇理論」)は、「距離」とそれによって可能になる「参加」の概念を中心に、一般にはあまり知られていないサルトルの演劇理論に焦点をあてたものである。細かい点では、論文の中で触れられている「神話演劇」というコンセプトの重要性について問いを投げかけた。それは三単一の規則や様式的側面に関するだけではなく、神話的精神のなかでの「我々」の創造という意味をも担うものではないか、という問いかけに対して、一面では確かに宗教儀式的側面が認められるとして、『蠅』のある場面が黒人の霊的熱狂を意識しているという挿話が挙がった(ここから『弁証法的理性批判』における溶解集団についての議論と結ぶこともできよう)。また、サルトルとブレヒトの演劇観の相違が問われたときには、ブレヒトともジャン・ジュネとも異なるものとしてサルトルは自らの演劇/演劇論を構築しているという応答があり、こうした演劇理論からサルトル自身の劇作を再検討する作業はますます必要であるように思われる。会場からも、近年再び上演機会を得つつあるサルトル劇の作劇法についての意見が求められ、やはり演劇理論との照合を行う必要があるのではないかと述べられていた。

永井敦子氏の「サルトルの美術論の射程」は、共産党との関係のような社会的・政治的コンテクストやシュルレアリスム美術との両義的関係を意識しつつ、サルトルの美術論を扱ったものである。質問は、永井氏が論じている芸術鑑賞における「我々」の体験の位相において、サルトルがしばしば超越的な意味を有する語や宗教的な語彙・比喩を用いているという事実は、シュルレアリストたちが聖なるものに依拠したのと同じ系統の関心を見ることができるのではないか、というものであった。これについては、シュルレアリストの神話への関心やマルローの芸術論に触れつつ、神の不在以後というパラダイムが西欧の美術批評においても影響を及ぼしていることについての解説がなされた。また、「我々」という普遍的な語が美術鑑賞のパンフレットに用いられているときには、それが読者として想定しうる「我々」が、あくまで展覧会や個展という小規模システムに参加する、一部特権的な層であることにも改めて注意が促された。

同時に、本論からは少し脱線するかたちで永井氏が述べられたのは、この「我々」の様々な形態を考えるとき、『恭しき娼婦』と『水いらず』に現れてくる、「みなしご」としての私たち、という経験が注目に値するのではないか、ということである。父=神を持たない切り離された個でありながら、他者と出会い、我々を育むということへのサルトルの関心がここに見られるのではないか。この指摘に対しては、翠川氏も同じ関心を表明され、サルトルのような知識人は人間の問題を一緒くたに論じてしまうというスピヴァクの批判に対して、孤児として出会うという思考がサルトルには秘められているのではないかと述べられた。

黒川氏の論文「『家の馬鹿息子』の「真実の小説」という問題」は、フローベール論で用いられている前進的・遡行的方法という分析・叙述法を、小説における語りの問題に対するサルトルの批判的関心に引き付け論じたものである。結論として氏は同書の語りの方法を(批判的)小説のそれであると述べる。しかしその場合、伝記というジャンルと小説というジャンルの違いをどのように考えるべきなのか。この問いに対しては、伝記一般と小説の関係というよりは、文学者の伝記と小説の関係として考えるとき、一方では文学テクストの読解において遡行的分析が行われ、他方で作家の伝記的生について時間軸に沿った前進的分析を行うときに物語るという要素が不可避に浮上することが重要であるという応答があった。この物語るという問題について、『家の馬鹿息子』はその不可能性を提示しているのだと黒川氏は述べられ、それがどのような理路から論証されるのかという点については会場とのあいだでも活発な議論がなされたが、これはいまだに邦訳が完結したわけではない同書に対する関心の高さを裏打ちするものでもあろう。

こうしてまとめてみるとき、個々の論文はそれ自体で極めて密度の高いものでありながら、論文相互のあいだにも深い連関が存在しており、シンポジウムを通してその点が浮かび上がってきたのではないかと思う。そのダイナミズムを暗示的な仕方以上に書き留められた自信は報告者にはないが、普段は別々に研究を行っている者同士が意見を交わしあうという貴重な場がさらに開かれたものとなり、多くの関心を惹くものになるために、この報告文が貢献できることを期待したいと思う。

(関大聡・東京大学)


第2部「サルトルの哲学」

第2部「サルトルの哲学」では、『サルトル読本』第Ⅱ部「サルトル解釈の現状」、第Ⅲ部「サルトルの問題構成」の執筆者から、谷口佳津宏氏(「サルトルの栄光と不幸――『存在と無』をめぐって」)、清眞人氏(「媒介者としての『倫理学ノート』」)、水野浩二氏(「倫理と歴史の弁証法――「第二の倫理学」をめぐって」)、森功次氏(「芸術は道徳に寄与するのか――中期サルトルにおける芸術論と道徳論との関係」)、竹本研史氏(「サルトルの「応答」――『弁証法的理性批判』における「集団」と「第三者」」)、生方淳子氏(「エピステモロジーとしてのサルトル哲学──『弁証法的理性批判』に潜むもうひとつの次元」)が登壇された。

登壇者による論文の趣旨説明の後、特定質問者は各論文について次のような質問を行い、執筆者がこれに応答した。以下、主要なもののみを簡潔に紹介する。

谷口氏の論考についてなされたのは、『存在と無』の哲学者たちによる受容と、哲学史的な評価についての質問であった。谷口氏の論考で詳論されるように、『存在と無』は発表当初よりいくつかの仕方でやや偏向した解釈がなされてきた。そこで谷口氏が提案するのは、従来の解釈を批判的に分析しながら、こうした評価に左右されずにテクストを読み解く態度である。これをうけて質問者は、純粋なテクストとしての『存在と無』を読みとくと同時に、メルロ=ポンティ、ドゥルーズ、デリダらの哲学者の思想形成期におけるサルトル受容を考慮に入れつつ、サルトル以後の哲学者たちへの影響という観点から『存在と無』の哲学史的再評価が可能ではないかと問うた。これについて谷口氏は、『存在と無』が与えた影響をテクスト上で跡づけることには慎重を要すると指摘された上で、哲学者たちへの影響が『存在と無』から発するものであるのか、あるいはいわゆる時代の寵児としての〈哲学者サルトル〉像についてのものか見極める必要があると述べられた。サルトルと哲学者との関係については第3部のセッションに引き継がれ、継続して議論された。

清氏の論考についてなされた質問は、サルトル特有の「回心」のプログラムにとって他者(Autre)と他人(autrui)がどのように関わるかを問うものであった。これについて清氏は、ある時期のサルトルにとって、他者とは自己の内に見られる他なるものを意味し、いわばそれが理想的な自己として考えられるのだ、と自身の考えを述べられた。さらに、この理想的自己は到達不可能なものであるため、その追求の試みは挫折する。そして、自己による自己の追求というナルシシスム的回路を断ち切り、回心へ導くのが他人たちである。

水野氏の論考は主にサルトルの1960年代の倫理学を扱ったものであった。質問者は、そこで語られる、ある種の限界状況における倫理的判断が新しい倫理を創出するという事例の含意について質問した。これについて水野氏は、この時期のサルトルの倫理とは、一定期間有効な、人々の生きづらさに対する抗議としての側面をもつものであり、修正と惰性化を繰り返してゆくものであると述べられた。また、状況に即した創出という側面をもつ判断が〈倫理〉と呼ばれる基準については、全体的人間という理念や、人間以下の人間であることへの抵抗という点が一定の基準を作っていると指摘された。規範と齟齬をきたす価値判断が倫理的と呼ばれるための基準をめぐっては、フロアから『倫理学ノート』を中心とする「第一の倫理学」の時期との相違が指摘されたように、サルトル自身の思想の変遷に即して今後も研究が続けられることが期待される。

森氏の論文について、質問者は中期思想における「事物化」の意味について質問した。森氏の論考で示されるように、『倫理学ノート』の時期のサルトルは他者との交渉に際して自己事物化の契機を積極的に語る。事物化は、バスに飛び乗る人に向けて自ら手を差し出す、という日常的な場面から、芸術作品の創造にいたるまで広く認められるものだが、この事物化に際して自由の承認がどのように行われるのか、またその自由とはどのようなものかを問うた。これについて森氏は、作家が何のために書くのか、という観点から回答された。事物化されたもののなかに見いだされる自由とは、人間存在のもつ案出能力や、独自性の発露と関わっている。事物の看取は意識の自由や意志の自由の承認につながるわけではないが、事物を差し出す者を、行為や作品を通じて承認する。

竹本氏の論考は『弁証法的理性批判』における集団形成論をメルロ=ポンティによるサルトル批判「サルトルとウルトラボルシェヴィスム」への応答という観点から読みとくものであった。質問は、メルロ=ポンティのサルトル批判のなかで竹本氏が論考において言及しなかったものについての意見を求めるものであった。質問について竹本氏は、サルトルの保持する、社会性を眼差しという観点から捉える点、行為における目的を理論に取り入れる点などについては今後も検討が必要であると述べられた。また、サルトルの論述が非歴史的であるというメルロ=ポンティからの批判については、サルトルによるカミュ批判に言及しながら、サルトルが常に歴史のなかで、状況に向けて書いてきた、という点が強調された。

生方氏の論考については、生方氏の提唱されるサルトル的エピステモロジーを遂行する者にとって、専門性ないし職能がどのような役割をもつかが問われた。これについて生方氏はまず、現代において社会は一つのディシプリンから見通すことができないほど複雑なものとなっており、単一の専門分野によって可知性に到達することがますます困難となっていることを指摘された。こうした現状認識のもとで、特権化されない、誰でもない者としての複数的な主体が、全体化する者なき全体化を行う、というビジョンに仮託して、ありうべきサルトル的エピステモロジーの姿を提示された。

登壇者諸氏のいずれの論考も現状におけるサルトル哲学研究の水準の高さを示すものであり、また議論を通じて、今後、継続的に追究されるべき論点が明らかとなった。その意味で、実りの多いセッションとなったのではないかと思われる。最後に、研究歴の短い若輩者による不慣れな質問に対し、真摯に回答してくださった先生方にお礼申し上げます。(赤阪辰太郎・大阪大学)


第3部「サルトルと哲学者たち」

 「現代思想」とサルトルの関係が取り上げられるようになってからすでに久しい。デリダとサルトル、バルトとサルトル、ドゥルーズとサルトル…。「研究」という観点からすれば、この分野に関しては、日本国内でも海外でも、すでに一定の成果が上がっているというのが現状であろう。『サルトル読本』Ⅳ部・Ⅴ部に投稿された各論文も概ねこうした文脈の中での成果として捉えることが出来るように思われる。シンポジウム第3部は必然的に(ゴルツを取り上げた鈴木正道氏を除けば)「サルトル研究者」ではない研究者に質問を投げかけることになった。紙幅が限られているため質疑応答の全容を記載することは出来ないが、以下、報告者が投げかけた質問を中心に会の様子を書き留めることにしたい。

 まず、サルトルとメルロ=ポンティの身体論を比較された加國尚志氏には、サルトルにおける「傷つけられ得る身体(corps qui peut être blessé)」とでも呼ぶべき主題に関する質問と、メルロ=ポンティの「蝶番(charnière)」やサルトルの「回転装置(tourniquet)」等、二項対立を攪乱させる概念装置の思想史的意味に関する質問を投げかけた。加國氏からの応答では、両哲学者における文学の影響や20世紀のフランス哲学におけるヘーゲル主義の受容に関していくつかの論点が指摘された。

鈴木正道氏の論考はサルトルに影響を受けたアンドレ・ゴルツの思想を手掛かりに実存主義と「(反資本主義としての)エコロジー」の関係を問うものであった。日本国内でゴルツに関する研究は少なく、貴重な研究であると考えられるが、シンポジウムではあえて、ゴルツを含む20世紀の様々な分野の思想家――たとえば「アフォーダンス理論」のギブソン等も思い浮かぶ――が「エコロジー」というキーワードをもとに、独自の理論を構築したことの思想史的意味について質問を投げかけた。鈴木氏からは、日本語に輸入されるとどうしても環境保護の理念やその運動に結び付けて理解されがちなこの語が西欧語では「エコノミー」等とも語源的に近い意味の広がりを持つことが指摘された他、20世紀に注目が集まったこの問題が決して過去のものではなく、現在も継続中の困難な問題であることが強調された。

論文を投稿されていない松葉祥一氏からは、現在翻訳中のランシエールの著作におけるサルトルの知識人論の批判的扱いに関して紹介がなされ、報告者からは、(松葉氏のこれまでの仕事を鑑み)ふたりのポストモダニスト――クリステヴァとリオタール――とサルトルの関係に関する質問を投げかけた。クリステヴァの著作のタイトルを念頭に置くならば、サルトルは「女性の天才(génie féminin)」に影響を与えた思想家であったと言えるかもしれない。生涯の伴侶・ボーヴォワールは言うまでもなく、ジュディス・バトラーがその初期の仕事でしばしばサルトルに言及していることも広く知られている。60年代~70年代にかけての言語学的・記号分析的な仕事からはやや意外な印象を与えるかもしれないが、クリステヴァ自身、90年代にいくつかのテクストで明示的にサルトルに言及している。それに対し、もう一人のポストモダニスト・リオタールはサルトル同様に幅広い仕事を展開しながらも、いずれの文脈においても、サルトルに対して冷やかであるように感じられる。これらふたりの思想家とサルトルの関係をいま、いかに考えることが出来るだろうか? 松葉氏の応答では、小説を書き始めてからのクリステヴァには確かにサルトル(あるいはボーヴォワール)を意識した様子が見られることが確認された一方、そもそもサルトルの論敵であったルフォール等とも近い位置にいたリオタールは、その出自からしても、知識人論などいくつかの文脈で批判こそしているものの、どちらかというとサルトルに対し無視・無関心というような側面の方が強かったのではないかという指摘がなされた。

ルエットやナンシーのテクストを参照しつつ、サルトルとバタイユの近年の比較を問題にされた岩野卓司氏には、両思想家の比較の一例としてイタリアの美学者マリオ・ペルニオーラの『無機的なもののセックスアピール』における両者への言及を参照しつつ、両者の中心概念である「まなざし」あるいは「眼球」に関する質問を投げかけた。岩野氏からはバタイユにおける「眼球」の問題系に関する丁寧な解説をいただいたほか、氏が、現実的な出会いやテクストにおける言及関係等とは別に、今だからこそ見えてくるふたりの思想家の比較の可能性を模索することの重要性――あるいは面白さ――を強調されていたことが印象的であった。

最後に、すでに多くの著作でサルトルとレヴィナスの比較を行っている合田正人氏には、合田氏自身の研究のスタイルの変遷に関する質問に加え、レヴィナスとサルトルを比較する際にしばしば取り上げられる「可傷性/傷つきやすさ(vulnérabilité)」というキーワードに関する質問を投げかけた。合田氏からは、それほど知られていないが重要だと考えている思想家たちに関する興味が近年両者を比較する論考にも深く関わってきていることや、レヴィナスにおけるスピノザの影響の重要性を――レヴィナス自身に反して――感じるようになったことが自身の研究のひとつの転換点であったと返答がなされた。また、vulnérabilitéに関してもひょっとしたらスピノザにヒントがあるのではないかという――ともすれば意外な――応答がなされた。「スピノザであると同時にスタンダールでありたい」という今や伝説的な台詞を解釈する際の導きの糸にもなり得るだろうか。

 特定質問者としては、全体として投稿された論文からやや離れた質問になってしまったことに対する反省がないでもないが、ぎりぎりのところで、報告者自身の研究・関心と関連させながら、サルトルを読むための新しいヒントを引き出すことを試みたつもりである。少なくとも、「サルトル研究」の外部からもたらされる視点が内部のそれとは異なる刺激を持つものであることは改めて確認できたのではなかろうか。個人的には、今後もこうした研究が発表されることを楽しみにしている。

なお、当日欠席された檜垣立哉氏に対して考えていたのは以下のような質問である。ドゥルーズとサルトルに関してもすでにいくつかの論点での比較の蓄積があるが、『アンチ・オイディプス』における『弁証法的理性批判』への言及や、フランシス・ベーコン論の脚注における『家の馬鹿息子』への参照など、あまり考察が深められていない領域もあるように思われる。このあたりに関し、ドゥルーズ研究での動向を聞いてみたかった。あるいは、檜垣氏自身が日本哲学等を論じる際に注目する「偶然(性)」の主題はサルトルにおいてもいくつかの次元で問題になるものであろう。例えば、初期の短編「壁」のラスト・シーン等、賭博の哲学者はいかに解釈するだろうか。機会があれば聞いてみたい。

(栗脇永翔・東京大学)


サルトル関連文献

・ ジャン=ポール・サルトル『主体性とは何か?』澤田直・水野浩二訳、白水社

・ 海老坂武『サルトル『実存主義とは何か』』2015年11月(100分de名著)NHK出版

・ 澤田直「戦争と戦争のあいだ サルトルのアンガジュマン思想」、齋藤元紀編『連続講義 現代日本の四つの危機』講談社選書メチエ

・ 森功次『前期サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳』東京大学人文社会系研究科・博士論文

・  Gerhard Preyer, Subjektivität als präreflexives Bewusstsein Jean-Paul Sartres „bleibende Einsicht“. Zu Manfred Frank, Präreflexives Selbstbewusstsein. Vier Vorlesungen, Stuttgart: Reclam 2015


発表者募集のお知らせ

 サルトル学会では発表者を随時募集しております。発表を希望される方は、下記の連絡先までご連絡ください。なお研究例会は例年7月と12月の年2回行っております。