日本サルトル学会会報 第78 2024年 3

Bulletin de l'Association Japonaise d’Études Sartriennes     N78  mars 2024

日本サルトル学会会報          第78  20243

 

 

 

研究例会報告

 

2023129日(土)に下記の通り、対面ハイフレックス(=ハイブリッド)方式により、第52回研究例会を開催しましたのでご報告いたします。今回の研究例会では多岐にわたるサルトルの活動の中で演劇に焦点を絞って、様々な角度から見直すというシンポジウムが行われました。以下に報告文を掲載します。

 

 

52回研究例会

 

日時:2023129日(土) 14 : 30 - 18: 00

場所: 対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催

   立教大学池袋キャンパス14号館4階 D 402教室

 

【プログラム】

14:30-14:35 開会挨拶

14:35-18:00 シンポジウム「サルトル演劇の現在」(司会:岡村 雅史)

14:35-15:20 岩切 正一郎「サルトルの戯曲を上演台本にするとき」

15:25-16:10 翠川 博之「サルトル演劇における〈単独者〉の系譜」

16:15-17:00 東浦 弘樹「サルトルの『アルトナの幽閉者』と大島渚の『儀式』」

17:15-18:00 総合討論

 

【報告】

  発表者はそれぞれサルトル劇を取り上げているが、主に『アルトナの幽閉者』『墓場なき死者』『悪魔と神』について論及している。とりわけ『アルトナ』はオリジナル作品としてはサルトル最後の戯曲であり、その思想、哲学の集大成がそこに反映されている。この作品はナチスの罪過を描きながら、当時アルジェリア戦争で弾圧や拷問を行なっていたフランスの政治的事情も二重映しにしているが、<単独者>として状況に向かう「状況の演劇」が描かれている。

 

 岩切正一郎氏:「サルトルの戯曲を上演台本にするとき」

 

. ボードレール研究者である氏は詩の研究から演劇の研究も手がけ、翻訳を通して古典のラシーヌから20世紀まで、ジロドゥ、アヌイ、カミュさらに、イヨネスコの不条理劇と幅広く演劇作品に携わっておられる。この度は以前訳し、上演にも関わったいくつかのサルトル劇を扱うが、予定されていた『恭しき娼婦』は時間の都合上割愛された。

 

1. 関わったサルトルの戯曲と現場での取り組み

1-1  2014年『アルトナの幽閉者』

<上演の際の物理的な制約(時間)>

翻訳者は劇のテクストそのものに対してどういう操作を行なうか、演出やプロデューサーとどんなかけひきをしているか、といった現場の話をとりあげる。氏は新国立劇場の制作部からこの作品の翻訳を依頼されたが、完成した台本を 演出家の要請で4時間に短縮されたとのこと。元々サルトル自身も作品のカット版を求められている。これが和訳された場合には言葉の違いから長くなりさらにカットせざるをえず、11万語から7万語に減らされた。比較のため資料として割愛以前と以後の台本の一部が発表会場で配布された。さらに和訳に関して、日本語の色々なニュアンスが使いようでは便利だが、言葉の語尾「~よ」「~なの」「~に」など意味内容を変えてしまう恐れがあるので要注意である。またイプセン風の家庭劇のパロディでもあるので、役柄の人間関係、年齢差の演じ方に支障のない翻訳に留意しなければならなかった。例えば1人称の「僕」「俺」「私」の使い分け。

<台本を制作する時の具体的カット例>

 例として25場でのヨハンナの台詞「それを選んだのはあなたでしょう」に対しフランツの「[…]僕は決して選ばない、選ばれるのだ。」の言葉は、氏が自由や疎外といった問題を含むこの台詞を大事と考えたが、社会的問題や、拷問のような暴力の方を重視する演出家の意図から、バッサリ取るよう指示があった。また俳優達が「これらの登場人物がなぜこんなことを言うかわからない、違和感が体の中から、感じられる」というので原文と照らし合わせたら、やはりその翻訳がまずいと気づき演じる人の方が正しいことがわかる。その結果、訳を変えたり、カットしたが、一方では大きく削除するとキーワードが失われたり、あいまいになり、後の場面で主題がわからなくなる。また寸断されることで、演者が劇の筋の流れがつかめないという弊害が出た。

1-2 2021年『墓場なき死者』

<台詞(翻訳)を決めるまで>

 この劇作における次のような例を挙げるなら、場面はレジスタンスのメンバーの少年を口封じのために殺害した後の、少年の姉リュシーと彼女の愛人であり、リーダーであるジャンとのやりとりである。姉が「あたしは憎んでいる。だがあの連中はあたしを掴んでいる。[…]僕達ですって!あなたはあたしにこう言ってほしいのね、あたし達nous、と!」という台詞もまた、役者に「こんな言葉を言いますか?わからないので演じられない」の意見があり、やはり翻訳が悪く俳優の感性の方が正しいと思われた。つまり舞台上は身体性が先行するのでその点に配慮した訳が必要であった。

 

 

 翠川博之氏:「サルトル演劇における〈単独者〉の系譜

  氏はこれまでに研究対象としてサルトルの劇作を多く取り上げ、今回は<単独者>の観点から戯曲を分析しておられる。

 

1)<単独者homme seul

社会から隔絶した者という意味ではなく、「真理の前では人間は皆同じだ」という普遍的人間像と決別する者が<単独者>たりうる。「真理」とは万人の普遍的思考のため設けられた物質に依拠する参照体系に過ぎない、だが単独者が依拠するのは「精神esprit」でなく「魂âme」であり、それは理性より低次元に位置付けられてきた心的機能、個人的感覚や情念を働かせる主体と解釈される。サルトルでは<単独者>の「身体」を根拠とする思考が「自然な思考pensées naturelles」であり<単独者>はそれを「魂全体で受け入れるかどうか」を吟味し、「心の最深部に残ると感じた」時のみ、それを自らにとっての「必然」と認定する。<単独者>にあっては「必然」が、普遍的思考にとっての真理に相当するのである。

 

2)<単独者>としての登場人物達

 ここで氏はこのような<単独者>像がサルトル演劇の登場人物に具現化していると説く。最初の作品の主人公バリオナや、初めて上演された戯曲『蠅』のオレストがその例である。だが、単独者の特徴はその思考にあるが、演劇は小説と違ってそれを文章で描写できない。それゆえ独白や演説、あるいは象徴的な舞台装置(例えば『蠅』では「石」)を使う。さらに『悪魔と神』のゲッツに関しては、彼の思考過程、内面の逡巡を再現するのに劇作上の工夫、すなわちハインリッヒという自分の分身的人物が造形される。この人物との問答によってゲッツは神ではなく自分一人ですべてをなしてきたと悟る。結局この作品はゲッツが<単独者>になる過程を劇化したものだと結論付けられる。

 さてサルトル自身は「戦争を機に単独者理論を乗り越えた」と言っているが戦後自由である主体が他者や社会との関わりで、どのように自らの行為を選択するかが重視され、その問題が彼の全戯曲の主題となっている。従って翠川氏は<単独者>は戦前よりむしろ存在感を増していると思われ再検討するべきと考える。なお現在、「脇役における単独者」といったテーマで『汚れた手』のエドレルへの言及を考察中とのことである。

 

 東浦弘樹氏:「サルトルの『アルトナの幽閉者』と大島渚の『儀式』」

 氏はカミュの研究家であるが、今回は『アルトナ』と『悪魔と神』(これは一部)を取り上げ、さらに大島渚の『儀式』と比較検討する。先ず『アルトナ』の梗概を示し、その主人公フランツと『悪魔と神』に登場するハインリッヒとの共通点に言及する。両者とも人の命を預かりこれを無にしたという罪に苦しみ、その罪を一人は自分にしか見えないカニの姿をした未来人に、もう一人は同じく彼にしか見えない悪魔にそれぞれ告白している。サルトルは後世の人に読んでもらいたい作品として『悪魔と神』を挙げているのも、ここに示された問題を重視しているからではないか。

 さて『アルトナ』において氏はいくつかの疑問点を列挙している。なぜ近親相姦なのか?なぜ幽閉者フランツとヨハンナは関係を持つのか?なぜフランツは父親と心中するか?その答えを大島渚の『儀式』に求める。サルトルを信奉するこの監督が『アルトナ』を見たか、あるいは戯曲を参照したかはわからないが、作品に多くの類似性がある。家長に抗おうとする青年達が描かれ、そして彼らは家長と心中もしくは後追い自死を遂げる。また青年達には強者/弱者の対立がある。幽閉者フランツに比せられる輝(てる)道(みち)は強い意志の持ち主で、一方ウェルナーに相当する満州男(ますお)は弱い男として描かれる。強者は弱者の妻を、あるいはその恋人を奪う。

 このように「戦後」という時代を題材に両作品とも家父長的家族関係(現代のフランスでも日本でも薄れつつある)を舞台化した点で興味深いと考えられる。ただ『儀式』ではこの弱者の観点から物語が展開する、つまりこの映画は弱いウェルナーの目から見た『アルトナ』だとは考えられないだろうか?

 

 発表者間の応答や参加者からの質疑

 翻訳で台詞を変えることはあるのかと言う問いに、岩切氏は意味は変えないが表現を変えることはよく行われると。例えば歴戦の闘士カノリスが、悩むアンリに言う « [...] Bah ! Il faut travailler ; on se sauve par-dessus le marché. »「なあに、働けばいいんだ、おまけに自分も救われるのさ」(伊吹武彦訳)を、岩切氏は「というおまけがついてくる」という言葉にすることで解りやすくなり、そういった柔軟な台詞作りが必要であると。ちなみに人文書院のサルトル全集の鈴木力衛訳は「やれやれ!人間は働かなきゃならん、おまけに自分の命を助けなきゃならん。」となるが、やや固く、内容のニュアンスも異なってしまった感がある。またフランツとレーニの近親相姦の話題は彼らの妄想ではないかという指摘もあるが、各場面での表現から架空ではないだろうと。実際『言葉』の中でサルトルは「[…]実際の近親相姦の行為に及んだのは、自分の作品の中ではフランツとレーニだけだ」と述べている。またアルトナの主人公の様な絶対的単独者とフローベール論に見られるような単独的普遍者との違いをどう考えるか? 強者 / 弱者の対立とは別にサルトルはsalaud あるいは  lâcheという対比も取り上げている。等々、その他多くの質疑は、それぞれ演劇の具体的、身体的な舞台上の表現に触れている点が興味深いものであった。尚、『アルトナ』の映画版はデ・シーカの監督で見やすくまとまりテレビでも放映されたが、かなり原作とは離れていた。『儀式』は、東浦氏の指摘のように表現としての点と、さらにそれを結びつける線が巧みに描かれていたようであった。

(文責 岡村 雅史)                     

 

 

サルトル関連文献

 

 

*著書

 

・竹本研史『サルトル 「特異的普遍」の哲学――個人の実践と全体化の論理』法政大学出版局、2024年。

 

 

『サルトル研究 エレウテリア』創刊号 発行のお知らせ

 

当学会の紀要「サルトル研究エレウテリア」創刊号が完成し、電子ジャーナルとして学会ホームページにPDFの形で掲載されました。以下の リンクからご覧いただけます。


『サルトル研究 エレウテリア』創刊号

 

 

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目次

 

 創刊に寄せて

鈴木 道彦   サルトル学会電子ジャーナルの創刊を祝って.. 3

石崎 晴己   サルトル学会電子ジャーナルの創刊に寄せて.. 4

 

特集 シンポジウム「サルトル『家の馬鹿息子』翻訳完結をうけて」

小倉 孝誠   フローベール研究者として『家の馬鹿息子』をどう読むか.. 6

澤田 直    サルトルにおける「挫折」への執着.. 31

 

公募論文

乃烽    サルトル情動論における「一元性である二元性」なるもの.. 51

 

『サルトル研究 エレウテリア』審査規程.. 75

『サルトル研究 エレウテリア』執筆要領.. 78

日本サルトル学会会則.. 85

 

TABLES DES MATIÈRES.. 89

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編集委員長による編集後記を転載いたします。

 

【編集後記】

 『サルトル研究 エレウテリア』が創刊となりました。1995 年のサルトル研究会設立以来の積み重ねに、こうして新たな一歩を加えられたことをたいへん嬉しく思います。

 編集作業が当初の予定よりずれ込むなか、思いもかけず、この創刊号にも一文をお寄せいただいたサルトル学会共同発起人の石崎晴己先生の訃報に接することになりました。設立当初より学会運営を強力に牽引してこられたことは誰もが知るところですが、筆者のような中堅以降の世代にとっては、留学時代を含め、学位論文執筆のために重ねて参照した数々の書籍の著訳者でした。本創刊号を手に取っていただくことができないことは痛恨の極みです。こころより、ご冥福をお祈りしたいと思います。

 先学による厚い蓄積を持つ日本のサルトル研究を、この『エレウテリア』とともにさらに充実させてゆきたいという思いを新たにする次第です(根木昭英)。

 

 

理事会からのお知らせ

 

・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。

・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。