サルトル研究会会報 第13 1998年 12

Bulletin du Cercle d'Etudes Sartriennes no.13 decembre 1998


 サ ル ト ル 研 究 会 会 報 第13号 1998年 12月


サルトル研究会・メルロ=ポンティ・サークル合同シンポジウムの報告


 サルトル研究会・メルロ=ポンティ・サークル合同シンポジウムが1998年9月26日(土曜日)10時から立命館大学にて約50名の参加のもとに開催されましたので、ご報告申し上げます。


午前の部 研究発表

「時間と身体 - メルロ=ポンティとレヴィナス」

発表者 榊原達哉氏(同志社大学大学院)

司会者 和田渡氏


 「時間と身体 - メルロ=ポンティとレヴィナス」と題する榊原氏の発表は、両哲学者の時間論と身体論を、『知覚の現象学』第三部と『フッサールとハイデガーとともに実存を発見しつつ』に即して検討しながら、「時間の根源に身体が見出される過程を追い、時間の現象学と身体の現象学が一つとなる地点を明らかにしようとする」野心的な試みであった。榊原氏の主張の骨子は、フッサールの時間意識の現象学との批判的な対決を通して独自な思索を練り上げた両哲学者の苦闘の軌跡が、最終的に「生き生きとした現在」の問題に行き着くのであり、「生き生きとした現在」の出来事に関わる根本概念が時間と身体に他ならぬというものであった。だが、時間と身体という難問題を二人の哲学者に即して比較考察するという壮大な意図を実現するだけの入念な準備と問題の絞り込みが十分ではないという事情もあって、質疑応答は散発的、周辺的で、実りある議論にまでは至らなかった。(文責:和田渡)


「サルトル『文学とは何か』における媒体としての作品について」

発表者 前原有美子氏(東洋大学大学院博士課程)

司会者 北村 晋氏


 周知のように『文学とは何か』のサルトルは、事物(chose)としての言葉に奉仕する詩人よりも言葉を記号として利用する散文作家の方に、アンガージュマンの可能性を見ようとしていた。してみると作品とは、状況へと投企する作家によってそのつど超出される契機にすぎないのだろうか。前原氏は、そこでむしろ、作者と読者のあいだで作品がもつ媒体としての機能に着目する。作者によって書かれた作品は、実際には、読者によって読まれることではじめて完成される。その意味で、作品こそはまさに作者と読者相互の「呼びかけ」を成立させる可能性の条件なのだ。氏はさらに、この作者・読者・作品の関係を、『存在と無』における対自・即自・即自-対自(価値)という三律性の関係と対応させる。サルトルが作者・読者間の呼びかけの成立を説明する仕方は、即自の無化としての対自の出現が「絶対的出来事」として語られる様に比せられる。そして、こうしたアナロジーからあるアポリアが結論づけられる。価値としての即自-対自という総合が実現不可能であったように、呼びかけを通じての作者と読者の共同体、つまり人間全体の自由も原理的に実現不可能なのではないか……。午後のシンポジウムのテーマにもつながる問題提起の発表であった。(文責:北村晋)


午後の部 シンポジウム「サルトルとメルロ=ポンティ──コミュニケーションの地平」

司会者 澤田直氏 松葉祥一氏


第一部

 第一部「自由と他者」では、阿部文彦氏と谷口佳津宏氏を提題者に、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』とサルトルの『存在と無』における自由論の異同を中心に討議 が行なわれた。

 阿部氏はメルロ=ポンティのサルトル批判がどの辺りに顕著に見られるのかを洗い出す形で、二人の哲学者の自由論の相違を指摘した。その批判は、まずサルトルの存在論的自由が能動的・投企的側面を余りにも強調するために、自由が自由として現実化される歴史的・社会的状況が軽んじられるという点に集約される。それは、実存的投企の主体と自由の土台となる所与の関係とも言える。実際、『存在と無』では所与は対自の偶然性と事実性を表わし、対自の被投性をなしているといえるが、即自の残余と対自による意味附与との関係には判然としない部分もある。一方、メルロ=ポンティにとって所与は両義的であるが、それはあくまで意味の両義性であり、そこに実存的投企における遠心的意味附与と求心的意味附与の分かち難い働きの成果を見る。『知覚の現象学』の「自由」の章は、サルトル的全面的自由と決定論をともに回避する試みと言えよう。このことを歴史的現実における自由の問題としてみれば、それは対他と対自の関係でもあり、メルロ=ポンティは、対自が対他という背景の上に浮き出る点を強調するのだ、と阿部氏はまとめた。

 一方、谷口氏は、通常メルロ=ポンティによるサルトル批判と解されている箇所の意図が必ずしも批判にはないことを説得力に富んだ仕方で示すとと同時に、サルトルの自由論へ批判の妥当性を併せて吟味した。氏に拠れば、『知覚の現象学』における分析はサルトル批判と言うよりは『存在と無』の補足ないしは追加と見るべきであろう。実際、明示的な形ではないにしろメルロ=ポンティはサルトルの主張の主要な部分は追認し、その重要性は認めているのであって、その意味では基本的な立場は同じだと言えるのではないか。また、サルトルの自由論への多くの批判は一般に、それが根源的投企における自由であるということに対する無理解に由来するのではないか、とされた。

 阿部氏が綿密に整理したメルロ=ポンティのサルトル批判に対して、谷口氏がサルトルの観点から答えつつ再批判するという展開に期せずしてなった討議は、同じコーパスに依拠しながら提題者それぞれの読解の特徴が浮き彫りになる刺激的なものであり、会場からも興味深い指摘が寄せられた。

(文責:澤田直)


第二部 言語と表現

 シンポジウム第二部「言語と表現」は、まず本郷均氏 (東京電機大学)が、「メルロ=ポンティとサルトルの言語観について」と題された、両者の言語観の差異を、ソシュール言語学と「事象そのものへ」という格率を参照点として明らかにする試みによって始まった。すなわち、メルロ=ポンティがソシュールの言語学を親近感をもって迎え、そこから存在と言語の関係を突き止める方向に向かったのに対して、サルトルの場合は本質的な意味をもちえなかった。また、メルロ=ポンティが「事象そのものへ」という標語の下で、語る言葉と語られる物とを等根源的に見たのに対して、サルトルは両者の隔たりを意識し続けた。その結果、サルトルにおいて言葉は物質性の側面を強く保持し続けることになった。いいかえれば、サルトルの場合、言語と物と思惟がつねに三位一体として機能しており、言語だけを問題として取り出すことが不可能だったということになる。

 次いで、北見秀司氏(フェリス女学院)が、「サルトルとメルロ=ポンティ - 語る主体の理論を巡って」というタイトルで、両者の言語論における「語る主体」を、「他者」との関わりで考察。まず、サルトルにおける「語る主体」は、しばしば批判されるように「純粋主観」などではなく、人と物が絡み合う「間世界」にある。『共産主義者と平和』の場合、「語る主体」は、市場という万人にとっての「他者」を受け入れ、「知覚する主体」を抑圧し、沈黙に付すことによって生まれる。他方、メルロ=ポンティにおいては、社会的次元としての「他者」は、『見えるものと見えないもの』のノートにおける「見えないもの」の考察の中で触れられている。このように両者の言語論は、「他者」を媒介にした「語る主体」を考える点で一致しており、そこには新たな発展の可能性がある。

 討論では、まず提題者相互がコメントを加えた後、会場からの質疑応答に移った。まず佐藤真理人氏(早稲田大学)が、本郷氏が対象とした範囲は局限されているのではないかと質問、これに対して本郷氏は、確かに提題のテーマはサルトルの言う「言語の幼年時代」に限定されると答えた。次いで澤田直氏(流通経済大学)が、本郷氏に対して、ソシュール言語論によってサルトルを批判するのは無理ではないかと質問。これに対して本郷氏は、ソシュール言語論を参照点としたのは、サルトルの言語論の特異性を浮き立たせるためであり、批判するためではないと答えた。また澤田氏は、北見氏に対して、現実の問題を論じたテクストと表現の問題とは水準が違うのではないかと質問、北見氏は否定した。ほかにも、丹治恒次郎氏(関西学院大学)から、表現の概念の再定義が提案されるなど活発な質疑が続いた。

(文責:松葉祥一)


合同ディスカッション

 全体討論においては、まず司会者の側から、シンポジウム第一部「自由と他者」、第二部「言語と表現」において、それぞれ十分な展開をみせるに到らなかった、他者の問題、表現の問題、それを連結するコミュニケーションの問題の方に力点を移行させることが提案され、これを踏まえた形で討論がすすめられた。会場からの発言としては、サルトルにおける対他存在としての言語観の強調の必要性(佐藤氏)、表現というもの自体の定義の必要性、表現の伝達の可能性への問い(丹治氏)、他者了解の可能性を支えるものとしての、メルロ=ポンティにおける肉 ( chair ) の理論、サルトルにおける実存的精神分析の検証の必要性(渡辺氏)、サルトルにおける「他者地獄」「呪われた自由」からの解放の方途、メルロ=ポンティにおけるパロール、ラング、シーニュ・シニフィカシオン・語る主体 ( sujet parlant ) 等の関係の明確化の必要性(小林氏)、両者の身体観において、生物的身体の占める位置、性的区別の有無への問い(井上氏)、両者の自由論・言語論を分かつ根本的な特質の指摘(加賀野井氏)等があり、提題者の側からの新たな発言としては、メルロ=ポンティにおける、乗り越えとしてのコミュニケーション・沈黙を表現するものとしての言葉の把握(本郷氏)、『存在と無』に隠された、相克とは異なる他者との関係(阿部氏)、他者了解を可能にするものとしてのサルトルにおける実践の理論(北見氏)、「回心」以前の存在論として『存在と無』をとらえる必要性・新たな他者との関係の可能性(谷口・北見氏)、肉の理論をどう評価するか(谷口氏)等々があった。最後に澤田・松葉両司会者による総括で討論が締めくくられた。

(文責:家根谷泰史)


シンポジウムのあと、立命館大学末川記念館「カルム」にて懇親会があり、多数の参加を得ました。


その他のお知らせ

☆ フランスのサルトル学会 ( Groupe d'etudes sartriennes ) から Bulletin が届いています。会費納入者に限って郵送しますので、希望者は実費3000円を澤田宛てに郵便振替でお送りください。

☆ 朝日新聞1998年12月15日の夕刊に『見直されるサルトル』と題する記事が載り、当研究会が紹介されました。

☆ 最近刊行されたサルトル関連著作:

クロード・ランズマン編『レ・タン・モデルヌ50周年記念号』、記念号翻訳委員会訳、緑風出版。

朝西 柾著『サルトル 知の帝王の誕生』、新評論。

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