日本サルトル学会会報 第10 2006年 3

Bulletin de l'Association Japonaise d'Etudes Sartriennes no.10 mars. 2006


日 本 サ ル ト ル 学 会 会 報 第10号 2006年 3月


第17回研究例会の報告

 第17回研究例会が下記のように開催されましたので、ご報告いたします。

日時:7月16日(土曜日)14:00~17:50 

会場:青山学院大学 綜研ビル3階 第10会議室


ラウンド・テーブル「いま、サルトルをどう読むか」

司会 澤田直

ゲスト 清眞人、水野浩二、柴田芳幸

コメンテーター 沼田千恵、永野潤、芝崎秀穂


最近サルトルに関する御著書を発表された3人の会員をゲストとしてお呼びし、サルトルの新たな読解をめぐって議論が行われました。以下はコメンテーターによる要約です。


水野浩二著『サルトルの倫理思想-本来的人間から全体的人間へ』(法政大学出版局2005年)

 本書は、サルトル倫理思想の軌跡をたどるという一貫した課題のもとに研究を進めている水野氏の長年の研究の集成である。サルトルは倫理学の構築を断念しなかったのか、われわれはサルトル倫理学を首尾一貫したものとして跡づけることができるのか。こうした問いがサルトル研究において常に発せられてきた。水野氏はこの問題を、「第一の倫理学」の時期(1940年代後半)、「第二の倫理学」の時期(1960年代)において検討する。著者の指摘にもあるように、1940年代半ばまでのサルトルは「芸術による救済のモラル」を唱え、芸術作品を生み出すことが、おのれの救済の道であると考えてきた。しかしながらこうした立場は、以後政治的現実主義へと変貌を遂げる。抽象的モラルの無力さを痛感したサルトルの戦後の諸活動や一連の文学作品がそれをよく表している。とはいえサルトルは倫理についての考察を断念したわけではなく、1960年代以降のテクストや講演の草稿には、「第二の倫理学」と呼ばれる新たな倫理学の構想が看守される。本書の最大の特色は、「第一の倫理学」を説明するキーワードとして「本来的人間」なる概念が掲げられるとともに、「第二の倫理学」を読み解く鍵として「全体的人間」なる概念が提示されていることである。「本来的人間」の概念において重要となるのは、人間存在が経験する存在所有の企ての挫折と「回心」であるが、これに対して「全体的人間」において重視されるのは、「倫理の真の源泉」とまで言われる、「欲求」と道徳との直接的な結びつきである。すなわち、人間存在はいかなる状況であれ、自分が人間以下の状態に置かれた時、それを「人間の名の下に」拒否し、十全な人間生活を得ようとする欲求を有するのであり、ここにこそ道徳的規範の無条件性の源泉が存する。「1964年のローマ講演」等の貴重な資料を駆使し、後期サルトルの中心的問題である「欲求」の概念を倫理学視点から検討していることが、本書の画期的な点であり、著者があくまでも研究の「中間報告」と位置づけるにもかかわらず、サルトル倫理思想の新局面を浮き彫りにする貴重な研究書であると言えよう。(沼田千恵)


清眞人『実存と暴力――後期サルトル思想の復権――』(御茶の水書房)

 清氏は、暴力の問題との「対決」の中でこそ、〈後期〉サルトルの倫理思想、すなわち「相互性のユマニスム」が鍛えられた、と考える。それは、暴力とは「相互性の拒絶」にほかならないからである。氏は、ジュネを代表とする、暴力に根底から捉えられた「想像的人間」とサルトルとの対決に注目する。「想像的人間」は、「伝達不可能性」のコスモロジーのうちに独りたてこもり、審美主義的な「否定性のナルシシズム」の中に生きる。清氏は「ニーチェ=バタイユ的思想」が、そうした方向性に連なるものだ、と考える。だが、こうした方向性のもつ暴力性を戦後サルトルは一貫して批判しており、戦後サルトル思想はむしろ「ブーバー=レヴィナス的思考」と共振する、と氏は強調する。

 本書ではまた、アーレントとサルトルの思想の「対決」もとりあげられている。清氏は、知識人とテロリズムの共振運動に対する鋭い批判を含んでる点で、アーレントの思想とサルトルの思想は交錯する、と考える。しかしアーレントは、自分とサルトルの思想の共通性を認識することなく、サルトルやファノンの思想を単なる暴力称賛の哲学と短絡的に断じている。それだけではなく、アーレントがサルトルやファノンの思想を真剣に対決すべき相手とみなさなかったこと自体、彼女の思考の「市民社会」主義的性格、「西欧」中心主義的性格を示している、と清氏は言う。

 最後に清氏は、「革命的暴力」に対するサルトルの「両義的」関わり方を問題とする。それは〈闘争のユートピア〉の問題である。今日、「闘争」はもはやかつて持っていた輝きを失ってしまったように見える。だが、基礎経験としての〈闘争のユートピア〉は、現代日本のなかにおいても今もなお生き続けているはずだ、と氏は言う。

「テロとの戦い」という名のテロリズムが猛威を振るい、暴力反対の声が、より大きな暴力を行使するシステムに回収されてしまう、という状況の中で、サルトルの暴力論は今日ますます重要性を増している。その意味で、清氏の著作は、まさにサルトル思想の今日性を照らし出すものである。本書における個々の議論については、とくに批判されている思想家の研究者からの様々な反論が予想されるが、そのことも含めて、本書における清氏のこの「対決」への呼びかけ、「闘争」への呼びかけを「黙殺」してはならない、と感じる。(永野潤)


柴田芳幸著『マラルメとフローベールの継承者としてのサルトル』について

『マラルメとフローベールの継承者としてのサルトル』(近代文芸社)は、柴田芳幸氏の最近までの研究をまとめた著作で、その中心を成しているのは『家の馬鹿息子』をめぐる論考である。以下、柴田氏の分析を素描してみよう。

『家の馬鹿息子』第三巻によれば、19世紀半ばのポスト・ロマン派の若手作家たちは、当時の「客観的精神」として形成された二つの矛盾する要請の間で、身動きが取れなくなっていた。すなわち一方で、18世紀の啓蒙主義から継承した分析的理性とその否定性。他方で、19世紀初頭のロマン主義文学に由来する、創造された世界の綜合的統一の要請、である。

彼らは二つの要請の間で引き裂かれ、これらの要請の彼方に「不可能な意味」を、つまり「想像界の自律性」を「絶対=芸術」として実現しようと企てる。「絶対=芸術」とは世界への絶対的否定の観点を表現するものだ。彼らは上記の矛盾のために人間に対する憎悪を抱いており、彼らにとって文学とは、その憎悪を「堪能」するための「虚構的で夢見られた領野」となる。かくして、彼らが作るべき作品は「その存在論的堅固さを自己の美にのみ負うて」いなければならない。同時にそれは、現実界全体の「絶対的な否定」でなければならない。そしてこの否定は「破壊の実践」として具現されなければならない。

こうして、フローベールにおいては、「言語による世界のそして言語自体による言語の」廃絶を実践する詩法、「自殺的エクリチュール」が問題となる。そこにおいては、虚無が「それ自体によって繁殖する」「虚無の異常な弁証法」が遂行されるだろう。それは、形式として作品の挫折を、内容として社会あるいは人類の挫折を有する文学、難破=文学となるだろう。

このように、柴田芳幸氏の『マラルメとフローベールの継承者としてのサルトル』は、日本人の研究者が、フランスの1850年代の小説家(フローベール)を、1950-70年の哲学者(サルトル)を通して読むという、壮大な試みである。それは膨大な数の文献を参照しつつ為された、実証的で説得力のある研究だと言えよう。(柴崎秀穂)


事務局よりお知らせ


サルトル関連出版物


ボーヴォワール没後20周年記念講演のお知らせ

ボーヴォワール没後20周年を記念して、日仏会館の主催による海老坂武氏の講演会が開催されます。主催者による案内文を転載させていただきます。

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シモーヌ・ド・ボーヴォワールを知っていますか?

 『第二の性』(1949)の著者として、また、1970年代の女性解放運動をとおして、世界の女性の生き方に大きな影響を残したシモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908.1.9―1986.4.14)が亡くなってから、もう20年も経ちました。

 記念行事の一つとして、次の講演会を企画しましたので、是非多くの方の御参加をお待ちしています。

 ともに彼女を偲び、その人と思想を次世代に伝えていきたいと思います。


没後20周年記念講演会

「ボーヴォワール:幸福探求の情熱」

 恋愛において、作家として、解放運動の中でボーヴォワールはいかに生きたかを問いながら20世紀において彼女が果たした役割を考える


主催:日仏会館(月例講演会)/後援:日仏女性研究学会

日時:4月18日(火)午後6時~8時

場所:日仏会館1Fホール(JR恵比寿駅東口)

講演者:海老坂武(フランス文学者)

        主要著書:『戦後が若かった頃』(岩波書店)

               『シングルライフ』(中央公論社)

               『男という好奇心』(筑摩書房)

               『サルトル』(岩波新書)

        主要訳書:ボーヴォワール『別れの儀式』(人文書院、共訳)

               サルトル『女たちへの手紙』(人文書院、共訳)

                    問い合わせ先:03-5424-1141(日仏会館・日本事務所)