日本サルトル学会会報 第7 2004年 10

Bulletin de l'Association Japonaise d'Etudes Sartriennes no.7 oct. 2004


日 本 サ ル ト ル 学 会 会 報 第7号 2004年 10月


研究例会のお知らせ


第16回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。会員以外の方もご自由に聞くことができます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。


日時:11月27日(土曜日)14:45-17:50 

会場:青山学院大学 11号館 1144教室


会場は総研ビル(14号館))に接続する11号館で、入口は正門を入ってすぐ右にある総研ビルになります。総研ビルの奥の直角に接続する翼が11号館になります。当日は青山学院大学は推薦入試当日のため、若干場所がわかりにくいかもしれません。


研究発表1

「道の物語としての『自由への道』--サルトル『分別ざかり』の分析--」


発表者 竹内康史氏(筑波大学大学院博士課程)

司会 鈴木正道氏(法政大学)


研究発表2

「二人のアントワーヌ…ニザンとサルトルの文学的アンガージュマン」


発表者 坂井由加里氏(電気通信大学非常勤講師)

司会 鈴木道彦氏(獨協大学名誉教授)

懇親会 18:00


懇親会の会場手配等もございますので、出席予定の方は、メールにてお知らせいただければ幸いです。


第15回研究例会が下記のように開催されましたので、ご報告申し上げます。


日時:7月17日(土曜日)14:00-17:00

会場:青山学院大学 第18会議室(総研ビル10F)


研究発表1

「サルトルの美術批評」

発表者 永井敦子(上智大学) 司会 黒川学(拓殖大学)


研究発表2

「サルトルのプレ・ナラトロジー」

発表者 森田秀二(山梨大学)司会 澤田直(白百合女子大学)


サルトルの美術批評

  永井敦子

 サルトルは1946から70年までに15に及ぶ美術批評を書いている。それらはすべて個別の美術作家を論じたものであるため、彼の哲学的著作と同等の扱いをすることはできない。しかしそこに散見されるアンドレ・ブルトンを思わせる抒情的な語りの調子や、『想像力の問題』や『文学とは何か』の内容と矛盾する考察は注目に値する。  そこでサルトルの美術批評について、対象となった作家や作品の傾向、対象への接近方法や論じかたの特徴、時期ごとの主題の傾向など全体的な概観をおこなったうえで、特に複数のテキストに渡って問題になる点として、造型作品の現実性の問題、画家と鑑賞者の参加の問題、サルトルとシュルレアリスムとの関係の3点について考察した。

 まず作品の現実性の問題に関しては、『想像力の問題』における考察とは矛盾していても、『倫理学ノート』における考察とは一致する点があることが指摘できる。またサルトルが現実的なものと想像的なものとの間に象徴的な次元の介入を認めない点や、「現実」と「現実性」を切り離して論じるなかで、現実とは何かという問いに向かっていることが指摘できる。

 次に、画家の社会参加の問題を論じるにあたって、サルトルはレアリスム的なプロパガンダ絵画を考察の対象から排除する。画家の社会参加は、彼によれば、作品の形式と内容の不分離や、絵画の物質性によって可能になるのである。そして作品の意味は、まず作家によって、ついで鑑賞者によって能動的に探されるものと述べられている。鑑賞者は自分の目の運動によって、記号でも象徴でもない作品にじかに関わり、見いだされる意味は鑑賞者によって異なりうるとサルトルは考える。ただし言葉の端々からは、サルトルが鑑賞者による作品への参加が完全に実現可能であると考えてはいないこともうかがえる。

 サルトルのシュルレアリスムに対する態度に関しては、『文学とは何か』において激しい批判をする以前、30年代には、シュルレアリスムのオブジェやブルトンのカリスマ性にある種の魅力を感じていたことも知られているが、美術批評においても様々な次元においてこうした両義的な評価を指摘することができる。特にヴォルス論において、サルトルはシュルレアリスム的な概念を多用してこの作家の作品を語り、評価している。一方美術批評に見られるシュルレアリスム批判の論拠には、例えばサルトルの渡米と同時期に発表されたグリンバーグのシュルレアリスム批判とも共通点が指摘でき、さらに広い同時代状況のなかで実証的に考察する必要が感じられる。


「サルトルのプレ・ナラトロジー」

  森田秀二

 サルトルにおける今日で言う物語記号論的関心はすでに『嘔吐』の中に読みとることができるが、具体的貢献は『文学とは何か』とともに文芸評論集『シチュアシオンI』に集約されている。今回の発表では、『シチュアシオンI』所収のモーリヤック論、ドスパソス論を中心に、今日の記号論的視点分析の成果を取り入れながらサルトルの視点分析を再考するとともに、その影響をみることを目指した。プレ・ナラトロジーとしたのは今日の精緻な記号分析に劣ると考えたからではなく、新しい小説形式を懸命に求める創作者としての鋭い眼差しが(それゆえに規範的な限界をもちつつも)、極めて斬新で根源的な批評の光を小説ディスクールにあて、それが次世代に大きな影響を与えたからに他ならない。  周知のように、モーリヤック論でのサルトルは、自由(主格)と宿命(目的格)は相容れないものとして両方の視点を行き来する視点のハイブリッド性(「神の視点」)を批判した。視点を限定すべきだとする立場から、サルトルは小説実践においても一方では主格性(内部性)の極限的表現とも言うべき意識流(realisme brut de la subjectivite)へ、他方では目的格性(外部性)のやはり極端な表現である行動主義的描写(behaviourisme)へと向かう。ところで、奇妙なことに同じ『シチュアシオンI』で、モーリヤックにおける視点のハイブリッド性を攻撃する一方で、ドス・パソスにおけるそれは賛美するのである。なぜだろうか。

 それは両者における内部性、外部性の意味が違うからである。モーリヤックにおける運命論的視点とは実はフランスの心理小説の伝統上にある心理分析者による外部的な注釈である。それに対して、ドス・パソス的視点はサルトル自身『指導者の幼年時代』で実践したような一見主格的な視点(それが証拠に1人称にリライトできる、文法的には)だが、そこに紛れ込んだ外部性=世間("le social gluant")を炯眼なサルトルは見逃さなかったのである。後のブレヒト論で、サルトルは映画を同化芸術、演劇を異化芸術として対比して論じることになるが、それを類同的に先取りするならば、通常の"intime"な小説主体には読者は同化(identification)しようとするのに対し、ドス・パソス的主体には読者に反感をさえ覚えさせる異化(distanciation)効果があると言ってもよいだろう。

 社会的な意味(le sociable)が過剰に入ったドス・パソス流の主格的視点と正反対の極に、社会的な意味をカッコ入れした純粋知覚による外的・目的格的視点、つまり行動主義的描写(behaviourisme)がある。これは『シチュアシオンI』で分析された小説、詩に共通する視点だ。視点の問題はこのように、サルトルにおいては小説にとどまらない超ジャンル・超メディア的射程を有するのだが(戦争という集団的体験は多層的視点でフレスコ画のように描くべきだという『猶予』で実現される主張は、実は戦中の映画論でも唱えられている)、発表では、哲学やシナリオなどの異種ジャンルのディスクールに対して視点分析の簡単なデモを行うにとどめた。

 伝達したかった内容をまとめると以上のようになるが、発表の方はと言えば技術的すぎる部分を含む一方で、結論に至るまでの道筋が輻輳しており、どの程度説得力をもちえたのかは自信がない。いずれにしても、まだ研究途中のテーマなので、『シチュアシオンII』の再読などを通して視点の問題とはもう少し付き合いたいと考えている。