2014年5月のメッセージ

大阪大空襲

母の四十九日、満中陰が終わりました。

死去前日にも元気に話をしていたので、検査の数値は悪いもののあと数ヶ月は生きてくれるように勝手に思い込んでいました。その明け方に病院に泊まっていた私は、少し落ち着いてきた様子の母の前でうつらうつらしていました。でも正確には、母は落ち着いてきたのではなく呼吸が止まりつつあったのです。発病してからわずか4ヶ月でした。30年前に若くして他界した父と同じ斎場ですべてを終えました、享 年85歳。日本の女性の平均寿命です。つい先日までは、言うことはかなりぼけてはいたものの、身体は元気でした。私より長生きしたらどうしようと、心配し ていたほどでした(多分お互い)。連休中のことでしたので、私も長い時間を一緒に過ごすことができ、親不孝の痛みをほんの少しだけ和らげることができまし た。そして、この4ヶ月の不安な生活からのストレスの解放と、延命をしないと決めたもののそれでも苦しみから十分には解放してあげることができなかったこ とのやるせなさ、そしてこれから始まる後片付けへの憂鬱、などなど複雑な思いがまとめて一緒に訪れました。

様々 なことが思い出されます。なぜかふと思い出したのは、私に(そして孫たちにも)何度も繰り返し語ってくれた大阪大空襲の日の話でした。当時は豊中高等女学 校の生徒でした。戦争が激しくなると授業はなくなり、女子生徒たちも毎日工場に行って働いたそうです。いわゆる学徒動員です。決戦教育要領が閣議決定され て授業が完全に停止され、中学校以上の生徒や学生は軍需産業や食料生産に動員されました。男子の年長は学徒出陣しました。母たちは西淀川にある江崎グリコの工場で働いたそうです。その当時から江崎グリコはグリコとビスコを作っていたのです。

その日、大阪の町はB29の 空襲により焼け尽くされて、母は城東線(今の大阪環状線)の高架を疎開先の生駒まで夜中に歩いて帰ったそうです。WIKIPEDIAによれば、米軍が大阪 を空襲したのは5ヶ月の間に計8回。最後の爆撃は広島、長崎への原爆投下よりも後の8月14日だったようです。母が話していたのは、おそらく1945年3 月13日の最初の爆撃だったかと思いますが、時間帯がちょっと合いません。米軍の照準点は都心部を取り囲む住宅密集地で、一般家屋を狙いました。3時間半 に亘る爆撃で4,700人の死者・行方不明者が出たそうです。「奈良県や亀岡盆地側 では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えた」と書かれているので、母が「大阪の町が燃えていた」と言っていたのは生駒に無事帰ってからの話かもしれま せん。母の父(私の祖父)は豊中の自宅から出勤していたようで、母たちだけが疎開していたようです。米軍の住民に対する無差別攻撃(殺人)に対する怒りは なく、まるで天災のように感じていたのでしょうか。こんなちょっとしたことすら、もう尋ねることはできなくなってしまいました。

憲 法9条の拡大解釈や集団自衛権に関する政治家やマスコミの発言が賑やかです。戦争はいけないとか二度と過ちは繰り返さないといった観念的な議論だけではな く、前の戦争では誰が誰をどうやって殺したのかという生々しい事実の話が政治家やマスコミから聞こえてこないのが残念です。観念論だけではこの世界からは 争いはなくなりません。面識すらない他国の人を大量に殺す人たち、それを命じる人たちが現実にいます。その現実に向き合わなければ、平和主義は無責任な空論にしかならないだろうと思います。私達の国で実際に起きた住宅地への空襲そして原爆投下に対して、私達は学び直すべきだろうと思います。いま世界中で繰り返し起こっている戦争やテロ制圧という弱者に対する強者による無差別殺人に対する対応は、自分の周りで起きた現実を実感することから初めて見つかるように思います。母の片付けをするうちに、世の中で起きている騒ぎがなぜか母の体験談と結びついてしまいました。

母の病気、死去、そしてその後の後片付けで、仕事を休むことが多く、多くの人に迷惑を掛けてしまいました。このホームページの連載も滞りました。秋になるまでしばらくこのペースです。母が生きているうちに、それができれば良かったとも思います。

合掌。

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