2005年4月のメッセージ

校門

アメリカで会議にふたつ招待されたので、半年ぶりに渡米しました。サンフランシスコの入国検査所で、初めて右手と左手の指紋を採られて顔写真も撮られました。アメリカに入国する外国人はいま全員、これを受けなければなりません。その後、フィラデルフィアからドイツに入国しました。ヨーロッパではアメリカとは逆に入国管理が簡素化されてきています。パスポートに入国のスタンプすら押してもらえないこともあり、少し寂しい気分です。アメリカでは靴を脱がされベルトもはずしてジャケットも脱がされ、さらにしばしばボディーチェックまで受けますが、ヨーロッパでは、鞄からラップトップコンピュータを出す必要すらありません [1] 。

ついこないだまで、日本で外国人は右手親指の指紋を採られて指紋写真入りのカードの所持を義務づけられることを非難していたアメリカ人が、この指紋採取や顔写真撮影について何も発言しないのには、全くがっかりします。

指紋採取の目的は、犯罪者を登録することによって犯罪者の入国を防ぎ、アメリカ国内でのテロが減らすことです。しかし、それではアメリカの外でのテロリストの活動は防げませんし、国内から生まれるテロリストを防ぐこともできません。悪い人は国の外にいる、これを排除すれば国内の平和は守れる、というのは間違った考えだと思います [2] 。

最近は日本でも、毎日のように殺人事件が起き、特に小さな子供が誘拐、殺人、傷害事件の被害者となるケースが激増しています。小学校や中学の校内に、外部の人が侵入して犯罪を起こします。痛ましい限りであり、大切な子供達を預かる先生方の精神的負担や不安もさぞや大変なものだろうと想像します。

犯罪者から子供達を守るためには、校門を閉めてさらに不審者の侵入がないように出入り口をカメラなどで監視するのだろうと思います。それでも、犯罪者はいろんな方法で侵入してきます。大阪・寝屋川の小学校のように、卒業生が犯罪を起こすようになれば、不審者チェックでは防ぎようがありません。3月21日にもミネソタ州レッドレークの高校で、在学中の生徒が校内で「笑って手を振りながら発砲し」、生徒5人と教師と警備員を射殺しました。持ち物検査をしても、刃物を持たずに幼い子供を傷つける技もあるでしょう。6年前には、コロンバイン高校で在学中の高校生が同級生12人を校内で殺しました。

私はいっそのこと、校門や塀を撤廃して外部者が自由に校内に入れるようにすればどうだろう、と考えます。不審者も侵入するでしょうが、善良なる市民もたくさん学校を訪れ、学校の活動に参加します。先生だけではなく校内にいる町の人たちが一緒になって、犯人を取り押さえたり子供達を守るのです。学校は、先生と生徒だけではなく町中の人に開放して利用してもらえばいいと思います。仮に校内の安全を完璧に守れたとしても、子供達が校外で襲われては何にもなりません。校内だけではなく町中で市民は子供達の安全を守らなければなりません。

そう言えば、普通の学校に塀や門があるのは、私の知る限り日本だけです [3] 。イギリスもアメリカもオーストラリアもフィリピンも、学校に塀や門は無く、芝生(運動場)の中に学舎が立っています。市民は、この芝生の運動場(どっちかというと公園)や体育館、プール、テニスコート、さらには教室までも、自由にあるいは予約をして授業の時間以外に使います。

学校は、町の中にとけ込めばいいと思います。ところが残念ながら、都会においては新設の高校や大学は町に溶け込むどころか、町の中心から遙かに離れた郊外の駅から、さらに歩いて30分とか1時間の距離の不便な山の中に建てられます。新設だけではなく、古い大学も皆不便なところに追いやられています。周りには学生街もなく、本屋や喫茶店、麻雀荘などが密集する学生街はありません。町が、学校や若者を大切にしていないのです。学生達は、そのことを敏感に感じて、学校に行くことが楽しくなくなってしまいます。「うば捨て山」という伝説がありますが、いまは「子捨て山」です。

私は今の若者の理系離れやNEET現象、不登校問題なども、若者を大切にしない大人の社会の側に大いに責任があると思っています。登校時と下校時にしか走らない超満員のバスに乗って山の中に通う生徒達と、逆に年寄り専用の福祉専用の循環バスに無料で乗って老人会の行事に通う元気なお年寄り達。「お年寄りを大切に」とは言うけれど、若者に対してはとても冷たい国です。怪我をしたり病気になった翌朝に、学校に行く前に病院に行ってみると、朝の病院はお年寄りの社交場となっていて、すでに整理券の番号は2桁。授業には大遅刻。勉強とクラブ活動とバイトに疲れ切った身体で電車に乗ると満員で座る席はなく、優先座席は元気なお年寄りがわいわいがやがや騒いでいる。一生懸命アルバイトをしても時給700円なのに、おばあちゃんは財産タップリ持っていてさらに年金支給。これでは、若者が年金など払いたくなくなるのは当然ですよね。お年寄りしか見ないNHKの番組に対して若者が受信料を払わないのも、同じことでしょうか。

大学も町に戻り、塀を壊し、風景として町と市民の中に溶け込むべきだと考えます。ロンドン大学、オクスフォード大学、ケンブリッジ大学、スタンフォード大学、ハーバード大学、MIT、どこにも門や塀はありません。日本の大学で塀のない大学があるでしょうか?町の人が日常に大学の中に入るようになって、初めて大学は社会に開かれます。もちろん物理的な門とか塀とかだけではなく、大学の運営(カリキュラム作成や研究プロジェクト選定、学部学科の改編、授業料の改訂やキャンパスの活用プランなど)にも、学外の人が参画するべきでしょう。日本の大学は残念ながら、極めて閉鎖的で、すべてを教授が決めるしくみを維持しています。大学の自治と言う言葉には、市民や国を排除して教授だけが主役という、大学人の奢りを感じます。阪大でFRCを作ったときも、民間人をたくさん招いて経営をお願いし、他大学や他学部企業の方々も招いて研究に参画頂き、eラーニングによって大学の授業を社会に公開して社会人にも大学の授業を学ぶ機会を設け、また社会による授業評価をして頂くしくみ作りを目指しました。

この1ヶ月、大阪市役所が民間人による諮問会議の解散を決め、本間正明座長(阪大教授)を解任されました。本間先生が目指した市役所を社会に開放しようとしたと活動への反発によるのでしょう。中央からの人材の派遣の提案に対して,市は「国による植民地化」と反発しました。事実に基づいて冷静な発言のできない助役を使って、感情的に、諮問委員や座長への非難中傷をされました。市役所は、一度、市内の一等地の豪華ビルから撤退し、町中の小学校の跡地や売れ残った市内のオフィスビルに分散して引っ越せばどうでしょう。そうすれば、もっと市民の声が聞こえてくることでしょう。

大学も学校も市役所も、社会の中で社会の人たちに育てられるのが、いいと思うのです。ベルリンの壁は1989年の10月に壊されました。それが、東ドイツとソ連、東欧の国際社会への参画の始まりでした。学校に校門は要らないと思います。SK

[1] 日本のX線検査場では、不審者を見つけるという本来の目的よりも、検査項目に従ってただ検査をするという形式が大切らしく、やたらたくさんの検査官が、すべての荷物をやたら丁寧にトレイに載せて、あげくにそれらに別のトレイを蓋にして被せて、時間とコストを掛けて検査していますが、彼らはこちらの顔の表情すら見ません。不審者を見つけるという観点からは、日本が一番ずさんでしょう。事故を減らすことより、厳密に制限速度にこだわってスピード違反を取り締まる警察官と、同じです。憲法だって、言葉尻ばかりの解釈論ばかりで、何故憲法が必要なのか、その議論がありません。イギリスには憲法がないと言うことは、皆学校で学んだはずですよね。アメリカのように、憲法や国旗、国家がなければ国家としてのアイデンティティーのない国と、日本とは異なるので、憲法は必要か、と言うところから議論して欲しいものです。

[2] 国の政策は、普通の人をすらテロリストに変えてしまいます。アルカイダのようないわゆるテロリストと、反政府活動のレジスタンスとの違いも、必ずしも明確ではありません。時の政府に反対する人たちは犯罪者として扱われ、政権が変わればヒーローです。

[3] 一部、環境の悪いところの大学(たとえばUSC)や金持ちの子息が行く学校には塀や門があります。

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