2010年11月のメッセージ

「考える人」

という題名の雑誌があります。季刊誌です。今年の「夏」号に、村上春樹のロングインタビューが載っています。日本のメディア取材には登場することのほとんどない(外国ではよく出る?)村上春樹氏にとって異例の、80ページのロング・インタビューです。箱根で3日間、泊まりがけ取材だったそうです。最新の超ベストセラー「1Q84」は、販売方法に至るまで綿密な戦略性があったように見えましたが、本当はそうではなかったそうです。小説の内容(ストーリー)すら計画的でなかったのだとか。必ずしもそのまま鵜呑みにするわけではありませんが、私は少し安心しました。あまりにストーリーが作られすぎていると、小説が人間的でなくなるような気がするからです。私の「論文・プレゼンの科学」ではこのあたりのことが書ききれていないのですが、台本通りにいかないのが科学であり、だからこそ科学は小説であると思っています。

春樹氏はBook 1, 2を書き終わったときには、Book 3を書くかどうか決めていなかった、と語っています。Book3の役割はそれまでのふたつのBookの重なりのないストーリーをまとめることです。著者にはそれをそれぞれの読者に任せるという終わり方があったかもしれません。登場人物達がそれぞれに作者の意を超えて勝手に語り出し、勝手に行動を起こして話を進めていったとしたら、それらをまとめるのは大変です。Book 3の次のBook 4はきっと著者によってまとめられる(出版される)でしょうが(商業的に逃げられない?)、Book 0(さらにはBook 5,6)も出版されて、それも読者ではなく春樹氏の担当かもしれません。

「1Q84」ではふたつの世界 ーそれは青豆が下りた高速道路の非常階段で分かれる(というか繫がっている)ー が存在します。「ねじまき鳥クロニクル」でもまた、井戸の底の壁を通じてふたつの世界が繫がります。しかもそのふたつの世界は、場所も時間もそして人(自分を含めて)まで異なります。

およそ私達の世界は、2次方程式(実際はもっともっと高次)で与えられるものかもしれません。たとえば最も簡単に、ふたつでx2 - 2a + 2 = 0 の解は x = 1 + i と x = 1 - i のす。どちらでもよくどちらも答えです。そしてこのふたつの解は、共に実数と虚数を持っています。それと同様に、私達の人生にもふたつの(あるいは無数の)世界があり、それぞれが共通した現実と虚ろな時空間から成り立っているかもしれません。

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てなことをあれこれ考えながら10月17日の日曜、街中をふらふらと自転車に乗っていたら突然、電柱が私にぶつかってきました。暫し空を飛んで、地面に落ちました。頭を強く打ったけれど、外傷はありませんでした。自転車が壊れていなかったので、立ち上がって再び自転車に乗り走り始めたのですが、どうも様子がおかしい。病院に行くと、右鎖骨が骨折してるとのことでした。手術は免れたものの右手が使えず、ニューヨーク(ロチェスター)の出張はキャンセルしました。授業も、ごめんなさい、キャンセルしました。プレゼン資料(キーノート)の作成は全くできないし、この原稿も左手片手でキーボードとマウスを使う難しさに苦しんでいます(時間は5倍掛かる)。

もうこれ以上のタイプ打ちは無理そうです。もし会議に私が現れなくても、お許し下さい。どなたか、適当に私の代わりにプレゼンをお願いします。私はしばしリトルピープルと遊ぶかノモンハンの井戸に籠もります。

ところで、皆さんがこのメッセージを読んでいただいている時空間は、私が創った「もう一つの世界」かもしれません。電柱にぶつからないでニューヨークに出張しそこで転んで骨を折った後の私の世界の方が、現実の世界かもしれません。その現実の世界に戻るために自転車であの電柱に再度ぶつかりに行けるようになるまで、完治3ヶ月。しばし、月がふたつの世界で生きることにしましょう。SK

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