2005年5月のメッセージ

歴史、竹島、南京。

今月は3周年記念メッセージです。石の上にも3年。HPにメッセージを書き始めて、丸3年になります。最初は、私の授業を受けてくれる学生や研究室の学生達を読者対象と想定して書き始めましたが、いまでは様々な方々に読んで頂いています。研究者や教授仲間はもちろんのこと、サイエンス以外での会合でお会いする方々、あるいは一度もお会いしたことのない方々からも、「今月は言い過ぎだ」とか「我が意を得たりです」とか、レスポンスを頂戴します。ブロードバンド、インターネットの威力です。

丁度2年前に 、インターネット・メディアは新聞やテレビなどの既成ジャーナリズムより公正でありうることや、加藤の乱は失敗したけれど永田町での政治交渉よりもインターネットでの国民への呼びかけがこれからの政治手法でありうること、などを述べました [1] 。2年後の、ライブドアというブロードバンドのニュー・メディアによる放送という既得権益メディアの買収や、中国におけるインターネットによる反日デモの扇動を、予見したことになります。

これからも新聞や雑誌や講演会、会議などでメッセージを語り続けながらも、このコラムも書き続けたいと思っています。わずか3年の「歴史」ですが、そこで書いたことが2年遅れで現実化するのを見ると、歴史はまさに生きているのだなあと感じます。

今月は、自分の生まれる前の歴史の総括について、意見を述べたいと思います。

やはり2年前の5月のメッセージで私は、学会の専門家(権威者)と新聞社が嘘の石器発掘による歴史の捏造を補強してしまった事件について、述べました[1]。歴史の記録とは、一般的には捏造されます。古事記も日本書紀は、藤原家が女帝を正当化するために作った歴史であると梅原猛氏は指摘し、それらに書いてある神話を史実とする本居宣長の国史観を、論理的に否定します [2] 。戦争を知らない今の中国人や日本人が、過去の日中の歴史を研究することはとても大切ですが、自分が体験していないことに対して、私たちは伝えられる歴史に慎重でなければなりません。歴史とは常に捏造されるものです。

さらに、仮にその歴史が真実であったとしても、自分が生まれる前に親の犯した罪を子に償わせようという考えには、私は支持できません。もしそうなら、子は生まれながらに罪を持っていることになります。中国や韓国の歴史観が日本と異なることは健全だと思いますが、犯罪はそれを犯した人が被害者に対して償うものであり、次の世代が償うべきではないと考えます。罪も徳も富も知も、一代限りであるべきであろうと私は思います。ユダヤ人とパレスチナの間のいまの悲劇も、千年の歴史に現代人を束縛することによって生まれています。自分が生まれる前の歴史を学び先人を尊敬することは素晴らしいことですが、歴史の清算をいま生きる人に押しつけるならば、新たな争いを生みます。

日本のメディアは、韓国の竹島観光ツアーや中国の反日教育問題に対して、ワイドショー的報道ばかりをせずに、このような議論をするべきだと思います。今の日本の報道は、日本人に新たな反中感情や反韓感情を増幅させるだけの商業主義的意味しかなく、「公共の電波」に値しません。加工していない情報を視聴者が選ぶインターネットの方が優れているという堀江さんの意見に、正当性を与えています。

日本と韓国の竹島の所有権の論争についても、全く意味がありません。竹島は、本来どちらの国の所有物でもありません。どちらが先に見つけたかなど、全く不毛な議論です。竹島は、日本人の固有の島でも韓国人の固有の島でもなく、そこに住む海鳥や魚たちのものです。あるいは、地球に生きるすべての生物のためにあるといってもいい [3] 。

どちらの国も所有権を主張しないのがいいと思います。マルクスとエンゲルスは、あらゆる土地や家や財産はもとより、配偶者や子供に至るまで私的所有を認めませんでした [4] 。すべては社会全体のものという思想が、共産主義です。エンゲルスの思想が、のちに設立された共産党国家の指導者達によって都合のいいように改竄されて、私的所有権の否定を国家所有権にすり替えて解釈されてしまいました。しかし、現実の国際社会においては、「国」も私的な存在です。共産主義政権の中国が、インドやネパール、ソ連、そして日本と領土紛争をするのは、マルクスやエンゲルスに対する冒涜です。中国政府には、共産主義の真に優れた部分を学び、加えて資本主義の優れた部分を学んで欲しいものです。残念ながら、いまは互いの醜いところばかりを選んでいるようです。

先月、河田研で共同研究をした30歳代後半の韓国人研究者に、竹島問題について議論をふっかけてみました。韓国ナショナリストの彼は、日韓は協力して通貨統一やアジアの連合化(EUのように)を推進し、アジアに対する欧米からの不当な圧力に対応するべきであり、竹島を日韓が取り合いするのはナンセンスであると言いました。私がいつも言ってることと全く同じであり、韓国の中堅世代がこのような正常な発想を持ってくれていることに嬉しく思いました。私自身は、2国で共同統治するのがいいと思っています。政治家にもそのような発想が生まれて欲しいと願います。

私は、「いま」に生きる人たちが「過去」の歴史によって束縛されてはいけないと思います。だから私は「憲法」も嫌いです。憲法改正でも護憲でもなく、憲法廃止論者です。アメリカ軍が作った憲法だから嫌いなのではなく、昔の人が決めた規則に、いまを生きる人が束縛されることが嫌なのです。アメリカのような移民の国では、その国の国民になるためには、その国の憲法を学んでそれを遵守することを宣誓する必要があり、国是として憲法は必要です。しかし、日本人しか日本人になれない我が国で、生まれながらにして祖先の決めた憲法に従わざるを得ないとうのは、今の人たちには自由がありませんし、かつ無責任です。同じ島国のイギリスには、憲法はありません。もし仮に憲法が必要なら、ヨーロッパ諸国のように、世代毎に憲法は書き換え続けるべきでしょう。戦後に新しい憲法を制定したドイツでは、これまでに51回も憲法を改正しています。フランスやイタリアも、戦後にすでに十数回、憲法を改訂しています。

昔の人の罪や徳や知や財に、いまを生きる人たちが甘えたり恥じたり奢れたり責めたりすることは、良くないと思います。歴史とは、自分が生まれる前に過ぎ去った日々であり、それを学ぶことは大変有意義ですが、「いま」を生きる人は「いま」に対して責任を持つべきであり、自分の親の歴史を謝罪したり責めたりすることは、責任の転嫁です。中国も韓国も日本も過去の歴史を超えて、「いま」を生きて欲しいと願います。

私は、日本の過去の戦争犯罪に対して私自身が謝罪する気はありません。アメリカの過去の戦争犯罪に対して、いまのアメリカ人を責める気もありません。今月、私は南京でのナノフォトニクスの国際会議に招待されて行ってきます。9月には、北京で阪大と中国科学院理科技術研究所の交流締結のシンポジウムを企画しています。中国や韓国で予定されているサイエンスの国際会議が、いま次々とキャンセルされています。しかし、日本人は逃げることなく、むしろ彼らと向き合って、しっかり自分の意見を話すべきだろうと思います。

このメッセージは、日本人以外の人たちにも読んで頂いています。ご意見を歓迎します。SK

[1] 河田 聡、2003年5月のメッセージ

[2] 梅原猛「隠された十字架」。この本は、日経サイエンス04年5月号のフレッシュマンのための読書ガイド「理系・文系を超える」でも、紹介させて頂きました。

[3] ロスアンジェルス・オリンピックの前に、ロスアンジェルスのダウンタウンと空港を結ぶ片側が6?8車線もある高速道路105が建設されました。キアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックスの映画「スピード」で建設途中のフリーウエイをバスが飛び越える、あの高速道路です。道路の中央にはダウンタウンと結ぶ鉄道(メトロ)も走っています。「スピード」でハリウッド大通りのマンズシアターの前に飛び出した、あの鉄道です。この、広いフリーウエイと鉄道を通すために、ロスアンジェルスの町のおびただしい数の住宅や会社の建物が立ち退きました。日本では、住民達との立ち退き交渉はほとんど進まず、町中の道路を広げたり立体交差が出来ず、常に渋滞が当たり前となっているのと比べ、道路建設と立ち退きに対する市民の考えのあまりの違いに、当時アメリカにいた私は本当にショックを受けました。何故、アメリカの住民は道路建設のために、おじいちゃんの時代から住む思い出の土地から立ち退くのでしょうか?アメリカ人にとっては土地は自分達の私的な所有物ではなく、神様の土地と考えているのでしょうか。祖先が住みつく以前には、先住民が住んでいたであろうし、その前は鳥や動物や虫たちの土地だったでしょう。「先祖代々の土地」でることが、道路渋滞緩和のためや交通の便宜のためより優先するという日本人の発想は、まさに既得権益の発想です。歴史が今に優先するのです。私たちが住む地球は、私たちが神様から借りて、そして皆で守っているのだ考えることが、平和をもたらすと思います。

[4] エンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」、マルクス・エンゲルス「共産党宣言」など。

【追記】:今月のメッセージを書き終えてから、「坂の上の雲」二巻に次の文章を見つけました。日清戦争が朝鮮と中国に対する侵略政策と見るか、朝鮮における清国の属国化主義への対抗策と見るかについての、ふたつの意見に対する司馬遼太郎の言葉である。

「国家や人間像を悪玉か善玉という、その両極端でしかとらえられないというのは、今の歴史科学の抜き差しならぬ不自由さであり、その点ののみから言えば、歴史科学は近代精神をより少なくしかもっていないか、もとうにも持ちえない重要な欠陥が、宿命としてあるように思える。他の科学に、悪玉とか善玉というような分け方はない。たとえば、水素は悪玉で酸素は善玉であるというようなことはないであろう。そういうことは絶対にないという場所ではじめて科学というものが成立するのだが、ある種の歴史科学の不幸は、むしろ逆に悪玉と善玉を分ける地点から成立してゆくと言うところにある。」

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