2011年11月のメッセージ

「困ってるひと」

このひと月、池井戸潤の小説を読みまくっていました。きっかけはもちろん今年の直木賞作品の「下町ロケット」。そこから前作の「空飛ぶタイヤ」、「不祥事」、「株価暴落」、「架空通貨」そして江戸川乱歩賞の受賞作「果つる底なき」、、、。経済ネタ、銀行ネタ、ハードボイルド・ミステリー、息をつく暇もなくジェットコースターのように乱高下するストーリー展開に、講演や講義の準備も忘れて読みふける日々でした。前にも書いたと思いますが、一冊の小説を読むとその作家の小説を全部読んでしまうのが、私の病気です。そういや海堂尊も、全部読んでしまいました。

先日ある雑誌の巻頭言で「日本の映画はホンノリほんわか、ハリウッドはハラハラどきどき」と書きました。日本人とアメリカ人の決断力の違いに対する文化評論です。映画だけでなく小説にも、私はそのイメージ(偏見?)を持っています。ところが池井戸さんの小説はまるでハリウッド映画、急降下を繰り返すジェットコースターのようです。長年取引をしてきた銀行の担当者の掌を返したような冷たさ、ライバルの大企業の中小企業潰しのための嫌がらせ裁判訴訟、主要取引先の大企業の傲慢な発注キャンセル、それらによる風評被害の影響、顧問弁護士の能力不足、子供のPTAママのモンスター攻撃。こうやって中小企業は潰されていくんだ。

それでも、これは小説です。だから、絶体絶命のタイミングで救世主が現れます。まさにハリウッド映画。どこまでもどこまでも追い詰められて意識朦朧の中、何とか生き残る道が見つかる。「Borne Identity」シリーズや「Die Hard」シリーズなどでお馴染みのパターンですが、それでも読むのを止められない。アリスのティーカップは待たずに乗れるけれど、スペースマウンテンには長蛇の列ができます。アメリカ人は振り落とされそうで墜ちないジェットコースターが大好きです。

でもこれが実話となると、本当に墜ちるかもしれません。だから余計に、実話は読むのを止めれません。「Steve Jobs, I, II」には、マイクロソフトを一切使わないアップルファンの私も知らないSteveのジェットコースター秘話が満載されています。「Steve Jobsが死んでも、Apple Compter社は大丈夫だろう」という観測が新聞によく載ります。あるいは、その逆の場合もあります。この人達は何を言っているのだろう。Apple Compter社は大丈夫かもしれないけれども、SteveがいなければSteve Jobsの小説が続かないのですよ。たまたま、私は今年の夏に彼の家に行きました。行ったといっても、外から眺めただけです。そういや1980年にはDakota Houseにも行きました。John Lennonが殺された後、pop musicは単なるentertainmentに戻ってしまい、「音」と「哲学」は再び離れてしまってその後に繋がることはありませんでした。音楽もコンピュータも、そして科学ですらひとりの人が創りだし、その人が亡くなると創造は終わります。だからこそ「ひと」は大切です。そして、「ひと」が創ったものはその人がいなくなっても残ります。

東日本大震災の頃、私はひとりの若い(と言っても私と同い年ですが)、末期癌と闘うサイエンス・ライターと向かい合っていました。震災の直前には、病院から連れ出して私が主宰する会合で彼に講演をしてもらおうと企画しました。実際には講演はできなかったのですが、それでも皆の前で少し話してくれました。私があまりに忙しくて(下らぬ会議のせいで)一緒に過ごす時間はとても短かったのですが、それでもひとりの人の生死と向き合い、そして彼はこの世を去りました。

東北の地震の日、2万人の人が津波にさらわれて命を落としました。でも私は正直言って、2万人の人よりもこのたったひとりの人の生死に魂を捧げていました。病院に見放されても自ら新たな病院を探し、治療法に見放されても自ら新たな治療法を探し、引っ越しをし、治療の挑戦をし、仲間を増やして、そして彼は亡くなりました。

トムクランシーのライアン・シリーズの一作「今ここにある危機」は、ハリソンフォード主演の映画です。明日ではなく、今です。今夜にも、危機を迎えている人がいます。明日がないかもしれないのです。将来不安を煽ってヒステリックに放射性物質被害を騒ぐよりも、いまここにある危機を乗り越えれるかどうか分からない、だけど必死で生きている人たちの苦しみを、もしできることなら共有したい。誰一人死んでもいない、誰一人も病気にすらなっていない放射性物質に大騒ぎしているモンスターの隣に、治癒の見込みもなく治療費も払えず死を待つしかない子供と家族がいるのです。日本という国は民主主義(すなわち多数決が原則)ですから、難病で苦しむ少数派よりも、将来不安を持つ健康な声の大きいモンスター・多数派ばかりが力を持つのは仕方ないことなのでしょうか。千年後に一度の津波のために高台に移転するより、明日の収入が必要な人もいるのです。

少数派であっても困っている人はいるのです。実話のモノローグ「困ってるひと」に私は、簡単にコメントする言葉が見つかりません。読んでから、しばらく放心状態が続きました。ここまで今月のメッセージをお読み戴いた方には、ぜひ大野更紗さんの「困ってるひと」をお読みください。WEBでも見ることができます。SK

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