2004年6月のメッセージ

ダ・ヴィンチ

ヴィトルヴィウス的人間。

アメリカで720万部の爆発的ベストセラーを続けている「ダ・ヴィンチ・コード」がようやく国内発売になり、早速本屋さんに買いに行きました[1]。店員さんに尋ねると、「雑誌ですか?」と聞き返されました。「いいえ、単行本です。今日発売の本ですよ」というと、コンピュータを触ってみて「うちでは置いてません」との答え。でも、書店の入り口に戻ると正面に平積みされていました。大きな本屋さんでの出来事です。本屋さんって、意外と「本」を知らないんだ。

そういや、正月明けに大佛次郎賞を山本義隆さんが受賞されたときに、大きな本屋さんを4軒回ってこの本を探したのですが、どの店の店員さんも大佛次郎賞を知らず、著者の山本義隆さんも知りませんでした[2]。全3巻の受賞作品は朝日新聞の大佛次郎賞を受賞する前に毎日新聞の毎日出版文化賞も受賞しており、すでに話題作でした。著者が元全共闘東大委員長の山本義隆さんであったことも、世に衝撃を与えました。私が本屋を訪れた日は、朝日新聞の一面と別の面に全面記事が載った翌日でした。でも、訪れた4軒の本屋さんはいずれもこの出版界の大事件を知りませんでした。本屋の店員さんは「本」に対する興味がないのでしょうか。

私は、日曜にはいつも二つの新聞の書評を読んで、興味を持った本があると本屋に走ります。ところが、本屋さんは新聞で大きく取り上げられた書評を読んでいません。毎回本の題名や著者や出版社を説明をするのが面倒になります。本に興味のない人が本屋さんで働いているのは、とても不思議です。「本」に「愛」のない人にとって、本屋での仕事はあまり楽しくないでしょう。

レストランや居酒屋で知らない名前の料理や具材がメニューにあると、私はすぐに「これって、どんな料理ですか」と店員さんに尋ねてしまいます。それまではやたら元気だった店員は「ちょっとお待ち下さい」と言って、あわてて厨房に戻られます。自分が働いているお店のメニューや料理の味を、店員さんが知らないのです。「何かお勧めありませんか?」などと尋ねようものならば、不機嫌にそうに「好みは人によって違いますから」と言って、教えてくれない店員さんもよくいます。自分の勤めているお店の料理の味を知らないのに、お客さんに注文を聞くなんて難しいだろうなと思います。「食」に「愛」がない、「職」に「愛」がないのです。

ワインが好きでない人がソムリエをしているなんてことは、考えられませんよね。出てくる料理を一つずつ丁寧に説明してくれるお店では、食事の楽しみが倍増します。

自分に興味のあること・好きなことで、人に奉仕できる仕事をする人は幸せです。そんな仕事を探すことは簡単ではないけれど、だけど探してほしいと思います。大学に入り研究室に入りそおして就職していく学生に、私はいつも「これが君の求めている仕事なの」と聞きたくなります[3]。

総理大臣の「愛」は国民です。国民や周囲の国に安心と幸福に授けることを好きな人が総理大臣をやれば、本人は幸せでしょう。政治の仕事とは、人の気持ち、交渉相手や頼りにする人の気持ちを推し量ることに尽きると思います。小泉さんは国会議員のご子息で孫であったから、政治家以外の「仕事」を選ぶ自由がなかったけれど、ひょっとしたらもっと違う「仕事」で人に奉仕したかったのではないかなと思います。たとえば派手なパフォーマンスで目立つことができて、それでいて人に喜びを与える仕事。息子さんが選んだ仕事、芸能人なんていかがでしょうか。ホントは地味な政治が好きじゃあないのかもしれません。政治に「愛」がないように見えます。

北朝鮮との拉致交渉の行動を見ていると、ついそう思ってしまうのです。日本は1945年の終戦までの7年の間に、150万人の朝鮮の人を日本の炭坑や軍需工場に強制連行したと聞きます。強制連行とは、今で言う国家による拉致です。畑仕事の最中や勤務の帰りに待ち伏せされたケースもあったとか。いわゆる陸軍の従軍慰安婦も、強制連行されたのでしょう。北朝鮮の人たちの、このことに対する恨みを推し量ることができるかどうかが、拉致家族問題の交渉に成功できるかどうかの鍵だろうと私は思っています。当時は日本人自身に対しても赤紙という紙切れ1枚で徴兵し戦地に送り、一般の人を死に追いやった時代です。このような歴史背景を忘れて、北朝鮮の日本人拉致を国家テロだと非難するだけでは、テレビの評論家にはなれても政治家にはなれません。靖国神社参拝などで北朝鮮を刺激しながら、経済支援や食料援助をすれば北朝鮮の人の心がつかめると考えるようでは、北朝鮮との政治交渉はできないでしょう。

国の機関に門前払いを繰り返されながらも、わが子を思い、失望のどん底で頑張ってこられた北朝鮮拉致被害者家族の方々のこれまでの苦労や思いを推し量ることができないようでは、拉致家族との話し合いもできないだろうとも思います。ジェンキンさんを自ら1時間かけて説得すれば拉致家族も納得してくれると考えるようでは、家族との協議もかみ合わないでしょう。きっと、この人は仕事を間違えたのだ、政治に「愛」がない、と思ってしまいます。

大学の中でも、この人達は本当に教授職が好きなんだろうか、と思う場面によく出くわします。会議ばかりをやって、文科省ばかりを気にして、組織や仕組みばかりをいじって、肝心の学問への「愛」が語られない。教科書を否定し常識を覆し権威を否定し、そして新たな発明と発見に胸躍らせる、そんな場面が見えないのです。私が退任した後の阪大FRCは、体面と形式だけを保つことにしか興味がない人によって科学への「パッション」「愛」が失われてしまったようです。

ところで、本屋さんの知らない「ダ・ヴィンチ・コード」もまた常識・権威を否定し、キリスト教の本質に迫ります。読み終わって今、ストーリーにどうしても納得がいかなかった映画「インディー・ジョーンズ」まで分かったような気がしました。いつも憧れていたダビンチやニュートンを、これまでと違う新しい視点で見つめることが出来るようになってきました[4]。先週断わろうと思ったフランスでのナノテクの会議の招待を引き受けて、ルーブルにゆっくり訪れてみるつもりです。SK

[1] ダン・ブラウン著・越前敏也和訳「ダ・ヴィンチ・コード(上・下)」角川書店。ニューヨークタイムズで56週ベストテン入りしたとか、映画化されるとか、40カ国で翻訳されたとか、とにかく話題騒然です。これを本屋の店員が知らないことは、大阪のお好み焼屋で「豚玉」と注文されて、店員が「知りません」と答えるようなもの。

[2] この本については、日経サイエンス5月号、フレッシュマンのためのの読書ガイド「理系・文系を超える」で、紹介しました。「ダ・ヴィンチ・コード」がもう少し早く出ていたら、この本の新約聖書論と梅原猛の古事記・日本書紀論との類似性と相違について書けたのですが、間に合いませんでした。

[3] 今年2月の私のメッセージでも述べました。ところで、2月のメッセージで書いたマイケル・ムーアが「華氏911」でまたまたカンヌの映画祭で賞を取りました。

[4] 私の講演では、よくレオナルド・ダ・ヴィンチやガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンの話が出てきます。常識を否定したことに加えて、特にダ・ヴィンチはフランスのエペルネイで頂いた「芸術のための科学賞(ダ・ヴィンチ優秀賞)」が、芸術と科学は同じ世界であると考える私にとって、一番誇りある受賞だからです。

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