2004年9月のメッセージ

オリンピックとカオス

東京オリンピック以来あまり見なかったオリンピックゲームを、今回は久しぶりによく見ました。こんなに日本がたくさん金メダルを取るだろうなんて、誰も事前に教えてくれなかったじゃない。スポーツ解説者や評論家も予想できなかったのでしょう。ゲーム総数が以前より増えたことやルーマニアや東ドイツなどの共産圏の人たちが国家主義のオリンピックよりも個人主義の経済に興味が変わってしまったこと、日本人がいつの間にか大きく強くなっていたことなどなど、いろいろ説明はできます。でもこれらのことは事前から分かってたはずのことであり、それらが理由なら解説者や新聞は「今年の金メダルは3倍増の可能性あり」と、はじめから騒いでいたはずです[1]。

私は、金メダルの前回からの3倍増は多体の非線形数理学、すなわち複雑系の現象だと、分析しています。一人が金メダルを取ると「ボクも取るぞ」「私も取れるかも」と、なだれ現象的に日本のメダル数が増えたのではないかと、思うのです。相手は逆に「また日本に金を取られた」「今度もまた取られるのでは」と思ってしまう。最初に、野村さんと谷亮子さんがいきなり金を取ったことが、大きいのではないでしょうか。もし日本の試合が井上康生さんの惨敗から始まれば、メダル数は3分の1だったかもしれません。カオス理論でバタフライ現象というのがありますが、まさにそれです[2]。もっとも、このバタフライの意味は、水泳のバタフライではなくて蝶々のことですが。

それぞれのゲームは互いに独立ではなく、メダルの数はそれぞれのゲームの結果の足し算ではありません。先のゲームは後のゲームに大きな影響を与えます。試合の順序を変えれば結果が大きく変わります。先々月にこのホームページで、量子力学は線形で確率の科学であり古い学問である、と言ったのと同じ話です[3]。金メダルの数は確率論では計算できません。選手の気持ちは、途中の結果や応援などによって大きく左右されるのです。国政選挙で選挙直前の調査と発表が禁止されているのは、このためです。選挙前の予測の発表によって、勝ち馬に乗ったりバランス感覚が働いたりして結果が変わるという、いわゆるアナウンス効果が生じます。

予測理論が使えるのは、足し算・引き算が使える弱い相互作用の線形系の世界の場合だけあり、これはあくまで近似の世界です。われわれは、21世紀にはこの線形近似を乗り越える必要があろうと思います。政府はカオス理論を学んで、地震がいつどこに起きるかは決して予知できないことを理解して、突然に予想外の場所で発生する地震に対しては、地震の後にどう対応するべきかの政策を立てて欲しいものです。庶民は、株の暴落は株価のグラフだけからは決して予測できないことを学んで、暴落後に如何に対応するかの準備をするのが賢明でしょう。暴落前に株を売り切ることなど、できっこないのです。研究者は、発明や発見のアイデアがいつ生まれるかは予測できないことを学んで、アイデアのヒントが生まれたときにそれを見逃すことなく、日々の作業を一切止めてしがらみを捨てて、すべてをアイデアの検証に集中することができる心構えを持ちましょう。さもなければ、アイデアはすぐに逃げてしまいます。

未来予測の映画はたくさんあるけれど、いまなら何と言ってもTHE DAY AFTER TOMORROWでしょうね。同じ監督(ローランド・エメリッヒ)の前の映画「インディペンデンス・デイ」とも似ていますが、最後が予想できてしまい、ストーリーとしてはちょっと迫力に欠けますが(その上ディープ・インパクトとそっくりだし、アルマゲドンすらもう少し深みがある?)、それでも地球の氷河期がゆっくりと訪れるのではなく突然に来ることを、説得力のある画面で示してくれます。これは、決して映画だけの話ではなく、地球環境が非常に短い期間にカオス的に転換することは、歴史的に知られています。

今月号のナショナルグラフィック(先月もこの雑誌について触れましたが、是非定期購読をお勧めします)も地球の温暖化がテーマです[4]。わずか数年の間で地球上のあらゆる氷河がすごい勢いで溶け始めて、南極の氷山がすごいスピードで消え始め、水位の上昇と南極と熱帯の間の熱交換が始まり、異常気象の次に氷河期が来るであろうことをたくさんの実例と写真で詳しく説明しています。この本においても温暖化の原因を人類のエネルギー使用に決めつけているところは安易な気もしますし、温暖化が氷河期に繋がると決めつける理論にも釈然としないところもあるのですが、しかしどちらもあり得ることだと思います。この恐ろしくも壮大でかつ人類の未来に重要なこの類の研究に日本人の役割が見えないのが、残念ですが。

イラク戦争も、カオス化しています。ブッシュ大統領や小泉さんは、計画通りに事が運ぶと信じているのでしょうが、相手との強い相互作用の戦争の結末を線形系の確率論で論じることはナンセンスです。ベルリンの壁が一夜にして崩壊したような急激で予想外の変化が、イラクでは逆に起きうることだってあるのです。アメリカはベトナム戦争でそのことを学んだとばっかり思っていたら、残念ながら未だ線形近似の世界にいたようです。私が盟友と慕う川崎和男氏は、彼の夢の実現の手段である新設の札幌市立大学の学長ポストを、最後になって捨てました[5]。常識と経験の世界に生きる札幌市の方々には、およそ想像できないであろうことが起きたのです。でも、私は、ずっと想像していました。着任前か着任後か分からないが、いつかは起きうるであろうことと。人と人との関係や人と組織の関係は、足し算は引き算で表されることではないのですから。

人生や世の中がもし予定通りで思い通りになるならば、退屈な毎日でしょう。はらはらドキドキの人生の中で予測不能の思いがけない発見・成功・失敗を経験することが人生の醍醐味といえます。思いがけない事態・偶然に、チャンスを失わずにつかみ取ることのできる人だけが、金メダルを得られるのでしょう。今年の日本のオリンピック選手には、たくさんのセレンディピティーがありました。ゲームが終わった後ですら、ハンガリー選手のドーピング疑惑で、室伏さんの銀メダルが金になりました。私も、彼らのセレンディピティー能力を少しだけおすそ分けしてもらったようで、幸せな気分になりました。SK

[1] 唯一の予測として、オリンピック直前にダートマス大学とUCバークレーの教授による論文があるが、これにおいても日本の金メダルは6個、総数19個と予測していた。(朝日新聞8月30日百合英明記者の記事から)

[2] ジェームズ・グレック著、大貫昌子訳「カオス:新しい科学をつくる」新潮文庫。

[3] 河田 聡ホームページ、2004年7月のメッセージ

[4] National Geographic日本語版「大特集。地球の温暖化。大地や生き物からの警鐘」、2004年9月号、日経ナショナルジオグラフィック社。

[5] 北海道新聞8月20日

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