2009年7月のメッセージ

ミッション・インポシブル

久しぶりに日本の学会で話しました。今年の講演スケジュールを見ると、今年の私の外国の学会での講演回数が13回に対して、日本の学会はこの1回だけです(報告会や挨拶などは別にして)。日本の学会が元気がなくなって講演会や研究会がなくなったからのか、日本の学会コミュニティーで私が認められていないからなのか理由は分かりませんが、とにかくこの数字には驚きました。昨年も同じようなものです。

写真はギリシャ、クレタ島の夕日@先月のメタマテリアルの国際会議にて

講演のタイトルは「回折限界を超える金属ナノレンズ」。私の講演タイトルには「超える」がよく出てきます。英語では「beyond」です。従来の物理学の「常識・限界を超える」サイエンスやアイデアやテクノロジーについての科学の話題です。昨年4月には、「Beyond the limit」というサブタイトルをつけた国際会議まで主催してしまいました。これはNature Photonicsという雑誌(Natureのサブジャーナルですが、実はインパクト・ファクターが25という物理系で断トツの最高ランキングの雑誌です。全ての分野での最高位は、Natureの31です)で、ニューズになりました。

なぜ私がいつも学会で「beyond 」「超える」の話をするのか。それは、常識の範囲内なら聴衆の方々はわざわざ学会に来られて聞かれる必要はないと思うからです。そんなことできないだろうってことを、どうやって可能にしたのかという話について、聞かれたいだろうと思うのです。

講演の目次は

1.波長を超える(プラズモニクスという新しい科学です)、2.先端増強ラマン顕微鏡(金属針を使って光を百万倍明るくする)、3.金属ナノレンズ(金属なのに光を通すナノの針からできたレンズ)、4.プラズモニクスを超える(私の発明をさらに超える話)、5.3次元近接場顕微鏡(表面しか見えないはずの近接場顕微鏡で、細胞の中まで見る方法)

でした。

この今月のメッセージで、私はこれまで何度も「科学者」という人種について、話をしました。日本の研究者は「できること」をやろうとします。自分の予算と自分の力量と自分の経験と自分の知識と流行りのテーマと流行りのキーワードと流行りの装置・技術を使って、与えられた締切日に向けて「できる研究」テーマを設定します。

私は「できないこと」をやろうとします。できることをやるのは面白くないのです。皆ができないと思うことをやるのが、科学者です。

今の日本では、できそうにないことを提案しても研究費は得られません。できそうなことを詳しく一年ごとの研究計画を付けて申請しないと、研究費は得られないのです。これは、私にとって困ったことです。私は今年、実に12年ぶりに科研費(大学に勤める科学者が申請する研究補助金)を申請しました。最近の12年間は大型予算に採択されていて、その研究に専念してきたので、科研費を申請する資格がなかったのです。幸い、今回の提案は採択していただきました。審査結果には、一言だけネガティブなコメントがありました。材料の探索が不十分で不安がある、とのこと。実は材料の探索はこの研究の要であり、それはすでに十二分に研究をしていたのですが、ヒヤリングでは具体的に話さなかったのです。成果が出て特許を書いて論文が出るまではネタばらしをしたくなかったので、詳しく話さなかったのです。企業秘密です。そこで、審査員には不安を与えたのだと思います。今の日本には、「できること」にしか研究費を与えない、というカルチャーが生まれつつあるような気がしています。それを超えて、具体的なことを言わなかった私の発表に対して研究費を配分していただいた今回の審査員には、感謝したいと思います。

個人の競争的資金ではなく、大学が獲得する競争的プログラムの予算についても、応募すると国からヒアリングも受けます。最近のこういったプログラムには、なぜか必ず「先端」と「イノベーション」という言葉が付きます。先端だからと思って思い切り先端の話をすると、ヒヤリングでは「どうやって実現するのか」「具体性を示して欲しい」「産業規模はいくらなのか」と問われます。先端の研究は、まさに先端にあり自ら切り開くものですから、上記のような質問に答えられません。もし答えられるのなら、「先端」ではなく「後追い」で「人まね」です。

「イノベーション」の提唱者のシュンペーターは、イノベーションの実現は「創造的破壊」によると言っています。古いものを破壊して新しい機軸が生まれるのです。サイエンスとはまさに創造的破壊です。天動説を破壊して地動説が生まれたのです。今回の講演では「光の回折限界」を超える、「プラズモニクス」を超える、「2次元」を超える、などの話をしました。これらは、これまでの常識の創造的破壊です。

イノベーションは、自分の意志でタイミングを決めて創出することはできません。イノベーションは、熟して落ちる柿の実のようなものです。待つということが大切です。

1989年にベルリンの壁は破壊され、新しいドイツの統一とソ連の崩壊を迎えました。それはまさに創造的な破壊、ヨーロッパの国家制度におけるイノベーションであったのです。イノベーション創出とは、機が熟すまで待つということです。

ゴールを明確にして、そのゴールに到達するための毎年ごとの計画を綿密に立てて、ひたすら努力邁進することによって実現する改革(まさにソ連の計画経済、5ヶ年計画。これは歴史的に失敗しました)と、イノベーション創出は全く対立する概念です。

「先端」と「イノベーション」が名称に付くプログラムを公募したとき、その採択のための審査は困難を極めることでしょう。「イノベーション」はいつ生まれるか分からないし、「先端」は前例のない未踏の地でです。すなわち、成功の保証がないのです。でも、よく考えれば当たり前です。もし必ず成功することならは、国が関わる必要はないのです。民間に任せればよいはずです。サイエンスとは、成功の保証はないものです。できないことへの挑戦です。サイエンスとは「ミッション・インポシブル」、不可能への挑戦なのです。だからこそ、国が社会が支援するのです。国が社会が支援してくれるからこそ、サイエンティストは全神経を集中させて、不可能なミッションに挑むのです。それは必ずしも誰にでもできることではありません。他の人よりも遥かに強い信念と十二分な努力と経験と、そしてほんの少しの「閃き(ひらめき)」が必要です。そして最も重要なことは、「閃き」が訪れたときにそれを確実に捕まえる鋭い感性です。

同じ環境に生きる人には、あまねく平等にチャンスが訪れます。同じ時代に生きる人は平等に、同じテクノロジーや同じ理論を研究会や学術誌から学びます。同じ装置や同じサンプルを持つ人は平等に、同じ成果を生む実験環境にいます。その人達の前には平等に、同じ「閃き」が訪れます。それを見逃すことなく気づくかどうかが、人によって違うのです。「閃き」を見逃さなかった人だけが、世界で最初の発明や発見を生みだすのです。

ミッションはそれに挑む科学者全てに平等に与えられ、その解決策もそれに挑む全ての人の前に平等に現れます。それをキャッチできるかできないかは、それぞれの科学者の生き方によって決まります。

「できること」をやろうとしている人には、残念ながらこの「閃き」は見えません。「できないこと」を可能にしようと生きている人には、瞬間の「閃き」が眩く輝きます。

できないことを目指す人達には平等に、瞬間の「閃き」が見えます。ただ、その次のアクションは人によって異なります。閃いたときにそれまでやっていることを全て辞めて、この「閃き」に集中して取り組む人だけが、イノベーションに到達します。私は、車の運転中に「閃き」を感じたら、すぐにその場に車を停めて30分でも1時間でも考え始めます。その場で頭を整理して充分に思考して、アイデアや解釈をメモに書き留めます。それから研究室に行って、近くにいる学生に提案します。「君のこれまでの研究は止めることにした、いまからすべてこの問題に取り組もう」。しがらみや順序を捨てて、「閃き」を優先します。「チャンスを活かせ」とエッセイに書いています[1]。

サイエンスとは「ミッション・インポシブル」です。科学者は「ミッション・インポシブル」に挑戦しましょう。

ところで、MI:3。トムクルーズは最近我が儘になって、ストーリーがぐちゃぐちゃです。この「ミッション・インポシブル」はお薦めできません。来年のパート4では、少しは良くなるかな?SK

[1]河田 聡、特集チャンスを活かせ、「応用物理」67巻8号、pp.900-9001 (1998).

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