2004年3月のメッセージ

小学生に英語?

文部科学大臣の指示によって、小学校で英語を教育することが計画されているそうです。思わず、小学生が可哀相と思ってしまいました。私は中学・高校の間、英語が大の苦手でした。暗記が不得意で宿題が嫌いで、先生に当てられるのが嫌でした。その結果、6年間の英語の勉強はまるで身には付きませんでした。18歳の時にトム・ポリツアー少年[隣の写真です]一家と知り合わなければ、大学卒業の後にアメリカに行くこともなく、今も英語とできるだけ離れて暮らしていたかもしれません。

日本人の英語の不得手さについては明治以来さんざん議論されており、数限りない書物が出ていますが、一向に解決しません。こんなに真面目な国民が6年間も英語を一生懸命勉強しながら、まるで話せない・聞けない・書けない・読めない人種であることは、ホント、世界の教育の7不思議の一つにしたいぐらいです。

小学生から英語を教えたいという文部科学大臣の気持ちは、理解できます。中学から語学を始めるのでは遅い、あるいは6年間では短い。もっと小さいときから英語を教えれば、きっと日本人の英語が話せるようになるはず、と言うことでしょう。

でも、私は、小学校の先生や生徒が可哀相だなと思ってしまいます。中高6年の英語の苦しさを小学生にまでに広げるのですから。

それよりも、中高6年の英語教育方法をもっと楽しくかつ有効なものにできないものでしょうか。私が機構長をしている阪大フロンティア研究機構(FRC)では1年前に、「努力せずに英語が6ヶ月で話せる方法を、科学的に開発する」教育工学プロジェクトを立ち上げました。これは、10年ほど前にオクスフォード大学の学生ディビド・ロビンソンが我が家に1ヶ月ホームステイしたときの、私の経験によります。彼は、我が家に来るなりいきなり日本語で話し出しました。平家物語がどうこう、日本の教育がどうのこうの、もちろん下手な日本語ですが、あらゆることをしっかり話しました。その半年前までは、彼は全く日本語や日本について勉強したことはなく、シェフィールド大学で6ヶ月、日本語教育を受けただけでの来日でした。彼以外の留学生も同じ様に日本語を話し、聞けるのです。何で私たちは6年も勉強したのに英語が話せず、彼らはわずか6ヶ月で日本語を話せたのでしょうか? 私は、その時、語学教育とは努力ではなくて、科学だと思いました。最小の努力で最大の結果をもたらす教育方法の科学的な研究が不足しているのでは、と思いました。

日本の英語教育では、文章の主語や目的語、時制を変化させて、繰り返し練習させます。それよりは、私はいかにも英語らしい言い回しのリズムのある少し長めの文章を、一文でもいいからネイティブを完璧にまねして覚えきる方が、頭に残るのではないか、と思っています。有名な俳句や小説の出始めの言い回しを、今なお諳んじてるのと同じです。野口悠紀夫さんも教科書の本文を丸暗記するのがいいと言っておられます[1]。阪大FRCで6ヶ月で英語をぺらぺら話せる手法の確立の奮闘している池田和弘さんも[2]、阪大の工学部の学生に美しいサイエンス英語の文章の例を提供して、その暗記を勧めています。たくさんの応用問題をこなすよりも一つでもいいから美しい英語の文章を暗記するだけの方が負担も少なく、応用性も高いと考えるのです。私はこのプロジェクトの中で、頭の固くなった大人の人が新しい言語を覚えるための(しかも苦労せずに)方法を、科学的に開拓したいと思っています。人の脳の形成過程は、自分で学習しながらニューラルネットワークという神経回路網を作っていくのだと言われています。すでに日本語認識用に形成された大人の脳の中のネットワークの中に、新しい語学認識回路網をつなぐ方法の科学的研究です。脳科学(ブレインサイエンス)は、日本が大きな予算を使って研究している科学の一つです。

暗記力と勘の悪さによる私自身の語学の苦手さは今も相変わらずですが、私の研究室は日本なのに公用語は英語です。私の主宰する2つの研究室にはオーストラリア人、中国人、モロッコ人、イタリア人、チュニジア人、インド人などが常勤の研究・教育スタッフとして働いており、それ以外にも様々な国の研究者や学生が入れ替わり滞在するので、研究室の運営は日本語ではできないのです。予算の話でも研究の話でも少しでも日本語でやると、日本語の分からない人が差別されてしまうので、日常会話以外はゼミもビジネスミーティングも予算会議もすべて英語です。学生は1年もたたないうちに、サイエンスだけは英語で話し始めます。もともとナノテクノロジーの分野は新しい言葉ばかりで、日本語訳がないのです。生きていくのに必要なことを英語で学ぶのが、一番効率的な英語習得法だと思います。中学校でも、英語を英語で勉強するのではなくて、自分が勉強したい他の科目、たとえば数学や理科、社会、音楽などを英語で勉強した方が、英語が身に付くかもしれませんね。

さて、話を戻して、小学校での英語教育の導入について、私の意見です。それは、英語教育を小学生に強制しないで欲しい、です。英語を勉強したい生徒には英語を教え、未だ興味のない生徒は学ばなくてもいい、と言う自由を許してあげて欲しいのです。学校毎にどちらかを選ぶのかもしれません。国が全国一律に同じカリキュラムを押しつけるのではなく、現場のそれぞれの先生や学校に任せて欲しいと思います。それぞれのクラスで教える先生が、そのクラスの生徒の力量や興味を一番よく知っているはずです。無理に決まった教育を押しつけると、子供達はその科目が嫌いになってしまいます。押しつけの教育は逆効果です。

日本人は、本当は英語が嫌いではないんです。町にはたくさんの英会話学校があり、どこも大盛況です。小学生も、町の英会話学校で自主的に英語の勉強をしています。それぞれの自由に任せていいのではないでしょうか。

最近民主党のマニフェストを見る機会がありました。教育についてはほとんど何も書かれてませんでしたが、「学校の1クラスの生徒数30人、週5日を実現します」とありました。がっかりしました。なぜ30人なんですか? 25人とか、40人とか、あるいは10人とか、最適な人数はそれぞれの現場によって違うじゃあないですか。週6日教えたいという先生と週6日学びたいという生徒がいれば、そんな学校もあってもいいじゃないですか。どうして、国が一律に人数や日数を決めようとするでしょうか? もし教員組合の圧力だとすれば、組合の方が国より中央集権的発想かもしれません。君が代を歌えと強制するのと、週5日にせよと強制するのとには、共通した全体国家主義が感じられます。教育とは人と場所と時によって、異なります。もし民主党が地方分権というなら、何よりもまず、教育を中央集権から子供と先生と学校に分権して、現場に任せようではありませんか。

2月の土曜日に、私は丸亀高校と観音寺一高の生徒さん達に、阪大FRCからインターネット講義をしました。コンピュータを通して私とコンピュータ画面が高校のスクリーンに映し出されます。私は無償で、生徒は成績と関係なく、「ナノテクノロジー」の講義と討論をしました。講義が終わって40分の間、私はたくさんの質問を受け、参加してくれた高校生のやる気と熱意に、とても励まされました。教育とは、先生と生徒がいればいつでもどこでも成り立つものです。国が押しつけたり規制するものではないと思います。家永三郎さんの歴史の教科書を学校では使ってはいけないとする家永教科書検定裁判は、先生と生徒の教育と学習の自由を裁判所が規制した悔しい判例です[3]。SK

[1] 野口悠紀夫「超学習法」講談社、1995

[2] 45万部+CD10万部の売り上げで知られる「英単語こうすれば速く覚えられる」シリーズ、日本実業出版社などの著者

[3] 家永三郎「検定不合格日本史」三一書房、1974

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