第3回 顔身体カフェ

『顔を描く・顔を描かれる・顔を知る』

A01-P02(高橋班)とC01-P02(河野班)の企画・運営で第3回顔身体カフェ『顔を描く・顔を描かれる・顔を知る』を開催しました。



河野先生によるイントロダクション、高橋によるフィールド実験に関するプレゼンの後、自分の顔を描く、他人に顔を描いてもらう、というワークを行いました。最初は顔を描くことに戸惑いもありましたが、だんだんと時間が経つうちに、お互いに話をしながら顔を描くようになっていきました。顔を描き合うことがコミュニケーションを加速させているようにも見えました。

休憩をはさみ、2グループにわかれて哲学対話を行いました。テーマは「顔を描くとはどういうことか」「顔の認識とは?」。難しいテーマでしたが、顔を描く、描かれるというワークで気づいたことも含めて、様々な意見、考えが飛び交いました。哲学対話のファシリーテータをつとめてくれたお二人のコメントを紹介します。


  • 「顔を描くとは何か?」という問いについて、それぞれスケッチブックに描かれた自身の「顔」を見せ合いながら、対話が始まった。最初に議論が集中したのは「鼻を描く」という点であった。鼻を描くということは、美しく描く際に阻害となり得るのはなぜか、という問いが出され、他のパーツとは異なり鼻は立体的であるからではないかなどの考えも出された。だが、邪悪な魔女の鼻を長く描くなど、顔のパーツが担う「役割」とは何か、なぜ生じるのか、という問いも続けて生じてきた。他にも、今回のワークは単に「顔を描く」だけではなく「顔を描き、その相手に贈る」という条件付きのものであるため、単に顔を描くことが即座に認識したままを描くことにはつながらないことも確認された。しかし、今回は他の人の顔を描く/描かれるだけでなく、自身の顔も描く、という特殊な配慮などが必要のないように思われるワークも含まれていたため、他者を描くことと、自身を描くことがどのように違うのか、または同じなのかについても議論が進められた。そこから導出されるのは、他者を描くのと同様に、即座に認識が描く対象に反映される訳ではないという点であり、もう一つの問いである「顔を認識する」ことと「顔を描くこと」には距離があることが確認された。以上のように、単に「顔を描くとは」など定義を模索することに終始せず、その問いにまつわるわからなさ、ふしぎさ、そして新たな問いへと発展していき、最終的に「顔を認識する」こととのどのようなつながりがあり得るかについても対話の触手が伸びていくこととなった。(永井玲衣)


  • 前半はワーク中にそれぞれが感じた「顔」への気づきを種に、描くために人の顔を見るときとコミュニケーションのために人の顔を見るときの違い、どのようにして人は他人を区別しているのかなどを考えていった。レクチャーの中で描くことには描き手の意思が影響するとあったが、描き手がいることは描かれる側がどう映りたいかにも影響するのではないかと対話の中で新たな発見が生まれた。後半では自分の顔を認識することに話が移り、自分の表情は見えないが、周囲の人の表情から想像しているのでは、という意見が出た。日常生活で人の顔を見つめる機会は滅多にないが、ワークで人の顔を観察し描いたことでより経験に沿った議論が行えたように感じた。(木下真希)


我々の研究グループでは、フィールド実験の中で「顔を描く」という手法を取り入れています。「顔を描く」とはどういうことか。研究を進める上でも参考になるアイデアがたくさん出てきました。参加者の皆様、ありがとうございました。(文・高橋康介)

参加者の皆様に描いてもらった「高橋」