【場所】 静岡県富士宮市宝町9-25
【紹介】
全国の浅間神社の総本山「富士宮浅間大社」のすぐ近くにあります。
毎年1月の中旬に蔵開きをしており、飲み放題、地場産品も食べられ、市内はもとより県内から多くの人が集まります。
資料館、売店も完備し、駐車場も隣接しているため、常に観光客に対応しています。試飲もさせてまれます。
富士宮市では初となる景観重要建造物
【歴史】
1820年(文政年間)
滋賀県蒲生郡日野町の近江商人の山中正吉が創業したと伝えられている。
東海道を行商中に吉原宿にて助けた病人が能登杜氏であり、意気投合したこと、
駿河湾より駿東にかけて「ごうりき」という酒造に適した米がとれ、また富士山の伏流水が豊富に使えるというこの地に出会った縁もあり、
天間村(現・富士市)にて酒造業を始めるが失敗し、店舗を閉鎖したしらい。
それ以来能登杜氏との関係は続き、山中正吉商店は能登杜氏によって受け継がれていた。
1831年(天保2年)
大宮町(現・富士宮市)の地に「酒蔵」を構え酒造りを創めたらしい。
当時は、「山中正吉商店」屋号は「中屋」
1893年(明治26年)
二代目正吉はに同町阿幸地欠畑に欠畑酒店を創業し、サイダー・ラムネの飲料部を設けたという。
二代目の時代に廃仏毀釈から逃れた富士山の下山仏を祀るようになったといい、
その菩薩立像は現在も高砂酒造の薬師蔵にて保管されている。
薬師蔵は元は壱号蔵と呼ばれていたが、菩薩立像が祀られていたことから薬師蔵と呼ぶようになった。
山中正吉商店が横須賀の地に蔵を建てる。
1929年(昭和4年)
山中酒造(掛川市横須賀)が、山中正吉商店から分家し独立。
葵天下(当時は神苑)という銘柄で知られている。
1997年(平成9年)
六代目・七代目正吉のに富士高砂酒造(株)となる。
※昔は、中屋と山屋に分かれていたそうで、中屋は現在の高砂。山屋は富士市中心街の加島というところにあったらしい。
※「科学技術情報発信・流通総合システム」(J-STAGE)に「山中正吉商店」に関する山中宣三さんの記事が載っています。
【蔵人】
杜氏は、前杜氏:吹上弘芳さん(能登出身)→現杜氏:小野浩二さん(静岡出身)
小野さんは、前職はヤオハンでバイヤーをやっていたとかで、沼津の工業技術センターで喜久醉の青島杜氏と出会いっていること。
静岡酵母を使っていることから、河村伝兵衛先生の弟子であったと思われます。
現:仕込管理担当の中原隆夫さんは、1936年生まれ石川(能登)出身
能登流の酒造りを50年続けている超ベテランで前杜氏時代から20年近く高砂を造っています。70歳を過ぎて益々元気です。
【銘柄】
山中正吉商店 「琉の扇」「田子の浦」 富士宮市宝町9-25
今でも「駿州中屋ブランド」と言われているようです。
「高砂」は、初代正吉がの銘を戴いたと云われている。
【文化財】
菩薩立像は薬師堂にあったと伝わるもので、銘文から享保4年(1719年)に江戸神田の鋳物師により制作され奉納されたものであることが分かっている。
高砂酒造には菩薩像五体の他に薬師如来三躯が祀られている。
【お勉強】
文政年間は15年間、当時の江戸幕府将軍は徳川家斉である。いろいろあって大変な時代でした。
元年 伊勢お陰参り流行
7年 天保の大飢饉、天保騒動
8年 大塩平八郎の乱
12年 天保の改革
13年 日本三名園のひとつ、水戸偕楽園が造園される。
【その他】
北海道にも国士無双で知られる「高砂酒造」があります。明治32年創業。
【参考文献】
第12回 開かれた酒蔵|杯は眠らない - eしずおか
旧山中正吉家住宅(近江日野商人ふるさと館) ~滋賀県蒲生郡日野町~
「富士高砂酒造の蔵の歴史 近江商人と丁稚制度について」 富士高砂酒造㈱顧問 金田憲生講演【沼津北ロータリークラブ】