永続的幸福の条件

<永続的に希望をもてる幸福な人生の条件>(永続的幸福の条件)

                       幸福の三類型 幸福論と宗教批判 幸福論試論 心の構造

・正しい知識、正しい行動が、あらゆる変化に対応し、人々に永続的幸福をもたらします。私たちは世界の平和が脅かされ、閉塞状態に置かれ、一部の強者のみが勝利を得るというこの不公正な時代に生きて、究極の選択と決断を迫られています。私たちはこの地球上の生命であり、言語を持つ人間です。そのことを自覚して生命と言語の意義を知り、正しい選択を行いましょう。なお、今の時代にあって、「正しい選択」とは、誤った知識(フェイクニュースfake news)に騙されないこと、目先の利益に欺かれないことです。

① 幸福とは何かについて知ること

 幸福とは、幸福感・満足感・充実感という感情によって、感性的に知覚し理解される心(精神)の状態です。この感情は欲求の充足によって得られ、欲求が充足されない場合、不安や怒り等否定的な感情が起こり、欲求不満やストレスが増大し不幸になります。

 人間の場合、欲求は想像(創造)力によって肥大化するため、想像力自体をコントロールして、幸福感を持続させることが必要です。この想像力(創造力、思考力、言語力、精神力)によって得られた人生観(生き方)、価値観(世界観=ものの見方考え方)、人生目的などが、個々人の幸福を左右することになります。

 人生の目的を、家族の慎ましやかな生活とするか、大金持ちや権力者になるか、芸能やスポーツのスターになるか、精神世界に浸るか、社会変革をめざすか等々によって、幸福観とその実現のための努力の過程は大いに異なります。そして、これらの人生目的を実現するためには、それぞれの理由付け、つまり幸福を獲得するための人生観(価値観、世界観)の確立が必要となります。

☞ 例えば美味しいもの食べたい(欲求としての目的)と願い、それが叶うならば幸福感が得られます。願いが実現しにくく努力を要するならば、それが実現したときは大きな幸福が得られます。しかしそれでもまた次の欲望が生まれます。欲望には限りがありませんが、心の平安を得ること自体に喜びを見いだすならば、これに過ぎる喜び・幸福はありません。仏教の悟り(を目的として実現する)とはこのようなものです。

② 自分で納得できる幸福観を持つこと

 幸福感(観でない)は、個人の人生観(価値観・人生目的・自己認識)によって異なります。最低限、毎日の物質的・精神的生活が、不可解・不安定なものとしてでなく、自分の人生観と一致(満足)するか、または許容範囲(不満でない)の内容であることが必要です。

 そのためには自分の幸福観(の基準)を明確にした人生観の検討・吟味と幸福実現の不断の努力が必要です。幸福であるかどうかを意識しないことが幸福であると言う幸福観(仏教的覚醒・悟り)もありますが、「幸福論」だから一般的・日常的幸福を意識し考え論じます。幸福は追求するものであり、その獲得能力を高めること自体(幸福は獲得できるものだという希望)も幸福につながります。希望は実現の可能性がありますからそれ自体が幸福感です。逆に失望は目的の断念ですから、否定的な不安・不幸の感情が心をおおい、持続する場合病的症状をひきおこします。

③ 幸福は追求し創造することによって強化されること

 人間として可能な求めるべき幸福、人生最高の幸福は何か、そもそもそのようなものはあるのか、あるとすればどのようなもので、またどのようにして身につけるのでしょうか。

 人間の行動は、快・不快の情動や感情(脳内の快不快中枢の反応)に支配されます。しかし人間は、言語的思考の働き(知性・理性につながる)によって、単なる情動的動物的な快・不快の反応を越えた知性的・精神的な快不快の感情を得ます。さらに苦痛を快感情に高めるような、より高次の快の感情(自己肯定的・自律自足的な精神的感情)によって、永続的な幸福を得ることもできます。

 言葉によって自己の存在や行動を合理化・意味づけし、幸福の感情を引き出すことも可能なのです。幸福という自己肯定的感情(快適、安心、満足、充実等々)は、自覚しなければ、その場の否定的情況に支配され、すぐに不快や不安、不満足な感情(不幸な状態)が全身を襲います。しかし自分がどのような状態にあるかを自覚できる人は、不幸の原因を避けるか、取り除くか、問題を解決するかなどによって克服することができます。

 問題状況を合理的に分析し、または言葉の内的刺激によって、感情や行動のコントロールをおこなうのです(合理化、気分転換、精神集中)。このような能力を高めるには、指導者の援助を伴うような学習や訓練・修行が必要です。言語を伴う人間の判断は、社会的に形成されるものだから社会的な関係性が必要とされるのです。

④ 自分の人生観が、社会的承認を得られるものであること。

 自分の人生観(目的)に疑問が起こっても、誰かの理解・支持を得られる内容であれば、情緒的安定又は満足感が得られます。人間の判断や人生観の根源は情緒的(又は本能的であり合理性には限界がある)かつ社会的に形成されたものですから、一人の理解者(感性的又は知性的理解)があるだけでも自信をもつことができます。

 人生目的は究極的には主観的なものだから、自分一人でも納得できますが、他人の批判や無理解・曲解があれば不安が生じるものです。人間は社会的動物であるために、社会の中で安心感を得るものであると同時に、社会の中で人間になるので、自己の人生観や生き方について自分で納得するだけでなく、社会的承認を求めるのです。

⑤自分の人生観が、社会的情況の変化に対して、修正可能であること。

 人生観(人生目的)に確実性や永続性、社会性があると、幸福は社会的評価に対して安定的になります(人々が既成の宗教に依存しやすいのはそのためです)。人生の目的は、その根拠や実現の可能性が、確実であればあるほど、得られる幸福は盤石なものとなります。

 幸福が確実で永続的であるためには、まず物質的に生存するための最低限の欲求の充足(福祉社会)が必要です。しかし、時代や社会的価値の変化によって、自分の人生の目的と異なる(思い通りにならない)状態になることは不幸です。現在の幸福観がいつまでも真理であるとは限りません。

 社会の変化に揺るがない普遍的な基準(真理)を持つと 同時に、社会の変化に自分の幸福観や人生目的が対応できること、柔軟性を持つこと、そして何よりも大切なのは不断に向上心を持って、自分だけでなく社会との関係の中で幸福を追求することです。

⑥ 個人の幸福が、すべての人間の幸福と生命の存続につながること。

 幸福は、究極には、個人的主観的ですから、社会的条件を考慮する必要がないと考える人もいます。しかし、誰もが幸福であるためには、社会が安定しており、最低限の生活が保障される福祉社会が必要です。自然の災害や戦争、犯罪、環境破壊など、個人の努力を越えたところで、物質的生存を脅かしているのが現実の社会です。

 そこで、いくら幸福を追求しても、それが個人の努力を越えるものであれば、社会的な連帯の力で、すべての人々の幸福を実現できる条件を創造する必要があります。自然災害は別にしても、戦争や犯罪、環境破壊などは人災です。これらは人間の力によって防ぐことができます。

  現代社会は、地球規模での相互依存の時代であり、個人の幸福の実現のために、避けられる不幸を最小限にする社会的・公共的な努力が求められます。現代は、人類が幸福の実現を追求すれば可能な時代です。その障害となっているのは何か。人間の共通理解の欠如(仏教で言う「無明」)と利己主義(同じく「我執」)を根源とする相互不信と不安、そして経済的な競争主義と富の不平等です。

 現代は、個人の幸福が、すべての人間の幸福と生命の存続につながることと、逆に、すべての人間の幸福と生命の存続が、個人の幸福につながる時代なのです。だから、世界人類が幸福になるような社会的条件を創造できる希望を持ち、その実現のための行動をすることも幸福の条件になるのです。

   他人の不幸や犠牲・失敗をもとに幸福になろうとする人がいます。しかし、そのような不正義な人を少なくする教育的条件(環境)をもつ社会は可能です。それが理想であり、夢や希望であるとしても、そのような夢や希望を持つことによってこそ、個人的主観的にも、はじめて永続的な幸福を実現できるのです。「希望」こそは、言葉をもつようになった人間の最大の幸福の条件なのだからです。それではこのような条件の下で、永続的幸福はどのような生き方を言うのでしょうか。まずは仏教的な智恵と生命言語心理学的に見た強い心が、出発点になります。


※永続的幸福(安らぎ・悟り、平安・解脱)とマインドフルネスとの違い

 自分の心について知り、自分を心でコントロールすることによって、あなたの心は一時的なマインドフルネス(気づき・念慮)の状態を越えて、永続的幸福(解脱・悟り)を得ることができます。自分の心の状態・動きを知るために心を集中することは一種の瞑想によりますが、それによって一時的なマインドフルネス(悟り・気づき)を得ることができ心が安定します。しかしそれだけでは、永続的幸福にはつながりません。

 永続的幸福は、ブッダのことばに記されているように、人生苦をもたらす無明(根本無知)を克服して、明智(法)を理解し自らのものとする必要があります。永続的幸福のためには、単なる瞑想やヨーガ・禅定による心の安らぎだけでなく、科学的認識にもとづく人生や社会関係についての普遍的な知識や実践が必要なのです。 

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