経済学的人間観の批判

◇ 言語と商品価値の共通性とは何か

◇ J. ソロス氏の 「グローバル資本主義批判」 の限界

◇ 無限の成長・発展を前提とした経済学は、地球規模の問題に対応できない

◇ メンガーの主観価値説は等価交換を否定したが、同時に経済学を矮小化した

◇ フランク・ナイトの完全競争市場論批判―経済に倫理を!

◇ 新自由主義──ハイエクの「社会的自覚なき自由」

◇ ガルブレイスのグローバル企業批判──「不確実性の時代」

◇ ハイエクの「致命的な思いあがり」―つっこみどころ満載です

世界連邦への道

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◇ 言語と商品価値の共通性とは何か

―言語の意味と商品の価値(価格)は社会的共通性をもっている―

商品・貨幣価値の謎の解明は、言語の謎の解明によってはじめて可能となる

○ 言葉と商品の共通性は、ともに「観念的信号」であること

今日の言語学(意味論)と経済学(価値論)は、ともに西洋思想(特に西洋的認識論・思考様式)の「限界」を共有しています。両者はともに人間と人間との意思疎通(言語による意味伝達と商品による価値交換)によって生じる「観念的信号」ですが、その観念性(知識性)が主観的(個人的・相対的)なのか、客観的(社会的・絶対的)なのか、また主観と客観の相互の関係性はどうなっているのかについて結論が見いだされていません。この認識論上の難問(観念・知識とは何か?)は、生命言語説によってはじめて解明することができます。

○ 「観念的信号」は社会的に創られ個人的に実現する

「観念的」というのは、言語にとってはその意味の主観性(例えば「愛」という言葉であれば、個人的経験による主観的な自分だけの意味)と平均的客観性(辞書的に誰もが理解できる社会的客観的意味)であり、商品にとっては商品価値の主観性(個人にとっての価値・使用価値)と平均的客観性(誰もが認める相場的価値・交換価値)です。言語においては意味を持ち、商品においては価値を持ちますが、両者はともに個人と社会が創造し共有する観念的な表象(「愛」という言葉や「100円」の商品というイメージ・意味内容・観念)によって意味づけられ価値づけられています。また、「信号」というのは、言語では音声(文字)信号として広く表現され、商品では音声信号に含まれる数量信号(円・ドル等)として表現されます。

○ 西洋思想では「観念」の主観性と客観性を確定できなかった

言語の意味も商品の価値も、社会的平均的な客観性をもちますが、その客観性は相対的なものであって、時間的空間的に変化します。またその意味や価値の内容を決定するのは最終的には主観的なものです。ところが西洋思想にあっては、プラトンやデカルト・カント・ヘーゲルを代表とする観念論哲学者のように、言語の意味は、何らかの絶対的な観念(神や概念・理念・ロゴス)や人間(個人)の判断を越えた基準や目的をもっていると考えていました(決定論)。(唯物論や経験論は、観念の絶対化を避けようとしたが、言語の相対化までは確定できなかった。)

○ 人間が主体とならない西洋的観念は人間を疎外する

近代に起こった言語学や経済学も、意味と価値の「観念の相対化」を確定することができませんでした。例えば近代言語学の父と呼ばれたソシュールは、言語の個別性相対性を理解できませんでした。、現代の言語哲学(現象学や分析哲学の系統)も行き詰まりを見せています(『人間存在論 後編』)。経済学においては、スミス、リカード、マルクス等の「労働価値説にもとづく等価交換説」は、市場における人間(個人)の欲望や判断(交換契約)を「労働」が規定するという決定論であり、マルクスにあっては人類社会の発展を、人間個人の選択を越えた階級闘争に一元化するという人間疎外の理論体系を築いて、現代世界を歪めてしまいました(言語・理論による人間疎外)。

○ 市場原理は交換的正義を放棄し強者支配を正当化します

現代の経済学である新古典派や新自由主義の市場原理主義的経済学は、価値論は「主観(効用)価値説」をとりますが、完全競争市場が決める均衡価格(価値)による、需要と供給の「客観的な」調整的機能を認めています。しかし、完全競争市場はそもそも存在しないし、均衡状態は不均衡価格での取引を前提としており、均衡価格自体が一時的平均的なものに過ぎません。需要・供給と価格には相関関係はあるものの、価格(価値)が取引量を一義的に決めるのではなく、商品所有者の利潤設定や情報の非対称性から来る力関係などの条件のもとで市場の取引が行われ価格を決めているのです。対等平等な取引などは偶発的にしか存在せず、強者優位が市場の常態なのです。

○ 言語の意味や商品価格の理想状態は、不断の検証が必要です

言語についても意思(観念)の疎通がきわめて不完全であることは日常にも経験することです。言葉の意味は、社会的平均的な共通理解はあるものの、正確な理解は、問題が複雑であるほど、また相互の言語理解に経験的な開きがあるほど困難になります。その意味で主観的に理解している内容を、相互理解や客観的理解に高めるのはとても難しいのです。数学の理解を文学や哲学の理解と比べてみると、表現者(作家や思想家)の意図を正確に理解することがいかに困難かわかります。均衡価格という理想状態は、商品価格が取引上の妥協の産物であり、対話における完全理解と同じく、相互の情報の非対称性や力関係の違いからもたらされる相対的なもの なのです。

○ 言語は、社会的に意味づけ合理化する力によって商品価値を決定する

しかし、言語による判断・行動に対する意味付けや合理化は、財やサービスの対象(商品)を、欲望や感情によって価値付けするよりも強い力を持っています。商品取引で多大の損失があった場合でも、自己責任を巧みに回避し、他の事象や他人の責任にして言い逃れることはよく見られます。究極の言い逃れ・欺瞞は「想定外・不可抗力」という「言葉」です。言語による意味づけは、市場取引における商品の価値付けを支配します。言語は情報・知識に裏付けられた力(交渉力・営業力・取引力)の源泉であり、欲望や感情の力は、人間社会では言語(知恵・理知)力あっての欲望・感情なのです。これで「三方良し(売り手良し、買い手良し、世間良し)」の取引が、商品価値を決めれば最善なのですが、競争市場ではそうなるとは限りません。強者支配の独占・寡占市場では、弱者・消費者はマスメディアによる宣伝の言葉の力で操作されているのです。

○ 市場の商品価値を正当化してきた経済学の欺瞞性は、言語の正しい理解によってはじめて克服することができます。

言語の意味と商品の価値(価格)の「社会的共通性」の意味を理解していただけたでしょうか。意味も価値も、社会的客観性と個人的主観性の「縁起的関係性」によって成立しています。言語の意味は、知識や情報を構成し、世界や対象(商品)の価値付けをします。

取引成立後の商品の交換価値(市場価格)は、強者優位による社会的な妥協の産物です。これを均衡価格とか社会的平均価値として法則化(マルクスの価値法則)して、個々の取引を支配するとみなす経済学は、経済現象に言語的意味づけ(合理化)をして交換の欺瞞的実態を隠すものです。

言葉(の意味)が人を欺くと同じように、市場が決めた商品価格も人を欺きます。交換の合理性(契約の成立)を「等価」として理論化してきた経済学の欺瞞性は、資源の効率的配分と交換的正義を両立させるためにも克服しなければならないのです。そのためには、様々の価値を合理化してきた言語そのものの本質を、まず理解する必要があるのです。

さて、ここまで論じれば、次は言語論と貨幣論の関係が見えてきます。言語と貨幣の「社会的共通性」は何か。この問に経済学的に答えると、貨幣の本質が見えてきます。これは応用問題です。みんなで考えましょう。

※ 要約 : 貨幣を含む商品価値は、市場(交換)を通じた言語(数字を含む)情報によってコントロールすることができる。商品の価値は市場で決まるが、市場で示される商品の言語情報(売り手の宣伝)が価値評価の最大の基準になる。いったん決まった評価(価格)は、次の交換の基準になるが絶対的なものではない。これは言語の意味が社会的平均的なもので、絶対的なものでないのと同じである。

◇ 資本と貨幣の違いと関連

もともと資本(Capital : 頭、元手)は、貨幣で表現できるが必ずしも貨幣ではない。労働も土地も資源も、財や冨の拡大の源泉として資本となりうるのである。資本は拡大・増殖・蓄積を志向するが、それは人間の創造的本性に由来している。しかし貨幣は本来、交換を円滑にする手段である。資本は貨幣よりも広い概念であり、貨幣は資本の一形態である。資本は貨幣の形態を取って自由な交換を促進し、冨の集積によって経済成長を目指す。資本の拡大性や増殖は、人間の創造的・投企的本性を体現し、貨幣経済と技術の革新によって飛躍する。資本の自己運動という表現は、人間の営利行動を免罪するために多用されるが、資本は自律的運動をするのではなく、また人間(個人)が資本の支配する「社会の造出物」(資本論序文) であるわけでもない。人間が資本そのものであり、人間が貨幣を用いて人間を動かし資本の増殖を図るのである。

◇ J. ソロス氏の 「グローバル資本主義批判」 の限界

ソロス氏は、アメリカの著名な投資家(ヘッジファンド運営者)、慈善家、哲学者である。彼は 新古典派経済学の市場均衡論の非現実的誤りと、それをグローバル資本主義に適用した新自由主義による「市場原理主義」の危険性を見抜き、グローバル社会において「コミュニティ的価値」を復興しようと意図する。経済と政治の両面の道徳的欠陥に対する批判は正しいが、哲学的には全く深みがない。

新古典派経済学へのソロスからの疑問

1 市場の合理性の仮定では、市場参加者の認識バイアスが考えられてない。

2 需要・供給曲線の形は参加者の予定を独立して組み込みこみ、所与としているが、実際には市場参加者は市場で起こることに影響されるので、曲線の形に相互に影響を及ぼす。曲線の形が市場の影響を受けるなら価格は一意的に決まらなくなり、価格は絶えず変化し均衡は存在しない。(社会現象の相互作用性・再帰性reflexivity)

3 とくに金融市場では、参加者達の相互のバイアスは、価格への影響力が強い。

<※注 「市場参加者の認識バイアス」とは、現実と理念(期待・予想)の乖離、将来の結果に影響を与える現実の認識(の偏り=偏見)をあらわす。>

「経済学の失敗は、たんにわれわれの経済理論の理解が不十分だったり、統計資料が不足しているからだけではない。こうした問題は原則的にはもっとよくリサーチすれば解決できる。だが、経済分析とそれが支える自由市場のイデオロギーは、もっとはるかに基本的で、かつ救いようのない欠陥によって破壊されているのだ。経済的かつ政治的な出来事は、物理学者や化学者が没頭するようなことがらとは違って、ものを考える参加者がからんでくる。そしてものを考える参加者は経済的、社会的システムのルールを、そうしたルールに対する自分たちの考え方を使って変えてしまうことができる。経済理論が普遍的に正しいと主張しても、この原則が正しく理解されるとその主張は守り切れなくなる。」 (ソロス, J.『グローバル資本主義の危機』大原進訳 日本経済新聞社1999 p72)

「均衡の概念はすこぶる有用である。だが、同時にきわめて人をあざむきあざむきやすいものでもある。なにか経験的なオーラを発散させてはいるが、実際はそうではない。均衡そのものは現実の生活ではめったに観察されたことがないし、市場価格は激しく変動するという、評判の悪い習慣がある。観察できる過程は均衡に向かって動くように見えても、均衡には永遠に達しないかもしれない。市場参加者が市場価格に合わせていくのは確かだが、それは常時変動している目標値に合わせているのかもしれない。その場合は参加者の行動を調整過程と呼ぶのは呼び間違いかもしれない。」(同上p81)

「均衡はいつも移動する目標であるとは限らない。認知する機能が一定で、需要と供給の曲線が交わるところで均衡点が決まるという単純な状況も多く存在する。しかし、同時に需要と供給が所与のものとして考慮の対象からはずされているような展開も数多くみられる。こうした省略は方法論的な理由から妥当なものとされてきた。経済学は需要か供給それ自体のいずれかではなく、両者の関係だけを研究対象にするのだと主張されているからだ。この主張の背後にはある隠された前提がある。すなわち、価格メカニズムは需要と供給の状況を受動的に反映して一方向にだけ作用する、というものだ。売り手がどの値段でどれだけ売りたいかを知っており、買い手がどれだけ買いたいかを知っているとすれば、均衡達成に必要なことは市場が需要と供給をマッチさせる独特の価格を見つけてやりさえすればいい。しかし、もし価格変動そのものが、与えられた値段で取引する買い手と売り手の気持ちを変えてしまったらどうなるだろう。たとえば、双方がその値段は近い将来必ず上がると予想するような場合である。この可能性は金融市場では支配的な事実であるし、技術が急速に進歩している産業界でも同様だが、これがあっさり前提からはずされている。」(同上p82

「 [市場]原理主義者の信仰の大きな特徴は、二者択一の判断に依拠することだ。ある命題が間違っているとすれば、その反対が正しいと主張する。この論理的矛盾が、市場原理主義の中核をなしている。経済への国家介入はすぺてマイナスの結果を生んできた。中央計画経済はいうにおよばず、福祉国家も、ケインズ経済学の需要管理もそうだった。この平凡な観察から、市場原理主義者はまったく非論理的な結論へと飛躍する。国家介入が間違っているなら、では自由市場こそ完全であるにちがいない。したがって、国家による経済への介入を許してはならない、というのである。この論理が間違っていることは、あらためて指摘するまでもないだろう。」(p197-199)

「グローバル資本主義には欠陥があることをわれわれが認識し、手遅れにならないうちにその欠陥を修正しないかぎり、このシステムは、その欠陥に屈してしまうだろう。それが今回でなければ、次の危機が訪れた時に。」(p206-207)

※⇒欠陥があるのはソロス氏の言う「グローバル資本主義」なのではなく、グローバル資本主義を成立させている資本主義市場経済そのものにあります。さらに言えば、市場の商品交換そのものに人間社会を誤らせる欠陥があるのです。市場の欠陥は、交換の結果決まる商品の社会的価値(交換価値・市場価値・社会的平均価値)が、社会的公正さ(交換的正義)をどれほど保証しているのか決定できないことにあります。

資本主義の効率的発展を正当化する新古典派経済学の「完全競争市場」は、ソロス氏の言うように、そもそも現実には存在しないのだから、需要と供給で決まる安定的な「均衡価格」も存在し得ません。市場価格は商品交換の目安(判断基準)になりますが、「均衡価格」として安定するものではありません。需要と供給自体が、人間の欲望や気まぐれ(感情)に左右され、気候・災害などの自然現象や資源の有無、そして技術革新・経済発展・戦争など人間の営為そのもの変化に左右されるのだから、理念的モデルとしての需給曲線などは経済活動のほんの一部に過ぎません。

ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツは「基本的競争モデルの構成要素」として次の3つをあげています。(『入門経済学』)

1.合理的で利己主義的な消費者、

2.合理的で利潤最大化を目的とする企業、

3.市場参加者がプライステイカー(価格受容者)的な行動を取る競争市場。

しかし、この構成要素では、市場に対する基本的な認識が欠けています。それは「交換的正義」すなわち「道徳や感情」を排除した人間の存在です。つまり、「基本的競争モデルの構成要素」では、市場に参加する人間は、自己の功利的欲望に従ってのみ商品交換・取引に臨むということです。

ビジネスライクという言葉がありますが、交換において事務的にてきぱきとことを処理するときに使います。人間関係・金銭関係の処理を合理的に行い、人間が競争において他人を騙したり、不正を働くことによって優位性を得ることを考慮していません。詐欺や不正は合理性の中には含まれていないのです。だから、「市場の競争的公正性」という存在しないモデルを前提として「市場の失敗」という表現が使われるのです。

このように市場の競争原則を、「欠陥」と考えずに、経済成長や資源の効率的配分を行うものと肯定的に評価することもできます。実際スミス以来の経済学者は、交換を分業にもとづく効率的生産と経済成長(富の蓄積)を促進し、交換当事者相互の利益に適うものと考えてきました。しかし、スミスが『諸国民の富』で述べる「私の欲しいものを下さい、そうすれば、君の欲しいものをあげましょう」という取引上の相互利益主義は、競争市場では普遍的なものとは言えないのです。

資本主義の発展の現実は、「市場の失敗」という表現では説明できない現実――労働者の犠牲、植民地の犠牲、大衆消費者の犠牲、独占的強者による大衆操作と支配等々――として現れています。つまり、強者による弱者との取引、すなわち「君(私)の欲しいものはこれです、これを言い値で買い(売り)なさい」なのです。また、戦争や犯罪、環境破壊などの外部性の問題は、「基本的競争モデル」に含まれない競争的市場の欠陥そのものから生じ、その欠陥はもはや経済学の前提としても覆い隠すことはできなくなっているのです。

今日の信用貨幣バブルの到達点となる「グローバル金融資本主義」において勝利者となった投資家ソロス氏が、市場原理主義の限界に気づくようになったのは、西洋的理性と良心がまだ健在であることを示すものです。しかし文明史的視野をもつソロス氏でさえも、西洋近代思想の限界を超えることはできませんでした。彼が「マルクス主義もレッセフェールも完全に否定された」と述べても、なぜそうなったのかという理由や理論的欠陥、市場の哲学的解明はほとんどできていません。

彼が、「グローバル資本主義」の欠陥を指摘し、その「危機」について道徳的な警鐘を鳴らしたことは一定の評価ができます。しかしその根源となる「競争市場」の道徳的欠陥を解明することがなければ、単なる警鐘に終わります。その欠陥こそ我々が解明した市場における「交換的正義」の欠如(「等価交換という欺瞞」)であり、経済発展をイデオロギー的に支えてきた西洋近代の個人主義に由来する利己的功利主義の欠陥なのです。

◇ 無限の成長を前提とした経済学は、地球規模の問題に対応できない

今までの主流の政治経済学は、今日の世界経済の閉塞状況を克服することはできません。今日の世界秩序を成立させている西洋近代の個人主義的人間観とそれにもとづく契約社会は、生命や人類の持続的生存を危うくし、地球的限界を越えようとしています。人間の欲望は限りなく、競争感情は激しく揺れ動くので人間の理性的判断力を奪い、不確実な情報に操られて社会を退廃させていきます。

先進国の経済的繁栄の犠牲となり、発展から取り残された途上国の不満を持った民衆は、巧みな権力者に扇動されやすくなります。例えば、イスラムの絶対神の力を借り、マルクスの階級闘争の理論を用いて怨恨を発散させ、テロリズムの陶酔で世界を混乱させようとします。また、先進資本主義国の勝利者(独占的資本家とその代弁者達)は民衆の反発を恐れ、メディアを用いて民衆を洗脳し、不満をそらすために国内外に対立を作って民族主義を煽り立てます。具体例は、世界の途上国・先進国のあらゆる国々で見られます。

マルクス経済学は、アダム・スミスの古典派経済学や市場均衡論を唱える新古典派経済学と同じように、自由放任と競争の「市場原理主義」を原則としています。それに対し、福祉国家をめざす社会民主主義や雇用の確保と安定的経済成長をめざすケインズ経済学は、国家の財政・金融政策による経済コントロ-ルを行います。いずれの場合も経済成長と社会発展を前提とし、地球環境問題や成長の限界を考慮せず、実在しない完全競争市場の存在(自由平等な自立した合理的経済人の等価交換で成立する)を理念的前提としています。

経済学に限界を感じながらも現状に危機感を持つ識者は、有能な指導者の出現を待望しています。しかし民主政治において求められ選ばれる指導者は、グローバル資本主義の限界よりも、目先の自民族中心の利害に左右される場合が多く、人類史への広い視野をもちません。しかし、地球環境問題や資源エネルギー問題を代表とするグローバル時代の危機は、、国家的利害対立に翻弄され機能不全に陥っている現在の国際連合では解決は困難です。国連を発展的に改組し、より強力で機能的な世界連邦(世界政府)を建設する理論的展望が必要なのです。

先進国の国民経済は資本主義のもとで富が蓄積されると同時に、民主政治の進展によって社会福祉の充実が進みました。しかし公共投資や福祉政策の推進によって、大きな政府(官僚制)による財政支出がふくらみ、怠惰や浪費、不正や腐敗などが広がると、国民経済全体の停滞が起こりました。すると市場競争と効率性を主張する新自由主義が台頭し、減税と小さな政府による成長政策を重視する保守政権が成立しました。その結果構造改革は進み景気は回復するものの貧困と格差が拡大し、今度は再び公共投資がすすめられ、同時に競争政策を続行しようとするのです。

いずれにしろ、国民経済は国内外の政治との絡みでマクロに変動し、経済学理論でコントロールしつづけるには殆ど役立たないことが実証されています。人間のことがわかっていないのに、人間の経済の動きを捉えようとしてきたことに経済学の誤りがあります。ジョージ・ソロスが指摘するように、社会現象は人間の関与によって現象自体が影響を受けるのです。有効な経済理論の再生・創造は、人間性の正しい理解にもとづいて、経済活動の基本である「生産・交換・消費」と「交換市場」の社会科学的な正しい位置づけによって可能です。人間社会の混乱を最小限に抑え、共倒れを防いで持続的生存を得るために、成長の限界を前提にした経済学の構築が求められます。

この危機的状況を克服するためには、地球的規模で考えることが必要ですが、利己的視野や自由放任にもとづいた経済学ではこの問題を解決することはできません。まず必要なのは人間自身の本質――欲望・感情・言語(知識・理論)の意味を解明することです。そのことによって人間が自己に目覚め、偏狭な言葉や人間理解から覚醒し、倫理的道徳的存在として自覚し社会的地球的責任を果たすことができるようになるのです。人間が利己的視野で考え、国家財政・金融の操作だけで経済の成長や均衡が保たれるとする陳腐な経済学の時代は終わったのです。

◇メンガーの主観価値説は等価交換を否定したが、同時に経済学を矮小化した

C.メンガーは、経済学におけるオーストリア学派(限界効用学派)の祖であり、限界効用理論の創始者として、近代経済学の創始者の一人に挙げられます。彼はスミス、リカードウ、マルクス、ミルなどの古典派経済学の労働価値説(客観的生産費説)に異議を唱え、主観価値説を提唱した。ここでは価値論に関して表題の観点に限って説明します。

「価値は、財に付着したものでも、財の属性でもなければ、自立的な、それだけで存立している物でもない。価値とは、具体的財が経済活動を行なう人々にたいしてもつ意義であり、この財がそれを獲得するのは、自分たちの欲望の満足いかんがその財(の支配)に依存していることを彼らが意識しているからである。それゆえに、人間の意識の外には存在していないのである。」(メンガー,C.『一般理論経済学』八木他訳 みすず書房 第5章価値の理論p163)

引用文の通り、メンガーが価値の主観性(意識性=欲望)を主張するのは正しいのです。しかし財(商品)の価値が、市場において個人的なものか社会的なものかの区別が明確にできないことは、西洋思想上の限界を超えていません。労働価値説(スミスやマルクス)のような客観的価値説は、個々人の主体的判断の過程を捨象する誤りを犯していますが、メンガーの主観価値説も、「人間の意識(欲望)」を社会的に一般化することによって、「交換価値」の社会的平均的価値性(価格に現れる)がどのような意味を持っているかの解明を見逃すことになっています。

↓↓↓ 下のサブページ(1)へ続く

◇ フランク・ナイトの完全競争市場論批判―経済に倫理を!

「競争が完全なものであるために最も重要で不可欠な条件は、競い合うすべての個人がそれぞれ利用可能な交換の機会を知り尽くしている、ということである。「完全市場」とは、取引に参加するすぺての人々の間で、費用をかけず、瞬時に完全な交信活動が行われている、という意味を含んでいる。そのような状況に極めて近い現実のケースは、組織された取引所で少数の商品が売買される場合だが、大部分の消費財にとって、市場の機能は極めて不完全である。抽象的な金銭的資本が高度に発達した市場の隅々にまで流れていることは確かであるが、生産的サービスについていえば、労働、土地、物的資本やその受益権の市場は、「交渉力」や偶発的な異常事態[価値の増減]に備える余裕を大幅に残している。これに応じて、製品を主産したり分配したりするための組織も、ともに理論上の理想的な帰結から乖離したものになる。」(『競争の倫理』高・黒木訳 ミネルヴァ書房2009 p15 [ ]内は引用者)

☆☞ 市場は交換の自由がある程度担保されて成立する。しかし、実際の市場は不完全、不平等、不等価、不自由であるのが常態である。不自由がどうして常態であるのかと言えば、交換のルールや制約が多いから誰もが自由に取引できないということではない。取引が嫌なら止めればよいし、交換当事者としてのルールや手続きを踏むことは自由意志の制約にはならない。

問題は、交換当事者間の立場の違いによって、価格を除いて情報が一方向的であり、品質や内容が広告や見せかけで操作される場合である。これは「情報の非対称性」という曖昧な表現で表わされるが、情報を知る自由を制約されていると考える者の立場から見れば、不自由と不平等に当てはまる。また、公開された情報が明確な虚偽や詐欺とされなくても、実際の使用価値が使用中に価値(価格)以下であることが分かれば、当然その価格は不等価ということになる。「騙されるのが悪い」とか「運が悪かった」というのでは、本来的な市場の完全性や公正性は成立しない。

このような市場の欺瞞性は、「安く買い、安く作り、高く売る」(費用削減・虚飾品質)という営利の原則に由来しており、このこと自体は経済活動の活力の源泉として人間の本性に内在している。しかし問題は、このことを自覚せずに「市場の完全性」を前提としたり、自動調節作用や「見えざる手」、あるいは「自生的秩序」「等価交換」という概念で現状を肯定あるいは否定しようとすれば、それは経済学の欺瞞性を示していると言わざるを得ないのです。

ナイトは同じ論文で次のようにも述べています。

「資源を生産活動に利用するための指針になる価値基準は商品の価格であるが、それは容認されている倫理的価値と大きく乖離しており、現行の秩序がより競争的なものへと純化され、社会的な統制の及ぶ範囲が縮小されていけば、この乖離は桁外れに拡大していくと思われる。くわえて、箍(タガ)の外れた個人主義は、道徳的規範の向上よりも、むしろその漸次的低下をもたらす傾向がある。「人々が欲しがるモノを与える」ということは、大衆の眼識の堕落を意味することが多い。またそのような体制は、それが作り上げた価値基準に合致するモノを生産するために資源の効率的活用をはかっているわけではない。」(同上p24)

おそらくこれ以上の引用は必要ないでしょうが、さらにナイトはハイエクに対して様々の観点から厳しい批判をしています。その一例を引用しておきます。

「交換その他の形式的に自由な関係のなかで、政治力の著しい不平等――形態はともあれ、それが最大の係争点である――が、強者の側に弱者のそれを上回る一定の支配力を与え、弱者をなすすべのない状態に陥れる可能性があるのは明らかである。だがハイエクにとっては、それさえ強制の証拠にはならない。彼は、不平等が増大する傾向にあるということ、とくにその傾向が経済的不平等に関して顕著であること――なぜなら、ある時点でより多くの富を所有する人は、さらに多くの富を獲得するために有利な位置にいるから――には触れない。しかもこの傾向は、自由な相続によって世代から世代へ継続される。」(同上p242)

◇ 新自由主義──ハイエクの「社会的自覚なき自由」

◎ 不平等が人類の進歩の条件!?

「少数者によって享受され、大衆が夢にも見なかった贅沢または浪費とさえ今日思われるかも知れないものは、最終的には多数の人々が利用できる生活様式の実験のための出費である。試行され、後の発展するものの範囲、全ての人に利用可能になる経験の蓄積は、現時点の利益の不平等な分配によって大幅に拡大する。つまり、最初の段階に長い時間を要し、その後に多数がそれから利益が得ることができるならば、前進の割合が大いに増加するのである。・・・・・・今日の貧しいものでさえ自分たちの相対的な物質的幸福を過去の不平等の結果に負っているのである。」(ハイエク『自由の条件Ⅰ自由の価値』気賀、古賀訳 春秋社 p66)

★→ハイエクは、少数者または収奪者(強者)の富の独占と永遠の貧富の差を、自由の名によって肯定し、人類の進歩と発展の必要条件と考える。たしかに、人間の福祉にとって豊かな富は必要不可欠であり、自由な競争は進歩と発展の活力を生み出した。そして、その利益はまずは少数者の独占するところとなり、多数者の民主的な活動によって広く分配されることになった。

しかし、「現時点の利益の不平等な分配」は、過去においては不平等・不等価で一方的な収奪であったし、今日においても多数者には労働強化や詐欺的な商品売買などによって、不当な利益が少数者に集積している。さらに、大衆化した贅沢や浪費は、不道徳と不正義と社会的腐敗と地球環境の破壊につながる。ハイエクの論理によれば、少数者はいつまでも贅沢を享受し、貧しいものは未来においても貧しいことが、人類の発展と前進に必要なのである。彼は社会進化の非合理性を合理化し、理性的論理によって社会的な貧困・抑圧・腐敗を温存しようとする。これはハイエク的反合理主義哲学の論理矛盾であり、人間理性の構成的可能性に対する無知であり、その理性(思考力)による人間の肯定的・創造的な実践に対する挑戦である。

今日では、地球的規模で起こる環境破壊と地球温暖化に緊急に対応することに加えて、資源エネルギー問題や成長の限界、南北問題に代表される地球規模の格差、そしてそれらの問題から利害や権益の対立と戦争や混乱が予想される。もはや、人類は、ハイエクの言う自生的秩序論や合理主義批判では解決できない深刻な問題に直面しているのである。アル・ゴア氏の例えを借りるなら、ハイエクの理論は「ゆでかえる」のように目先に危機が迫らないと自己のおかれた状況がつかめないであろう。そして、気づかないかも知れないが、気づいたときには最早手遅れなのである。

◎ 社会的正義と強欲

「『社会的正義』という福音は、はるかに下劣な心情を目ざしている場合が一層多い。そうした心情は、ジョン・スチュアート・ミルが『すべての熱情の中で最も邪悪で反社会的なもの』とよんだ自分より暮らし向きの良い人々に対する憎悪または単なる羨望であり、他者が基本的ニーズすら満たされていない一方で、ある人々が富を享受していることを『スキャンダル』として表明する大きな富に対する敵意であり、正義を処理すべき何ものをももっていないものを正義の名の下に偽装することである。少なくとも、より多くのものを受けるに値するある人々がその富の享受にあずかることを期待するからではなく、富者の存在を人の道に外れたものとみなすが故に、富者を略奪することを願う人は、全て、彼らの要求にいかなる道徳的正当性をも求めることができないばかりか、全く不合理な熱情にひたっているのであり、事実、彼らが強欲な本能に訴えかける当の人々を害しているのである。」(ハイエク『法と立法と自由Ⅱ 社会正義の幻想』篠塚 訳 春秋社 p138)

★→この引用文において、ハイエクがマルクスなどの社会主義者に対し、どれほど強い敵意を抱いていたかがわかる。しかし、貧富の格差是正を求める社会的正義は、ギリシアの昔以来、ソクラテス・プラトンの素朴な見解や、経験主義的手法を用いて中庸を求めたアリストテレスの「倫理学」や「政治学」において十分に理性的に公正に吟味されてきた。ハイエクの言うような、富者に対する「下劣な心情」は虐げられた一部の人々や権力者の心情であって、ミルですら社会主義には好意的な姿勢を示している。

人間理性に対する懐疑や不信は、未来への希望を喪失させる。人間の人間たるゆえんは、人間理性を信頼し人間理性の限界性を認識しつつ(そのためには言語理解と西洋的思考様式の限界性の認識を前提とするが)、過去と現在の科学的分析に基づいて、望ましい未来を構築することである。ハイエクがその努力を怠り(または放棄し)、市場原理主義に依存してしまったことは知的敗北といわざるを得ない。

たしかに科学的社会主義と自称した人々に、科学と知識に対する理解と謙虚さがなく、決定論と下劣な熱情を鼓舞して多くの犠牲を出したことはたしかである。しかし人間の社会的自覚や利他心、福祉や公共の精神までも排除する自由競争万能の市場主義は、地球環境の保全という人類的課題を解決するためには極めて不都合な理論である。人類の持続的生存のためには、利己的営利追求を万能と考えるようなビジネスモデルを克服する(利己心という人間本性は克服できないが)新しい社会経済政治的モデルが必要とされるのである。

◎ 才能を発揮できる機会は公正か

「自由社会に対してむけられるもっとも重大な非難、もっとも厳しい怨恨の源はおそらく、自由社会において誰も人の才能の適切な用途を知る義務を負わず、誰もその特別な天賦の才能を用いる機会にたいする請求権を持たないこと、かれ自身がそのような機会を見つけなければ、その才能は浪費されるように思われることにある。・・・・・/ 有用性の範囲、適切な仕事を自ら見つけ出さなければならないということは、自由社会がわれわれに課するもっとも困難な規律である。けれどもそれは自由と切り離しがたいものである。・・・・・自由社会の本質は、人の価値や報酬が抽象的な能力に依存するのではなく、対価を支払う他者にとって有用な具体的サービスにその能力をうまく転ずることに依存しているところにある。そして自由の主要な目標は、一個人が獲得できる知識の最大限の利用を保証する機会と誘因の両方を提供することである。」(ハイエク『自由の条件Ⅰ自由の価値』気賀、古賀訳 春秋社 p115)

★→個人の才能を育成・開花させ、能力適性に見合う適切な職業を就くことは、生涯の良き伴侶を見いだすのと同様、人生にとって最大の選択的課題である。これは自由社会に限らず、社会主義社会においても同様である。しかし、ハイエクのいう自由社会(自由競争・市場原理の社会)では、経済的に恵まれない多数者にとっては、個人の能力の育成(子育てから職業教育にいたるまで)は生まれる前から競争原理にさらされるだけで十分な教育の機会を得られないのが通常である。個人の成長の意欲に反して教育機会を奪われ、自己の能力を発揮できずに転職し挫折する若者があまりにも多いのが自由社会の現実である。

自由社会は、少数の勝ち組(勝者)を作って多くの負け組(落伍者)を産みだし、格差を作ってそれを維持していこうとする社会であるから、多少の栄枯盛衰(勝者と敗者の交代)はあってもまた公正な競争をめざそうとしても限界がある。格差社会では公正な競争の前提(出発点)となる教育機会の均等は、義務教育制度の下である程度は確保されるが、家庭教育の面での経済的余裕のなさは格差を助長させろ一因となっている。また、大企業における組織的労働への競争的評価の導入は、協働に必要な表面的従順性・協調性・積極性と内面的不信・不安・敵愾心に満たされ、ストレスによるうつ病などの精神疾患や心身病、家庭の崩壊状況を生じさせる要因となっている。

また「対価を支払う他者(すなわち経営者・資本家)にとって有用な具体的サービス」を提供する労働者・従業員間の競争は、就職(入社)試験時の能力だけでなく、出世のための競争能力に及び、いかに他人を利用しまた利用されるか、またそれによっていかなる成果を上げたかが、人の価値や報酬(名誉や地位)を決定することになる。個人的事業ならともかく、発達した資本主義において能力を生かせる主要な場は組織化された企業であり、そこでは他人は目的とされずに手段として扱われ、道徳的資質は出世の妨げとなり、組織の歯車として働くことが要求される。不正は組織ぐるみで隠蔽され、「一個人が獲得できる知識」は、利潤追求・効率重視に限定され、人間的なつながりや仕事への充実感は排除される。自由社会では、生産性は上がるがその果実は、地位と報酬を獲得目標とするため、そして面従腹背を強いられるために、人間の道徳性が破壊され人心の荒廃を招くのである。

人は対価を得るために労働を提供するが、対価を得るために生きるのではない。しかし資本主義的自由競争は、対価を得るために人生を費消させ、人間的創造的才能を利己的野心の実現に向かわせる社会システムである。資本主義の問題点を克服しようとするすぐれた経営者も多く活躍している。しかしハイエクのような市場万能・自由放任の理論の信奉者は、人間性の現実の一面しか見ようとしていない。「人間のかけがえのない統一性を、物質的な価値を志向する『現実的な』人間と、よりよい『理想的な』人間とに分断してしまった責任は自由放任思想にある。自由放任思想はまた、経済的決定論の偏見を多少とも無意識のうちに助長し、われわれの社会的創造力を麻痺させている。」(ポランニー、K.『経済の文明史』玉野井平野 編訳 筑摩書房 p69)

◇ ハイエクの「致命的な思いあがり」

ハイエクの『致命的な思いあがり』(渡辺幹雄訳 春秋社2009.)という社会主義批判の本を読むと、ハイエク理論こそ無知にもとづく「致命的な思い上がり」があると思われます。どのような点が「思いあがり」であるかというと、人間の考え創造する力(理性)を誤解し、あまりに軽視しているにもかかわらず、自分の無知に対する反省もなく自分の理論を「自生的」という用語で「理性的」に正当化しようとしていることです。幾つか指摘しておきます。

① 彼の言う「自生的」とされる文明や「拡張した秩序(資本主義)」は、すべて「人間の設計や意図」から創造されたものである。人間の創造的能力が、諸文明(道徳的慣行や諸ルール・制度を含む)の発展の根源やそれを成し遂げた人間(人類史)の偉大さを示している。利潤追求を目的とする資本主義の合理的な経営でさえ、「人間の設計や意図」に基づいている。しかし彼は、ただ為す術もなく人間の創造的能力の活用を理性(言語)的能力と考えることを避け、人間の未来の可能性を「見えざる手」ないし「市場の道徳」に委ねてしまっている。

② マルクス主義を正しく理解しないで、マルクス的社会主義を批判している。マルクス理論は、社会主義(共産主義)を、階級闘争にもとづく「自生的」な社会発展の結果と考えているのであって、基本的に「設計主義」ではない。マルクス理論は、私有財産制度に由来する階級制度を、階級闘争によって根絶できるとするものであって、ハイエクが批判する中央当局による計画的分配(中央指令経済)の不可能性が問題なのではなく、資源の効率的分配は、生産力の発展と労働者階級の連帯によって「自生的に」(弁証法的必然性によって)可能になるとしている。開発独裁を基軸とするソ連的社会主義の失敗は、必ずしもマルクス的社会主義の失敗ではない。マルクスの誤りは、ハイエクの誤りと同じく市場への過信にあります。

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◇ ガルブレイスのグローバル企業批判──「不確実性の時代」

「 巨大法人企業が市場の操り人形であり、自らは力をもたず消費者に奉仕するものであるとする神話は、実際にはその権力を永続させる策略の一つなのだ。先にも見たとおり[キリスト教による植民地人の魂の救済という神話]、植民地主義が可能だったのは、より高邁な道徳的目的の神話が常に、より程度の低い経済的利益の現実を隠していたからこそであった。似たようなことが、ここ[市場は、価格と売り上げを通じて消費者に奉仕するという神話]にもある。法人企業が権力行使のための道具であり、われわれが統治しているる過程の一部であるということが、日々の教育や評論を通じて明らかになっていたなら、その場合には、その権力がどのように行使されているかとか、それを公共の意思や必要に従属させるにはどうしたらよいかとかが、論議の対象となっていることだろう。ところが、このような権力は存在しないという神話を広めることで、この論議は回避されている。若者にこの神話を教え込んでおくことは、特に有用である。権力は存在しないと見せかけることで、その行使についてわれわれが心配する必要は著しく減るのである。」(ガルブレイス,J.K.『不確実性の時代』都留重人監訳 TBSブリタニカ 1978p348)

――自由主義経済学は、経済成長の名の下に「強きを助け弱きをくじく」 ばかりでなく、地球環境を破壊し資源を食い尽くして、地上の生命と人類の生存を危うくする経済学である。――

――格差拡大の根源は、自然の不平等を増幅する商品交換(市場)を、等価交換であると欺く経済学全般のの欺瞞性にある。――