言葉とは何か(言語原理)

  言語の基本的機能は、世界を言語記号化することによって、話者の意図や情報を伝達することであるが、情報処理・文章構成のための思考や記憶の手段であり、聴者や話者自身の行動を方向づけ、存在を意味づけ合理化する手段でもある。

  ◇ 言語の基本的機能 : 三大機能 ⇒ 伝達機能、情報処理(記憶・思考)機能、行動制御機能

           四大機能 ⇒ 伝達機能、情報記憶機能、思考創造機能、行動調整機能

 言語は音声言語に限定される。手話や動作、図形等の信号(シンボル)による情報伝達や知的操作は言語に含めない。手話言語や図形言語、文字言語などの表現は可能であり、音声言語から独立して言語的操作(伝達・思考・保存)は可能であるが、二次的なものである。人工言語という表現は、音声を含む限り可能である(エスペラントのように)。また「チンパンジー用の言語システム」という表現はありえない。「コンピュータ言語」は人間言語とは次元の異なる概念である。

  言語は、他の動物のような刺激反応性にもとづく単なる特定の用途(意味)の音声信号(小鳥のさえずりや唸り・吼え・啼き声など)ではなく、主語・述語・目的語等による記号を論理化し、多様な意味を表現できる音声信号である。それによって、人類は、情報処理の面で創造的構想力の飛躍的進歩を遂げた。

言語の定義

言語は人間に固有の本質であって、情報伝達のための単なる信号(音・光・図形等)ではなく、外的反応や行動から独立して内的に(内言として)情報処理可能な音声による信号である。

人間と他の高等動物(例:チンパンジー)との違いは何でしょう?

人間は、二足歩行・自由な手による大脳の発達と発声の分節化(言語の獲得)によって、認識・思考能力や情報処理・伝達学習機能が飛躍的に高まり、道具の製作や火の使用、社会組織と行動規範、宗教・文化・芸術・娯楽等が複雑に発展しました。とりわけ人間の創造的機能は、言語的認識と行動制御のはたらきによるものです。

チンパンジーも高度な情報処理・伝達能力を持ちますが、直接知覚できる(直示的)対象に対してしか反応(情報処理・思考と行動)を示しません。言語信号という第二信号系を持たないため、知覚を遮れば情報処理ができない(関心を持てない)のです。それに対して人間は、言語信号(内言)のみによって、情報を処理(思考)することができます。だから両者の決定的な違いは、言語の有無にあり、人間の本質は言語であると言うことができます。

生命は、言語の獲得によって環境に適応するための認識様式を変革しました。とくに、ホモサピエンスに おける言語の新たな構成様式(主語述語等を用いた思考様式)によって、刺激反応性による直示経験的 適応から創造的適応へと進化しました。この進化が、約一万年前の人類の新石器農業革命をもたらし、 余剰生産と人口増、それらに伴う文明社会を成立させ、今日の人類の発展と繁栄の頂点とその限界を迎えることになったのです。(参照ダーウィンの自然選択説批判

言語の原理 ★★★★☆ やや難しいので少し覚悟をして読んでください。 参照 :言語の起源(からつづく)

言語(主体の意図と、対象とその状態と対象間の関係性の音声的表現機能)は,動物の社会的生存活動における認識論的必要(記憶・思考)と意志伝達的必要(伝達)の両者の要請から進化的に形成された。人類進化の起点は,平地での直立歩行である。直立歩行によって人類は,自由な手,大脳の発達,自由な分節的発声の可能性を獲得した。(注1) また平地での食糧の獲得,安全の保持には,より確実な世界の認識(認識論的必要)と社会的な行動(意志伝達的必要)が有利となる。世界を言語化し,空間的時間的広がりをもった知識を学習・記憶し,社会的に結束することは,人類の生存に有利にはたらいた。人類の進歩と繁栄にとって決定的に重要な役割をはたした言語についての原理を以下にまとめる。

① 言語は,内的外的刺激に対する動物個体の反応行動として,他の個体や同族集団への音声的な意志伝達機能(鳴き声,叫び声)を起源とする。そのため,言語表現は,客観的内容であってもその根底(深層)に,自己の生存欲求を充足させる主観的な意志や意図の表出・伝達を含んでいる。

② 言語主体は,まず自己の主体の欲求・興味・関心に従い,無限の多様性をもつ環境から,認識対象とその状態・運動・関係,およびそれらに対する自己の意志を区別・限定する。そして,言語は、区別・限定され,内面化(観念化)された対象(観念・表象・イメージ)と対象に対する意志を音声信号化(言語化,記号化,象徴化)することにより成立する。ここで注意すべきは,この音声信号は,感覚的対象(自然環境)を指示(意味)することがあっても,音声信号と結合しているのは終極的には知覚主体の観念と意志であるということである。言語の意味内容(概念)の客観性は,平均的日常的には成立しているようにみえるが,厳密にいうと言語の意味はすべて主観的経験にもとづいている付録2概念図参照)。(注2)

③ 言語は,主観的表象(観念)を,分節化された客観的な音声信号(音声刺激)と結合することによって,内外の刺激や行動(情動)から独立し,客観化する可能性を獲得した。さらに対象の言語化とそれに伴う音声信号の内的構成(内言――内的発話)によって,具体的感覚的対象だけでなく,自由で創造的な観念的知的世界を創出した。

従って,言語は行動を操る主観的情緒的側面(行動主義的スキナー的側面)を出発点としながら,行動に支配されない事実や観念を表現する客観的知的側面(認知的チョムスキー的側面)を持つことになる。前者は,主体の価値判断を含む主観的自己表出的言語表現であり,後者は,科学的数学的知識などを代表とする客観的論理的言語表現である。両者は通常混合して用いられ,言語理論や認識論の混乱や対立の根源でもあった。

④ 言語の機能は,基本的に対象の状態と主体の意図を音声化することにより,主体の意図や認識(判断,推理,想像)内容を記憶し,再構成(思考)してその思考内容(観念・思想・情報)を他者に伝達することである。しかし派生的には,再構成された内容を,主体自体(内面)に向けることによって主体独自の観念的知的世界(自我ないし世界観)を形成し,それにもとづいて自己の行動を方向づけることができる。理性的である人間を特徴づけるのは,言語による思考によって構成された個人的社会的世界(観念的環境――すべての思想的なもの・イデオロギー形態)の中への自己の知的行動的位置づけである。(注3)

⑤ 言語は,意図の伝達と問題意識において情緒的価値的であり,その情緒性を動因として知的情報の記憶・再構成・問題解決を創造的に推進する(作話,観念的世界の形成)。そのため,言語に含まれる意味内容(価値・情報・知識・概念)は,たとえ科学的数学的情報であっても,言語を使用する主体の主観的な認識と経験による影響を受ける。数学的知識としての観念的世界の構成物(2+3=5,三角形の内角の和は二直角,等々)は,具体的感覚的対象に関与せぬ限り絶対的な客観性をもつ(厳密には無限の数や定義上の三角形は,具体的には存在しない)が,主体の問題意識においては情緒的価値的である。

⑥ 言語は,対象や意図の正確な認識と表現のために,常に音声(記号)とその音声の意味の確認作業(認知過程・問題意識)が要請される。そして,言語の表現内容(意味,観念,情報)は,社会的平均的な意味(定義的辞書的意味ないし客観的意味)と,それを獲得している主体の経験に限定された個人的主観的な意味(実現的,具体的意味)をもつ。一般的に,人間は自ら使用する言語の意味が,社会的平均的ないし普遍的なものであると誤解しがちである。しかし,人間の作った意味をもつ記号(それに類する貨幣やシンボル等を含む)は,本来個人にとって絶対的であっても(あると思っても)社会的には相対的で,その意味基準の曖昧性は避けられないのである(数学のような観念上の厳密に制限された対象を表す記号を除いて)。(注4)

⑦ 言語(音声信号)の表現する内容(意味)は,人間が関心を持つすべての<対象>とその<状態>,さらに<主体の意図>である。<対象>は大きく客観的対象(物理的対象――自然物,人工物など知覚的対象)と主観的対象(心的対象――想像,観念,習慣,制度,法など)に分けられ,名詞として分類される。<状態>は,対象(名詞)の運動・性質・形状や時間的空間的関係であり,<主体の意図>は対象に対する主観的判断(快苦,好悪,善悪など)や命令・感嘆・疑問・要求・意志などで,動詞,形容詞,助動詞などで表現される。さらには対象(名詞)やその状態・意図を限定ないし関係づける助詞,副詞,形容詞,接続詞などの品詞の構成によって現象と主体の意図をより多様に表現する。また上述の<状態>の表現の上に,さらに音声の強弱,抑揚や表情などの主体の行動によっても微妙な表現がおこなわれる。

⑧ 言語表現は、<対象>とその<状態(関係性を含む)>や<主体の意図>を,<主語>と<述語>を基本にして叙述するが,これを文(又は命題)という。<対象>とその<状態>や対象に対する<意図>は,人間(動物)の認知や関心にとって本来不離一体である。対象が「何であるか What」,そしてその状態が「どのようであるか How」,またどのように感じ反応行動するかは,高等動物の生存にとって「根本的疑問」であり,その一つの解答が人類の場合「文」という言語表現をとって完結するのである。

言語表現は,このような生物学的生得的<認知・反応>様式に基づいて,<対象の状態><主体の意図>を,基本的に主語(名詞)と述語(動詞,形容詞)に区別して線的に表現する。そのため両者(主語・述語)は相互に不可分の文の成分である。(注5)

⑨ 対象(名詞)の状態や意図は,主語と述語だけで表現できるほど単純ではない。カントが図式化したような空間的時間的関係や質・量への疑問,そして判断の多様な形式が存在する。つまり,対象(名詞)の状態の表現においては,対象の相互関係(主格,属格,与格,対格など)を,語順や屈折・助詞などで表すし,対象の質や量を表す形容詞や数量名詞がある。また対象の状態を表す動詞からみれば,他の名詞との相互関係(運動の目的や対象)を示すため,その動詞に固有の目的語ないし補語をとり,時制や態,疑問や否定を表現するために語尾変化をしたり助動詞をとったりする。さらに名詞や動詞の状態は,形容詞・副詞や助詞句・関係節(連体,連用節)によって修飾・限定され,より詳細に表現することが可能になる。これらの文構成上の規則は,<文法>と呼ばれる。

⑩ 言語表現は,人類に共通の生物学的生得的な言語能力(ランガージュないし普遍文法)をもとに,表現主体の興味関心に従って発達した。その言語能力を基本にして特定の民族的文化状況において,特定の意味をもつ多様な語彙や統語規則(文法)が出現したのである。つまり言語表現(文)は,多様な自然とその中での人間の生活状況に応じて多様性をもつのが当然なのである。そこで,我々が言語を研究することは,多様な文化状況を知り共通理解を深めるとともに,人間の普遍性や人類共存の可能性について知ることにもなるのである。

 

 

(注1) 言語の誕生の条件は,直立2足歩行,声帯の発達,多様な音素の組合せによる分節的発声,刺激を内面化する中枢的認識能力の発達等があげられる。そして,これらの生物学的<認知・反応様式>の機能が総合的に働いて,言語の獲得が可能になった。

フンボルトは,「言語音声」の要請が直立を促したようなものであると比喩的に考える。このような言語の理解は,彼の言語理論の特徴をよく示しているが,正しくはない。言語は思考を通じて「世界を人間に結びつけている」(邦訳『言語と精神』p87)だけでなく,人間を世界(自然)から分離させる「病的機能」ももっている。フンボルトのように肯定的な言語理解は,理想として追求されねばならないが,人間言語が持つ否定的側面(自然的世界からの遊離)の指摘も人間理解にとっては必要である。(参照 :言語の起源

(注2) 動物の音声的な伝達は,環境に対する主体の欲求や行動の直接的な表現(反応)である。それに対し人間の音声言語の特徴は,環境に対する主体の欲求や情緒・行動から独立して,自由な音声表現が可能なことである。   人間は,食事(摂食行動)をしながら人生について語る(発話行為)ことができる。また音声化(言語化)は,有限の音素(アルファベット,五十音など)の組合せによりなされ,意味を持つ音声言語としての単語(語彙)がまず創造される。そして単語の規則的なつながり(ソシュールのシンタグム syntagm 連辞)により文が成立する。この見解は,言語学者のチョムスキーの見解と異なっている。

 チョムスキーも,音素の連鎖を文と考えるが,単語(品詞・語類)の創成過程を省略し,単語を文生成の要素としてのみ取り扱う(「文法の構造」1957)。彼は言語における「創造性」を強調するが,創造性や無限性は文の構成においてばかりでなく,まず単語(とくに自立語)の創成において示されなければならない。言語の構成規則(文法)の理解には,句構造の基本となる諸単語(品詞:名詞・動詞・形容詞・助詞等)の機能と相互関係の解明が不可欠である。 

 さらに,言語の主観性について述べたフンボルトの見解,「個人において,言語ははじめて窮極の規定性を得る」(上記邦訳p102)は,正しいものの,社会的言語に対する個人の「自由の原理」は,「説明のつかない現象」ということはありえない。世界は無限であり,諸個人の経験すなわち諸個人における言語の意味は有限であるということ,それ故に社会的言語は平均的意味(法則性)を個人に強制(言語の無意識的支配)している。言語の絶対的基準は,一定の公理の上に成立する数学的知識を除いて存在しないから,平均的意味に抵抗して,各人が自己の経験的(相対的)意味を主張する自由は原理的に説明が可能である。

(注3) 音声信号は,外的な刺激反応(外言)として他者(聴者)の認識を触発し行動を方向づけるだけでなく,主体に観念的に内在することにより,内的な刺激反応(内言)として自らの行動を方向づける(自律的行動)。つまり,自己の感情を抑え,行動を変えようとするとき,自己自身に命令する(内言)ことによって,自己を統制する自我ないし世界観は,自己を統制し,行動を合理化(正当化)する背景や判断基準となっている。このような内的世界(とりわけ宗教や哲学的世界観――マルクス流に言えばイデオロギー形態)がどのようにして形成されてきたか,またどのような意味があるのかは今後検討されるべき最大の哲学的倫理的課題である。

(注4) つまり,言語は,それを使用し(表現し),また理解する諸個人にとってのみ存在している。従って,言語の意味は,(1)社会的平均的な意味と,(2)個人的意図的に実現されるという意味で2種の意味が存在すると考えられる。通常,言語は話者ー聴者に共通する社会的平均的な意味を表現しているとされるが,究極的には個人的な意味で表現されているのである。

換言すると,言語記号は社会的客観的に示されるが,その意味は個人的主観的に実現されるのである。この点が理解されると,ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム理論」における「言語規則の無根拠性」(「哲学探究」邦訳 1976)やクワインの分析した言語の「不明瞭性」(「ことばと対象」邦訳 1984)の理解が容易になる。謎めいてみえる言語の曖昧性(両義性)は、言語の自然なのである。この曖昧性を最小限にとどめ,人類とその文化の相互理解を深めようというのがこの論文のねらいの一つなのである。

また言語の個人的と社会的意味の混乱は,ことばは単なる名称なのか,それとも神(ヨハネによる福音書)なのか,そして唯名論と実念論,経験論と合理論の対立にみられるような「概念」や「観念」などの用語の多義性(ヘーゲルを一方の極とする)にみられる西洋哲学における存在論ないし認識論の最大の課題であった。言語論においても「語用論」と「発話行為論」の分離にみられる混乱を生じている。この点は後に詳しく論ぜられるであろう。

(注5) 主語は独立して述語と関係するものか,それとも述語の補足成分かという議論がある。しかし文を中心的に構成する成分である主語と述語は,本来不離一体のもので,相互依存の関係にあるから,主語は述語の補足成分ではありえない。文は話者が興味関心をもつ対象の状態・運動や主体の意図を表現するものであり,対象と状態・運動又は主体と意図は本来――というのは対象を区別し概念化する手段である言語をもたないとき又は直観的認識の場合――それらは一体のものとして認識されていたのである。

例えば「歩いている人」を認知するとき,われわれはその状態をどのように知覚するであろうか。また「飛ぶ鳥」を想像するとき,まず「心的な映像」(表象ともいう)として一体のものを想起しないであろうか。「人が歩く」や「鳥が飛ぶ」「水が欲しい」などでわかるように,述語としての「歩く」「飛ぶ」「欲しい」に,主語として区別された「人」「鳥」「私」が補足的にあるのではなくて,一体のものとして捉えることによってこそ文によって表現しようとする内容,すなわちその文の意味が正しく伝達され理解されるのである。

この点で「山田文法」において,主語と述語の結合としての文を,「統覚作用」による「観念関係の結合」というのは不十分である。統覚作用による文の成立は「観念関係の分析・区別と結合」と言わねばならない。

なお日本語のように相互了解の前提と認識の曖昧性がある場合,主語の省略が多くみられる。しかしこれは主語(主体)を前提した上での省略であり,主語の重要性を否定したものではない。


★言語的創造力は、神・仏を創造する

 言語の本質が理解できれば、神・仏やその永遠性・絶対性が、人間の言語的創造物(被造物)であることがわかる。神・仏も文化・文明も、すべて人間の言語的創造力(構想力・思考力)による被造物である。なぜそう言えるのか?言語的創造力とは、人間のすべての対象(森羅万象)を言語記号化し、分類して再構成する言語能力のことだからである。

 「雨はなぜ降るのか?」「なぜ人は死ぬのか?」「なぜ願いが実現しないのか?」「なぜ人々は傷つけあうのか?」疑問は無限にふくらむが、これは言語において可能になったのである。対象の分類と、それらの意味づけや評価のための疑問に対する解答(対象の意味づけと再構成=文の生成)が、他の動物には不可能であって人間だけに可能な言語的創造力であり、これが人間を知的存在・ホモサピエンスにしたのである。

 

※さらに詳しく知るために⇨言語とは何か」 「言語論」 「言語の起源」 「日本文化論