隈部親永公像

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山鹿市菊鹿町にあるあんずの丘に行ってみた.

平成6年に体験型テーマパークとしてオープンした.芝生公園やイベント会場などをはじめ、各種アスレチック施設,押し花作りなどが体験できる工芸村,里山ならではの特産品を揃えた物産館,スイーツ店などを備えた村おこし的観光施設である.周辺には,歴史公園鞠智城跡,アイラトビカズラ,相良観音,隈部氏館跡,菊鹿温泉,矢谷渓谷などの観光スポットがある.そのなかの隈部氏館跡(永野城跡)は,菊池氏の重臣だった隈部氏の館跡である.隈部親永(くまべ ちかなが)が佐々成政に対抗するために造った城であり,平成21年(2009年),国指定の史跡になった.

あんずの丘に隈部親永の巨大な銅像が立っていた.新聞記事によると,平成2011年に完成し,11月26日に除幕式が行われた.本妙寺の加藤清正公像と並び県内最大級の武士像といわれている.

念のため,ホームページで調べると以下の記事があった.

戦国時代末期、豊臣秀吉に反逆した肥後国衆一揆の中心的武将・隈部親永の巨大ブロンズ像が、 かつては領地だった山鹿市菊鹿町のあんずの丘に完成し、26日、除幕式が行われた。

同町上永野の隈部氏館跡が2009年7月に国史跡に指定されたことを受け、 近くの歴史公園・鞠智(きくち)城などとともに文化財の回遊路を作ろうと市が建設した.

像は高さ5メートル、台座を合わせると10メートル。平服の直垂(ひたたれ)姿の親永公が右手の扇子で領地を指し、 領民の平安を願っている姿にした。総事業費1億円。宝くじ社会貢献事業からの補助金などを充てた。

記念式典には同市出身の蒲島知事も出席。中嶋憲正市長が一揆の故事に触れ、「地方の意地と誇りは現代にも通じる」と述べ、知事は「親永公は、死を恐れぬ忠誠と、理にかなわぬことには反逆する県民の特性の象徴」とたたえた。 (2011年11月28日 読売新聞)

天正15 (1587) 年6月,肥後一国の領主となった佐々成政は,強引に太閤検地を行ったため(実際は慎重にやるように秀吉に言われていた),肥後国人の総反発をかった(肥後国人一揆).一揆の中心となった隈部親永は,隈府城に籠城し抵抗した.隈府城は陥落するが,国人の一斉蜂起によって隈本城は包囲され成政は窮地に追い込まれた.成政は単独で鎮圧することができず,秀吉に援軍を要請した.秀吉の命で組織された西国大名の討伐軍によって国人側の城は次々に落城し,最後まで抗戦を続けた田中(和仁)城(玉名郡和水町)も陥落し,一揆は鎮圧された.一揆の中心であった隈部親永は筑後国の立花宗茂に預けられ,一族と共に柳河城で刎首された(5月27日).佐々成政は尼崎の寺に幽居された後,一連の不始末を理由に,秀吉に切腹させられた(7月7日),

熊本藩年表稿(熊本大学学術リポジトリ,細川藩政史研究会編,1974)には,次の記載がある.九州を足場に大陸進出の野望を抱いていた秀吉の怒りが読み取れる.

  1. 天正15年12月 10日,秀吉、小早川隆景・安国寺恵瓊に一揆参加者を残らず刎首することを命ず。また一揆後の肥後の置目を油断なきように命ず(二黒)(鍋島)。

  2. 15日, 安国寺恵瓊、隈部親安・有働兼元らを誘降し、柳河に禁錮す(小早川)。

  3. 27日,秀吉、肥後国侍一揆参加者の処分を小早川隆景に命ず。和仁・辺春・有動は一類共に刎首、阿蘇の処分は上使と相談すること、及び国侍衆の科の軽重、知行地糺明のために来春2万人余の派遣を報ず(小早川)。

  4. 天正16年2月20日,佐々成政、謝罪 のため上京するに尼崎に止められ、幽居さる。秀吉、浅野長政らの報告にて成政を処分する旨を、小早川隆景に報ず (小早川)。

  5. 5月27日,隈部親永ら17人、柳川の黒門前にて刎首さる(県中・小野)(事蹟)。

  6. 6月14日,秀吉、佐々成政の失政原因(検地)と一揆者の処分 (国人1000余人刎首)と大将分の首の差出し、及び成政の切腹、成政の家臣の処遇について、小早川隆景に報告命令す(小早川)。

城氏について

菊池氏の家臣には,隈部,赤星,城の三氏がいたが,隈部,赤星の両家は主導権争いを行っていた.城氏は大友氏に味方し隈本城主となるが,秀吉の九州征伐の際に,隈本城を明け渡し,代わりに領地を与えられる.肥後国衆一揆の際は,城氏(久基の時)は大阪に召しだされていたため国衆一揆に加担することはなかった.城氏本流は親冬,親賢,久基と続き,次いで親賢の弟,城親基,久基の弟,武房(出田氏)が継ぎ,細川氏に仕えた.

城親賢 全国に先駆けて開かれる「くまもと春の植木市」の創始者であり,岳林寺(熊本市西区島崎)に墓がある.肥後国誌には,江戸時代の延宝二年(1674),石神山東南から岳林寺へ移されたと記されている.その内容については[岳林寺雲峯山(肥後国誌に見る)]の稿でも紹介したが,以下の文の「仍孫出田某」は.武房(出田氏)以降の子孫ということになる

肥後国誌:(補)事蹟通考系図に云,法名霊峯道威葬石神山東南隅延寳二年仍孫(注 自分から七代後の子孫)出田某移建島崎村岳林寺云

我家の先祖の墓は岳林寺にあるため,城親賢公の墓(観光案内用標柱もある)を左手に見ながら石畳を通って墓参りをしていた.また,春の植木市の前には,墓前祭が行なわれ,その様子が毎年テレビ放映されるので,その存在は一般市民にも知られている.さらに,山門前の往還200メートル手前には三賢堂があり,菊池武時,加藤清正,細川重賢の坐像が祀られている.三賢人に加えて城親賢は近世熊本(隈本)の歴史に名を残した人物として注目していたが,隈部親永については関心を持ったことはなかった.

銅像建立には地元推進者(現県知事は山鹿市出身)の思い入れがあると思われるが,銅像の大きさの割には県民の関心は今ひとつである.新聞記事の中で,市長,知事の話が紹介されているが,隈部親永は,「肥後もっこす」の元祖といってもよさそうである.

現知事の片腕である「くまモンも銅像になるかもしれない」と言ったら,言い過ぎだろうか.

参考資料

・隈部館跡<国指定史跡>約550年前,菊池一族隆盛の頃に築かれたとされる山城.隈部館跡は最後の城主,館跡から棟の礎石や泉水跡,庭園などが発掘され,中世の城としては県で2番目に史跡指定を受けた.春から夏にかけて桜や山つつじが咲き,花の名所となる.

・立花 宗茂(たちばな むねしげ)は,安土桃山時代から江戸時代初期(永祿10 (1567)年ー寛永19 (1643)年)にかけての武将,筑後柳河藩の初代藩主.関ヶ原の戦いで改易されたが,大名として旧領に復帰した唯一の武将として知られている.詳細

立像の制作者

山鹿市教育委員会文化課によると,田畑功(たばたいさお)氏とのことである.水前寺成趣園の細川藤孝像なども手がけられている.制作者紹介ホームページ

熊本藩年表稿

山鹿市公式ウエブサイト

(2013/11/30)