鎮守橋
かつて上沼(東松山市)にあった橋(1962年)
(2019/07/29公開)
(2019/07/29公開)
※目印は撮影位置です
道路の一部に水の通り道の穴を開けたような構造で、橋の両側が沼であることがわかります。橋の欄干も申し訳程度についているだけです。橋の右は急坂になっていて登ると八雲神社に、橋の左方向、道を横切って直進すると松山神社境内に至ります。
ちなみに合併誌の上沼の写真の撮影時期ですが、気象庁の過去のデータによると、1955(昭和30)年は降雪量の記録(熊谷)がありません。したがって、合併誌のために撮影されたものではなく、1954(昭和29)年7月の市制施行以前の写真が使われたものと推測されます。
公園内にアーチ構造部分の石組みと欄干の一部が埋め込まれていました。ストリートビューで見るとこちら(2015年7月)です。中央の柵の裏側がこのようになっています。右側の道が急坂になっていることもおわかりと思います。ストリートビューの向きを回転させると、合併誌写真では手前にあった沼は無く、西方向に松山神社の案内板があることが確認できます。
欄干の柱に「鎮守橋」の文字が刻まれています。もう一方には「大正四年」の文字、つまり鎮守橋が造られたのは1915(大正4)年ということになります。
「写真集明治大正昭和東松山」(利根川俊吾編著 国書刊行会 1981年刊 p72)に鎮守橋以前の橋が写った写真が掲載されています。そこに添えられた文章から一部引用します。「中央の木橋は現在眼鏡橋(大正六年建設)となっている。」
写真から木橋を確認できるのでそれはいいとして、「現在眼鏡橋(大正六年建設)」の部分はどうしましょうか? 橋名と建設年が現地と異なっています。なお、写真の元ネタは絵葉書だったようで、東松山市立図書館「フォト歴東松山-絵はがきに見る昔の比企・松山」の中で画像が公開されています。鎮守橋はその形(アーチ型)から通称「眼鏡橋」と呼ばれていたようです。
その他、「男橋」という呼び方もあったようです。「比企年鑑 1950年版」(比企文化社 1950年12月刊 )に「男沼男橋」という言葉が登場します。年鑑の中の「町村名所舊跡めぐり・松山町の巻」の項目のひとつで、その説明文をここに引用します。「男沼男橋 -上沼-(松山)上町の名をとりて上沼とも云ふ。戦国時代天文の昔、武家専横に抗した里民の悲恋投身物語を傅える。昔から櫻花の上下沼と称されて著名。」
男橋についての説明がありません。1950年当時、上沼にあった橋は「鎮守橋」です。男橋が鎮守橋の別名なのか、別に橋がある(またはあった)のか、よくわかりません。
明治初期の地図「陸軍迅速測図」(出典:農研機構農業環境変動研究センター)で沼の様子がどうであったかを探ってみます。
地図中央やや上に「上沼」が確認できます。明治初期の上沼は円形に近い形をしており、斜め下方向に帯状の沼が続いていることがわかります。その狭い帯状の沼に道が2本通っています。沼をまたぐ上の道が後に「鎮守橋」になります。道を左上方向にたどると「松山神社」(地図では右から左に横書き)があります。沼をまたぐ下の道に男橋があったのでしょうか? この地図ではそこまでは読み取れません。ちなみに地図中央やや下の沼は下沼で、「比企年鑑1950年版」では「女沼女橋」として紹介されています。下沼の上にある点線が何を意味するかはわかりません。
「東松山市の伝説と夜話 上」(田村宗順著 武蔵野出版社 1975年刊 )という本に「女沼男沼」というお話が収録されています。内容は省きますが、男沼が「上沼」の別名で、女沼が「下沼」(上沼の南約800m)の別名となったようなことが書いてあります。お話自体は「伝説」なので真偽はどうでもいいのですが、橋に関する記述は一切ありませんでした。その下沼(下沼公園内)にある石造物が置かれています。
下沼公園のトイレの裏側あたりに石造物が置いてあります。その石には「をんなはし」と刻まれています。
かつて下沼に石造の橋があり、この石造物は本当に橋の痕跡なのでしょうか。
下沼に「をんなはし」が実在したならば、上沼に「おとこばし」という刻まれた石造物がありそうなものです。しかし、上沼公園内のどこを探しても、それは見つかりませんでした。そもそも「をんなはし(女橋)」本体の写真が現存していないのも合点がいきません。鎮守橋の先代にあたる木橋でさえ写真が残っていたのに、何かしら記録が残っていてよさそうなものです。そして、ついに…
それは、上沼公園から県道を隔てた道路の縁石部分にありました。ストリートビューみるとここ(2018年9月)です。はっきりと「男𣘺」と刻まれています。橋の字は異体字です。それにしても文字が綺麗すぎます。そう言えは「をんなはし」の文字も「鎮守橋」の文字と比べると心なしか新しそうに感じます。
鎮守橋を歴史的にを遡ると、1985(昭和60)年に鎮守橋は取り壊され、橋だったところは道路に変わりました。鎮守橋は1915(大正4)年から1985(昭和60)年まで存在しました。それ以前は木の橋がかけられていましたが名称は不明です。伝説から女沼、男沼の呼び名が下沼、上沼につけられたらしいことまでは何となく理解できました。しかし、女橋、男橋が実在したことを示す地図や文献は今のところ見つかっていません。それぞれの橋名が刻まれた石造の痕跡(らしきもの)は残っていますが、橋がかかっていた具体的な場所については何も語られていません。もし橋が実在したとしたら造られたのは伝説が定着した後でなければなりません。比企年鑑に橋についての説明がないのはなぜでしょうか? 上沼の木橋が架け替えられた際、「男橋」ではなく「鎮守橋」が採用されたのもおかしな話です。明確な裏付けが発見されるまでは、「女橋」「男橋」は伝説寄りの存在としておいた方が無難な気がします。(2019/07/29公開)
合併誌 東松山市総務課編 東松山市 1955年刊 ※著作権が消滅しています
写真集明治大正昭和東松山 利根川俊吾編著 国書刊行会 1981年刊
比企年鑑 1950年版 比企文化社 1950年12月刊 ※著作権が消滅しています
東松山市の伝説と夜話 上巻 田村宗順著 武蔵野出版社 1975年刊
東松山市立図書館(フォト歴史東松山-絵はがきに見る昔の比企・松山-松山上沼(松山名所))
農研機構農業環境変動研究センター(注目コンテンツ:データベース・画像データ-歴史的農業環境閲覧システム(迅速測図))
埼玉県立図書館(資料案内-地域・行政資料(埼玉資料)- 埼玉関係データベースの御案内-埼玉関係データベース-「東松山の上沼」で検索)
気象庁(各種データ・資料-過去の気象データ検索-地点の選択:埼玉-熊谷 年月日の選択:1955年 データの種類:月ごとの値-詳細(日照・雪・その他))
中日本建設コンサルタント(技術情報-島田技術顧問のサイト-橋の情報と資料-f11埼玉県-fuji13752 鎮守橋)