亀戸天神太鼓橋
戦火で失われた太鼓橋と楼門(1940年前後)
(2019/04/08公開 )
(2019/04/08公開 )
※目印は撮影位置です
急勾配の太鼓橋、橋の先にある寺社の建物、人物が腰掛けている特徴的な欄干…これだけ手掛かりがあれば場所の特定はすぐできるはずです。まず、急勾配の太鼓橋を手掛かりに候補を絞り込んで見ました。住吉大社、亀戸天神、白毫寺あたりか? 住吉大社と亀戸天神の太鼓橋は外見(構造)が一致しません。白毫寺の太鼓橋は木製でイメージが一番近いのですが、橋を渡ったところに建物がありません。足利市の鑁阿寺は、太鼓橋の先に山門が位置していますが、橋の勾配が異なります。残念ながら人物側の欄干と似ている橋は判明しませんでした。
それもそのはずです。写真の太鼓橋、橋を渡った先の建物、人物が腰掛けている橋(らしきもの)の欄干、いずれも現存していないのです。1945(昭和20)年の東京大空襲で焼失し、橋は再建されたものの別物、橋先の建物に至っては再建もされませんでした。
国土地理院の空中写真(1936年6月11日撮影)
国土地理院の空中写真から亀戸天神社付近を切り抜いたものです。中央の縦の線が参道、西側から参道に橋が架けられている様子が確認できます。
国土地理院の空中写真(1947年8月8日撮影)
2つの太鼓橋も空襲により焼失、中央の縦の参道も途切れ、西側(写真左)から参道に架けられた橋(以降「連絡橋」と表記)も残っていません。
場所特定の決め手となったのは戦前の古い絵葉書でした。その絵葉書はオークションに出品されていたもので、リンクする訳にもいきませんので、同様の写真を公開している長崎大学附属図書館の「幕末・明治期日本古写真コレクション」で確認してみました。「条件を指定して探す」から、解説文に「亀戸天神」と入力して検索します。目録番号:4832「亀戸天神の太鼓橋(2)」の写真がそれです。ここで紹介した写真と同じ木製の太鼓橋と奥の建物(楼門)が写っています。同写真の説明文から「現在の太鼓橋は鉄筋コンクリートの橋」であることがわかりました。実は亀戸天神社の参道には大小2つの太鼓橋が架けられており、鳥居-男橋(大きい太鼓橋)-平橋-女橋(小さい太鼓橋)-楼門-社殿と続く動線上に位置しています。写真の太鼓橋は女橋となります。
ストリートビューのこちら(2017年2月をご確認願います。橋は同じではありませんが、似たアングルから捉えた太鼓橋(女橋)を見ることができます。楼門は当然ですがありません。奥に天神社の社殿(これも戦後の再建)、連絡橋の欄干も見えています。連絡橋は、戦後間もなく再建されたものとも実は違っているのです。そのことは、1972(昭和47)年公開の映画「男はつらいよ 寅次郎夢枕」が証明してくれています。映画終盤の重要なシーで亀戸天神がロケ地として使われ、太鼓橋も連絡橋もはっきり確認できるくらい写り込んでいます。この映画を見れば、再建された連絡橋が木製でどういう形状であったか、おわかりいただけるはずです。欄干デザインは焼失前のものとは異なりますし、ストリートビューのものとも、また違っています。そう、戦後、再建された木製の連絡橋は再度架け替えられたということになります。この橋の近くにも立派な藤棚があり、昔から亀戸天神は藤の名所として知られていました。広重や北斎の浮世絵にも繰り返し取り上げられ、前述の「幕末・明治期日本古写真コレクション」にも藤棚の様子を伝える写真が多く残っています。
国土地理院の空中写真(1975年1月19日撮影)
太鼓橋も連絡橋も再建されています。しかし、連絡橋のクランク形状は最新のものとは違っています。
国土地理院の空中写真(1988年2月20日撮影)の部分拡大
1988年の時点で連絡橋のクランク形状が反転していたことがわかります。
最初の写真に戻ります。この写真に写っている木造の建造物はほとんど焼けてしまい、二度と見ることのできない幻の光景といえます。連絡橋の独特なデザインの欄干は、特別なものではないにしても、希少な記録のひとつかもしれません。写真の撮影時期は、木々が茂っていますので冬場ではなさそうです。人物の服装から真夏でもなさそうです。しかし、藤の花が咲いている頃かどうかまでは読み取れません。もし、藤の花が咲いていたとしたら、写っている人物は、目の前に広がる鮮やかな藤棚を見ていたはずです。なお、撮影年は写っている人物からの推定で正確なものではありません。(2019/04/08公開 )