旧 高野橋
都幾川(下押垂・早俣間)にあった冠水橋(1954年頃)
(2018/11/29公開 2019/06/19加筆)
(2018/11/29公開 2019/06/19加筆)
※目印は撮影位置です
観光地と違い他の写真等の手がかりは無さそうです。そこで写っている人物の行動範囲から地域を限定し、当時存在していた冠水橋を当たってみました。頼みの綱は国土地理院の過去の空中写真(参照:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」)です。候補とした冠水橋は、高坂冠水橋、早俣冠水橋(誤記修正 ×長楽落合橋 2019年06月19日)、流川橋、そして旧高野橋(正式名称は不明)で、1947〜1990年までの空中写真を閲覧して確認してみました。次の写真は「国土地理院の空中写真」から該当する橋の部分を切り取ったものです。
高坂冠水橋(出典:国土地理院の空中写真・1948年5月6日撮影)
早俣冠水橋(出典:国土地理院の空中写真・1948年5月6日撮影)
流川橋(出典:国土地理院の空中写真・1948年5月6日撮影)※川は「市野川」
旧高野橋(出典:国土地理院の空中写真・1948年5月6日撮影)
高坂冠水橋、早俣冠水橋は橋の先の状況が違います。土手にある右上がりの接道と土手越しの家が見当たりません。流川橋(この橋のみ市野川)は接道と家の状況は似ていますが、橋の下に橋脚が垂直に付いている(影の出方で識別可)点でこの写真とは一致しません。残ったのが旧高野橋です。土手の接道と土手向こうの集落が確認できます。接道部分の左に茂みがある点も写真と一致します。候補とした4つの冠水橋は、いずれも現存しません。旧高野橋は1987年に少し下流に新しい「高野橋」が開通し旧橋は消滅しました。旧橋の橋脚は写真では2か所しか写っていませんが、1975年の国土地理院の空中写真で見ると3か所あります。写真左手の橋を支えているように見える木組みは橋脚ではなく流木除けです。写真は、南北方向に架けられた橋を南方向から撮影したものです。葉を落としている樹木がありますので季節は冬、人物の影が斜め後ろに出ていますので太陽が南東方向にあることになります。冬の晴れた日の午前中の撮影された写真と思われます。
手袋をしていますので寒い季節であることがわかります。
板の色が違っている部分があります。増水時には水没する木橋なので、補修も多かったことでしょう。
橋の反対方向を写した写真です。欄干は無く、橋の上は丸太と木の板が取り付けられています。撮影者はかなり低い位置にカメラを構えています。
そこに橋がありその橋を渡って生活していた人がいた、その事実は無くなりません。ただ、人々の記憶から消えていくだけです。場所を特定したところで何も起きません。しかし、いつの日かこの写真を見た人が興味を懐き、過去に思いを馳せることになったとすれば、それはそれでいいことではないでしょうか? 世の中、利害や理屈だけで成り立っているわけではありませんので。(2018/11/29公開)
写真左上に建設中の橋脚4本が確認できます。高野橋(1987年開通)の架設中の姿です。そのすぐ左隣の小さな橋、それが旧高野橋(正式名称不明)です。空中写真中央の大きな橋については後述します。右下の2つの連続した橋は上が「長楽落合橋」(早俣-長楽 間)、「赤尾落合橋」(早俣-赤尾 間)です。こちらの2つの橋は現存していません。
ところで、旧高野橋の名称が記載されている文献がありました。昭文社 1971年5月発行の「東松山市街図」です。それによると『早俣橋』、それが最初の写真の橋の名前、ということです。この地図には、早俣橋の下流約1kmのところに「早俣冠水橋」という記載があります。ややこしいことに、後にこの早俣冠水橋が架け替えられて「早俣橋」(空中写真下部中央)という名称になりました。後から架けられた早俣橋は1980年設置(出典:FR11:川を渡る橋・埼玉県p12)です。1980年以前は「早俣橋」と「早俣冠水橋」2つの冠水橋が約1kmの範囲内存在し、198oから高野橋が設置された1986までは、「早俣橋」が2つ存在していたことになります。
旧高野橋を「早俣橋」と記載した文献は他に見つかっていません。昭文社地図の記載は通称か何かだったのか、真相はわかりません。ただ、2019年時点で存在する「早俣橋」との混同を避けるため、当サイト内では旧高野橋(正式名称不明)のままとします。なお、早俣冠水橋(と思われる)写真が「フォト歴東松山」(東松山市立図書館サイト内)『橋・坂・森の記憶』の中で紹介されています。ここで紹介した旧高野橋と似通った構造の橋であることがわかります。(2019/06/19加筆)